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六十 事件
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じけん
ハマ子は、畑に居た。
スタッフは帰京し、残ったのは後藤だけとなった。
「二日ほったらかしたからね。アスパラは好きですか」
後藤は、正直あまり食べたことが無く、一瞬、答えに窮した。
「ご飯は食べてこられたと想うけど、アスパラ茹でるから食べて。もう少し待っててくださいね。もう終わるから」
他に、ナス、ササゲなどが植わっている、十坪程度の畑だ。
「昨日は、素晴らしい演奏でした。感動しました」
「大したこと無いけど、やっぱり体が覚えてるもんだね」
蓮は学校に行き、本当は居るはずの蓮蔵は、ちょっと観光課行ってくる、と出かけたらしい。
「蓮蔵さんに気を使わしちゃったかしら」
ようやく、ハマ子がアスパラの入ったどんぶりを持って居間にやってきた。
「少し、大きくなったけど、とれたては違うから食べてみて、マヨネーズ付けて」
「はい、遠慮なく」
後藤は、すぐに一切れ箸でつまんで、口に入れる。
「どう」
「これ、アスパラ。アスパラって、こんなに美味しいの」
「柔らかいでしょ、とれたては」
「というか、すみません。正直言うと東京であまり食べたことがなくて」
「一日置くと、もう固くなる。アスパラはとれたてに限る」
「これ、いくらでも入っちゃいますね」
「いっぱい食べて」
ハマ子は、娘を見るような目で、後藤が食べる姿を眺めていた。
「お父さん、帰って来ないね、やっぱり」
「気を使わ・・・」
ハマ子が首を振って、小声で遮る。
「違うの。聞きたくないんでしょ」
分かるような気がして、後藤はうなずく。
「悪く言えば、無関心。目が見えないでしょ。あの人、自分でも言うんだけど。目が見えなくて得していることって、いっぱいある、って」
後藤は答える言葉が無い。ハマ子は続けた。
「同じことを、父が良く言ってたなあ、て。若い時は、俺も戦争行きたい、と思ったことあるってね。でも、だいぶ経ってから、母親が言ってたことを何度も聞かされた。父の産みの母親ね。父を産んですぐに亡くなったらしいけど、言ってたって、産んですぐに。男が、戦争さ行がねどいげねが、ってね。だから、俺が目が見えなくなったのは、母親の念だ、て。おっかは、どんな手を使っても、俺を戦争に行かせたく無かったんだって。まなぐが見えねば、兵隊には取らぃねはんで、って。ごめんなさい、また関係ないこと喋って。どこまで話しましたっけか」
「いや、それが良いんです。いろいろ聞かせてもらって嬉しいです。私ね、主題の脇の話、活字にならない、端っこの話こそ、しっかり聞く必要がある、て、お世話になったベテランの編集者に新人の頃、ずいぶん教えられてね。そういうのが肌に染み付いてるんですよ。その人に比べたら、まだまだ新人みたいなものですけど」
「あれ、後藤さんって何歳」
「今年、三十ですよ、もう」
「もうって、まだ、そんなに若いのか。いいね。そうか、父が亡くなった時の、私の歳だ」
「あ、そう、それ伺いました。その後、北海道で空襲を逃れて、やっと津軽に戻ったあたりまで」
「そうだ、そこまでだった。お父さん、話してしまうよ。聞かなくていいのか」
ハマ子は、不在の夫に呼びかけるようにおどけてみせた。
「進駐軍がね、弘前にも来ていて、巡業でアメリカ軍の前でも演奏したんだけどね。不思議な感じ。なんか見世物見物。唄なんかわからないでしょ、あの人たちには。民謡なんて」
「そういう事もやられたんですね」
「問題はここからだよ。そのね、進駐軍の演奏のときにね、舞台が終わって宿に帰った後、一人の男がね、訪ねてきたのね、宿に。それで、外に連れ出されて、弘前城の周りを歩きながら話したんだね、どうしてそうなったか覚えてないけど」
「なんか危ない目にあったんですか」
「いえ、ほんと話しただけなんだけどね。それがね、良い男なの。俳優みたい」
「ええ」
「いま考えれば、それだけで、怪しいというか。疑わないといけないのに。何だかね、信じたのね。怖いね。狂い咲きだね、結局咲かなかったけど」
「何歳でしたか、その時ハマ子さん」
「四十、二だね。もうね、焦りを通り越して、何でも来い、という気持ち。一座を抜けてね、その男と上京したのよ」
「すごい、大胆」
「ちょっと、考えられないでしょ、普通は」
「それで、どうなったんですか」
「川崎に行ったのね。その男、ヤスオって、言ったけど。そのヤスオの住んでいるところに居候。居候言っても、バラックみたいな平屋の、まあ、長屋みたいな建物。港の近くの」
「それは、つまり、そのヤスオさんと世帯を持ったってことですか」
「いやいや、違うのよ。未だに目的は分からないけど、利用されたんだと想う。これ女の勘ね」
「ええ、そうなんですか・・・」
「いや、怖いから私も、その時ヤスオには訊かなかった。知りたくも無かったし」
「まあ、それで、その後、どうなったんですか」
「そう、とにかく、私がヤスオの口車に乗って上京したのは、あの人が、レコード会社にコネがあって、デビューできるように話を付けられる、そういう話だったから付いて行ったのね。そうじゃなければ、色男だからといって、さすがに東京まで付いて行かないから」
「そりゃそうですね」
「ところが、ただほんと、同居しているだけで、何されるわけもなく暮らして、そのうちにデビューの話なんて、すっかりしなくなって。こっちも何か、世話になっているから、訊きづらくなって。でも、時が来たら、紹介してくれるだろう、と。何か疑いもなく。まあ、とにかく、最初から話が上手かったから、そのヤスオは」
「お金はどうしたんですか」
「私も、それなりに稼いでいたし、持って行ったけど、全く手を付けなかった。ヤスオが何でも出してくれたからね」
「へえ、不思議。それで、何もしないわけですよね、ハマ子さんには、男として」
「そう、たぶん、ヤスオは男色だったと想います。男しか訪ねて来なかったからね、それで、あの色男でしょ」
「そう感じたわけですね。ハマ子さんは」
「そう」
「それからどうなりましたか」
「川崎には、その年の暮までいて、そのあと引っ越したの、東京の、蒲田」
「はい」
「なんかね、やっぱり今思えば不思議だね。ヤスオは、今度はハマ子のアパート借りたから、っていうの」
「借りてくれたんですね」
「そう、デビューさせてくれるし、住むとこまで用意してくれるって、どう考えたって普通じゃないでしょ」
「いかにも怪しいですね」
「その当時、少しは疑う気持ちはあったけど、それでも半分以上信じていた自分が怖い」
「それからどうなりました」
「ヤスオは、悪いけど、しばらくハマ子さんのアパートに居候させてくれ、て言うのよ。居候も何も、あなたが借りてくれたわけだから」
「何だ、それ」
「不思議だよね、今更だけど」
「それで」
「一月の半ば、何日だったか忘れたけど、朝出て行ったっきり、ヤスオは戻らなかった」
「ええ、何それ。何も言わずに」
「明日、キング(レコード会社)に行くから、そのつもりで、と言ってね」
「それっきり」
「そう、それっきり」
「何でしょうね、それ」
「分からない。その後、誰かが訪ねて来たこともないし。ただ、私は、そのレコード会社の担当の名前を聞いておけばよかった、って、ひたすら後悔して」
「でも、たぶん、それ嘘ですよね」
「そう、嘘だった」
「なんで分かったんですか」
「そのあと私、行ったからキングレコードに訪ねて」
「そうなります、よね」
「信じてるからね」
ハマ子が吹き出し、後藤が釣られて笑う。
「あーあ、それでどうなるんですか」
「ヤスオなんて言う人知らない、ってね。でも良く相手にしてくれたなあ、と思って私を。なんか異常なほどに真剣だったんでしょうね。母の形見の藤の着物を着て、髪も結い直して行ったんだから」
「そりゃ、只者じゃないと思いますよ」
二人して笑いが止まらない。
「もう、訊くの怖いんですけど、それからどうなりました」
「いやあ、捨てる神あれば拾う神あり、でね、ハマダさんという人がね、とにかく一緒に昼ご飯食べに行こうってね、連れていってくれて。神田に。美味しかったなあ、あのカレーライス」
「ハマ子さん、面白い。何、今度はカレーライス。そんな場合じゃないでしょ。これ旦那さん聞いておいた方が良かったじゃないですか、やっぱり」
「そう、昔の男の話でもなんでもないからね」
もう笑いが止まらない二人。
「ああ、おかしい、それでハマダさんという人はプロデューサーみたいな人」
「そう、結構凄い人だったんだと想う。だって、カレーライス食べた後すぐ、レコード出してやるって話になったんだから」
「ええええ、凄い」
「棚からぼたもち、よね。唄聴かせてくれって言うからスタジオ行って、三味線持っていったからね、当然。唄ったわけよ」
「それで」
「凄く良いって、これは、津軽家すわ子、函青くに子を超えるって」
「大絶賛」
「結局、じょんがら節と、小原節をレコーディングしたね」
「どうでしたか」
「全く、売れなかった。そこまで、甘くないわけね」
「売れるには、いろいろありますからね、他にも色々やらなきゃいけないことが」
「そう、宣伝だってね、お金かかるでしょ」
「タイミングも、運も大きいですからね」
「そうだ。でもね、考えてみれば、それで良かったと思う。何か変なことにならずに。それにね、何と言っても良かったのは、そのハマダさんの口利きで、コンサートが出来たの」
「あ、知ってますよ、調べました。上越の」
「そう、あれが出来たことが、私の一番の宝です。長い年月がかかりましたが、ようやく、祖母ハマが・・・故郷に帰れた。そんな気がしました」
さっきまで、笑いすぎて出た涙とは違う涙が、ハマ子の頬を伝った。
後藤は東京に戻って、やはり、気になって、松本にも手伝ってもらい、調べた。
ハマ子が巻き込まれたかもしれない事件が無かったか。性格的にそのままにしておけなかったのだ。
期待はしていなかった。何もなければ、無いだし、どのみち、この企画には関係ない。
しかし、そこは取材のプロだ。
仕事の合間に、松本らとコンタクトを取りながら、約一ヶ月後、知らなくて良いことに後藤は突き当たってしまった。
昭和二十三年(一九四八年)、一月二十六日に、東京豊島区長崎で起きた怪事件、いわゆる「帝銀事件」だ。
突然銀行に現れた男が、近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい、と告げ、行員ら計十六人に青酸カリを飲ませ、現金と小切手を奪い逃走した、という未解決の大事件であった。
しかし、この事件には複数の未遂事件が関係しているとされている。
その中で、松本が調べた未遂事件は、前年二十二年正月十四日の新宿であった事件で、結局男は、何もせずに偽の名刺だけを出して、その場を去った、と云う。
対応した行員の女性の話だと、その男は、歌舞伎役者のような美男だった、と証言していた、と云う。
1月の半ば、十四日。年も、日付も合う。
後藤と松本の推理はこうだ。
そのヤスオという男は、「帝銀事件」を起こした犯人グループの中の一人。二年から三年越しの計画の中で、実験的に行われた行動に、ハマ子を利用した。相手の条件は、女性であること。地方出身であること。住むところを欲していて、同棲している恋人役になれること。ハマ子には身寄りがないから彼女の家族がヤスオのことを詮索することはない。蒲田のアパートは同棲を装う住処。自分名義で契約できないから、ハマ子を借り主とした、と。結果、そこは未遂事件のアジトの一つになったのだ。
後藤らは、それ以上掘らなかったし、当然ハマ子にも知らせなかった。
しかし、後藤は妙に納得してしまったし、十分に満足したからこそ、それ以上の詮索をしなかったのであった。
ハマ子は、畑に居た。
スタッフは帰京し、残ったのは後藤だけとなった。
「二日ほったらかしたからね。アスパラは好きですか」
後藤は、正直あまり食べたことが無く、一瞬、答えに窮した。
「ご飯は食べてこられたと想うけど、アスパラ茹でるから食べて。もう少し待っててくださいね。もう終わるから」
他に、ナス、ササゲなどが植わっている、十坪程度の畑だ。
「昨日は、素晴らしい演奏でした。感動しました」
「大したこと無いけど、やっぱり体が覚えてるもんだね」
蓮は学校に行き、本当は居るはずの蓮蔵は、ちょっと観光課行ってくる、と出かけたらしい。
「蓮蔵さんに気を使わしちゃったかしら」
ようやく、ハマ子がアスパラの入ったどんぶりを持って居間にやってきた。
「少し、大きくなったけど、とれたては違うから食べてみて、マヨネーズ付けて」
「はい、遠慮なく」
後藤は、すぐに一切れ箸でつまんで、口に入れる。
「どう」
「これ、アスパラ。アスパラって、こんなに美味しいの」
「柔らかいでしょ、とれたては」
「というか、すみません。正直言うと東京であまり食べたことがなくて」
「一日置くと、もう固くなる。アスパラはとれたてに限る」
「これ、いくらでも入っちゃいますね」
「いっぱい食べて」
ハマ子は、娘を見るような目で、後藤が食べる姿を眺めていた。
「お父さん、帰って来ないね、やっぱり」
「気を使わ・・・」
ハマ子が首を振って、小声で遮る。
「違うの。聞きたくないんでしょ」
分かるような気がして、後藤はうなずく。
「悪く言えば、無関心。目が見えないでしょ。あの人、自分でも言うんだけど。目が見えなくて得していることって、いっぱいある、って」
後藤は答える言葉が無い。ハマ子は続けた。
「同じことを、父が良く言ってたなあ、て。若い時は、俺も戦争行きたい、と思ったことあるってね。でも、だいぶ経ってから、母親が言ってたことを何度も聞かされた。父の産みの母親ね。父を産んですぐに亡くなったらしいけど、言ってたって、産んですぐに。男が、戦争さ行がねどいげねが、ってね。だから、俺が目が見えなくなったのは、母親の念だ、て。おっかは、どんな手を使っても、俺を戦争に行かせたく無かったんだって。まなぐが見えねば、兵隊には取らぃねはんで、って。ごめんなさい、また関係ないこと喋って。どこまで話しましたっけか」
「いや、それが良いんです。いろいろ聞かせてもらって嬉しいです。私ね、主題の脇の話、活字にならない、端っこの話こそ、しっかり聞く必要がある、て、お世話になったベテランの編集者に新人の頃、ずいぶん教えられてね。そういうのが肌に染み付いてるんですよ。その人に比べたら、まだまだ新人みたいなものですけど」
「あれ、後藤さんって何歳」
「今年、三十ですよ、もう」
「もうって、まだ、そんなに若いのか。いいね。そうか、父が亡くなった時の、私の歳だ」
「あ、そう、それ伺いました。その後、北海道で空襲を逃れて、やっと津軽に戻ったあたりまで」
「そうだ、そこまでだった。お父さん、話してしまうよ。聞かなくていいのか」
ハマ子は、不在の夫に呼びかけるようにおどけてみせた。
「進駐軍がね、弘前にも来ていて、巡業でアメリカ軍の前でも演奏したんだけどね。不思議な感じ。なんか見世物見物。唄なんかわからないでしょ、あの人たちには。民謡なんて」
「そういう事もやられたんですね」
「問題はここからだよ。そのね、進駐軍の演奏のときにね、舞台が終わって宿に帰った後、一人の男がね、訪ねてきたのね、宿に。それで、外に連れ出されて、弘前城の周りを歩きながら話したんだね、どうしてそうなったか覚えてないけど」
「なんか危ない目にあったんですか」
「いえ、ほんと話しただけなんだけどね。それがね、良い男なの。俳優みたい」
「ええ」
「いま考えれば、それだけで、怪しいというか。疑わないといけないのに。何だかね、信じたのね。怖いね。狂い咲きだね、結局咲かなかったけど」
「何歳でしたか、その時ハマ子さん」
「四十、二だね。もうね、焦りを通り越して、何でも来い、という気持ち。一座を抜けてね、その男と上京したのよ」
「すごい、大胆」
「ちょっと、考えられないでしょ、普通は」
「それで、どうなったんですか」
「川崎に行ったのね。その男、ヤスオって、言ったけど。そのヤスオの住んでいるところに居候。居候言っても、バラックみたいな平屋の、まあ、長屋みたいな建物。港の近くの」
「それは、つまり、そのヤスオさんと世帯を持ったってことですか」
「いやいや、違うのよ。未だに目的は分からないけど、利用されたんだと想う。これ女の勘ね」
「ええ、そうなんですか・・・」
「いや、怖いから私も、その時ヤスオには訊かなかった。知りたくも無かったし」
「まあ、それで、その後、どうなったんですか」
「そう、とにかく、私がヤスオの口車に乗って上京したのは、あの人が、レコード会社にコネがあって、デビューできるように話を付けられる、そういう話だったから付いて行ったのね。そうじゃなければ、色男だからといって、さすがに東京まで付いて行かないから」
「そりゃそうですね」
「ところが、ただほんと、同居しているだけで、何されるわけもなく暮らして、そのうちにデビューの話なんて、すっかりしなくなって。こっちも何か、世話になっているから、訊きづらくなって。でも、時が来たら、紹介してくれるだろう、と。何か疑いもなく。まあ、とにかく、最初から話が上手かったから、そのヤスオは」
「お金はどうしたんですか」
「私も、それなりに稼いでいたし、持って行ったけど、全く手を付けなかった。ヤスオが何でも出してくれたからね」
「へえ、不思議。それで、何もしないわけですよね、ハマ子さんには、男として」
「そう、たぶん、ヤスオは男色だったと想います。男しか訪ねて来なかったからね、それで、あの色男でしょ」
「そう感じたわけですね。ハマ子さんは」
「そう」
「それからどうなりましたか」
「川崎には、その年の暮までいて、そのあと引っ越したの、東京の、蒲田」
「はい」
「なんかね、やっぱり今思えば不思議だね。ヤスオは、今度はハマ子のアパート借りたから、っていうの」
「借りてくれたんですね」
「そう、デビューさせてくれるし、住むとこまで用意してくれるって、どう考えたって普通じゃないでしょ」
「いかにも怪しいですね」
「その当時、少しは疑う気持ちはあったけど、それでも半分以上信じていた自分が怖い」
「それからどうなりました」
「ヤスオは、悪いけど、しばらくハマ子さんのアパートに居候させてくれ、て言うのよ。居候も何も、あなたが借りてくれたわけだから」
「何だ、それ」
「不思議だよね、今更だけど」
「それで」
「一月の半ば、何日だったか忘れたけど、朝出て行ったっきり、ヤスオは戻らなかった」
「ええ、何それ。何も言わずに」
「明日、キング(レコード会社)に行くから、そのつもりで、と言ってね」
「それっきり」
「そう、それっきり」
「何でしょうね、それ」
「分からない。その後、誰かが訪ねて来たこともないし。ただ、私は、そのレコード会社の担当の名前を聞いておけばよかった、って、ひたすら後悔して」
「でも、たぶん、それ嘘ですよね」
「そう、嘘だった」
「なんで分かったんですか」
「そのあと私、行ったからキングレコードに訪ねて」
「そうなります、よね」
「信じてるからね」
ハマ子が吹き出し、後藤が釣られて笑う。
「あーあ、それでどうなるんですか」
「ヤスオなんて言う人知らない、ってね。でも良く相手にしてくれたなあ、と思って私を。なんか異常なほどに真剣だったんでしょうね。母の形見の藤の着物を着て、髪も結い直して行ったんだから」
「そりゃ、只者じゃないと思いますよ」
二人して笑いが止まらない。
「もう、訊くの怖いんですけど、それからどうなりました」
「いやあ、捨てる神あれば拾う神あり、でね、ハマダさんという人がね、とにかく一緒に昼ご飯食べに行こうってね、連れていってくれて。神田に。美味しかったなあ、あのカレーライス」
「ハマ子さん、面白い。何、今度はカレーライス。そんな場合じゃないでしょ。これ旦那さん聞いておいた方が良かったじゃないですか、やっぱり」
「そう、昔の男の話でもなんでもないからね」
もう笑いが止まらない二人。
「ああ、おかしい、それでハマダさんという人はプロデューサーみたいな人」
「そう、結構凄い人だったんだと想う。だって、カレーライス食べた後すぐ、レコード出してやるって話になったんだから」
「ええええ、凄い」
「棚からぼたもち、よね。唄聴かせてくれって言うからスタジオ行って、三味線持っていったからね、当然。唄ったわけよ」
「それで」
「凄く良いって、これは、津軽家すわ子、函青くに子を超えるって」
「大絶賛」
「結局、じょんがら節と、小原節をレコーディングしたね」
「どうでしたか」
「全く、売れなかった。そこまで、甘くないわけね」
「売れるには、いろいろありますからね、他にも色々やらなきゃいけないことが」
「そう、宣伝だってね、お金かかるでしょ」
「タイミングも、運も大きいですからね」
「そうだ。でもね、考えてみれば、それで良かったと思う。何か変なことにならずに。それにね、何と言っても良かったのは、そのハマダさんの口利きで、コンサートが出来たの」
「あ、知ってますよ、調べました。上越の」
「そう、あれが出来たことが、私の一番の宝です。長い年月がかかりましたが、ようやく、祖母ハマが・・・故郷に帰れた。そんな気がしました」
さっきまで、笑いすぎて出た涙とは違う涙が、ハマ子の頬を伝った。
後藤は東京に戻って、やはり、気になって、松本にも手伝ってもらい、調べた。
ハマ子が巻き込まれたかもしれない事件が無かったか。性格的にそのままにしておけなかったのだ。
期待はしていなかった。何もなければ、無いだし、どのみち、この企画には関係ない。
しかし、そこは取材のプロだ。
仕事の合間に、松本らとコンタクトを取りながら、約一ヶ月後、知らなくて良いことに後藤は突き当たってしまった。
昭和二十三年(一九四八年)、一月二十六日に、東京豊島区長崎で起きた怪事件、いわゆる「帝銀事件」だ。
突然銀行に現れた男が、近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい、と告げ、行員ら計十六人に青酸カリを飲ませ、現金と小切手を奪い逃走した、という未解決の大事件であった。
しかし、この事件には複数の未遂事件が関係しているとされている。
その中で、松本が調べた未遂事件は、前年二十二年正月十四日の新宿であった事件で、結局男は、何もせずに偽の名刺だけを出して、その場を去った、と云う。
対応した行員の女性の話だと、その男は、歌舞伎役者のような美男だった、と証言していた、と云う。
1月の半ば、十四日。年も、日付も合う。
後藤と松本の推理はこうだ。
そのヤスオという男は、「帝銀事件」を起こした犯人グループの中の一人。二年から三年越しの計画の中で、実験的に行われた行動に、ハマ子を利用した。相手の条件は、女性であること。地方出身であること。住むところを欲していて、同棲している恋人役になれること。ハマ子には身寄りがないから彼女の家族がヤスオのことを詮索することはない。蒲田のアパートは同棲を装う住処。自分名義で契約できないから、ハマ子を借り主とした、と。結果、そこは未遂事件のアジトの一つになったのだ。
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