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私一人だけでも
しおりを挟む──ドスンッッ
寝室と地続きになったリビングから、大きな物音がした。何かが落下するようなものすごい音だった。
──今日もお父様も兄様もいないのにぃぃぃ!
うちの男性陣は家を留守にしすぎだ。嫁入り前の娘がいるというのに日が沈んでも帰ってこない。貴族の屋敷は金銀財宝金目の物があると思われ、何かと賊に狙われやすい。門番は一応いるが、必要最低人数だ。
私は兄とは違い、魔力を持たない普通の人間。闘う手段がないということをもっと理解して欲しい。出産前の義姉が心配だというのは分かるけど。妹の心配もして欲しかった。
不安な気持ちをぐっと堪え、ベッドの下に仕込んであった杖を取り出す。兄が魔力を込めたお手製の魔道具だ。父に似た兄は下品な軽口ばかり言うバカっぽい男だが、魔導の腕だけは確かだった。
婚約者は結婚目前のところで王女に奪われ、賊に陵辱されて殺される。……なんて最後は絶対にごめんだ。
それに死ぬつもりもない。私はアシュトスのことは好きだったけど、彼のためだけに生きてきたわけじゃない。彼を失っても、まだまだやりたいことは山ほどあるのだ。
すうはあと深呼吸する。──ええい、私一人だけでも立ち向かうしかない!
私は杖をぐっと握りしめた。
換気にと、少しだけ開けていた扉の裏に立ち、蝶番の間から隣の部屋の様子をうかがう。リビングの灯りはつけていなかったから薄暗い。
月明かりが、いつもは部屋にない布の塊を照らし出していた。布のかたまり──あれは外套?
もぞもぞと何かのサナギのように蠢いている。ぐもった様な声も聞こえた。
──この声は……。
「アシュトス⁉︎ どうして……?」
物音の正体はアシュトスだった。格好から推測するに、恐らく転移魔法で飛ばされたのだろう。灰色の外套が捲りあがり、大変なことになっていた。チューリップを逆さにしたような感じだ。
「……ロイドに飛ばされたんだ」
「何ですって⁉︎」
──兄様は何を考えているの⁉︎
今のアシュトスは王女の婚約者だ。いや、アシュトスは今日遠征から帰ってきたはずだから、まだ婚姻の届けにサインはしていないのかもしれないが、でも、それでも、とりあえず私と二人きりになるのは相当まずい。王家から不貞を疑われたらウチはいっかんの終わりだ。
「まずいよ、アシュトス! 私と二人きりになるとか……」
言い方は悪いが、ラードリー家から手切れ金も貰ったのだ。私は額に汗をかきながら首を横に振る。
一般的な貴族同士の結婚なら、不貞なぞあってないようなものだが、アシュトスは違う。王女の降嫁がほぼ決まっているのだ。王家の人間を娶るのに、浮気を疑われるような真似をするのは相当まずいだろう。下手するとウチが罪に問われてしまう。
「殿下とは結婚しない」
頭に絡みついていた外套をなんとか脱いだアシュトスはきっぱりとそう言い放った。
いや、リリアンヌと結婚しないとか。そんなことを真剣な顔をして宣言されてもどうしようもない。
「そんなの無理だよ……!」
「無理じゃない! 俺を信じろ!」
──無理だ。
王女の降嫁を断った男の話なんか今まで聞いたことがない。たしかにリリアンヌは男運が悪いのか、この三年間で何人か許嫁が死んでいる。でも彼らは皆貴族の次男三男で、兵役義務があった。慣れぬ戦場で疫病に罹ったり、魔族の手に落ちたと聞いている。
今は戦乱の世だ。本来城に駐在しているはずのアシュトスが、毎月のように遠征しなくちゃいけない戦況なのだ。
そう、王女の降嫁は本人が死ななきゃ回避できないのだ。
「リリアンヌ王女殿下の降嫁を断ったりなんかしたら、ラードリー家もウチも終わりだよ⁉︎」
「終わりにならない。ロイドとも話し合ったんだ」
「決裂したから飛ばされたんでしょ⁉︎」
兄はたしかにリリアンヌとアシュトスの結婚に難色を示していた。しかし兄はスアレム家の跡取りで、もうすぐ父親になるのだ。家の取り潰しの原因になりかねない提案を彼にするとは思えない。
「転移させられたのは、また別の要因でだ。エイサ、お前と話をしろと言われたんだ」
「私はもう、アシュトスと話すことなんか無いよ」
もう婚約破棄したのだ。私はもう、アシュトスとは何の関係もない。
長年、アシュトスのことは家族だと思ってきたけど、とんだ思い上がりだった。紙切れ一枚で関係が無くなってしまう。そんな脆い絆しか無かった。その事実が悲しくて虚しくて、受け入れられなくて。毎日アシュトスのことばかり考えていた。
彼の目を見ることができなくて。気がついたら、ぐぐっと両肩を掴まれていた。骨がきしむような音がして、「ひっ」と小さく声を出してしまった。
これはとてもまずい状況かもしれない。
すぐ隣の部屋は寝室だ。
「わっ!」
彼の手から逃れようとして、その場に尻餅をつく。体勢を大きく崩したところに、覆い被さられてしまった。
「アシュトス!」
どうも様子がおかしい。私の言葉に逆上したにせよ、アシュトスが私を押し倒すなんて。
よく見れば、彼の目には古代文字が浮かび上がっている。青白い光を放つ、魔術の文様。
──兄様め、余計なことを……。
私の部屋に転移させるついでに、私を襲うような術をかけたのだろう。
帰ってきたら……絶対殴る。
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