心のすきまに【社会人恋愛短編集】

彼の退職メールは、誰よりも短かった

彼の退職メールは、誰よりも短かった


　朝、いつものようにパソコンを開くと、社内メールが一斉に更新されていた。
　定時前の静かなオフィスに、通知音がひとつ、またひとつと鳴り響く。

　その中で、一通のメールに目が留まった。
　――件名は「退職のお知らせ」。

　他部署の彼からだった。
　普段、言葉を交わすことはほとんどなく、業務上の連絡だけで済ませていた関係。
　だけど僕は、ずっと彼のことを意識していた。密かに、でも確かに。

　メールを開く。内容は、想像通りの事務的な文面で、全社員に向けた短い挨拶。
　「このたび、一身上の都合により退職することになりました。皆さまお世話になりました。」

　そして、僕の目は自然と、文末の行に釘付けになった。

　――「ありがとう」

　ただそれだけだった。

　全社員宛のメールの最後に、僕宛だけが受け取ることになった一言。
　この短い言葉の奥に、どれだけの思いが込められているのだろう。
　読み返すたびに、胸の奥が締めつけられる。


　昼休み、彼が座っていた席を思い出す。
　隣に座ることもなく、目が合うことも少なかった。
　でも、コピー機の前で偶然すれ違った瞬間、背中をほんの少し押されたような気持ちになった。
　あの瞬間の柔らかい体温、手に触れそうで触れられなかった距離感……

　思い出すと、胸がざわつく。
　そして、自然とメールの一行を思い返す。

　――ありがとう

　この二文字に、僕たちの全てが詰まっているようで。
　彼の沈黙の中に、僕への気持ちの痕跡を探してしまう。


　退勤時間、いつもなら何気なく通り過ぎる廊下を歩く。
　でも、今日は違う。彼がいないオフィスの静けさに、ぽっかりと穴が空いたような感覚が胸を支配する。
　思わず携帯を取り出し、彼に返信する。

　「こちらこそ、ありがとう。お疲れさまでした」

　指先が震える。送信ボタンを押す手が、一瞬止まった。
　あの一言を受け取るだけで、僕の気持ちはあふれ出してしまいそうだった。


　夜、忘年会の席で偶然彼と隣になる夢を見た。
　実際にはもう、社内で彼に会うことはない。
　でも夢の中では、肩が触れ、笑い声が耳に届き、息が混ざる。
　手を握りたくなる衝動を抑えながら、彼の声を聞く。

　「来年も、隣に座れますか？」

　夢の中で、僕は自然に答える。
　「……はい」

　目覚めると、枕元にはまだ彼からのメールの一行が残っているような気がして、心臓が早鐘を打つ。


　退職メールの翌日、オフィスはいつも通りに動き出す。
　でも、僕にとっては空気が違う。
　目に入る景色すべてに、彼の不在を感じる。
　コピー機の前、窓際の席、廊下の角――どこにも彼はいない。

　それでも、僕は彼のことを想う。
　あの短い「ありがとう」に込められた、言葉にならない感情を、心の奥で抱きしめながら。

　夜、家に帰ると、思わずスマホを取り出す。
　何度も何度もメールを読み返す。
　そして、ひとり静かに息を吐く。

　「ありがとう、ね……」

　胸の奥に温かさと切なさが同時に広がる。
　誰にも言えない気持ちを抱えながら、僕は彼との日々をそっと胸に刻む。
　そして、いつかまた、どこかで会えることを信じて。

　あの一行だけのメールが、僕たちの最後の会話だったとしても。