『横川夜咄(よこがわよばなし)』 ―和菓子と夢と、小さな嘘―

バーガヤマスター

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第三章「フィアンセの影と、甘すぎる数字」

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第三章「フィアンセの影と、甘すぎる数字」

 神崎拓海という男を、葵は三回しか会ったことがなかった。
 一回目は凛が「フィアンセを紹介したい」と言って、東広島の駅前のレストランに連れてきたとき。二回目は凛の誕生日パーティで、凛のマンションに大勢集まったとき。三回目は、凛と葵と三人で広島市内を歩いたとき。どの場面でも拓海は感じよく、よく笑い、話題が豊富で、場の空気を明るくする男だった。
 凛が惚れるのはわかる、と葵は思っていた。
 ただ葵には、拓海の笑顔の解像度が、少し高すぎる気がしていた。その場の空気を読んで、最適な笑顔を選んで出力している。悪いことではない。むしろ大人の振る舞いだ。でも葵には、どこかに違和感として残った。うまく言葉にできない、小さな引っかかり。
 その引っかかりを、葵は「自分が拓海のことをよく知らないから」だと思うことにしていた。
 少なくとも、二ヶ月前に電話が来るまでは。
 カフェ「豆と月」は、横川駅から歩いて五分ほどの路地にある小さな店だった。古いビルの一階を改装していて、天井が低く、木のテーブルが六つ並んでいる。オーナーが自家焙煎したコーヒーが飲めて、夜は十一時まで営業している。凛が横川に越してきてから通い始めた店で、葵も何度か連れてきてもらっていた。
 その夜、凛と葵が「豆と月」のいつものテーブルに着いて十分も経たないうちに、拓海が現れた。
「よかった、まだいた」と拓海は言いながら、断りもなく葵の隣の椅子を引いた。「凛から連絡もらって、俺も混ぜてほしくて」
 凛が「急にごめんね」と葵に言った。その言い方が、少し申し訳なさそうだった。
「いや、全然」と葵は言った。
 拓海はコーヒーを注文して、凛のノートを覗き込んだ。
「見せてもらってもいい? 事業計画、一緒に考えたいんだよ。俺、こういうの得意だから」
 拓海が話す内容は、確かにわかりやすかった。資金調達の方法、初期費用の内訳、損益分岐点の考え方、クラウドファンディングのプラットフォームの選び方。言葉に詰まることなく、具体的な数字を挙げながら話す。凛が感心した顔でメモを取っている。
 葵は聞きながら、拓海が書き込んでいく数字を目で追っていた。
 月間の想定来客数。客単価。人件費。家賃。材料費。それぞれの数字が、ノートの上に並んでいく。
 葵は和菓子屋の娘として、数字には人一倍敏感だった。桐島屋の帳簿を子どもの頃から見ていたし、製菓専門学校でも経営の基礎は学んでいる。原価率、回転率、繁忙期と閑散期の波。飲食店の経営がいかに薄利で、いかに繊細なバランスの上に成り立っているかを、葵は身体で知っていた。
 だから気づいた。
 拓海の書く数字は、どれも少しずつ、楽観的な方向に傾いている。
 月間来客数の想定が、横川という立地と業態を考えると高すぎる。客単価も、和菓子カフェの相場としては上振れしている。材料費の原価率が、和菓子の手作りという特性を考えると低く見積もられている。一つひとつは小さなズレだ。でもそれが積み重なると、損益分岐点の計算が根本から狂ってくる。
 指摘すべきか、と葵は一瞬迷った。
 でも今夜はまだ、最初の顔合わせのようなものだ。葵は「参考になります」と言って、自分のノートにそっとメモした。「数字、要確認」と。
「クラウドファンディングはぜひやるべきだよ」と拓海は続けた。「凛のチャンネル登録者が十二万いるなら、それだけでベースの支援者が見込める。目標金額は……そうだな、三百万くらいかな。初期費用の一部として」
「三百万」と凛は目を丸くした。
「行けると思うよ。凛の発信力なら」
 拓海のスマートフォンが、テーブルの上で振動した。
 拓海は画面をちらりと見て、そのまま伏せた。
 葵はその動作を、見ていた。一瞬だったが、拓海の表情が微かに強張ったのがわかった。画面に表示されていた名前か番号を、葵は見えなかった。ただ、拓海が意図的に無視したことは、わかった。
 数分後、また振動した。拓海はまた伏せた。
「人気者だね」と凛が軽く言った。
「仕事の電話。後でいい」と拓海はあっさり答えて、また話を続けた。
 葵はコーヒーを飲みながら、何も言わなかった。
 その夜、「豆と月」を出てから、拓海は「先に帰るね」と言って足早に去った。電話をかけ直すのだろう、と葵は思った。
 凛と二人で夜道を歩きながら、葵は「拓海さん、ITの会社だっけ」と聞いた。
「そう、スタートアップ。AIを使った何かのサービス。正直、私もよく仕組みがわかってないんだけど」と凛は言って、少し笑った。
「うまくいってるの?」
「うまくいってるって言ってるよ」と凛は答えた。
 言ってる、という言い方だった。うまくいってる、ではなく。
 葵は「そっか」と言って、それ以上聞かなかった。
「あのさ」と凛が言った。「拓海のこと、どう思った?」
「感じいい人だなと思った」と葵は答えた。これは本当のことだった。
「でしょ」と凛は嬉しそうに言った。「頼りになるし、前向きだし。こういう計画、一緒に考えてくれるし」
 葵は頷いた。
 凛のことが好きだから、余計なことは言えない。でも頷きながら、葵の中の引っかかりは、最初より少しだけ大きくなっていた。
 東広島に帰る電車の中で、葵はノートを開いた。「数字、要確認」というメモの下に、もう少し詳しく書き出してみる。拓海が提示した数字と、葵が自分で試算した数字を並べると、損益分岐点に三ヶ月から四ヶ月のズレが出てくる。
 これは単純な楽観主義なのか。それとも、意図的なものなのか。
 葵にはまだ、わからなかった。
 ただ一つ、はっきりしていることがあった。
 この計画を本気で進めるなら、数字は自分たちで作り直さなければならない。拓海に任せてはいけない。それがなぜかはまだわからないが、葵の身体が、そう言っていた。
 電車が東広島駅に滑り込んだ。
 葵はノートを閉じて、立ち上がりながら思った。和菓子の世界では、甘すぎる餡は失敗だ。甘さには、ちゃんと影が要る。

つづく
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