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二十
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團十郎が江戸に戻って、二年の月日が流れた。
この間、團十郎は後進の指導、とりわけ長男九蔵の教育と指導に力を入れていた。
誰に語ることは無かったが、團十郎としては、徐々に後に引き継いでいく準備に入ったつもりだった。
そして、元禄十年(一六九七年)、九蔵は十歳、中村座にて初舞台となった。
父子共演であった。
演目は、「兵根元曾我(つわものこんげんそが)」。
日本三大仇討ち、と言われる曽我兄弟の仇討ちで知られる、曽我兄弟にまつわる歌舞伎演目である。
初代演じるは、曾我五郎。
九蔵は、山伏姿の通力坊(つうりきぼう)を演じた。
通力坊は、実は不動明王であり、曾我五郎は不動明王の信仰者である。
まさに、そこが味噌で、現実世界と重なるのである。
この設定は、荒事の定型であり、初代團十郎の、はまり型であったと言われる。
もちろん、すべて初代團十郎の演出である。
まさに、はまり型の継承を実現したわけである。
それは、すなわち成田不動を信奉する成田屋の継承を意味していた。
時は、役者評判記が大売れの全盛期だった。
九蔵は、記録では初めて、「子役」というくくりで、評判記に載ったとされる。
初舞台の花道には、文字通り「花(祝儀)」が五百貫文(約百両)投げられたという。
もちろん、それはすべて、成田山新勝寺に寄進された。
成田屋の跡継ぎとして、立派に初舞台を務め、お礼参りが叶ったわけである。
初代團十郎の、二代目のための筋道づくりは見事に成功した。
その後も、厳しい修行と精進で九蔵は順調に歌舞伎役者の階段を上がっていく。
三味線、鼓、長唄、狂言などの音曲(おんぎょく)の稽古。
それから、新旧の浄瑠璃についても九蔵は学んでいく。
初代團十郎の方針のもと、歌舞伎役者の英才教育を受けていくわけである。
時代もまた、めまぐるしく変化していった。
そんな中、元禄十四年、赤穂事件が起こる。
この事件に端を発して、翌年元禄十五年、かの吉良邸討ち入りとなるわけである。
その翌年。
元禄十六年(一七〇三年)、九蔵は十六歳。
「成田山分身不動(なりたさんふんじんふどう)」という演目で、父子は共演する。
この演目は、この後、幕末まで演じられる定番の演目となった。
これはまた、初代と二代目が共演した最後の演目でもあった。
「成田山分身不動」のための稽古が連日続いているときであった。
幼き頃より、病弱であった團十郎の二男が亡くなった。
齢、十一の若さだった。
仕事のためとは言え、十分な弔いができなかった、と後に團十郎は周囲に歎き語ったという。
そして、人形浄瑠璃と歌舞伎に代表される、まさに文化創造の時代であった元禄時代は、大地震によって幕を閉じる。
同年の十一月二十三日、暁八つ過ぎ(午前二時頃)、それは江戸を襲った。
元禄地震である。
この地震によって、江戸は大火に見舞われる。
そして、江戸四座は焼失した。
それほどの大火事だった。
当然だが、多くの人びとが亡くなった。
團十郎の妻子は無事だったが、重蔵が行方知れずとなった。
長一郎は目白の裏茶屋で色と寝ていた。
この火事が元で、長一郎の病が再発した。
重蔵が居なくなったのは自分のせいだ、と言い出したのだ。
明暦の大火の記憶も蘇った。
仕事は手につかず。
楽屋頭取は辞めざるを得なかった。
一方、芝居小屋の再建は早かった。
現在の劇場のように、大掛かりな建造物ではないためである。
火事から二年後の正月(宝永二年、一七〇五年)、團十郎の姿は、成田山にあった。
去年は、厄払いで一家総出での参詣であったが、その年は一人だった。
参道の飯屋、うさぎやは、新しくなった。
團十郎が資金を出して、建て替えたのである。
裏手には、母屋も新しく建った。
「お一人で、また、何かありましたか」
「いいや、娘の顔が見たくなっただけだ」
「あら、私じゃないのですか」
「まあ、そう言うな」
もちろん、顔を見にきた、のは本当の事だったが、その他にも訳はあった。
大火の前後、團十郎の身の回りには、様々なことが起こった。
しかし、多忙を極めていたこともあり、それらとしっかり向き合いきれていない團十郎であった。
後悔しても、戻ってくるものではないが、一人ゆっくり考えたかったのだ。
重蔵の行方は、依然として知れなかった。
長一郎も、とり合ってくれなかった。
「もう、十二か、早えなあ」
娘、つるは、隣室で寝息を立てていた。
ぶんの若いころにそっくりだった。
当時のぶんと同じように、もう店の手伝いをするようになっていた。
亡くなる命があれば、生まれ、続く命もある。
しかし、必ず等しく誰にも最後がくる。
それだけのことかもしれないが、團十郎には、おいそれと割り切れない深い悲しみもあった。
ぶんは、綿入れを持ってきて、團十郎の背中に掛けた。
「もう一本、おつけしましょうか」
「おう、そうだな、今夜も冷えそうだから、温まって寝ねえとな」
「何か、肴出しましょうか、干し鱈の煮付けがありますが」
「おお良い、それをもらうか」
こじんまりとしているが、そこには家族の温かさがあった。
それは、普段、團十郎がいる世界が持つそれとは、違う温かさであった。
華やかさは無いが、受け止めてくれる優しさがあり、團十郎の心は静かになっていく。
「ありがとうよ、おぶん」
「何ですか、改まって」
小言の一つもなく、気丈に娘を育て、一人店を守っているぶんに、團十郎はどれだけ感謝していたか知れない。
穏やかな正月の夜だった。
それが、親子の最後の夜となった。
市村座は、江戸四座の中で一番遅い開会と成った。
宝永二年(一七〇五年)、市村座では、前年の落成興行で演じられた演目、「移徙(またわし)十二段」が上演されることとなった。
初代團十郎は、鞍馬山の僧、正坊と佐藤継信を演じる。
その興行の七日目は、如月(きさらぎ=二月)の十九日だった。
朝からどんよりと、灰色の雲が低く垂れ込め、今にもざあっと来そうな空だった。
「おう、長一郎さん、しばらくです」
長一郎の後に、楽屋頭取に成った生島半六が、入ってきた堀越長一郎に気付き、声を掛けた。
「雨が来そうだね」
「やっぱりですか、どうしました、お珍しい」
「いやね、やっと父の消息が分かってね、早速、團十郎に知らせてあげようと思ってねえ」
「おお、それは良かったですねえ」
「祝儀を預かってきたので、届けに」
「まだ、舞台の上ですよ。もうすぐですが」
「ほら、見な、降ってきたよ。あたいが合羽持って、祝儀と一緒に届けてやるよ」
「え、そんな」
「いいってことよ」
長一郎はかけ出して行った。
「衣装(黒子の衣装)は」
「そんなこと、全部分かってるよ」
舞台は佳境。
團十郎は、まさに、大見得を切っていた。
つら灯りが寄せられ、観客がその明かりの先を注目したその時だった。
雨が、つら灯りをかき消した。
突然の強い雨だった。
しかし、そこで止めるわけにはいかない。
そこに黒子が合羽を持って入ってきた。
誰もがほっと胸を撫で下ろした次の瞬間だった。
黒子は合羽を團十郎の腹に真っ直ぐ持っていった。
團十郎をそれを受け止めた。
しかし、受け止めたものは、合羽ではなかった。
合羽の後ろに隠れていたものだ。
團十郎は一瞬、身をこわばらせる。
そして声もなく、真っ直ぐに立ち、一、二歩後ろに後ずさった。
黒子は、合口(あいくち=つばのない短刀)を團十郎の溝内のあたりに深く差し込んだ。
そして、何度もえぐった。
それでも團十郎は、倒れなかった。
最後の力を振り絞って、黒子の頭巾を剥がした。
その顔に、自らの顔をゆっくりと近づけて確かめると、言った。
「兄、さん、か、、、すま、な、かっ、た」
それは、雨合羽に対する感謝なのか、はたまた何かの謝罪だったのか計り知れないが、確かに團十郎は、相手を長一郎と認めた上で、そう言ったのだった。
そして、それが、初代、市川團十郎の、最期の言葉となった。
この間、團十郎は後進の指導、とりわけ長男九蔵の教育と指導に力を入れていた。
誰に語ることは無かったが、團十郎としては、徐々に後に引き継いでいく準備に入ったつもりだった。
そして、元禄十年(一六九七年)、九蔵は十歳、中村座にて初舞台となった。
父子共演であった。
演目は、「兵根元曾我(つわものこんげんそが)」。
日本三大仇討ち、と言われる曽我兄弟の仇討ちで知られる、曽我兄弟にまつわる歌舞伎演目である。
初代演じるは、曾我五郎。
九蔵は、山伏姿の通力坊(つうりきぼう)を演じた。
通力坊は、実は不動明王であり、曾我五郎は不動明王の信仰者である。
まさに、そこが味噌で、現実世界と重なるのである。
この設定は、荒事の定型であり、初代團十郎の、はまり型であったと言われる。
もちろん、すべて初代團十郎の演出である。
まさに、はまり型の継承を実現したわけである。
それは、すなわち成田不動を信奉する成田屋の継承を意味していた。
時は、役者評判記が大売れの全盛期だった。
九蔵は、記録では初めて、「子役」というくくりで、評判記に載ったとされる。
初舞台の花道には、文字通り「花(祝儀)」が五百貫文(約百両)投げられたという。
もちろん、それはすべて、成田山新勝寺に寄進された。
成田屋の跡継ぎとして、立派に初舞台を務め、お礼参りが叶ったわけである。
初代團十郎の、二代目のための筋道づくりは見事に成功した。
その後も、厳しい修行と精進で九蔵は順調に歌舞伎役者の階段を上がっていく。
三味線、鼓、長唄、狂言などの音曲(おんぎょく)の稽古。
それから、新旧の浄瑠璃についても九蔵は学んでいく。
初代團十郎の方針のもと、歌舞伎役者の英才教育を受けていくわけである。
時代もまた、めまぐるしく変化していった。
そんな中、元禄十四年、赤穂事件が起こる。
この事件に端を発して、翌年元禄十五年、かの吉良邸討ち入りとなるわけである。
その翌年。
元禄十六年(一七〇三年)、九蔵は十六歳。
「成田山分身不動(なりたさんふんじんふどう)」という演目で、父子は共演する。
この演目は、この後、幕末まで演じられる定番の演目となった。
これはまた、初代と二代目が共演した最後の演目でもあった。
「成田山分身不動」のための稽古が連日続いているときであった。
幼き頃より、病弱であった團十郎の二男が亡くなった。
齢、十一の若さだった。
仕事のためとは言え、十分な弔いができなかった、と後に團十郎は周囲に歎き語ったという。
そして、人形浄瑠璃と歌舞伎に代表される、まさに文化創造の時代であった元禄時代は、大地震によって幕を閉じる。
同年の十一月二十三日、暁八つ過ぎ(午前二時頃)、それは江戸を襲った。
元禄地震である。
この地震によって、江戸は大火に見舞われる。
そして、江戸四座は焼失した。
それほどの大火事だった。
当然だが、多くの人びとが亡くなった。
團十郎の妻子は無事だったが、重蔵が行方知れずとなった。
長一郎は目白の裏茶屋で色と寝ていた。
この火事が元で、長一郎の病が再発した。
重蔵が居なくなったのは自分のせいだ、と言い出したのだ。
明暦の大火の記憶も蘇った。
仕事は手につかず。
楽屋頭取は辞めざるを得なかった。
一方、芝居小屋の再建は早かった。
現在の劇場のように、大掛かりな建造物ではないためである。
火事から二年後の正月(宝永二年、一七〇五年)、團十郎の姿は、成田山にあった。
去年は、厄払いで一家総出での参詣であったが、その年は一人だった。
参道の飯屋、うさぎやは、新しくなった。
團十郎が資金を出して、建て替えたのである。
裏手には、母屋も新しく建った。
「お一人で、また、何かありましたか」
「いいや、娘の顔が見たくなっただけだ」
「あら、私じゃないのですか」
「まあ、そう言うな」
もちろん、顔を見にきた、のは本当の事だったが、その他にも訳はあった。
大火の前後、團十郎の身の回りには、様々なことが起こった。
しかし、多忙を極めていたこともあり、それらとしっかり向き合いきれていない團十郎であった。
後悔しても、戻ってくるものではないが、一人ゆっくり考えたかったのだ。
重蔵の行方は、依然として知れなかった。
長一郎も、とり合ってくれなかった。
「もう、十二か、早えなあ」
娘、つるは、隣室で寝息を立てていた。
ぶんの若いころにそっくりだった。
当時のぶんと同じように、もう店の手伝いをするようになっていた。
亡くなる命があれば、生まれ、続く命もある。
しかし、必ず等しく誰にも最後がくる。
それだけのことかもしれないが、團十郎には、おいそれと割り切れない深い悲しみもあった。
ぶんは、綿入れを持ってきて、團十郎の背中に掛けた。
「もう一本、おつけしましょうか」
「おう、そうだな、今夜も冷えそうだから、温まって寝ねえとな」
「何か、肴出しましょうか、干し鱈の煮付けがありますが」
「おお良い、それをもらうか」
こじんまりとしているが、そこには家族の温かさがあった。
それは、普段、團十郎がいる世界が持つそれとは、違う温かさであった。
華やかさは無いが、受け止めてくれる優しさがあり、團十郎の心は静かになっていく。
「ありがとうよ、おぶん」
「何ですか、改まって」
小言の一つもなく、気丈に娘を育て、一人店を守っているぶんに、團十郎はどれだけ感謝していたか知れない。
穏やかな正月の夜だった。
それが、親子の最後の夜となった。
市村座は、江戸四座の中で一番遅い開会と成った。
宝永二年(一七〇五年)、市村座では、前年の落成興行で演じられた演目、「移徙(またわし)十二段」が上演されることとなった。
初代團十郎は、鞍馬山の僧、正坊と佐藤継信を演じる。
その興行の七日目は、如月(きさらぎ=二月)の十九日だった。
朝からどんよりと、灰色の雲が低く垂れ込め、今にもざあっと来そうな空だった。
「おう、長一郎さん、しばらくです」
長一郎の後に、楽屋頭取に成った生島半六が、入ってきた堀越長一郎に気付き、声を掛けた。
「雨が来そうだね」
「やっぱりですか、どうしました、お珍しい」
「いやね、やっと父の消息が分かってね、早速、團十郎に知らせてあげようと思ってねえ」
「おお、それは良かったですねえ」
「祝儀を預かってきたので、届けに」
「まだ、舞台の上ですよ。もうすぐですが」
「ほら、見な、降ってきたよ。あたいが合羽持って、祝儀と一緒に届けてやるよ」
「え、そんな」
「いいってことよ」
長一郎はかけ出して行った。
「衣装(黒子の衣装)は」
「そんなこと、全部分かってるよ」
舞台は佳境。
團十郎は、まさに、大見得を切っていた。
つら灯りが寄せられ、観客がその明かりの先を注目したその時だった。
雨が、つら灯りをかき消した。
突然の強い雨だった。
しかし、そこで止めるわけにはいかない。
そこに黒子が合羽を持って入ってきた。
誰もがほっと胸を撫で下ろした次の瞬間だった。
黒子は合羽を團十郎の腹に真っ直ぐ持っていった。
團十郎をそれを受け止めた。
しかし、受け止めたものは、合羽ではなかった。
合羽の後ろに隠れていたものだ。
團十郎は一瞬、身をこわばらせる。
そして声もなく、真っ直ぐに立ち、一、二歩後ろに後ずさった。
黒子は、合口(あいくち=つばのない短刀)を團十郎の溝内のあたりに深く差し込んだ。
そして、何度もえぐった。
それでも團十郎は、倒れなかった。
最後の力を振り絞って、黒子の頭巾を剥がした。
その顔に、自らの顔をゆっくりと近づけて確かめると、言った。
「兄、さん、か、、、すま、な、かっ、た」
それは、雨合羽に対する感謝なのか、はたまた何かの謝罪だったのか計り知れないが、確かに團十郎は、相手を長一郎と認めた上で、そう言ったのだった。
そして、それが、初代、市川團十郎の、最期の言葉となった。
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