上 下
56 / 65

五十四 民謡黎明

しおりを挟む
みんようれいめい


 日清戦争の戦争景気は続いていた。
 また、それと同時に始まった近代化は加速していき、人々は気づかぬままにその大河の流れに乗り、そのまま日露戦争に突入していくのであった。
 国家権力は、あらゆる手段を使い、戦争プロパガンダを推し進めていくが、日露戦争に突入するや、「このままでいいのか」という懐疑論が少しずつ出始める。それも近代化と一体であり、多様化の始まりということかもしれなかった。
 明治三十三年(一九〇〇年)に、発売開始した蓄音機は、歌・音楽のあり方を根本的に変えた、と言って間違いない。
 もちろん、それをいち早く活用したのは、国家権力にほかならない。これほど効率の良い戦争プロパガンダのツールは無かった。維新以来、日本政府が教育機関を使い一気に推し進めてきた国威発揚政策は、このレコード歌謡を使ったプロパガンダで、一旦のピークを迎える。
 そのタイミングが、日露戦争開戦(明治三十七年、一九〇四年)であった。
 皮肉なことに、それは「民謡」の黎明でもあった。
 レコードを使って、国家権力がプロパガンダに利用したもの、それは日本各地、その土地土地で唄われている「里謡さとうた」であった。これを「俚謡りよう」と呼び、文字通り「さとうた」とも言い、「はやりうた」と当てて呼んだりした。
 俚謡は、そのうちに歌謡にとどまらず、七・七・七・五(二十六文字)の「都々逸どどいつ」となり、プロパガンダ詩として流行していく。
 その作者の第一人者の代表格が、野口雨情であり、彼は明治三十八年に詩集「枯草」を世に出した。
 もともと「社会主義的なプロパガンダ詩」を書いていた雨情は、これ幸いと日本の戦争プロパガンダに利用されたが、この「枯草」によって、「俚謡」を芸術として再定義した。その功績は、日本の歌謡界において偉大な出来事であった。
 この動きが、「俚謡」を「民謡」へ脱皮させ、その他の流行歌や俗謡ぞくようとは独立した歌謡に押し立て、それがいわゆる「新民謡」へと繋がっていくのである。
 その雨情らの活動は、言ってみれば「川上」の動きであり、「川下」である地方の唄い手たちも、川上と呼応、連動するように働く。
 津軽三味線の祖と言われる「仁太坊」の後に続く第二世代が、その「川下」の担い手であり、その中にタキゾウ、タケも居たのだ。
 忘れてならないのは、彼らが唄う元唄は、おおよそ瞽女たちが伝承したものであった、という事実である。
 里謡さとうた、民謡の多くは、「瞽女」たちの持ち唄が変化していったものであり、民謡に欠かせない三味線ですら、瞽女が日本各地に伝えたといっても過言ではないのである。
 そして、軍国・富国化がもたらした副産物も、民謡ムーブメンドに寄与した。
 「馬」である。
 津軽は鎌倉時代より、頼朝や北条氏が愛用した、軍馬の名産地であった。
 それが、鉄道の開通で、その役目を完全に終えたかに見えたが、明治三十一年から中津軽郡清水村(現・弘前市)に、日本帝国陸軍「第八師団」が建設され始めたことで、「馬」が再び脚光を浴びる。
 「名馬」を商う「馬喰ばくろう」たちは羽振りが良く、民謡を愛し、唄いながら広める役割を果たした。
 そうして歌い継がれる馬喰の「さと唄」の唄い方は、民謡の歌唱にも影響を与えたと言われている。それは、独特の「節回し」である。この「節回し」こそ、今では当然となっている「民謡の節回し」の原点である。
 さらに、定期的に開かれる「馬市」の場内では、第二世代たちの「唄会」が開かれるようになるのであった。
 「祭り」だけでなく、「馬市」も彼らのいわゆる現在で言う「ライブ会場」となっていたわけである。
 おそらく、「馬喰」たちが評価する「唄い手」は、人気を博した。それに、馬喰が気前良くはずむ祝儀で唄い手は相当に潤った。すなわち、黎明期の民謡界では、「馬喰」が歌い手のパトロンだったと言える。
 こうして、俚謡は民謡へ昇華し、成長していくのである。
 すなわち、江戸時代、瞽女唄は日本各地に伝わり、歌い継がれるうちに「郷の唄」になり、戦争で中央政権が「俚謡」として活用し、レコード化されることで、流行歌となり全国区となる。一方の地方では、馬喰・ニシン漁師・船頭らが、俚謡を「労働唄」として広め、独特の掛け声・節回しを加え、進化していくという図式である。
 
 明治三十八年(一九〇三年)、八月、タケは無事に女児を生んだ。
 一回目とは比べものにならないくらいの安産であり、体重も重く、大きな産声を上げた。
 マサは我事のように喜び、タキゾウは泣きながら小躍りした。
 子は、「ハマ子」と名付けられた。その子の祖母ハマから取った名であった。
 のちの「立浪春子」の誕生である。
 同じ年、いよいよ津軽民謡の第二世代たちが活躍しはじめた。
 西津軽のとある馬市で、即興の共演に黒山の人だかりが出来たと云う。
 仁太坊の三味線と、森田源助の唄であった。
 その人だかりの中、その名演を目撃し、「自分は三味線の伴奏者になる」と決心した青年があった。
 梅田うめたとよ(本名:鈴木豊五郎)こと、梅田うめた豊月ほうげつ(十八)である。
 彼は、仁太坊の直弟子じきでし、長作坊に師事した、もう一人の「津軽三味線の祖」と呼ばれることになる人物である。
 彼は、晴眼者(目が見える)であった。
 三味線は最早、瞽女だけの物、座頭や坊様の物では無くなり始めていた。
 同年代の、嘉瀬の桃(黒川桃太郎)、坂本スワ(津軽家すわ子)も、晴眼者。
 第二世代の晴眼者による「唄会」が、このあと隆盛を極めることになる。その始まりは明治三十八年の、岩木山(神社)の例大祭での唄会であった。
 こういった動きは、タキゾウにとって刺激的な盛り上がりであった。しかし、彼らよりも上の世代であるタキゾウは、今更彼らの土俵へ降りていって、輪に入り競い合うというやり方を、心良しとはしなかった。
「それは、違う」
 そのように断じて、タキゾウはこれまでどおり、地元の祭りを中心に活動して行くことに決めたのだった。その一方でタキゾウは、心密かに松村長一郎との再会を願った。しかし、まだ鰺ヶ沢へ出向いていく時期ではない、とも考える。
(ハマ子がもうわんつか大ぎぐなってがら)
 タキゾウが、そのように落ち着いて構えていられたのは、ハマ子の誕生のおかげであり、さらに、そのハマ子が丈夫に健やかに育っていることが寄与していた。
 元気なのは、母タケも同じであった。
 悪阻があるにはあったが、いわゆる「食いづわり」で、とにかくよく食べた。特に非常食の馬鈴薯を好んで食べたことで、小柄なタケが少し肥え、貫禄すら出てきたとマサが言う。産後も、それは変わらず、一人目の時とは別人のように、乳がよく出るのだった。
 按摩の稼ぎが入ると、タキゾウは三味線を持ち出して、縁側で演奏が始まった。仕事の手が空くと、タケが唄で入る。そのうちにマサが聴きに寄ってきて手拍子。節に合わせて、揉み手を入れる。
 タケは肥えたせいか、声の張りに重厚感が加わり、伸びやかさに拍車がかかっている。加えて、馬喰並みの節回しがよく効いた。
 そんな賑やかな中、良く眠れるものだ、と思うが、タケの背中にはハマ子が負ぶさってスヤスヤと寝息を立てている。ハマ子にとっては、それが子守唄なのであった。
 こんなことが続けば、近所の人たちも、通りすがりの百姓も、足を止め聴き入り、そのうちに庭先に入って来て、ひとしきり聴いて帰る、というようになった。
 金木川の河口には、仁太坊が居た。
 彼も、蒔田新田では相変わらず人気で、百姓家の祝い事に引っ張りダコだった。仁太坊の芸は、どちらかというと笑いを取る芸だった。それに比べるなら、上流のタキゾウは、唄を聴かせる芸である。どちらがどう、というわけではなく、各々おのおのの得意な分野において、それぞれに人気だったわけである。
 ただ、強いて言うなら、仁太坊は「八人芸」を得意とした芸だったため、舞台には不向きと言えた。なぜなら、舞台は一人何役もしないのが、演目の構成だからである。
 一方この頃、金木よりも南部の地区では、第二世代の、唄と手踊りを組み合わせた芸が話題だった。
 手踊りとは、もとは高野山の山伏であった「福士照海」が創始者とされる「津軽手踊り」のこと。照海は相野山に薬師寺(西津軽郡森田村)を建立し、布教活動においてこの手踊りを踊った。つま先立ちで腰を浮かせて踊るから、足腰が強く、体力が無いと踊れないのがこの手踊りで、習得するのは至難と言われた。
 特にこの頃、手踊りの名手として絶賛されていたのが、茅葺き職人である「広田の紋次郎」である。彼は、唄い手、津軽家すわ子(坂本スワ)と組み、最高のコンビとなった。紋次郎は、かの福士照海から直に手踊りの手ほどきを受けたとされる。
 手踊りまでも手中にした、第二世代の「唄会」は馬市に人だかりを作らせた。
 明治三十八年(一九〇五年)の、秋。
 津軽三大祭りの一つ、岩木山神社では、初めて大々的な集団での唄会が開かれ、大盛況となったのだ。
 当然そういう噂は、金木にも聞こえてくる。
 しかし、相変わらずタキゾウは、我が道を行くであった。
 その年久々に、川倉地蔵尊を目指して、自ら稽古に励んでいた。
「川倉の地蔵さんは、ただの祭りでね。大事な供養なんだ」
 タキゾウは口癖のように、そう言っていたものだ。
 その祭りに、ハマ子の出産があり、無沙汰のタキゾウであった。
 だから、明治三十八の川倉地蔵例大祭は、満を持しての登場となった。
 もちろん、マサ、ハマ子も同伴した。
 タケの声の良さと伸びやかな節回し、そして、背中に赤子を背負ってハマ直伝の本職三味線を弾く、タキゾウが話題となった。
 その、祭りの人だかりの中には、かの松村長一郎の姿があった。
「勝さん、やっぱり、ここだったか」
しおりを挟む

処理中です...