天使と悪魔が恋に堕ちて

舞々

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第八章 天使になった悪魔

天使になった悪魔③

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 ずっと忌々しい記憶をパンドラの箱に封じ込めて、生きてきた。それを、こんな形で思い出さなければならないなんて……。


 走り続けているうちに、羽音はかつての記憶を徐々に取り戻していった。
 思い出さなくてもよかったものを。元同族の、彼の存在が大きな引き金になったに違いなかった。


 薔薇園から少しだけ走った羽音の目の前には、広大な湖が広がった。
 湖面はいつものように静かに揺れ、その上に静かに雪が舞い降りている。真っ暗な湖全体を見ることはできないが、漆黒の中で豊かな水を湛える湖に、羽音は吸い込まれそうになった。


「このままここに……飛び込んでしまおうか……」
 一瞬そんな考えが頭を過る。
「もう、楽になりたい……」
 羽音は、何かに操られたかのように、ゆっくりと湖へ近付いていく。
 瑞稀を失ってしまった今の羽音には、何も残されてない。


 ――なら、いっそこのまま……。


 羽音が湖に一歩踏み入れれば、その水の冷たさに一気に体温が消え去っていく。水に浸かった足が千切れそうになるほど痛んだ。


「これが死の世界……」
 羽音は一瞬躊躇ってしまう。この果てしなく広がる真っ暗な湖が、とても怖く感じた。
「でも……もしかしたら、今度は人間に生まれ変われるかもしれない……」 
 そんな小さな希望が、羽音の背中を押した。少し湖の奥に進むだけで、身に着けている洋服が一気に水を吸い込みズッシリと重くなる。


「はぁはぁ……」
 羽音は息を荒げ、ゆっくりゆっくりと歩き続けた。ふと空を見上げた時には、既に水は羽音の膝にまで達している。
 空からは、白い蝶々がヒラヒラと舞い降り続けていた。


「クリスマス……楽しみだったな……」


 ポツリと呟いても、羽音の小さな声など、夜の湖に吸い込まれていった。
 頭を過るミセス・サラやミスター・レン、それにミスター・ハルの笑顔。少しだけ後ろ髪を引かれたけど、今の羽音には生きる気力すら残されていなかった。


「神よ、お許しください」


 不思議なことに涙は止まり、気持ちは落ち着いている。
 久しぶりに、羽音は穏やかな気持ちになっていた。


「瑞稀……さよなら……」


 どんどん体温は奪われていき、少しずつ意識が遠退いていく。
 体中が、まるで刃物で切り裂かれるように痛かったのに、少しずつその感覚が消えて何も感じなくなっていった。


「さよなら」


 羽音の体から全ての力が抜け落ちようとした瞬間……。


「羽音‼」
 温かく、そして頼もしい腕に抱きかかえられた。
「……え……?」
「何をしてるんだ貴方は⁉ 死ぬ気か⁉」
 そのまま羽音は横抱きにされ、今まで必死に歩いてきた方とは逆の、岸の方へと連れて行かれてしまう。


「嫌だ! 嫌だ! そっちに連れて行かないで! もう、もう生きてる意味なんかない!」
「黙って……黙っててください。俺は、絶対に貴方を死なせはしない」
「瑞稀……」
 勢いよく水を掻き分けて、瑞稀は陸を目指す。
 こんなに寒いのに、余程興奮しているんだろう……瑞稀の体は火照っている。その獣みたいに荒い呼吸に、羽音は思わず息を呑んだ。


「俺は、貴方が何者だって構わない」
「…………」
「たとえインキュバスだとしても……俺は貴方を愛しています」
 その言葉に、羽音は言葉を失い目を見開いた。


 ──今、何て言ったの……?


「ただ生きて、俺の傍で笑ってくれさえすればなんでもいい」
「瑞稀……」


 瑞稀のその言葉に、羽音は全て救われた気がした。


 自分が好きでもない相手と契ることができず、苦しんだインキュバスだった自分。片羽をもぎ取られながらも、必死に教会を目指した自分。生来受けた血を捨てて、それでも、誰かを愛し、誰かに愛されたいと望んでいた自分。
 その全てを受け入れてもらえたような気がして、嬉しくてが仕方がなかった。


「うっ……っぅ……ヒック……ごめ、ごめんなさ……うぅ……ごめんなさい」


 その瞬間、堰を切ったように羽音の大きな瞳から涙が溢れ出す。羽音は、瑞稀にしがみつき、子供のように肩を揺らして泣きじゃくった。


「ヒック、ヒック……瑞稀……ごめんなさ……ごめんなさい……嫌いにならないで…… ずっとずっと、好きでいて……うっ、うぅ……」
「大丈夫です。貴方が嫌だってくらい、ずっとずっと好きでいます」


 気付いた時には、羽音は瑞稀に抱えられたまま陸の上にいた。
 まだ自分は生きているんだ……そう感じた瞬間、水の冷たさに改めて気づいて体が震え出す。 
 そんな羽音を、瑞稀はギュッと抱き締めてくれた。

 
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