6 / 10
偵察
しおりを挟む
初音はひっそりと垣根の隙間を覗き込んだ。向こう側は祝勝会の会場で、大勢が宴席を楽しんでいる様子がうかがい知れた。
(どれが『彼』なの?)
勢いで飛び出してきてしまったけれど、初音は夫である章継(あきつぐ)の顔を知らない。着物や周囲との関係で割り出そうとしても、こう距離があっては誰も彼も同じに見える。
その時、すぐ近くで高い笑い声が響いた。視線を向ければ、男女の一団が楽しげに騒ぎながら目の前を横切っていく。
おもしろくないのは初音だ。
「……何よ」
肝心の探し人は見つけられず、苛立つ気持ちをぶつけるように小さくつぶやくと、今しがた通り過ぎていった一団の中で男がひとり、振り返った。
垣根越しに目が合ってしまい、初音は自分のうかつさを悔やむ。男は初音の姿に気づくと、へらりと笑った。深酒のためだろう、男の目の縁は赤らんでいる。無遠慮な視線に、足がひとりでに後退(あとじさ)る。
「おい、そこの。こちらへ来たらどうだ。一緒に飲もう」
親切か下心がわからないが、酔っ払いを相手にするのは遠慮したい。
「いえ、結構です!」
初音は踵を返すと、一目散に駆け出した。足がもつれんばかりに駆ける。息が切れ、肺は痛み、胸が苦しい。
石灯籠(いしとうろう)を追い越して、その陰に隠れるように背中をつける。肩を大きく上下させながら振り返ると、遠くにぼんやり宴の灯りが灯っているのが見えた。
声をかけてきた男の姿はない。あんなに酔っていては走ることも難しいだろう。ともかく危機が去ったことに安堵する。すっかり上がってしまった息を整えるために肩をあえがせながら、周囲を見回す。
見覚えがない。どうやら行きに通った道筋とは違う方向へ来てしまっているようだ。一瞬戻ろうかと考え、すぐに思い直す。また誰かに見つかっては面倒だ。
庭伝いに歩いていけば、どこかで知っている場所に出るだろう。そう考えて、初音は歩き出した。成果も得られずすごすごと帰ることになったのは悔しいが、あの場で騒ぎになるよりましだ。
しばらく行くと、ふわりとぬるい風に乗って、甘酸っぱい香りが漂ってきた。独特の甘い芳香を大きく吸い込む。故郷の屋敷の庭でもこの時期よく嗅いだ、なじみ深い香りだった。
誘われるように、足が匂いの発生源へと向く。
「あった」
杏の木。橙(だいだい)色の実が鈴なりに生(な)って、ほの甘い芳香を放っている。目の前にどうぞ食べてと言わんばかりに大きな実が下がっているのを見て、ひとりでに口の中に唾液がにじみ出した。
左右に目線を走らせて誰もいないのを確認すると、初音は素早く実をもいだ。
手のひらに乗る大きさのそれを袖口で軽く拭い、まん丸に太った果実にかぶりつく。ざらついた皮に歯を立てると、締まった果肉は舌の上に酸味とほのかな甘みを伝えてくる。
(まだ完熟には早いけど、おいしい)
二口三口とかじり取り、最後に種まで口の中に入れてしまう。行儀が悪いと叱る人間がいないのをいいことに、種を口の中で転がす初音の背後にそっと近づく影があった。
(どれが『彼』なの?)
勢いで飛び出してきてしまったけれど、初音は夫である章継(あきつぐ)の顔を知らない。着物や周囲との関係で割り出そうとしても、こう距離があっては誰も彼も同じに見える。
その時、すぐ近くで高い笑い声が響いた。視線を向ければ、男女の一団が楽しげに騒ぎながら目の前を横切っていく。
おもしろくないのは初音だ。
「……何よ」
肝心の探し人は見つけられず、苛立つ気持ちをぶつけるように小さくつぶやくと、今しがた通り過ぎていった一団の中で男がひとり、振り返った。
垣根越しに目が合ってしまい、初音は自分のうかつさを悔やむ。男は初音の姿に気づくと、へらりと笑った。深酒のためだろう、男の目の縁は赤らんでいる。無遠慮な視線に、足がひとりでに後退(あとじさ)る。
「おい、そこの。こちらへ来たらどうだ。一緒に飲もう」
親切か下心がわからないが、酔っ払いを相手にするのは遠慮したい。
「いえ、結構です!」
初音は踵を返すと、一目散に駆け出した。足がもつれんばかりに駆ける。息が切れ、肺は痛み、胸が苦しい。
石灯籠(いしとうろう)を追い越して、その陰に隠れるように背中をつける。肩を大きく上下させながら振り返ると、遠くにぼんやり宴の灯りが灯っているのが見えた。
声をかけてきた男の姿はない。あんなに酔っていては走ることも難しいだろう。ともかく危機が去ったことに安堵する。すっかり上がってしまった息を整えるために肩をあえがせながら、周囲を見回す。
見覚えがない。どうやら行きに通った道筋とは違う方向へ来てしまっているようだ。一瞬戻ろうかと考え、すぐに思い直す。また誰かに見つかっては面倒だ。
庭伝いに歩いていけば、どこかで知っている場所に出るだろう。そう考えて、初音は歩き出した。成果も得られずすごすごと帰ることになったのは悔しいが、あの場で騒ぎになるよりましだ。
しばらく行くと、ふわりとぬるい風に乗って、甘酸っぱい香りが漂ってきた。独特の甘い芳香を大きく吸い込む。故郷の屋敷の庭でもこの時期よく嗅いだ、なじみ深い香りだった。
誘われるように、足が匂いの発生源へと向く。
「あった」
杏の木。橙(だいだい)色の実が鈴なりに生(な)って、ほの甘い芳香を放っている。目の前にどうぞ食べてと言わんばかりに大きな実が下がっているのを見て、ひとりでに口の中に唾液がにじみ出した。
左右に目線を走らせて誰もいないのを確認すると、初音は素早く実をもいだ。
手のひらに乗る大きさのそれを袖口で軽く拭い、まん丸に太った果実にかぶりつく。ざらついた皮に歯を立てると、締まった果肉は舌の上に酸味とほのかな甘みを伝えてくる。
(まだ完熟には早いけど、おいしい)
二口三口とかじり取り、最後に種まで口の中に入れてしまう。行儀が悪いと叱る人間がいないのをいいことに、種を口の中で転がす初音の背後にそっと近づく影があった。
0
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。
真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。
親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。
そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。
(しかも私にだけ!!)
社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。
最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。
(((こんな仕打ち、あんまりよーー!!)))
旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁
瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。
彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる