何もしなかっただけです

希臘楽園

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第3話:もう一度だけ、回します

 公爵家の離れに、来客があったのは、よく晴れた午後のことだった。

 

 大仰な先触れもなく、最小限の供回りのみ。

 それでも、その人物が誰であるかを見誤る者はいない。

 

 「――王女殿下がお見えです」

 

 使用人の報告に、私は静かに頷いた。

 

 「応接へ」

 

 それだけ告げ、立ち上がる。

 

 ◇

 

 応接室に入ると、王女はすでに席についていた。

 

 以前と変わらぬ落ち着いた佇まい。
 だが、その肩にかかるものだけが違う。

 

 「お久しぶりでございます、殿下」

 

 一礼する。

 

 「ええ。本当に……久しぶりね」

 

 王女は小さく息を吐き、こちらを見た。

 

 「堅苦しい挨拶は省きましょう。今日は、そのために来たのではないの」

 

 そう言って、まっすぐに本題へと入る。

 

 「兄は失脚したわ」

 

 知っている事実だった。

 だが私は、それを口にはしない。

 

 「そして――私が王太女となった」

 

 静かな声だった。

 誇示するでもなく、嘆くでもなく。

 

 ただ、事実を述べるだけの声音。

 

 「……おめでとうございます」

 

 形式的に言葉を返す。

 

 王女はわずかに眉を寄せた。

 

 「あなたがそう言うと、皮肉にしか聞こえないわね」

 

 そのまま、数秒の沈黙。

 

 やがて、王女は一度だけ息を整えた。

 

 「単刀直入に言うわ」

 

 視線が、真っ直ぐにこちらを射抜く。

 

 「戻ってきてほしいの」

 

 言葉は短い。

 

 「私の補佐として。――いいえ、この国のために」

 

 静かながらも、重みのある言葉だった。

 

 私は、少しだけ首を傾げる。

 

 「……国のため、ですか」

 

 「そうよ」

 

 王女は即座に頷く。

 

 「今の王宮は、あなたがいなくなって初めて分かったの。どれほどのものを、あなた一人に依存していたのか」

 

 言葉を選ぶ様子はない。

 

 「正直に言うわ。私一人では、回しきれない」

 

 それは、王族としては異例なほど率直な告白だった。

 

 だが――

 

 「承知しております」

 

 私はあっさりと頷いた。

 

 王女の表情が、わずかに強張る。

 

 「……ええ、そうでしょうね」

 

 小さく苦笑する。

 

 「あなたなら、分かっていると思っていたわ」

 

 

 再び、沈黙が落ちる。

 

 先に口を開いたのは、王女だった。

 

 「一つ、聞かせて」

 

 その声音は、先ほどよりもわずかに低い。

 

 「兄の件……あなた、止めることはできたのではなくて?」

 

 

 私は、わずかに目を細めた。

 

 「ええ」

 

 迷いなく、肯定する。

 

 「可能でしたわ。今までそうしてきたように」

 

 

 王女は、何も言わない。

 

 ただ、じっとこちらを見ている。

 

 

 私は続けた。

 

 「ですが――」

 

 

 カップを手に取り、ひと口だけ口をつける。

 

 

 「今回は、止める理由がありませんでしたので」

 

 

 静かな言葉だった。

 

 だが、その場の空気をわずかに変えるには十分だった。

 

 

 王女は、ゆっくりと目を伏せる。

 

 

 「……やはり、そうなのね」

 

 

 責める響きはなかった。

 

 ただ、納得したような声音だった。

 

 

 「あなたは最初から、見切っていた」

 

 

 その言葉に、私は答えない。

 

 肯定も否定もせず、ただ微笑むだけ。

 

 

 再び顔を上げた王女の瞳には、迷いはなかった。

 

 

 「それでも、お願いするわ」

 

 

 その一言に、覚悟が乗る。

 

 

 「あなたが必要なの」

 

 

 私は、しばらく何も言わなかった。

 

 

 窓の外に目をやる。

 

 穏やかな風が、庭の木々を揺らしている。

 

 

 やがて、静かに視線を戻した。

 

 

 「構いませんわ」

 

 

 あまりにもあっさりとした返答に、王女が目を見開く。

 

 

 「……本当に?」

 

 

 「ええ」

 

 私は微笑む。

 

 「ですが――条件がございます」

 

 

 空気が張り詰める。

 

 

 「無能な方に仕えるつもりはありません」

 

 

 その言葉に、王女はわずかに息を呑んだ。

 

 

 「ですので」

 

 

 私はゆっくりと告げる。

 

 

 「殿下が“そうでない”ことを、証明していただきます」

 

 

 王女は、しばし沈黙した。

 

 

 やがて――

 

 ふっと、小さく笑う。

 

 

 「随分と厳しい条件ね」

 

 

 「当然ですわ」

 

 

 即答する。

 

 

 「私は、もう一度同じ過ちを繰り返すつもりはありませんので」

 

 

 王女はしばらく考え、

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

 

 「いいでしょう」

 

 

 顔を上げる。

 

 その瞳には、確かな光が宿っていた。

 

 

 「証明してみせるわ」

 

 

 その言葉を聞いて、私は初めて満足げに微笑んだ。

 

 

 「では、その時を楽しみにしております」

 

 

 こうして。

 

 

 再び、歯車は回り始める。

 

 

 ――今度は、止まらぬように。
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