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十八 弁天様
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べんてんさま
以下に記すことは、後にハマが人に語ったことも無ければ、自ら回想したことすらないことである。
仮に、話さざるを得ない時が訪れたとしても、ハマは、次のように言って、多くを語ることは無かったはずである。
「弁天様のバチが当たったんだよ」
タケが亡くなって、自然の成り行きのまま、ハマは、婚家である立浪の家で寝起きするようになった。
一旦立浪に嫁いだハマは、出産のために生家に帰っていたが、また元に戻ったかたちだ。
ただ、これまで母タケがやっていた役割を、義母サエが担うため、春治とハマの寝間にはサエとハマが、元の辰治とサエの部屋には、辰治と春治が寝起きするようになった。
これも、すべてサエの気遣いだった。
もとより、家事をすることがないハマは、乳児につきっきりで要られたし、自分一人で大丈夫と言うのだったが、サエは店のほうはしばらく暇をもらうことにして、家に居て、母子の世話をすることにしたのだった。
タケが亡くなった悲しみを抱えたハマを、サエはどうしても独りになどしていられなかったのだ。
ハマにとって、そういう事の全てが、ただただ有り難いと思った。
そして幸いにも、乳の出も良く、子が求める度にあげ、飲み飽きるまであげても、余裕があるくらいだった。それは、ハマ自身の栄養状態が良いからであり、それも立浪の家のお陰だと、ハマはつくづくと思うのであった。
「女将さん、本当にお世話になりっぱなしで、すみません。こんげな目の見えねえ嫁で、役に立たねえのに、その上こんげ良うしてもろうて」
「何、言うてるんだい、ハマちゃ。子産んだぐ(産んですぐ)は、どこの家でもこうしてるよ」
そうサエは言うけれども、ハマは知っていた。
小作の家で、女子が生れたら、喜ばれるどころか、邪魔者扱いされ、物心がつく時分になれば、売られていくのである。だいぶ前に、母タケが、ハマ自身にそう話して聞かせた事だった。瞽女の修行に出してもらえるなんて、恵まれているのだ、と。
「この御恩は一生忘れません」
「何、水臭い。それに、女将さんはやめて、いい加減、おかっちゃと呼びなよ」
こんなやり取りが何度もあり、ハマは決意を新たにするのであった。
(きっと次は、男生さんば)
それが、自分にできる、だた一つの恩返しだ、と。
しかし、このようなハマの気負いを知らず、辰治、春治、そしてサエは、乳飲み子タケが、病気もせず丈夫に育つことだけを願っていた。その願いに、まさに応えるかのように、タケはすくすくと育っていくのである。
その年(明治十三年、一八八〇年)もまた、鱪の漬漁の季節がやってきた。
漬入の始めは、通例では辰治と春治が二、三日、弥平の家に住み込みで臨むが、今年は、辰治はそれに加わらなかった。替わりに、近所の少年で、十二になる清三が同伴した。清三は、辰治がずっと仕込んできた者で、貧しい小作の子だった。
「俺は小作にはならねえ。それは兄さんらに任せて、俺は漁師になる」
そう言って、親の言うことも聞かずに、毎日辰治の手伝いをしてきたのだった。
清三が居てくれて、人数は確保したが、辰治が漬漁に行かない本当の理由は、身体の事だった。
五月に、胸の痛みを訴えて、三日ほど漁を休んだのだった。それまでも、何度か、息があがって、はあはあ言うことがあり、この一年は特にそういうことが増えたと、春治は見ていた。ただ、それがあるからと辰治に言ったのでは、強情を張るに決まっている。
「おとっちゃは、タケのことがあるすけ、今年は家に居てくれ。こんげな時だーすけ、男手がのうなるのは良ねえすけ、家のこと頼む」
春治は、そう言って辰治に頼んだのだった。
そう言われては、辰治は家に残らざるを得ない。
「なあに、清三が来てくれるすけ、こっちは問題ねえ」
そうしたことがあり、それでも何事もなく、その年の漬漁もまずまずの上がりで終えたのであった。
しかし、やはり残念なのは、漁の最後に毎年恒例になっていた、立浪の宴会が中止となったことだ。それは、タケが亡くなり、ハマも家を空けられないからだったが、そのことを話題にすることは、あえて誰もしなかった。女将さんが決めたことだから仕方がないさ、と。
今は何より、まず母子のために全てが動いている立浪なのだ。
そして辰治は、この頃、珍しく手釣り漁だった。
「お食い初めの鯛だ」
そう言って張り切っていると云う。
孫、タケの授乳が落ちついてきたこの頃は、朝食の前に辰治がタケを抱いてお諏訪様につれて行っている、と近所では噂になっている。
「漁のことばっかだった辰さんがか。孫可愛うてしょうがねえんだろうなあ」
行っている所が、お諏訪様というのも人々には意外だった。
「あんげ信心深かったか。毎朝だぞ」
「そりゃ、自分のことじゃのう、孫のこと願かけてるすけだよ。丈夫に育つようにってさ」
朝起きて、お諏訪様。朝餉の後は、鯛釣り。それが今の辰治の日課であった。
ハマには、そういう辰治の心がありがたかった。母一人子一人で育ち、男親の居ないハマには、特にそう思えたに違いなかった。
(おかっちゃも、そう思うてるに違いねえ)
そうした、穏やかな幸せに包まれて、季節は移ろい、葉月に入った。
海からの風が、潮の匂いをハマのところまで運んでくる。
辰治は、周囲に相談して、タケのお食い初めの会を、八月十五日にすることを決めた。
当のタケは、まだ何かを食べる事はできない。しかし、よだれが良く出るようになった、と辰治は観察し、周囲に報せる。誰もが知っていることをさも自分が発見したかのようだと、サエは笑いながらこぼす。
お食い初めの細々とした準備は、サエと立浪の女中たちが行った。
やはり、辰治は、何と行っても鯛釣りである。
真鯛の大きいやつ。
辰治は、俄然力が入った。
会を五日後に控えた、その朝も、辰治はタケを連れてお諏訪様に行き、朝餉もそこそこに漁の準備に取り掛かった。
「おとっちゃ、あまり無理しねえでくんなせ。今日は少し風が強いように思うすけ」
ハマがそう気遣う。潮の匂いが今朝は特に強いように感じられたからだった。
「そうさな。だども、今日は釣れるような気がする。今日から、場所少し北に変えようて思う。ハル、網の方は任せたでよ」
春治は今日も、清三らと地引網でイワシ漁だ。
サエが台所の手を休めて、見送りに出てきた。
珍しく、辰治と春治は、同時に家を出る。
「気付けてよ」
そうサエが声をかけて、しばらく二人の後ろ姿を眺めている。
サエは、そうしているうちに、何か言い忘れた感覚を覚えた。
そんなことは無いはずだったが、台所に戻ってしばらく経ってから、なぜそんな思いを抱いたかが解った。
すっかり忘れていた。
(なんてことだ)
その日は、辰治の亡き兄、清太の命日だったのである。
毎年、八月十日。その日は、漁を休むのが立浪のしきたりだった。
サエは、ハマに断って、慌てて浜に急いで駆けた。
息を切らして、沖を眺めたが、辰治の船はもはや見えなかった。
春治らの船もすでに出漁していた。
サエは諦め、家に戻った。
(なに、大事はねえさ)
そう何度も自分に言い聞かせ、心を落ち着かせるのだった。
「あれ、おかっちゃじゃねえか」
正午頃、漁から戻ってきた船の上から、春治が陸を見やって、清三に声をかけた。
「どうだっす」
「まさか」
普段なら、とっくに戻っている辰治がまだらしいことが、直感的に春治には判った。
にわかに辰治の身に何かあったとは、流石に想わない春治だったが、嫌なのは、半刻(約一時間)ほど前から、強くなってきた西風だった。この分だと、これから波が高くなることは間違いなく、そんなことは辰治には釈迦に説法であり、なおのこと、普段よりも早めに切り上げるべきなのになぜ、と訝しんだのであった。
港に接岸してすぐ、走り寄ってきたサエの慌てた表情に、そのことは確定的になった。
「おとっちゃ、まだか」
「そうなんだよ、ハル。どうするかね」
「心配ねえ。俺が迎えに行ってくる」
「俺も行くっす」
清三も加勢するつもりだ。
春治は、一瞬考えた。
「いや、俺一人で良い。おめは他の船陸に上げておいてくれ」
清三を船から下ろすや、春治は、帆の向きを変え、再び沖に船を出した。
「無理しねえでおくれよ」
背後からのサエの声がけを、春治は聞いたか、聞こえなかったか。
いずれにしても、それがサエが最後に目にした、春治の姿となっだ。
あと四半刻(約三十分)、早ければ、結果は変わっていただろう。
それでも春治は、辰治の船を見つけることができた。
しかし、辰治の姿が最初見えなかった。
更に近付いて解ったのだが、辰治は船の上に横たわっていた。
おそらく、持病の心の臓に異変があったのだろうと、春治は瞬時に悟った。もはや、息は無いかも知れない、と。
それでも、辰治を自分の船に載せ替えて運ばなければ、と春治はその方法を思案した。
春治は帆を畳み、帆柱に縄をかけ、それを自らの胴に結き、海に飛び込んだ。幸い、波はまだそこまで高くなく、潮も想ったよりも緩やかであった。
それで、何とか、辰治を自分の船に乗せることができたのだ。
しかしそれには、春治が思っている以上の時間が掛かったらしかった。
気がつけば、波は急速に高まり、風は更に強くなっていた。
(果たして、陸に戻れるのか)
転覆。
そのことが、春治の脳裏をよぎった。
しかし、そこにとどまることはできない。
帆を立てるべきか、櫓で行くべきか。
一瞬迷った春治であったが、やはり最初は帆走で行くことに決めたのだった。
その判断は、ある意味正しかった。
船はなんとか、陸に向け、帆に風を受け走ってくれたのだった。
水深が三間を切る辺りを過ぎ、陸が見えてきた。
春治は、助かった、と思った。
その時だった、急に横風が起こった。
その風は、艀にはきつかった。
艀はあえなく、横倒しとなった。
春治は海に投げ出された。
それでも何とか、水面に顔を出して、船を探す。
そこに、大波が押し寄せた。
近づいてくる波に、春治の体が引き寄せられた。
そして、春治は波に飲み込まれた。
海は、それから丸一日荒れ狂った。
辰治と春治の生還を待つ陸は、大騒ぎとなった。
それがやがて静寂に変わり、最後には悲嘆の慟哭に変わっていったのである。
ハマは、何がどうなってしまったのかわからないまま、泣き通した。異様な雰囲気に、普段はあまり泣かないタケも泣き止まなった。それをあやしながら、さらにその事を想いやり、涙に拍車がかかった。
(おめには、解るのか)
しかし、その叫びは、届く宛が無かった。
立浪の女中トモが、握り飯をハマに食べさせ、そしてタケに乳をやるのを手伝った。
それから二日経ち、涙が枯れ果てたハマは、一言こう言ったのだった。
「瞽女さの神様、弁天様の、罰が当たったんだ」
ハマが、自らが終身瞽女を辞めたこと、仕来りを守らずに世帯を持ったこと、そのことで弁天様が怒ったと解釈したのであった。
もちろん、そんな解釈は間違いであった。
しかし、もはやハマには、そんな穏やかな判断など出来はしなかった。
ただ、そう思うしか、ハマには無かったのである。
すべては、自分が悪いのだ、と。
以下に記すことは、後にハマが人に語ったことも無ければ、自ら回想したことすらないことである。
仮に、話さざるを得ない時が訪れたとしても、ハマは、次のように言って、多くを語ることは無かったはずである。
「弁天様のバチが当たったんだよ」
タケが亡くなって、自然の成り行きのまま、ハマは、婚家である立浪の家で寝起きするようになった。
一旦立浪に嫁いだハマは、出産のために生家に帰っていたが、また元に戻ったかたちだ。
ただ、これまで母タケがやっていた役割を、義母サエが担うため、春治とハマの寝間にはサエとハマが、元の辰治とサエの部屋には、辰治と春治が寝起きするようになった。
これも、すべてサエの気遣いだった。
もとより、家事をすることがないハマは、乳児につきっきりで要られたし、自分一人で大丈夫と言うのだったが、サエは店のほうはしばらく暇をもらうことにして、家に居て、母子の世話をすることにしたのだった。
タケが亡くなった悲しみを抱えたハマを、サエはどうしても独りになどしていられなかったのだ。
ハマにとって、そういう事の全てが、ただただ有り難いと思った。
そして幸いにも、乳の出も良く、子が求める度にあげ、飲み飽きるまであげても、余裕があるくらいだった。それは、ハマ自身の栄養状態が良いからであり、それも立浪の家のお陰だと、ハマはつくづくと思うのであった。
「女将さん、本当にお世話になりっぱなしで、すみません。こんげな目の見えねえ嫁で、役に立たねえのに、その上こんげ良うしてもろうて」
「何、言うてるんだい、ハマちゃ。子産んだぐ(産んですぐ)は、どこの家でもこうしてるよ」
そうサエは言うけれども、ハマは知っていた。
小作の家で、女子が生れたら、喜ばれるどころか、邪魔者扱いされ、物心がつく時分になれば、売られていくのである。だいぶ前に、母タケが、ハマ自身にそう話して聞かせた事だった。瞽女の修行に出してもらえるなんて、恵まれているのだ、と。
「この御恩は一生忘れません」
「何、水臭い。それに、女将さんはやめて、いい加減、おかっちゃと呼びなよ」
こんなやり取りが何度もあり、ハマは決意を新たにするのであった。
(きっと次は、男生さんば)
それが、自分にできる、だた一つの恩返しだ、と。
しかし、このようなハマの気負いを知らず、辰治、春治、そしてサエは、乳飲み子タケが、病気もせず丈夫に育つことだけを願っていた。その願いに、まさに応えるかのように、タケはすくすくと育っていくのである。
その年(明治十三年、一八八〇年)もまた、鱪の漬漁の季節がやってきた。
漬入の始めは、通例では辰治と春治が二、三日、弥平の家に住み込みで臨むが、今年は、辰治はそれに加わらなかった。替わりに、近所の少年で、十二になる清三が同伴した。清三は、辰治がずっと仕込んできた者で、貧しい小作の子だった。
「俺は小作にはならねえ。それは兄さんらに任せて、俺は漁師になる」
そう言って、親の言うことも聞かずに、毎日辰治の手伝いをしてきたのだった。
清三が居てくれて、人数は確保したが、辰治が漬漁に行かない本当の理由は、身体の事だった。
五月に、胸の痛みを訴えて、三日ほど漁を休んだのだった。それまでも、何度か、息があがって、はあはあ言うことがあり、この一年は特にそういうことが増えたと、春治は見ていた。ただ、それがあるからと辰治に言ったのでは、強情を張るに決まっている。
「おとっちゃは、タケのことがあるすけ、今年は家に居てくれ。こんげな時だーすけ、男手がのうなるのは良ねえすけ、家のこと頼む」
春治は、そう言って辰治に頼んだのだった。
そう言われては、辰治は家に残らざるを得ない。
「なあに、清三が来てくれるすけ、こっちは問題ねえ」
そうしたことがあり、それでも何事もなく、その年の漬漁もまずまずの上がりで終えたのであった。
しかし、やはり残念なのは、漁の最後に毎年恒例になっていた、立浪の宴会が中止となったことだ。それは、タケが亡くなり、ハマも家を空けられないからだったが、そのことを話題にすることは、あえて誰もしなかった。女将さんが決めたことだから仕方がないさ、と。
今は何より、まず母子のために全てが動いている立浪なのだ。
そして辰治は、この頃、珍しく手釣り漁だった。
「お食い初めの鯛だ」
そう言って張り切っていると云う。
孫、タケの授乳が落ちついてきたこの頃は、朝食の前に辰治がタケを抱いてお諏訪様につれて行っている、と近所では噂になっている。
「漁のことばっかだった辰さんがか。孫可愛うてしょうがねえんだろうなあ」
行っている所が、お諏訪様というのも人々には意外だった。
「あんげ信心深かったか。毎朝だぞ」
「そりゃ、自分のことじゃのう、孫のこと願かけてるすけだよ。丈夫に育つようにってさ」
朝起きて、お諏訪様。朝餉の後は、鯛釣り。それが今の辰治の日課であった。
ハマには、そういう辰治の心がありがたかった。母一人子一人で育ち、男親の居ないハマには、特にそう思えたに違いなかった。
(おかっちゃも、そう思うてるに違いねえ)
そうした、穏やかな幸せに包まれて、季節は移ろい、葉月に入った。
海からの風が、潮の匂いをハマのところまで運んでくる。
辰治は、周囲に相談して、タケのお食い初めの会を、八月十五日にすることを決めた。
当のタケは、まだ何かを食べる事はできない。しかし、よだれが良く出るようになった、と辰治は観察し、周囲に報せる。誰もが知っていることをさも自分が発見したかのようだと、サエは笑いながらこぼす。
お食い初めの細々とした準備は、サエと立浪の女中たちが行った。
やはり、辰治は、何と行っても鯛釣りである。
真鯛の大きいやつ。
辰治は、俄然力が入った。
会を五日後に控えた、その朝も、辰治はタケを連れてお諏訪様に行き、朝餉もそこそこに漁の準備に取り掛かった。
「おとっちゃ、あまり無理しねえでくんなせ。今日は少し風が強いように思うすけ」
ハマがそう気遣う。潮の匂いが今朝は特に強いように感じられたからだった。
「そうさな。だども、今日は釣れるような気がする。今日から、場所少し北に変えようて思う。ハル、網の方は任せたでよ」
春治は今日も、清三らと地引網でイワシ漁だ。
サエが台所の手を休めて、見送りに出てきた。
珍しく、辰治と春治は、同時に家を出る。
「気付けてよ」
そうサエが声をかけて、しばらく二人の後ろ姿を眺めている。
サエは、そうしているうちに、何か言い忘れた感覚を覚えた。
そんなことは無いはずだったが、台所に戻ってしばらく経ってから、なぜそんな思いを抱いたかが解った。
すっかり忘れていた。
(なんてことだ)
その日は、辰治の亡き兄、清太の命日だったのである。
毎年、八月十日。その日は、漁を休むのが立浪のしきたりだった。
サエは、ハマに断って、慌てて浜に急いで駆けた。
息を切らして、沖を眺めたが、辰治の船はもはや見えなかった。
春治らの船もすでに出漁していた。
サエは諦め、家に戻った。
(なに、大事はねえさ)
そう何度も自分に言い聞かせ、心を落ち着かせるのだった。
「あれ、おかっちゃじゃねえか」
正午頃、漁から戻ってきた船の上から、春治が陸を見やって、清三に声をかけた。
「どうだっす」
「まさか」
普段なら、とっくに戻っている辰治がまだらしいことが、直感的に春治には判った。
にわかに辰治の身に何かあったとは、流石に想わない春治だったが、嫌なのは、半刻(約一時間)ほど前から、強くなってきた西風だった。この分だと、これから波が高くなることは間違いなく、そんなことは辰治には釈迦に説法であり、なおのこと、普段よりも早めに切り上げるべきなのになぜ、と訝しんだのであった。
港に接岸してすぐ、走り寄ってきたサエの慌てた表情に、そのことは確定的になった。
「おとっちゃ、まだか」
「そうなんだよ、ハル。どうするかね」
「心配ねえ。俺が迎えに行ってくる」
「俺も行くっす」
清三も加勢するつもりだ。
春治は、一瞬考えた。
「いや、俺一人で良い。おめは他の船陸に上げておいてくれ」
清三を船から下ろすや、春治は、帆の向きを変え、再び沖に船を出した。
「無理しねえでおくれよ」
背後からのサエの声がけを、春治は聞いたか、聞こえなかったか。
いずれにしても、それがサエが最後に目にした、春治の姿となっだ。
あと四半刻(約三十分)、早ければ、結果は変わっていただろう。
それでも春治は、辰治の船を見つけることができた。
しかし、辰治の姿が最初見えなかった。
更に近付いて解ったのだが、辰治は船の上に横たわっていた。
おそらく、持病の心の臓に異変があったのだろうと、春治は瞬時に悟った。もはや、息は無いかも知れない、と。
それでも、辰治を自分の船に載せ替えて運ばなければ、と春治はその方法を思案した。
春治は帆を畳み、帆柱に縄をかけ、それを自らの胴に結き、海に飛び込んだ。幸い、波はまだそこまで高くなく、潮も想ったよりも緩やかであった。
それで、何とか、辰治を自分の船に乗せることができたのだ。
しかしそれには、春治が思っている以上の時間が掛かったらしかった。
気がつけば、波は急速に高まり、風は更に強くなっていた。
(果たして、陸に戻れるのか)
転覆。
そのことが、春治の脳裏をよぎった。
しかし、そこにとどまることはできない。
帆を立てるべきか、櫓で行くべきか。
一瞬迷った春治であったが、やはり最初は帆走で行くことに決めたのだった。
その判断は、ある意味正しかった。
船はなんとか、陸に向け、帆に風を受け走ってくれたのだった。
水深が三間を切る辺りを過ぎ、陸が見えてきた。
春治は、助かった、と思った。
その時だった、急に横風が起こった。
その風は、艀にはきつかった。
艀はあえなく、横倒しとなった。
春治は海に投げ出された。
それでも何とか、水面に顔を出して、船を探す。
そこに、大波が押し寄せた。
近づいてくる波に、春治の体が引き寄せられた。
そして、春治は波に飲み込まれた。
海は、それから丸一日荒れ狂った。
辰治と春治の生還を待つ陸は、大騒ぎとなった。
それがやがて静寂に変わり、最後には悲嘆の慟哭に変わっていったのである。
ハマは、何がどうなってしまったのかわからないまま、泣き通した。異様な雰囲気に、普段はあまり泣かないタケも泣き止まなった。それをあやしながら、さらにその事を想いやり、涙に拍車がかかった。
(おめには、解るのか)
しかし、その叫びは、届く宛が無かった。
立浪の女中トモが、握り飯をハマに食べさせ、そしてタケに乳をやるのを手伝った。
それから二日経ち、涙が枯れ果てたハマは、一言こう言ったのだった。
「瞽女さの神様、弁天様の、罰が当たったんだ」
ハマが、自らが終身瞽女を辞めたこと、仕来りを守らずに世帯を持ったこと、そのことで弁天様が怒ったと解釈したのであった。
もちろん、そんな解釈は間違いであった。
しかし、もはやハマには、そんな穏やかな判断など出来はしなかった。
ただ、そう思うしか、ハマには無かったのである。
すべては、自分が悪いのだ、と。
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