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終電までの恋
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終電までの恋
残業を終えて会社を出ると、もう夜の十時を過ぎていた。
金曜日の夜のオフィス街は、どこか解放感と疲労が入り混じった空気に包まれている。
人の波を抜けながら、私は自然と駅前の小さな喫茶店へ足を向けていた。
ガラス越しに見える店内。いつもの席に、先輩はすでに座っていた。
薄いブルーのワイシャツを着て、ネクタイを少し緩め、湯気の立つコーヒーカップを手にしている。
その姿を見つけただけで、胸が熱くなる。
「遅くなりました」
と席に着くと、先輩は目を細めて笑った。
「残業、お疲れさま」
それだけの言葉なのに、なぜだろう。
他の誰に言われるよりも、体の奥に沁みていく。
こうして、毎週金曜の終電までの一時間だけ。
私と先輩は、この喫茶店で会うようになっていた。
最初はたまたま駅で会い、流れで入っただけだったのに、いつしか習慣になっていた。
——習慣。
でも、私にとってはそれ以上だった。
「異動の話、聞いたよ」
コーヒーを一口飲んで、先輩がぽつりと口にする。
心臓が跳ねた。
来月から私は別の支社へ移る。通勤経路も変わり、この喫茶店で会うことはなくなる。
「……はい。最後の金曜、です」
笑おうとしたけど、うまくいかなかった。
喉が詰まって、熱い液体を流し込んでも苦しさは消えない。
「来週から、ここには来ないんだね」
先輩の声は、驚くほど静かだった。
淡々としているのに、胸に突き刺さる。
その一言で、私の心にかけていた鍵が壊れた。
本当はずっと言いたかった。
会いたいと。好きだと。もっと近づきたいと。
けれど、同じ部署の先輩後輩という関係が、それを許してはくれなかった。
だからこそ、せめて終電までの一時間だけでも。
名前を呼び、笑い合い、仕事以外の話をできる時間が、私にはかけがえのないものだった。
——それが、終わってしまう。
「……先輩」
声が震えた。
彼はゆっくりと私を見つめ、何も言わずに待っている。
「私、ほんとは……」
言葉の続きは、もう抑えきれなかった。
「先輩のことが好きなんです」
沈黙が落ちた。
心臓の音がやけに大きく響く。
先輩は目を細め、やがて小さく息を吐いた。
「俺も……抑えてたんだよ」
そう言って、テーブルの下で私の手を強く握った。
その温もりが一気に体に広がり、涙が溢れそうになる。
気づけば私は、彼に連れられて店を出ていた。
終電まで、まだ三十分ある。
人気のない路地に入ると、先輩は急に立ち止まり、私を壁際に追い詰めるように立った。
街灯の明かりが彼の横顔を照らす。
見たことのない、真剣な眼差し。
「……少しだけでいい。触れてもいいか」
答えるより先に、唇が重なった。
熱く、強く、息が詰まるほどのキス。
喉の奥から洩れる声を、彼の舌が塞ぐ。
「ん……先輩……」
背中に回された手に、逃げ場をなくされる。
スーツ越しに感じる彼の体温。
これまで抑えていた想いが、一気に解き放たれていく。
「好きだ……ずっと、言いたかった」
耳元で囁かれた声に、体が震える。
彼の指が私のブラウスのボタンをそっと外し、鎖骨をなぞった。
冷たい夜風と、熱い彼の手。
二つが交じり合って、理性が遠のいていく。
「こんなところで……ダメです」
必死に声を絞り出しても、拒絶にはならなかった。
むしろ、自分でも驚くほど、彼を求めてしまっていた。
先輩は深く息を吐き、私の額に口づけた。
「ごめん。……終電、行こうか」
熱を帯びたまま繋いだ手。
改札に向かう道のりは、これまでで一番短く感じた。
改札前で立ち止まり、彼が小さく笑った。
「また……会えるよな」
「……はい」
本当は、わからない。
来週からは別々の道を歩く。
でも、今だけは信じたかった。
終電のベルが鳴り、私は振り返らずに駆け込んだ。
窓越しに見えた彼の姿が、夜の街に溶けていった。
その夜、胸の奥に残った熱は、終電が運んでくれるはずの「日常」に戻っても、消えることはなかった。
——金曜日の一時間。
終電までの恋は、きっとこれからも、私の中で続いていく。
残業を終えて会社を出ると、もう夜の十時を過ぎていた。
金曜日の夜のオフィス街は、どこか解放感と疲労が入り混じった空気に包まれている。
人の波を抜けながら、私は自然と駅前の小さな喫茶店へ足を向けていた。
ガラス越しに見える店内。いつもの席に、先輩はすでに座っていた。
薄いブルーのワイシャツを着て、ネクタイを少し緩め、湯気の立つコーヒーカップを手にしている。
その姿を見つけただけで、胸が熱くなる。
「遅くなりました」
と席に着くと、先輩は目を細めて笑った。
「残業、お疲れさま」
それだけの言葉なのに、なぜだろう。
他の誰に言われるよりも、体の奥に沁みていく。
こうして、毎週金曜の終電までの一時間だけ。
私と先輩は、この喫茶店で会うようになっていた。
最初はたまたま駅で会い、流れで入っただけだったのに、いつしか習慣になっていた。
——習慣。
でも、私にとってはそれ以上だった。
「異動の話、聞いたよ」
コーヒーを一口飲んで、先輩がぽつりと口にする。
心臓が跳ねた。
来月から私は別の支社へ移る。通勤経路も変わり、この喫茶店で会うことはなくなる。
「……はい。最後の金曜、です」
笑おうとしたけど、うまくいかなかった。
喉が詰まって、熱い液体を流し込んでも苦しさは消えない。
「来週から、ここには来ないんだね」
先輩の声は、驚くほど静かだった。
淡々としているのに、胸に突き刺さる。
その一言で、私の心にかけていた鍵が壊れた。
本当はずっと言いたかった。
会いたいと。好きだと。もっと近づきたいと。
けれど、同じ部署の先輩後輩という関係が、それを許してはくれなかった。
だからこそ、せめて終電までの一時間だけでも。
名前を呼び、笑い合い、仕事以外の話をできる時間が、私にはかけがえのないものだった。
——それが、終わってしまう。
「……先輩」
声が震えた。
彼はゆっくりと私を見つめ、何も言わずに待っている。
「私、ほんとは……」
言葉の続きは、もう抑えきれなかった。
「先輩のことが好きなんです」
沈黙が落ちた。
心臓の音がやけに大きく響く。
先輩は目を細め、やがて小さく息を吐いた。
「俺も……抑えてたんだよ」
そう言って、テーブルの下で私の手を強く握った。
その温もりが一気に体に広がり、涙が溢れそうになる。
気づけば私は、彼に連れられて店を出ていた。
終電まで、まだ三十分ある。
人気のない路地に入ると、先輩は急に立ち止まり、私を壁際に追い詰めるように立った。
街灯の明かりが彼の横顔を照らす。
見たことのない、真剣な眼差し。
「……少しだけでいい。触れてもいいか」
答えるより先に、唇が重なった。
熱く、強く、息が詰まるほどのキス。
喉の奥から洩れる声を、彼の舌が塞ぐ。
「ん……先輩……」
背中に回された手に、逃げ場をなくされる。
スーツ越しに感じる彼の体温。
これまで抑えていた想いが、一気に解き放たれていく。
「好きだ……ずっと、言いたかった」
耳元で囁かれた声に、体が震える。
彼の指が私のブラウスのボタンをそっと外し、鎖骨をなぞった。
冷たい夜風と、熱い彼の手。
二つが交じり合って、理性が遠のいていく。
「こんなところで……ダメです」
必死に声を絞り出しても、拒絶にはならなかった。
むしろ、自分でも驚くほど、彼を求めてしまっていた。
先輩は深く息を吐き、私の額に口づけた。
「ごめん。……終電、行こうか」
熱を帯びたまま繋いだ手。
改札に向かう道のりは、これまでで一番短く感じた。
改札前で立ち止まり、彼が小さく笑った。
「また……会えるよな」
「……はい」
本当は、わからない。
来週からは別々の道を歩く。
でも、今だけは信じたかった。
終電のベルが鳴り、私は振り返らずに駆け込んだ。
窓越しに見えた彼の姿が、夜の街に溶けていった。
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終電までの恋は、きっとこれからも、私の中で続いていく。
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