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外伝2黒神の大祭典編
外伝2黒神の大祭典編-3
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すると伊丹は肩を落として「実際は中止になってしまいましたけどね」と答え、江田島は満足げに「やはり」と応じた。
「だから今回は立ち上がろうとしないんでしょうね?」
「えっと……今回って何のことです?」
「自衛隊祭の催しの一つとして計画されていた結婚式。日本と特地の文化の違いを皆に示して相互理解の材料にしようという意図は、大変に素晴らしいものだと思いました。その実結婚式の挙行が目的で、文化の比較がどうとかいう理由が後付けだったとしても、我が国と帝国との懸案となっていた問題を解決に導くよい方法だと思いました。なのに中止になってしまうという話を聞きましたが?」
「お耳が早いですね」
「それはもちろん、私は実行委員長ですから。一応の事情も聞き及んでいます」
「なら知ってるんでしょう? ボーゼスさんがやる気をすっかりなくしました。狭間陸将からも、許可の条件に当人達の納得と了解を得ることと言われましたから、いくら周りがやる気になってもどうしようもないんですよ」
江田島は瞑目して首を振った。
「ディアボ殿下には困ったものです。彼はこの催しがこのアルヌスにどれほど大変な混乱をもたらすかを熱心に説いたようですね。おそらくは、ご自身が担う役割の重さを皆から高く評価されたかったのでしょう。それに合わせて今以上の権限も欲していた……というところですか?」
まるでその場で見ていたような江田島の物言いに伊丹は驚いた。
「なんでそんなことが分かるんですか?」
「彼は非常に分かりやすい野心家ですからねぇ。ただ今回ばかりはいささか度が過ぎてしまった。困難を言い過ぎて、ボーゼスさんのやる気そのものを挫いてしまいました。皆から白い目で見られて肩身の狭い思いをしているそうです」
「そうなんですか?」
頷きつつも伊丹は、一体どうやってそこまで把握したんだろうとか思ったりした。
「ボーゼスさんは、ナッシダという七五三のような催しも、一番簡単なもので済ませると言っている。そうですね?」
「ええ、まぁ」
「問題は貴方です。貴方は本人がそう言ってるんだからまあいいか、と思っている。……違いますか?」
「ええまぁ、そんな感じですけど」
「やはり貴方は薄情者だ」
「でも、どうしろと?」
「そこで『どうしろと』という言葉が出てくる段階で、ボーゼスさんというご婦人が、貴方にとっては『どうでもよい他人』に分類されていることがよく分かります。この式が貴方の庇護下にある女性達のためのものだったら貴方のことだ、きっと万難を排して催しを実現する方向にもっていったんじゃないかと私は思うんですがねぇ」
「そうなんですか?」
伊丹は他人事のように尋ねた。
「ええ、そうですとも。しかし私も仮称・自衛隊祭の実行委員長職を仰せつかった身です。このままにしておくことも出来ません。少しばかりお話ししたいのでご同道いただけますか?」
「はい?」
「有り体に申し上げれば……お前に話があるから、ちょっと面貸せ。という内容のことを、上品かつ丁寧な言葉で述べているのです。当然ながら貴方に拒否権はありませんよ。いいですね」
江田島の態度は丁寧ではあったが、有無を言わせぬものが含まれていた。
* *
アルヌスの丘は頂上を含む丘の中腹以上がおおむね陸上自衛隊の区画、そして中腹から滑走路のある地域が航空自衛隊の区画とみなされている。だが、実際には一般隊員がほとんど知らない第三の区画、海上地区というものが密かに設置されていた。
それは閉門騒動で多くの隊員が帰ってしまったために使われなくなった建物の片隅にあった。
江田島が「ここです」と指さした廃墟に似た静けさの漂う建物を、伊丹は仰ぎ見た。
「へぇ、ここが海上地区? 初めて来ました」
「海上地区と言ってもこの建物の一角に居候させていただいているに過ぎません」
「江田島さんはずっとお一人でここに勤務されているのですか?」
「いいえ。現在特地には海上自衛官は私の他にもう一人おります。今は出かけておりますが、もうしばらくしたら戻って来るでしょう。貴方に紹介してさしあげることが出来れば良いのですが。もしかすると難しいかも知れませんねえ」
「では、また別の機会にでも紹介して下さい」
「はい。……ここが私の執務室です」
江田島がドアを開けてくれたので中に入る。
一歩、踏み入れた途端に目に飛び込んで来たのは魔窟の光景であった。
「こ、これは……」
おそらくは一般的な中隊長室であっただろうその部屋には、所狭しと帆船の模型が並べられていたのである。
これと似た雰囲気は梨紗の部屋、あるいは同人仲間の部屋を訪問した時にも感じた。
並べられているのが球体関節人形か、それともフィギュアモデルかの違いでしかない。つまりこの部屋もまたオタクの部屋なのだ。
伊丹は触らないように細心の注意を払いつつ、ぎゅっと顔を近付けて帆船模型を観察した。
よく見るとプラモデルのようなキット臭がない。おそらくは部品から帆に至る全てが自作されたものなのだろう。接着剤も、もしかするとニカワを炒って作っているのかも知れない。
「これって、もしかして江田島さんが作ったんですか?」
魔窟と表現したが、その部屋は江田島の気性を表すように、様々な工具や材料がきちんと整理整頓されていた。
帆船模型もよくよく見ると秩序を持って整然と並べられている。それが雑然としているように見えてしまうのは、数があまりにも多いからだ。
江田島の答えは「暇なもので手慰みに作ってみました」というものであった。
「器用なんですね」
「もともとの趣味なので。貴方が同人誌と呼ばれる本を蒐集して読みふけるのを好まれるように、私はこうした帆船を作って大海原を疾走する光景を思い浮かべることに悦楽を覚える性質なのです。これはコロンブスの乗ったサンタマリア号、こちらは大英帝国のビクトリー号。どれも美しい姿だとは思いませんか? 艫のあたりの曲線が女性の臀部を思わせる艶めかしさです」
「す、すみません。俺はそんな風には感じられなくて……」
「いえ。良いのです。趣味の違いとはそういうものですから。実際私には貴方の集めた本は少しも分かりません。紙に線で描かれた女性の姿には、どうもドキドキハァハァ出来ないのです。その代わり私は、風を受けた純白の帆が舞い上がる光景に、あたかもマリリン・モンローのスカートが地下鉄の暴風で舞い上がる映画のワンシーンを見た時のような胸の高鳴りを感じてしまいます」
「江田島さん。あんたは変態だ。しかも相当の上級者かも……」
すると江田島はニヒルに微笑んだ。
「いえいえ、その程度では初心者も良いところですよ。真の上級者を名乗るならば、船底に溜まったビルジに軽く触れて、『なんだ、もうこんなに濡れちゃっているじゃないか。いけない子にはお仕置きだ……』と、艦に向かって優しく囁くくらいでなければ。実際、私が指揮していた艦は水回りの締まりが悪い娘でしてね、随分と手を焼かされました。しかしそこがまた愛おしくてね。手放すことになった時は涙が出ました」
ビルジとは「あか水」と訳される船底に溜まった海水や廃液等のこと。海に浮かんでいる以上、漏水その他の原因で、船底にはどうしてもこれが溜まってしまうのである。
「お見それしました。これより貴方を艦長と呼ばせて下さい」
伊丹は江田島に畏敬の念を覚えて敬礼した。
なにしろここにいるのは、クリエイター級のオタクなのだから。
オタクには分野、程度の差はあれど、上下や主従の関係は存在しない。物語の執筆者と読者との関係に、どっちが上でどっちが下かという議論を持ち込むのは全く無意味で不毛なものなのだ。
しかしながら伊丹の胸の内には、イラストを描く、フィギュアや模型を作る、マンガを描くクリエイターへのオマージュがある。そうした才能への賛美と称賛を惜しもうとは決して思わない。
自分の想いを高じさせてここまで精巧な帆船模型を作り上げてしまう偏執狂的情熱は、分野は違えども確かに尊敬に値するものなのだ。
江田島は照れを隠そうとするかのようにはにかんだ。
「いえいえ、どういたしまして。私からすれば、貴方の方こそ貴族的精神を持つ素晴らしい人だ。文化を保護、普及するためにあのような施設を作り上げてしまうのですからね。あそこに収蔵された本の作者達がこのことを知ったら、きっと誇らしく思うことでしょう。私こそ貴方のことをイタミ卿と敬意を込めて呼ばせていただきますよ」
二人の男はこうして互いを認め合ったのである。
「艦長は本当に船が好きなんですね?」
「はい。とても好きです」
「でもそれだと寂しいでしょう? 近くに海のないところなんかに派遣されて」
「ええ。任務だから致し方ないとは言え、とても寂しく感じますよ。出来ることならば艦が欲しいですね」
伊丹の耳には江田島のこの一言が、独身男が口にする『彼女が欲しい。嫁さんが欲しい』という切実な嘆きに似て聞こえたのだった。
「さて、伊丹二尉」
江田島が改まった面持ちで伊丹の階級を呼んだ。どうやら本題が始まったらしい。
「なんでしょう二佐?」
「部隊を指揮する者として、大切なことは何だと思いますか?」
「教範的にはいろいろと箇条書きされてますけど……」
それを口頭試問しているのかと問う意味で伊丹は言葉尻を濁した。すると江田島は自ら答えを示した。
「わたくしは物事を成し遂げる断固とした意志力だと思います」
江田島はそう言いながら部屋の片隅に置かれていた船の模型を取り上げ、伊丹に手渡した。
「あれ? これはどっかで見たような」
伊丹はその姿を見た瞬間、何か記憶の琴線に触れられたような感触がした。
「分かりますか? それは貴方が碧海で乗った船をモデルにしたものなんですよ」
碧海とはこの特地の海である。そして、このヒューゴ号は伊丹達がピニャと共に乗ったこの世界の帆船であった。
「よくぞ、こんなものの模型を作れましたね。見てきたんですか?」
「残念ながら、わたくしはこの特地の海すら見たことがないのです。なので様々な方面から情報を集め、整理し、構造的にそうであろうなと思われる姿を再現したに過ぎません。貴方が気が付いて下さったおかげで、わたくしの推測が正しかったことが証明されました。どうもありがとう」
「どういたしまして。この船には大変酷い目に遭わされましたから、忘れられないですよ。こっちに海自の護衛艦が一~二隻もあれば、あんな目に遭うこともなかったんですよねえ」
「そうですかねぇ?」
「そうですかねって、護衛艦なら座礁したりしないでしょ?」
「いえいえ。護衛艦をこちらに持ち込んでいても、きっと役に立たなかったと思いますよ」
「どうしてです?」
「船を安全に航行させるには精密な海図と、現在位置を測定する技術が不可欠だからです」
「海図と現在位置の測定技術……ですか?」
「そうです。私の調べたところ、このヒューゴ号の喫水はおよそ二・五メートル。つまり貴方が帝国のピニャ・コ・ラーダ殿下とあの海に放り出されたとき、この船は水面下二・五メートルにある何かに接触したということです。岩礁か、はたまた沈没船か……相当に浅い海だったようですね」
「っと、はい。水面からも海底が見えましたから」
「しかしながら我が海上自衛隊の保有する護衛艦の多くが喫水四~五メートル。あぶくま型で三・八です。その海を航行することは不可能とは言いませんが、普通の神経を持つ船乗りならば、出来るだけ避けたいと思うことでしょうねえ」
「えっと……それなら深い海を行けば良いんじゃないですか?」
「しかし、どこに行けばその深い海があるのでしょう? 事前に情報があればいいんですが」
「あっ……」
「そう。それが海図なのです。海上自衛隊の艦船がこの特地で活躍するには、まずこの特地の海のことを詳細に調べ上げなければなりません。そして海図を作るには、今自分がどこにいるか詳しく知る方法が必要です。この技術がないと遭難して迷子になってしまいます」
「俺もどの方角にボートを漕いで良いのか分からなくて苦労しました。アクアスのみんなに会えなかったらどうなっていたか……」
「体験した人は話が早いですね。そうです。この世界には電波灯台も、GPSも無いんです。天測しながら進むしかありませんが、北極星に相当する星がこの特地の夜空にはありませんし、天文年鑑の編纂にも時間が必要です。なので、このことを解決しないまま海上自衛隊の艦船をこの世界で運用することは出来ないのです」
「はぁ、分かりました」
「分かって下さいましたか、この世界に護衛艦を持ってきてもすぐには役に立たないということを?」
「ええ。でも、指揮官の素養の話とこの船の話とどういう関係が?」
伊丹はそう問いつつ、江田島の模型を棚の上に戻した。
「こんな事情なので、この世界の船がAという海域からBという海域に赴く時の困難は、想像に難しくありません。水面下に何があるか分からないという問題。気象衛星もないので天候の予測も出来ない。海流がどうなっているかも分からない。未知の海棲生物や海賊といった危険もあります。しかしそれでもこの世界の船乗り達は大海原に乗り出し、目的地に向かいます。そんな船を指揮する船長に求められる素養とは、怒濤のように押し寄せて来る困難や障害を一つずつ片付けて、断固として突き進む意志力なのです」
「はあ……」
「意志力というのは、よく『精神力』とか『根性』といったものとはき違えられます。大日本帝国陸軍、海軍時代、物量の不足を補うために精神力という要素が過度に持てはやされたからでしょう。しかしながら、当時の人々は『精神力』という言葉を口にしていながら、それをきちんと理解していなかった。いえ出来なかった。精神力を、不可能という道理を押し曲げる力だと考えていたからです」
「はぁ……」
「伊丹二等陸尉。もし貴方が、年に二回あるという同人誌即売会の当日、交通手段……例えば『ゆりかもめ』が何らかの理由で運休に陥ってしまったら、会場に行くことを諦めますか?」
「とんでもない。何としたって行きますよ。臨海鉄道に変えたり、海上バスもある。急ぐならタクシーでもいいし、最悪の場合は歩いたって……」
「そう。まさにそれこそが意志力です。Aという海域からBという海域に何の準備もなく遮二無二航海に挑むのではなく、周到に情報を集め、海図を拵え、幾重にも準備を重ねて代替手段を確保し、それを用いて障害を乗り越えていく。無理で道理を押し曲げるのではなく、道理の積み重ねによって不可能を突破する抜け道を探す、しつっこさ。粘り強さ。それこそが意志力なのです」
「しつっこさ……ですか?」
「そうです。そしてそのしつっこさを貴方は持っています。なのにどうして今回は、結婚式の挙行を諦めてしまったのですか?」
「そりゃボーゼスさんが諦めちゃったからですよ」
「ではどうしてボーゼスさんは諦めちゃったのですか?」
「そりゃ費用の問題とか、招待客の受け入れとか負担が大変なことが分かって」
「しかし、その二つは問題にならないでしょう? 貴方だって最初、宴会に集まる人たちを泊める場所を確保するために、自衛隊全体の催しまででっちあげたじゃないですか? ナッシダと結婚式にたくさんの人間が集まることが負担になるって言うのなら、それが気にならなくなるくらいに大規模な催しを同時に挙行すれば良いんですよ」
「それが気にならないくらい大規模な、ですか?」
「ええ。自衛隊だけでなく、街全体の大きなお祭りに仕立てます。千人分の飲み代を想像してガクブルしている小心者に、十万人分の請求書を見せつけてやりましょう。そうすれば感覚がマヒして気にしなくなりますよ」
「じゅ、十万人? 春夏の同人誌即売会みたいな規模ですね?」
「リオのカーニバルや徳島の阿波踊りのようなものをイメージしています。街全体で皆を巻き込んで大きく盛り上げるんですよ。名付けて『大、祭、典』です」
02
ロゥリィは神殿で祈っていた。
祈ること、それが信仰の基本である。
まずは、エムロイの栄光を。
次に、戦いに倒れていった者の魂が、新たな生において再び勇猛果敢な戦士となることを。
そして明日の自分が、自分の理想とする存在となるように、と。
「敬愛する我が主、エムロイよ。問う、汝の意志たるや如何に? 我が祈りの言葉、御身の御心に響かせたまわん……」
信仰心にはいくつもの階梯が存在し、祈りの内容もそれに合わせて変化する。
単なる物欲の充足を希う段階から始まって、苦しみからの解放や安堵の希求、さらには自らを高めて神性との合一を目指すものまで。
だが亜神たるロゥリィは既に究極の境地、神性との合一を果たしていた。
ロゥリィがハルバートを振るって戦い狂気の化身となるのは、彼女がエムロイの一部であり、現し身だからだ。だからこそ、肉の身を持ちながらにして神たり得るのである。
だが彼女が望む『愛』への信仰はさらにその向こう側にあった。
エムロイが『狂気』として大雑把にひとまとめにする人間の情動は、利害や損得を度外視した非理性的な心的現象を総括したもので、時にそれは『熱狂』、あるいは『情熱』とも呼ばれる。
ロゥリィはその内に含まれる『愛』という摩訶不思議な感情、情緒、その心を司る神になりたいと願っていた。
その不思議でとてつもなく凄い心の働きを理解し、自分の内に体現すること。それこそロゥリィが信仰の道へと進むこととなった原初の欲求だったのである。
* *
ロゥリィの両親は、今はもう存在しないエデンという王国の下級貴族であった。
爵位制が存在しないエデンでは、貴族というのはいわゆる荘園領主を意味する。大規模な農場をいくつも所有し、強い経済力を持つ者ほど、強い権勢をふるうという、国のありようとしては極めて初歩的な国家体制だったのだ。
そんな中でマーキュリー家は代々独力で農地を開拓して大農場主、そして荘園主となった。
荘園は辺境にあって人口も少なく、豊かとは決して言い難いものであったが、それでも重い労働を農奴に課さずとも、貴族としての面目を保つ分には十分な恵みを約束してくれた。
ところがロゥリィの両親はいささか子だくさんに過ぎた。最終的には五男七女と、十二人もの子供を儲けてしまったため、暮らし向きはいつも汲々としていたのである。
やんちゃな幼い子供の大群は常に喧しく、食事時ともなると食卓は奪い合いに等しい喧噪で包まれた。それを収めるために彼女の両親や召使いが、幾度となく大声を出さなければならなかったほどだ。
しかしながらマーキュリー家の子供達は、父の雑で乱暴ながらも分かりやすい愛情と母のきめ細かな思いやりに包まれて育っていったのである。
ロゥリィがアルヌス協同生活組合に加わったのも、コダ村の子供の面倒を見ようとするレレイやテュカの姿が、彼女の生まれ育った家庭の雰囲気……つまり兄二人姉二人に続く五番目の子供として生まれて面倒を見てもらい、そして七人の弟や妹の面倒を見ながら育った当時のものとよく似通っていたからかも知れない。
マーキュリー家の子供達は、このような幸せな家庭で少しずつ成長していった。
だが子供達が長じてくると、父エドル・エム・マーキュリーはその将来を考えなければならなくなった。
土地は狭く家を継ぐことが出来るのは一人だけ。財産を分け与えることの出来ない子供達には、その暮らしが成り立つようにしてやらなければならないのである。
そのためエドルがしたことは、口減らしも兼ねて十~十二歳になった子供を奉公や修行、あるいは婚姻といった名目で家から出すことであった。
まずは長男が十三歳になったところで、若い国王の小姓奉公に出した。
次男を十二歳で軍司令官の従卒奉公に出し、長女をやはり十二歳で上級貴族の侍女とした。
さらに次女は十一歳で豪商の嫁に出した。
そしていよいよロゥリィの番となった。
彼女も十歳になった時、父から「どうしたい?」と尋ねられ、すぐにとは言わないが考えておくように、と言い含められたのだ。
「ロゥリィ! あんたどこに奉公に出るか決めた? よかったら一緒に奉公しない?」
するとエデンの宰相職を務めるメダイル家に仕えた長女ルイールが、宿下がりで戻ってきて、自分と一緒に働かないかとロゥリィを誘った。
メダイル家当主の奥方は、ルイールが仕えた頃、ちょうど初子の妊娠出産という非常に手の掛かる時期にさしかかっていた。
初めての妊娠出産は何かと不安になるものだ。そのため母の出産と弟妹の世話に慣れたルイールの存在はとても心強く、メダイル家当主や奥方から「お前がいてくれてよかった」という言葉を賜り、侍女ながらメダイル家の屋敷に自分の部屋を与えられるまでになったのである。
「子供の手が離せるくらいになったら、お前も年頃だ。よい家柄の息子を探してきっと嫁入りさせてあげるから安心しなさい」
信頼されたルイールはメダイル家の一族に準じた扱いを受け、マーキュリー家の娘のままだったらとても望めなかったであろう後援の約束まで得た。そんな自分の引きで就職するならば、こうした職場につきものの新参者虐めや、粗略な扱いを受けることもないよと言うのだ。
「でもなぁ、お姉ちゃんと一緒というのはぁ」
だがロゥリィは不満の声を上げた。子守という仕事にいささかうんざりしており、いくらルイールの言葉でも素直に応じられなかったのである。
弟や妹の面倒を見ることが決して嫌いなわけではないが、ロゥリィはもっと別のことに挑戦したいと思っていた。それが何であるかはまだ見えていないが、少なくとも奉公するなら、勤め先は姉とは別にしたいと思っていたのだ。
ルイールはロゥリィの長い黒髪を、自分とお揃いのお下げに編みつつ説得した。
「でもさ、変なところに仕えると大変よ。人間関係とかでさ……ルーチェ家の主人なんて若い娘と見ると片っ端から手を出しちゃって、家の中の人間関係が愛憎渦巻いてしっちゃかめっちゃかなんだってさ。あの家の当主、いつお妾に刺されてもおかしくないって話よ」
「な、なんだって!?」
長女のもたらした噂話に、父エドルは目を剥いた。
ルーチェ家というのはエデンで将軍職を務める新興貴族だ。軍功を積んで成り上がったということもあって、やることなすことが強引で評判も良くない。
だが十三歳という若い国王を戴くエデン王国の政務は、摂政家のメタノール、宰相家のメダイル、そして将軍家ルーチェの三家に牛耳られており、その他の貴族達は傍若無人に振る舞うこの御三家に眉を顰めつつも、黙って見ていることしか出来ないのだ。
そこにあって、ルーチェ家の奥が乱れているという噂は重要であった。もしルーチェ家の当主が愛妾に刺されて死んだりすれば、三家が鼎立することで安定しているエデンの権力構造が激変してしまう。
「お、お前のとこは大丈夫なんだろうな?」
まさかと思うがメダイル家ではそんなことはないだろうなと、エドルは当然の心配をした。
「うちは、大丈夫よ」
「メダイル家はどう大丈夫なんだ? 教えてくれ」
ルイールは、そんな父の姿を見て「心配性ね」と小さく肩をすくめた。
「メダイル家は、奥方様のお母様が世慣れた方でしっかりなさっているからよ。男の人って奥様のご懐妊をきっかけに浮気することが多いらしいんだけどさぁ、奥様の母上がお妾さんを旦那様にあてがって、そのあたりの心配が最初から起きないようにしてたのよ」
「な、なんと……奥方のご母堂がか?」
エドルは感嘆の声を上げた。
「そうよ。すごいでしょ?」
国の乱れ、社会の乱れ、家の乱れ。これらは、一度つくられた序列にそれぞれが我慢出来なくなり、より高い立場を求めるところから始まる。
ルーチェ家の乱れも、要するに男の愛情を奪い合う女達の順位争いなのだ。だがメダイル家はその管理が徹底している。ここまでされたら家の中が乱れるようなことはないだろうと思われた。
「奥方様のお母様って、女傑なのよね。尊敬しちゃう」
ルイールは、そんな風に言ってけらけらけらと明るく笑った。そしてロゥリィに声をかけることにしたのも、そのお妾が妊娠した際にロゥリィがいれば、いろいろと役に立つと思ったからだと言った。
「お、お前って奴は」
エドルは、我が娘がたくましく育ちつつあることを喜ぶべきか、それとも腹黒くなってしまったことを悲しむべきかと頭を抱えた。
だがこの時、ロゥリィの目はルイールの右手に釘付けになっていた。後ろ頭をカリカリと掻く姉の手には、見るも無惨な火傷の瘢痕が残っていたのだ。
「あ、これ?」
ロゥリィの視線に気付いたのかルイールは火傷痕を皆に見せびらかした。すると、まず父母が反応した。
「どうしたんだそれは!?」
「どうしたの貴女!」
「お、おねぇちゃん。それって!」
妹達も集まってきて口々に心配した。だがルイールは誇らしげに胸を張って応えた。
「これはねぇ、名誉の負傷ってやつよ。馬鹿な乳母がさぁ、こともあろうにぐらぐらと煮立った鍋を若様の上に落としかけたのよ。それを空中でがっしり掴んじゃってこんなになっちゃったわけ」
「おねぇちゃん、痛くなかったのぅ?」
「もちろん熱くて痛くて、一昼夜泣いちゃったわよ」
「だったらぁどうしてぇそんなことをしたのぅ?」
「若様が危ないって思ったらさ、咄嗟に手が伸びちゃったのよ。しかも不思議なことに鍋を掴んだ時はちっとも熱く感じなかったのよね。……だからつい鍋を掴み続けちゃって、そのせいで火傷が深くなって痕が消えなくなっちゃったのよ」
「どうしてそんなことが出来るのぉ?」
ロゥリィはルイールの火傷痕を撫でながら尋ねた。
ここまで酷い痕が残るなんて、きっととんでもない熱さだったはずである。なのにそんな鍋を掴んで平気でいられたというのが信じ難いのだ。
「決まってるじゃん。これが愛ってやつなのよ」
呑気そうに笑って語る姉の姿に、ロゥリィは深い衝撃を受けたのである。
その日の夕刻のことである。
マーキュリー家の屋敷に、少女の絶叫に近い泣き声が響き渡った。
「何事だ!?」
家人達がたちまち叫び声の発生源である台所へと殺到した。
するとそこに真っ赤に爛れた右腕を抱えてのたうち回る娘の姿があった。ロゥリィである。
「いけない! 火傷だ!」
エドルは娘の小さな身体を抱きかかえると、そのまま冷たい井戸水へ放り込んだ。
「あばわ、がぶくぶぼぶく!」
それは我が子のためを思っての処置であった。
だが井戸は底が深くて子供の背丈では足がつかない上に、非常に冷たい。
そのためロゥリィは熱傷の激痛に加え、井戸水の冷たさと、そして鼻や口から流れ込んでくる水の苦しさで三重に攻め立てられることとなってしまったのである。
「と、父さん!」
「ロゥリィが溺れているよ!」
家人達が慌てて井戸から引き揚げなければ、ロゥリィの人生は十年で終わっていたかもしれない。
医者が呼ばれて娘の手当てが終わると、エドルは尋ねた。
「どうしてこんなことをしたんだ?」
台所で働くメイド達の証言や現場の状況から察するに、娘が火傷を負った理由は、ぐらぐらと沸き立つ熱湯に自ら片腕を突っ込んだからとしか思えないのだ。
ロゥリィは、涙で腫れ上がった瞼を左腕で擦りながら答えた。
「おねぇちゃん……」
「おねぇちゃんってルイールのことか? それがどうした?」
「全然熱くなかったって言うからぁ…………試してみたくてぇ」
「だからこんなことをしたって言うの!?」
思わず声を荒らげる母とルイール。だがエドルは二人を抑えるとロゥリィに優しく語りかけた。
「そうか……で、何か分かったか?」
「痛い。すごくぅ痛かったわぁ」
「あんた、そんなの当たり前でしょ!」
ルイールがロゥリィを再度叱りつけた。
「でもぉおねぇちゃんはぁ、熱くなかったって言ったもん」
「あんた、あたしのせいにするつもり!?」
「ち、ちがうもん!」
さらに怒鳴ろうとするルイール。だが父エドルはそれを抑えてロゥリィに言い聞かせた。
「いいかいロゥリィ。ルイールが火傷をしても痛くなかったのは、小さな赤ん坊が危ないと思ったからだ。父さんや母さんだって、お前が危ないって思ったらきっとそうするし、その時は熱さなんかちっとも感じないと思うぞ」
「どうして、わたしぃのためだと痛みを感じないのぉ?」
「それはお前のことを大切に思っているからだ。お前を愛しているからだよ」
「愛していると苦痛を感じないのぅ? みんなそうなのぅ?」
「さぁ、どうだろうな? 他の人のことは分からないよ。ただお前に分かって欲しいことは、父さんや母さんは、痛みを感じないくらいにお前のことを大切に思っているということだ。そしてその代わりに、お前が痛い思いをしたり苦しんだりすると、同じように痛いし、同じように辛く感じるってことなんだ」
「えっ!? お父さんもお母さんも手が熱い? 痛いの!?」
「ああっ、お前の叫び声が聞こえた時、心臓が止まるかと思ったくらいだ」
「だからもう、こんなことはしないでちょうだいね」
自分が苦痛を感じると、両親も同じように痛いし、苦しい。
ロゥリィはその言葉を聞いて衝撃を受けた。そして「ごめんなさい」と叫びながら許しを請うたのである。
『熱湯に腕を突っ込んでも痛くない』――日本語に訳す際に「目の中に入れても痛くない」と変換される特地の慣用句は、これをきっかけに用いられるようになったのかも知れない。
「へぇ……それでロリィは、熱湯に右腕を突っ込んじゃったわけだ?」
灰色の髪を短くしているせいか、ぱっと見、少年のようなメグル・エム・スワンリィ十二歳は、練習用木製ハルバートを立てると、汗に濡れた前髪を手櫛で掻き上げて眉を顰めた。火傷の痛みを想像したのか、あるいはロゥリィの行為に呆れたのだろう。
灰色の神官服が、フリルのついたスカートだからこそ少女だと分かる。が、彼女の子孫が男の娘になってしまうのも、なるほどこの祖先ならばさもありなんと思ってしまうハンサムな顔立ちであった。
時は火傷事件から二年後。
十二歳のロゥリィは、エムロイを祀るフェブロン神殿で見習い二年目の生活を送っていた。
彼女が神官見習いになったのは、それほど深い理由があってのことではない。
エデンではエムロイ信仰が国教に指定され、貴族や上流の市民階級に属する者の娘は、良妻賢母となるべくフェブロン神殿で基礎教育を受けることが奨励されていたのだ。
それにここで修行をしたという経歴は、奉公働きに出るのにもとても有利だった。
ロゥリィも進路決定を保留し、将来の選択肢を大きく増やすことに繋がると期待していた。だが、ロゥリィにとってそれは仇となった。
神殿に入ったことが原因かどうかは不明だが、気が付いたときには、将来の選択肢は一つを残して全て消え去っていたのである。
「今思えば、ほんと馬鹿なことしたわよねぇ」
その呟きは、熱湯に手を突っ込んだことを言っているのか、それとも神官見習いになったことを言っているのか。ロゥリィは額に浮かぶ汗をぬぐうと、木製ハルバートを握っていた右手を空に掲げて仰ぎ見た。
三つ編みお下げは二年分長くなり、早熟気味の姿態は女性的な色香を少しずつ放ち始めている。
その肌は十代に入ったばかりの少女のものらしく、傷一つなく綺麗であった。
我が娘を冷たい井戸水に身体ごと放り込むという父の処置が功を奏して、ロゥリィの右腕には火傷の痕が残らなかった。それに加えてロゥリィ自身が怪我を負わないよう、身体を傷つけないように気を配ってきたこともある。
火傷を負った時の激痛の記憶もそうだが、両親が投げかけてくれた「お前が傷つくと私たちも同じように辛い」という言葉が、幼いロゥリィの心に強く残ったのである。
だが、ロゥリィは今この身体を痛めつけていた。重い練習用ハルバートを練習相手に叩きつけ、あるいは叩きつけられて傷つく。
立木打ちの百回もやればたちまち掌に肉刺が出来てひりひりとした痛みを発する。すり足を続ければ、今度は足の裏に巨大な肉刺が出来る。
それを堪えてさらにハルバートを振っていると肉刺が潰れて、柄を握れなくなる。肉刺の中に肉刺が出来、ついには立っていることも出来なくなってしまうのだ。
大工の作業場にも似た打撃音が響き渡る中、ロゥリィの傍らでカランと乾いた音がして、石畳の練習場にハルバートが転がった。亜麻色の髪をした美少女が、大地に膝と肘をついてしまったのだ。
彼女はベルティ・エム・フォーン。ロゥリィと同期とはとても思えない成熟したメリハリある肢体の持ち主だが、やはり十二歳である。
「ベルティ・エム・フォーン! 誰が立木打ちを止めて良いと言いましたか!? 立ってハルバートを拾いなさい!」
四つん這いになったベルティを指導官ナムダが叱りつけた。
「先生……手が、手が痛くて。足も……千回なんてとても無理」
「我慢なさいベルティ! 苦痛と闘うのです! 痛みと戦って立木打ちを成し遂げなさい! 何度も何度も肉刺を潰しなさい。さすればエムロイの神は、強い心と、簡単に肉刺の出来ない強い手を与えて下さいますよ」
そうすれば、やがて朝に七千、夕に三千の立木打ちが出来るようになる、と指導官は言った。
「ベル……可哀想」
ロゥリィは呟いた。
彼女は背丈がある分、皆よりも大ぶりなハルバートを持たされている。そのせいでベルティの掌は、その半分近くまで剥けて真っ赤になっているのだ。
見るからに痛々しい。
とは言えそれはベルティだけではない。多かれ少なかれ誰もが似たような経験をして、その結果として掌と足の裏に分厚い角質層をエムロイから与えられるのだ。
しかしロゥリィだけは違った。
皆に見られないように握り込んだ彼女の掌は、すべすべで柔らかなままだ。肉刺が出来、皮がはがれた途端、苦痛と同時に治り始めるからである。
「分厚くなるのは、面の皮だけで十分なんだよ」
背後からの陰口にナムダは素早く振り返った。
「ビムリコ・エム・ジンっ! 何か言いましたか!?」
「へいへい、先生さま!」
「ビムリコ! 気をつけ!」
「はいよっ」
赤銅色の髪を持つビムリコは、背筋を伸ばして気をつけをした。
肌は浅黒く、腰まである髪を無造作に縛ってポニーテールにしている。きちんと背筋を伸ばしているのにやさぐれた雰囲気を全身から放っているのは、彼女の育ちのせいだろうか。ビムリコ・エム・ジンは、自ら盗賊の娘だと公言しているのである。
そんな出自でよくぞフェブロンが見習いとして迎え入れたと思われるが、彼女はかつてちょっとした気まぐれで、フェブロンのクメセン枢機卿を暴漢から救ったことがある。その時のことを恩に着せて、この神殿に入り込んできたのだ。
こちらはロゥリィと同期であるが、一つ上の十三歳だ。
皆の意識がビムリコに向かう中で、指導官ナムダはめざとく練習の手を休めているロゥリィ達に指先を突きつけた。
「そこ! メグル・エム・スワンリィ! 何をぼやっと見ているのですか!? 練習を続けなさい!」
「あっ、はい」
メグルはすぐにハルバートを構えると、ガンガンと立木打ちを再開した。
ハルバートがぶつかるたびに、丸太の胴が削れ大鋸屑となって舞い、すり減っていく。
メグルはロゥリィが腹心の仲と見なす四人の友の中で、最も武術の才能を有している。いや、同期の見習い達を見渡してもトップと言って良いほどの腕前であった。
それに匹敵するのがビムリコ、そして優等生のホロンという順で、ロゥリィの対戦成績は同期生の中では下から数えた方が早いくらいとなっている。
「ホロン・エム・ルーチェは……よろしい。真面目にやっていますね」
ホロン・エム・ルーチェ。エデンを牛耳る御三家の一頭、ルーチェ家の娘。十二歳だ。
優等生を自認しているせいか、こんな中でも一人淡々とアッシュブロンドを振り乱して丸太に甲高い音を上げさせている。視線は心配そうにベルティに向けられているが、そのために手を休めるということはしない。
「ロゥリィ・エム・マーキュリーはもっと気合いを入れなさい。試合に勝てないからと言ってふてくされてはいけませんよ」
「はぁい」
ロゥリィも、ハルバートを渾身の力で掲げ上げて丸太を打つ作業に戻った。
長い槍の先に斧頭、その反対側に突起のついたハルバートは練習用の木製であっても非常に重いため、頭上に掲げ上げるだけでも一苦労だ。
それでも何とか持ち上げさえすれば、あとは重さに任せるだけで木製の刃が風を斬ってくれる。
問題は、丸太に衝突した際の衝撃をどう受け止めるかだ。これに失敗するとハルバートは凄まじい激痛を伴う衝撃を両手に伝えて来るのだ。
木製の斧頭が丸太に触れる瞬間、ロゥリィは「ふんっ」と歯を食いしばり両手を握り込んだ。
腰を入れて、足を踏ん張り、なんとか衝撃を全身で受け止める。すると、いくら鍛えても少しも逞しくならない筋肉がプチプチと千切れるような悲鳴を上げ、いくら鍛えても少しも厚みを増さない掌の皮がズリっと剥けて、ハルバートの柄を赤く染めた。
「くうっっっっ!」
これがロゥリィが試合で勝てない理由だった。ハルバートをぶつけ合う度に身体のあちこちが悲鳴を上げていては戦いどころではない。
立木打ち稽古がなんとか様になっているのは、丸太が殴り返してこないからに過ぎない。
「ふぅっ!」
ロゥリィは盛大にため息をついた。
ふと気が付くと、皆から注目されている。
「な、なに?」
だが誰もロゥリィの問いには答えない。
「今の打ち込み見た? 丸太が一撃で折れちゃったわよ」
そんなひそひそ話があちこちから発せられる。
メグルもビムリコも「あれだからロリィの奴、侮れないんだよ」とお互いにだけ聞こえるような小声で話し合っていた。
「ロゥリィ、今の打ち込みは大変に良かったですよ。もう一度やってみせなさい!」
背後から突き飛ばすように指導官の叱咤が飛ぶ。
「はいっ!」
ロゥリィは返事をするともう一度ハルバートを掲げ上げた。そこでナムダから「待て」の声がかかる。
ナムダは、ロゥリィが打ち込む丸太の前に出た。
指導用のハルバートをぶら下げ、ロゥリィの間合いに無造作に突っ立ったのである。
「そのまま、私に打ち込んできなさい」
「……えっ、いいんですかぁ?」
ロゥリィは確かめるように尋ねた。このままハルバートを振り下ろせばナムダに当たる。
「かまいません。振り下ろしてきなさい。あなたは試合になるとどうも振りが鈍くなるようです。丸太に打ち込むつもりで来なさい。絶対に遠慮してはいけませんよ」
ロゥリィは戸惑いつつも、ナムダがそう言うならとハルバートを振り下ろした。
遠慮するなという言葉に従って手を抜かず渾身の力を込める。だがその瞬間ナムダが動いた。閃光のような一撃がロゥリィのハルバートを強く打ったのである。
ロゥリィの全身を凄まじい激痛が走り抜け、勢いに引きずられて前のめりに倒れる。
『ぐちゃ』というか『ぺちゃ』という感じで突っ伏すロゥリィ。
「あ……」
ナムダは考え込むようにしつつも、「ダメだこりゃ」と言わんばかりに深々と嘆息した。
「だから今回は立ち上がろうとしないんでしょうね?」
「えっと……今回って何のことです?」
「自衛隊祭の催しの一つとして計画されていた結婚式。日本と特地の文化の違いを皆に示して相互理解の材料にしようという意図は、大変に素晴らしいものだと思いました。その実結婚式の挙行が目的で、文化の比較がどうとかいう理由が後付けだったとしても、我が国と帝国との懸案となっていた問題を解決に導くよい方法だと思いました。なのに中止になってしまうという話を聞きましたが?」
「お耳が早いですね」
「それはもちろん、私は実行委員長ですから。一応の事情も聞き及んでいます」
「なら知ってるんでしょう? ボーゼスさんがやる気をすっかりなくしました。狭間陸将からも、許可の条件に当人達の納得と了解を得ることと言われましたから、いくら周りがやる気になってもどうしようもないんですよ」
江田島は瞑目して首を振った。
「ディアボ殿下には困ったものです。彼はこの催しがこのアルヌスにどれほど大変な混乱をもたらすかを熱心に説いたようですね。おそらくは、ご自身が担う役割の重さを皆から高く評価されたかったのでしょう。それに合わせて今以上の権限も欲していた……というところですか?」
まるでその場で見ていたような江田島の物言いに伊丹は驚いた。
「なんでそんなことが分かるんですか?」
「彼は非常に分かりやすい野心家ですからねぇ。ただ今回ばかりはいささか度が過ぎてしまった。困難を言い過ぎて、ボーゼスさんのやる気そのものを挫いてしまいました。皆から白い目で見られて肩身の狭い思いをしているそうです」
「そうなんですか?」
頷きつつも伊丹は、一体どうやってそこまで把握したんだろうとか思ったりした。
「ボーゼスさんは、ナッシダという七五三のような催しも、一番簡単なもので済ませると言っている。そうですね?」
「ええ、まぁ」
「問題は貴方です。貴方は本人がそう言ってるんだからまあいいか、と思っている。……違いますか?」
「ええまぁ、そんな感じですけど」
「やはり貴方は薄情者だ」
「でも、どうしろと?」
「そこで『どうしろと』という言葉が出てくる段階で、ボーゼスさんというご婦人が、貴方にとっては『どうでもよい他人』に分類されていることがよく分かります。この式が貴方の庇護下にある女性達のためのものだったら貴方のことだ、きっと万難を排して催しを実現する方向にもっていったんじゃないかと私は思うんですがねぇ」
「そうなんですか?」
伊丹は他人事のように尋ねた。
「ええ、そうですとも。しかし私も仮称・自衛隊祭の実行委員長職を仰せつかった身です。このままにしておくことも出来ません。少しばかりお話ししたいのでご同道いただけますか?」
「はい?」
「有り体に申し上げれば……お前に話があるから、ちょっと面貸せ。という内容のことを、上品かつ丁寧な言葉で述べているのです。当然ながら貴方に拒否権はありませんよ。いいですね」
江田島の態度は丁寧ではあったが、有無を言わせぬものが含まれていた。
* *
アルヌスの丘は頂上を含む丘の中腹以上がおおむね陸上自衛隊の区画、そして中腹から滑走路のある地域が航空自衛隊の区画とみなされている。だが、実際には一般隊員がほとんど知らない第三の区画、海上地区というものが密かに設置されていた。
それは閉門騒動で多くの隊員が帰ってしまったために使われなくなった建物の片隅にあった。
江田島が「ここです」と指さした廃墟に似た静けさの漂う建物を、伊丹は仰ぎ見た。
「へぇ、ここが海上地区? 初めて来ました」
「海上地区と言ってもこの建物の一角に居候させていただいているに過ぎません」
「江田島さんはずっとお一人でここに勤務されているのですか?」
「いいえ。現在特地には海上自衛官は私の他にもう一人おります。今は出かけておりますが、もうしばらくしたら戻って来るでしょう。貴方に紹介してさしあげることが出来れば良いのですが。もしかすると難しいかも知れませんねえ」
「では、また別の機会にでも紹介して下さい」
「はい。……ここが私の執務室です」
江田島がドアを開けてくれたので中に入る。
一歩、踏み入れた途端に目に飛び込んで来たのは魔窟の光景であった。
「こ、これは……」
おそらくは一般的な中隊長室であっただろうその部屋には、所狭しと帆船の模型が並べられていたのである。
これと似た雰囲気は梨紗の部屋、あるいは同人仲間の部屋を訪問した時にも感じた。
並べられているのが球体関節人形か、それともフィギュアモデルかの違いでしかない。つまりこの部屋もまたオタクの部屋なのだ。
伊丹は触らないように細心の注意を払いつつ、ぎゅっと顔を近付けて帆船模型を観察した。
よく見るとプラモデルのようなキット臭がない。おそらくは部品から帆に至る全てが自作されたものなのだろう。接着剤も、もしかするとニカワを炒って作っているのかも知れない。
「これって、もしかして江田島さんが作ったんですか?」
魔窟と表現したが、その部屋は江田島の気性を表すように、様々な工具や材料がきちんと整理整頓されていた。
帆船模型もよくよく見ると秩序を持って整然と並べられている。それが雑然としているように見えてしまうのは、数があまりにも多いからだ。
江田島の答えは「暇なもので手慰みに作ってみました」というものであった。
「器用なんですね」
「もともとの趣味なので。貴方が同人誌と呼ばれる本を蒐集して読みふけるのを好まれるように、私はこうした帆船を作って大海原を疾走する光景を思い浮かべることに悦楽を覚える性質なのです。これはコロンブスの乗ったサンタマリア号、こちらは大英帝国のビクトリー号。どれも美しい姿だとは思いませんか? 艫のあたりの曲線が女性の臀部を思わせる艶めかしさです」
「す、すみません。俺はそんな風には感じられなくて……」
「いえ。良いのです。趣味の違いとはそういうものですから。実際私には貴方の集めた本は少しも分かりません。紙に線で描かれた女性の姿には、どうもドキドキハァハァ出来ないのです。その代わり私は、風を受けた純白の帆が舞い上がる光景に、あたかもマリリン・モンローのスカートが地下鉄の暴風で舞い上がる映画のワンシーンを見た時のような胸の高鳴りを感じてしまいます」
「江田島さん。あんたは変態だ。しかも相当の上級者かも……」
すると江田島はニヒルに微笑んだ。
「いえいえ、その程度では初心者も良いところですよ。真の上級者を名乗るならば、船底に溜まったビルジに軽く触れて、『なんだ、もうこんなに濡れちゃっているじゃないか。いけない子にはお仕置きだ……』と、艦に向かって優しく囁くくらいでなければ。実際、私が指揮していた艦は水回りの締まりが悪い娘でしてね、随分と手を焼かされました。しかしそこがまた愛おしくてね。手放すことになった時は涙が出ました」
ビルジとは「あか水」と訳される船底に溜まった海水や廃液等のこと。海に浮かんでいる以上、漏水その他の原因で、船底にはどうしてもこれが溜まってしまうのである。
「お見それしました。これより貴方を艦長と呼ばせて下さい」
伊丹は江田島に畏敬の念を覚えて敬礼した。
なにしろここにいるのは、クリエイター級のオタクなのだから。
オタクには分野、程度の差はあれど、上下や主従の関係は存在しない。物語の執筆者と読者との関係に、どっちが上でどっちが下かという議論を持ち込むのは全く無意味で不毛なものなのだ。
しかしながら伊丹の胸の内には、イラストを描く、フィギュアや模型を作る、マンガを描くクリエイターへのオマージュがある。そうした才能への賛美と称賛を惜しもうとは決して思わない。
自分の想いを高じさせてここまで精巧な帆船模型を作り上げてしまう偏執狂的情熱は、分野は違えども確かに尊敬に値するものなのだ。
江田島は照れを隠そうとするかのようにはにかんだ。
「いえいえ、どういたしまして。私からすれば、貴方の方こそ貴族的精神を持つ素晴らしい人だ。文化を保護、普及するためにあのような施設を作り上げてしまうのですからね。あそこに収蔵された本の作者達がこのことを知ったら、きっと誇らしく思うことでしょう。私こそ貴方のことをイタミ卿と敬意を込めて呼ばせていただきますよ」
二人の男はこうして互いを認め合ったのである。
「艦長は本当に船が好きなんですね?」
「はい。とても好きです」
「でもそれだと寂しいでしょう? 近くに海のないところなんかに派遣されて」
「ええ。任務だから致し方ないとは言え、とても寂しく感じますよ。出来ることならば艦が欲しいですね」
伊丹の耳には江田島のこの一言が、独身男が口にする『彼女が欲しい。嫁さんが欲しい』という切実な嘆きに似て聞こえたのだった。
「さて、伊丹二尉」
江田島が改まった面持ちで伊丹の階級を呼んだ。どうやら本題が始まったらしい。
「なんでしょう二佐?」
「部隊を指揮する者として、大切なことは何だと思いますか?」
「教範的にはいろいろと箇条書きされてますけど……」
それを口頭試問しているのかと問う意味で伊丹は言葉尻を濁した。すると江田島は自ら答えを示した。
「わたくしは物事を成し遂げる断固とした意志力だと思います」
江田島はそう言いながら部屋の片隅に置かれていた船の模型を取り上げ、伊丹に手渡した。
「あれ? これはどっかで見たような」
伊丹はその姿を見た瞬間、何か記憶の琴線に触れられたような感触がした。
「分かりますか? それは貴方が碧海で乗った船をモデルにしたものなんですよ」
碧海とはこの特地の海である。そして、このヒューゴ号は伊丹達がピニャと共に乗ったこの世界の帆船であった。
「よくぞ、こんなものの模型を作れましたね。見てきたんですか?」
「残念ながら、わたくしはこの特地の海すら見たことがないのです。なので様々な方面から情報を集め、整理し、構造的にそうであろうなと思われる姿を再現したに過ぎません。貴方が気が付いて下さったおかげで、わたくしの推測が正しかったことが証明されました。どうもありがとう」
「どういたしまして。この船には大変酷い目に遭わされましたから、忘れられないですよ。こっちに海自の護衛艦が一~二隻もあれば、あんな目に遭うこともなかったんですよねえ」
「そうですかねぇ?」
「そうですかねって、護衛艦なら座礁したりしないでしょ?」
「いえいえ。護衛艦をこちらに持ち込んでいても、きっと役に立たなかったと思いますよ」
「どうしてです?」
「船を安全に航行させるには精密な海図と、現在位置を測定する技術が不可欠だからです」
「海図と現在位置の測定技術……ですか?」
「そうです。私の調べたところ、このヒューゴ号の喫水はおよそ二・五メートル。つまり貴方が帝国のピニャ・コ・ラーダ殿下とあの海に放り出されたとき、この船は水面下二・五メートルにある何かに接触したということです。岩礁か、はたまた沈没船か……相当に浅い海だったようですね」
「っと、はい。水面からも海底が見えましたから」
「しかしながら我が海上自衛隊の保有する護衛艦の多くが喫水四~五メートル。あぶくま型で三・八です。その海を航行することは不可能とは言いませんが、普通の神経を持つ船乗りならば、出来るだけ避けたいと思うことでしょうねえ」
「えっと……それなら深い海を行けば良いんじゃないですか?」
「しかし、どこに行けばその深い海があるのでしょう? 事前に情報があればいいんですが」
「あっ……」
「そう。それが海図なのです。海上自衛隊の艦船がこの特地で活躍するには、まずこの特地の海のことを詳細に調べ上げなければなりません。そして海図を作るには、今自分がどこにいるか詳しく知る方法が必要です。この技術がないと遭難して迷子になってしまいます」
「俺もどの方角にボートを漕いで良いのか分からなくて苦労しました。アクアスのみんなに会えなかったらどうなっていたか……」
「体験した人は話が早いですね。そうです。この世界には電波灯台も、GPSも無いんです。天測しながら進むしかありませんが、北極星に相当する星がこの特地の夜空にはありませんし、天文年鑑の編纂にも時間が必要です。なので、このことを解決しないまま海上自衛隊の艦船をこの世界で運用することは出来ないのです」
「はぁ、分かりました」
「分かって下さいましたか、この世界に護衛艦を持ってきてもすぐには役に立たないということを?」
「ええ。でも、指揮官の素養の話とこの船の話とどういう関係が?」
伊丹はそう問いつつ、江田島の模型を棚の上に戻した。
「こんな事情なので、この世界の船がAという海域からBという海域に赴く時の困難は、想像に難しくありません。水面下に何があるか分からないという問題。気象衛星もないので天候の予測も出来ない。海流がどうなっているかも分からない。未知の海棲生物や海賊といった危険もあります。しかしそれでもこの世界の船乗り達は大海原に乗り出し、目的地に向かいます。そんな船を指揮する船長に求められる素養とは、怒濤のように押し寄せて来る困難や障害を一つずつ片付けて、断固として突き進む意志力なのです」
「はあ……」
「意志力というのは、よく『精神力』とか『根性』といったものとはき違えられます。大日本帝国陸軍、海軍時代、物量の不足を補うために精神力という要素が過度に持てはやされたからでしょう。しかしながら、当時の人々は『精神力』という言葉を口にしていながら、それをきちんと理解していなかった。いえ出来なかった。精神力を、不可能という道理を押し曲げる力だと考えていたからです」
「はぁ……」
「伊丹二等陸尉。もし貴方が、年に二回あるという同人誌即売会の当日、交通手段……例えば『ゆりかもめ』が何らかの理由で運休に陥ってしまったら、会場に行くことを諦めますか?」
「とんでもない。何としたって行きますよ。臨海鉄道に変えたり、海上バスもある。急ぐならタクシーでもいいし、最悪の場合は歩いたって……」
「そう。まさにそれこそが意志力です。Aという海域からBという海域に何の準備もなく遮二無二航海に挑むのではなく、周到に情報を集め、海図を拵え、幾重にも準備を重ねて代替手段を確保し、それを用いて障害を乗り越えていく。無理で道理を押し曲げるのではなく、道理の積み重ねによって不可能を突破する抜け道を探す、しつっこさ。粘り強さ。それこそが意志力なのです」
「しつっこさ……ですか?」
「そうです。そしてそのしつっこさを貴方は持っています。なのにどうして今回は、結婚式の挙行を諦めてしまったのですか?」
「そりゃボーゼスさんが諦めちゃったからですよ」
「ではどうしてボーゼスさんは諦めちゃったのですか?」
「そりゃ費用の問題とか、招待客の受け入れとか負担が大変なことが分かって」
「しかし、その二つは問題にならないでしょう? 貴方だって最初、宴会に集まる人たちを泊める場所を確保するために、自衛隊全体の催しまででっちあげたじゃないですか? ナッシダと結婚式にたくさんの人間が集まることが負担になるって言うのなら、それが気にならなくなるくらいに大規模な催しを同時に挙行すれば良いんですよ」
「それが気にならないくらい大規模な、ですか?」
「ええ。自衛隊だけでなく、街全体の大きなお祭りに仕立てます。千人分の飲み代を想像してガクブルしている小心者に、十万人分の請求書を見せつけてやりましょう。そうすれば感覚がマヒして気にしなくなりますよ」
「じゅ、十万人? 春夏の同人誌即売会みたいな規模ですね?」
「リオのカーニバルや徳島の阿波踊りのようなものをイメージしています。街全体で皆を巻き込んで大きく盛り上げるんですよ。名付けて『大、祭、典』です」
02
ロゥリィは神殿で祈っていた。
祈ること、それが信仰の基本である。
まずは、エムロイの栄光を。
次に、戦いに倒れていった者の魂が、新たな生において再び勇猛果敢な戦士となることを。
そして明日の自分が、自分の理想とする存在となるように、と。
「敬愛する我が主、エムロイよ。問う、汝の意志たるや如何に? 我が祈りの言葉、御身の御心に響かせたまわん……」
信仰心にはいくつもの階梯が存在し、祈りの内容もそれに合わせて変化する。
単なる物欲の充足を希う段階から始まって、苦しみからの解放や安堵の希求、さらには自らを高めて神性との合一を目指すものまで。
だが亜神たるロゥリィは既に究極の境地、神性との合一を果たしていた。
ロゥリィがハルバートを振るって戦い狂気の化身となるのは、彼女がエムロイの一部であり、現し身だからだ。だからこそ、肉の身を持ちながらにして神たり得るのである。
だが彼女が望む『愛』への信仰はさらにその向こう側にあった。
エムロイが『狂気』として大雑把にひとまとめにする人間の情動は、利害や損得を度外視した非理性的な心的現象を総括したもので、時にそれは『熱狂』、あるいは『情熱』とも呼ばれる。
ロゥリィはその内に含まれる『愛』という摩訶不思議な感情、情緒、その心を司る神になりたいと願っていた。
その不思議でとてつもなく凄い心の働きを理解し、自分の内に体現すること。それこそロゥリィが信仰の道へと進むこととなった原初の欲求だったのである。
* *
ロゥリィの両親は、今はもう存在しないエデンという王国の下級貴族であった。
爵位制が存在しないエデンでは、貴族というのはいわゆる荘園領主を意味する。大規模な農場をいくつも所有し、強い経済力を持つ者ほど、強い権勢をふるうという、国のありようとしては極めて初歩的な国家体制だったのだ。
そんな中でマーキュリー家は代々独力で農地を開拓して大農場主、そして荘園主となった。
荘園は辺境にあって人口も少なく、豊かとは決して言い難いものであったが、それでも重い労働を農奴に課さずとも、貴族としての面目を保つ分には十分な恵みを約束してくれた。
ところがロゥリィの両親はいささか子だくさんに過ぎた。最終的には五男七女と、十二人もの子供を儲けてしまったため、暮らし向きはいつも汲々としていたのである。
やんちゃな幼い子供の大群は常に喧しく、食事時ともなると食卓は奪い合いに等しい喧噪で包まれた。それを収めるために彼女の両親や召使いが、幾度となく大声を出さなければならなかったほどだ。
しかしながらマーキュリー家の子供達は、父の雑で乱暴ながらも分かりやすい愛情と母のきめ細かな思いやりに包まれて育っていったのである。
ロゥリィがアルヌス協同生活組合に加わったのも、コダ村の子供の面倒を見ようとするレレイやテュカの姿が、彼女の生まれ育った家庭の雰囲気……つまり兄二人姉二人に続く五番目の子供として生まれて面倒を見てもらい、そして七人の弟や妹の面倒を見ながら育った当時のものとよく似通っていたからかも知れない。
マーキュリー家の子供達は、このような幸せな家庭で少しずつ成長していった。
だが子供達が長じてくると、父エドル・エム・マーキュリーはその将来を考えなければならなくなった。
土地は狭く家を継ぐことが出来るのは一人だけ。財産を分け与えることの出来ない子供達には、その暮らしが成り立つようにしてやらなければならないのである。
そのためエドルがしたことは、口減らしも兼ねて十~十二歳になった子供を奉公や修行、あるいは婚姻といった名目で家から出すことであった。
まずは長男が十三歳になったところで、若い国王の小姓奉公に出した。
次男を十二歳で軍司令官の従卒奉公に出し、長女をやはり十二歳で上級貴族の侍女とした。
さらに次女は十一歳で豪商の嫁に出した。
そしていよいよロゥリィの番となった。
彼女も十歳になった時、父から「どうしたい?」と尋ねられ、すぐにとは言わないが考えておくように、と言い含められたのだ。
「ロゥリィ! あんたどこに奉公に出るか決めた? よかったら一緒に奉公しない?」
するとエデンの宰相職を務めるメダイル家に仕えた長女ルイールが、宿下がりで戻ってきて、自分と一緒に働かないかとロゥリィを誘った。
メダイル家当主の奥方は、ルイールが仕えた頃、ちょうど初子の妊娠出産という非常に手の掛かる時期にさしかかっていた。
初めての妊娠出産は何かと不安になるものだ。そのため母の出産と弟妹の世話に慣れたルイールの存在はとても心強く、メダイル家当主や奥方から「お前がいてくれてよかった」という言葉を賜り、侍女ながらメダイル家の屋敷に自分の部屋を与えられるまでになったのである。
「子供の手が離せるくらいになったら、お前も年頃だ。よい家柄の息子を探してきっと嫁入りさせてあげるから安心しなさい」
信頼されたルイールはメダイル家の一族に準じた扱いを受け、マーキュリー家の娘のままだったらとても望めなかったであろう後援の約束まで得た。そんな自分の引きで就職するならば、こうした職場につきものの新参者虐めや、粗略な扱いを受けることもないよと言うのだ。
「でもなぁ、お姉ちゃんと一緒というのはぁ」
だがロゥリィは不満の声を上げた。子守という仕事にいささかうんざりしており、いくらルイールの言葉でも素直に応じられなかったのである。
弟や妹の面倒を見ることが決して嫌いなわけではないが、ロゥリィはもっと別のことに挑戦したいと思っていた。それが何であるかはまだ見えていないが、少なくとも奉公するなら、勤め先は姉とは別にしたいと思っていたのだ。
ルイールはロゥリィの長い黒髪を、自分とお揃いのお下げに編みつつ説得した。
「でもさ、変なところに仕えると大変よ。人間関係とかでさ……ルーチェ家の主人なんて若い娘と見ると片っ端から手を出しちゃって、家の中の人間関係が愛憎渦巻いてしっちゃかめっちゃかなんだってさ。あの家の当主、いつお妾に刺されてもおかしくないって話よ」
「な、なんだって!?」
長女のもたらした噂話に、父エドルは目を剥いた。
ルーチェ家というのはエデンで将軍職を務める新興貴族だ。軍功を積んで成り上がったということもあって、やることなすことが強引で評判も良くない。
だが十三歳という若い国王を戴くエデン王国の政務は、摂政家のメタノール、宰相家のメダイル、そして将軍家ルーチェの三家に牛耳られており、その他の貴族達は傍若無人に振る舞うこの御三家に眉を顰めつつも、黙って見ていることしか出来ないのだ。
そこにあって、ルーチェ家の奥が乱れているという噂は重要であった。もしルーチェ家の当主が愛妾に刺されて死んだりすれば、三家が鼎立することで安定しているエデンの権力構造が激変してしまう。
「お、お前のとこは大丈夫なんだろうな?」
まさかと思うがメダイル家ではそんなことはないだろうなと、エドルは当然の心配をした。
「うちは、大丈夫よ」
「メダイル家はどう大丈夫なんだ? 教えてくれ」
ルイールは、そんな父の姿を見て「心配性ね」と小さく肩をすくめた。
「メダイル家は、奥方様のお母様が世慣れた方でしっかりなさっているからよ。男の人って奥様のご懐妊をきっかけに浮気することが多いらしいんだけどさぁ、奥様の母上がお妾さんを旦那様にあてがって、そのあたりの心配が最初から起きないようにしてたのよ」
「な、なんと……奥方のご母堂がか?」
エドルは感嘆の声を上げた。
「そうよ。すごいでしょ?」
国の乱れ、社会の乱れ、家の乱れ。これらは、一度つくられた序列にそれぞれが我慢出来なくなり、より高い立場を求めるところから始まる。
ルーチェ家の乱れも、要するに男の愛情を奪い合う女達の順位争いなのだ。だがメダイル家はその管理が徹底している。ここまでされたら家の中が乱れるようなことはないだろうと思われた。
「奥方様のお母様って、女傑なのよね。尊敬しちゃう」
ルイールは、そんな風に言ってけらけらけらと明るく笑った。そしてロゥリィに声をかけることにしたのも、そのお妾が妊娠した際にロゥリィがいれば、いろいろと役に立つと思ったからだと言った。
「お、お前って奴は」
エドルは、我が娘がたくましく育ちつつあることを喜ぶべきか、それとも腹黒くなってしまったことを悲しむべきかと頭を抱えた。
だがこの時、ロゥリィの目はルイールの右手に釘付けになっていた。後ろ頭をカリカリと掻く姉の手には、見るも無惨な火傷の瘢痕が残っていたのだ。
「あ、これ?」
ロゥリィの視線に気付いたのかルイールは火傷痕を皆に見せびらかした。すると、まず父母が反応した。
「どうしたんだそれは!?」
「どうしたの貴女!」
「お、おねぇちゃん。それって!」
妹達も集まってきて口々に心配した。だがルイールは誇らしげに胸を張って応えた。
「これはねぇ、名誉の負傷ってやつよ。馬鹿な乳母がさぁ、こともあろうにぐらぐらと煮立った鍋を若様の上に落としかけたのよ。それを空中でがっしり掴んじゃってこんなになっちゃったわけ」
「おねぇちゃん、痛くなかったのぅ?」
「もちろん熱くて痛くて、一昼夜泣いちゃったわよ」
「だったらぁどうしてぇそんなことをしたのぅ?」
「若様が危ないって思ったらさ、咄嗟に手が伸びちゃったのよ。しかも不思議なことに鍋を掴んだ時はちっとも熱く感じなかったのよね。……だからつい鍋を掴み続けちゃって、そのせいで火傷が深くなって痕が消えなくなっちゃったのよ」
「どうしてそんなことが出来るのぉ?」
ロゥリィはルイールの火傷痕を撫でながら尋ねた。
ここまで酷い痕が残るなんて、きっととんでもない熱さだったはずである。なのにそんな鍋を掴んで平気でいられたというのが信じ難いのだ。
「決まってるじゃん。これが愛ってやつなのよ」
呑気そうに笑って語る姉の姿に、ロゥリィは深い衝撃を受けたのである。
その日の夕刻のことである。
マーキュリー家の屋敷に、少女の絶叫に近い泣き声が響き渡った。
「何事だ!?」
家人達がたちまち叫び声の発生源である台所へと殺到した。
するとそこに真っ赤に爛れた右腕を抱えてのたうち回る娘の姿があった。ロゥリィである。
「いけない! 火傷だ!」
エドルは娘の小さな身体を抱きかかえると、そのまま冷たい井戸水へ放り込んだ。
「あばわ、がぶくぶぼぶく!」
それは我が子のためを思っての処置であった。
だが井戸は底が深くて子供の背丈では足がつかない上に、非常に冷たい。
そのためロゥリィは熱傷の激痛に加え、井戸水の冷たさと、そして鼻や口から流れ込んでくる水の苦しさで三重に攻め立てられることとなってしまったのである。
「と、父さん!」
「ロゥリィが溺れているよ!」
家人達が慌てて井戸から引き揚げなければ、ロゥリィの人生は十年で終わっていたかもしれない。
医者が呼ばれて娘の手当てが終わると、エドルは尋ねた。
「どうしてこんなことをしたんだ?」
台所で働くメイド達の証言や現場の状況から察するに、娘が火傷を負った理由は、ぐらぐらと沸き立つ熱湯に自ら片腕を突っ込んだからとしか思えないのだ。
ロゥリィは、涙で腫れ上がった瞼を左腕で擦りながら答えた。
「おねぇちゃん……」
「おねぇちゃんってルイールのことか? それがどうした?」
「全然熱くなかったって言うからぁ…………試してみたくてぇ」
「だからこんなことをしたって言うの!?」
思わず声を荒らげる母とルイール。だがエドルは二人を抑えるとロゥリィに優しく語りかけた。
「そうか……で、何か分かったか?」
「痛い。すごくぅ痛かったわぁ」
「あんた、そんなの当たり前でしょ!」
ルイールがロゥリィを再度叱りつけた。
「でもぉおねぇちゃんはぁ、熱くなかったって言ったもん」
「あんた、あたしのせいにするつもり!?」
「ち、ちがうもん!」
さらに怒鳴ろうとするルイール。だが父エドルはそれを抑えてロゥリィに言い聞かせた。
「いいかいロゥリィ。ルイールが火傷をしても痛くなかったのは、小さな赤ん坊が危ないと思ったからだ。父さんや母さんだって、お前が危ないって思ったらきっとそうするし、その時は熱さなんかちっとも感じないと思うぞ」
「どうして、わたしぃのためだと痛みを感じないのぉ?」
「それはお前のことを大切に思っているからだ。お前を愛しているからだよ」
「愛していると苦痛を感じないのぅ? みんなそうなのぅ?」
「さぁ、どうだろうな? 他の人のことは分からないよ。ただお前に分かって欲しいことは、父さんや母さんは、痛みを感じないくらいにお前のことを大切に思っているということだ。そしてその代わりに、お前が痛い思いをしたり苦しんだりすると、同じように痛いし、同じように辛く感じるってことなんだ」
「えっ!? お父さんもお母さんも手が熱い? 痛いの!?」
「ああっ、お前の叫び声が聞こえた時、心臓が止まるかと思ったくらいだ」
「だからもう、こんなことはしないでちょうだいね」
自分が苦痛を感じると、両親も同じように痛いし、苦しい。
ロゥリィはその言葉を聞いて衝撃を受けた。そして「ごめんなさい」と叫びながら許しを請うたのである。
『熱湯に腕を突っ込んでも痛くない』――日本語に訳す際に「目の中に入れても痛くない」と変換される特地の慣用句は、これをきっかけに用いられるようになったのかも知れない。
「へぇ……それでロリィは、熱湯に右腕を突っ込んじゃったわけだ?」
灰色の髪を短くしているせいか、ぱっと見、少年のようなメグル・エム・スワンリィ十二歳は、練習用木製ハルバートを立てると、汗に濡れた前髪を手櫛で掻き上げて眉を顰めた。火傷の痛みを想像したのか、あるいはロゥリィの行為に呆れたのだろう。
灰色の神官服が、フリルのついたスカートだからこそ少女だと分かる。が、彼女の子孫が男の娘になってしまうのも、なるほどこの祖先ならばさもありなんと思ってしまうハンサムな顔立ちであった。
時は火傷事件から二年後。
十二歳のロゥリィは、エムロイを祀るフェブロン神殿で見習い二年目の生活を送っていた。
彼女が神官見習いになったのは、それほど深い理由があってのことではない。
エデンではエムロイ信仰が国教に指定され、貴族や上流の市民階級に属する者の娘は、良妻賢母となるべくフェブロン神殿で基礎教育を受けることが奨励されていたのだ。
それにここで修行をしたという経歴は、奉公働きに出るのにもとても有利だった。
ロゥリィも進路決定を保留し、将来の選択肢を大きく増やすことに繋がると期待していた。だが、ロゥリィにとってそれは仇となった。
神殿に入ったことが原因かどうかは不明だが、気が付いたときには、将来の選択肢は一つを残して全て消え去っていたのである。
「今思えば、ほんと馬鹿なことしたわよねぇ」
その呟きは、熱湯に手を突っ込んだことを言っているのか、それとも神官見習いになったことを言っているのか。ロゥリィは額に浮かぶ汗をぬぐうと、木製ハルバートを握っていた右手を空に掲げて仰ぎ見た。
三つ編みお下げは二年分長くなり、早熟気味の姿態は女性的な色香を少しずつ放ち始めている。
その肌は十代に入ったばかりの少女のものらしく、傷一つなく綺麗であった。
我が娘を冷たい井戸水に身体ごと放り込むという父の処置が功を奏して、ロゥリィの右腕には火傷の痕が残らなかった。それに加えてロゥリィ自身が怪我を負わないよう、身体を傷つけないように気を配ってきたこともある。
火傷を負った時の激痛の記憶もそうだが、両親が投げかけてくれた「お前が傷つくと私たちも同じように辛い」という言葉が、幼いロゥリィの心に強く残ったのである。
だが、ロゥリィは今この身体を痛めつけていた。重い練習用ハルバートを練習相手に叩きつけ、あるいは叩きつけられて傷つく。
立木打ちの百回もやればたちまち掌に肉刺が出来てひりひりとした痛みを発する。すり足を続ければ、今度は足の裏に巨大な肉刺が出来る。
それを堪えてさらにハルバートを振っていると肉刺が潰れて、柄を握れなくなる。肉刺の中に肉刺が出来、ついには立っていることも出来なくなってしまうのだ。
大工の作業場にも似た打撃音が響き渡る中、ロゥリィの傍らでカランと乾いた音がして、石畳の練習場にハルバートが転がった。亜麻色の髪をした美少女が、大地に膝と肘をついてしまったのだ。
彼女はベルティ・エム・フォーン。ロゥリィと同期とはとても思えない成熟したメリハリある肢体の持ち主だが、やはり十二歳である。
「ベルティ・エム・フォーン! 誰が立木打ちを止めて良いと言いましたか!? 立ってハルバートを拾いなさい!」
四つん這いになったベルティを指導官ナムダが叱りつけた。
「先生……手が、手が痛くて。足も……千回なんてとても無理」
「我慢なさいベルティ! 苦痛と闘うのです! 痛みと戦って立木打ちを成し遂げなさい! 何度も何度も肉刺を潰しなさい。さすればエムロイの神は、強い心と、簡単に肉刺の出来ない強い手を与えて下さいますよ」
そうすれば、やがて朝に七千、夕に三千の立木打ちが出来るようになる、と指導官は言った。
「ベル……可哀想」
ロゥリィは呟いた。
彼女は背丈がある分、皆よりも大ぶりなハルバートを持たされている。そのせいでベルティの掌は、その半分近くまで剥けて真っ赤になっているのだ。
見るからに痛々しい。
とは言えそれはベルティだけではない。多かれ少なかれ誰もが似たような経験をして、その結果として掌と足の裏に分厚い角質層をエムロイから与えられるのだ。
しかしロゥリィだけは違った。
皆に見られないように握り込んだ彼女の掌は、すべすべで柔らかなままだ。肉刺が出来、皮がはがれた途端、苦痛と同時に治り始めるからである。
「分厚くなるのは、面の皮だけで十分なんだよ」
背後からの陰口にナムダは素早く振り返った。
「ビムリコ・エム・ジンっ! 何か言いましたか!?」
「へいへい、先生さま!」
「ビムリコ! 気をつけ!」
「はいよっ」
赤銅色の髪を持つビムリコは、背筋を伸ばして気をつけをした。
肌は浅黒く、腰まである髪を無造作に縛ってポニーテールにしている。きちんと背筋を伸ばしているのにやさぐれた雰囲気を全身から放っているのは、彼女の育ちのせいだろうか。ビムリコ・エム・ジンは、自ら盗賊の娘だと公言しているのである。
そんな出自でよくぞフェブロンが見習いとして迎え入れたと思われるが、彼女はかつてちょっとした気まぐれで、フェブロンのクメセン枢機卿を暴漢から救ったことがある。その時のことを恩に着せて、この神殿に入り込んできたのだ。
こちらはロゥリィと同期であるが、一つ上の十三歳だ。
皆の意識がビムリコに向かう中で、指導官ナムダはめざとく練習の手を休めているロゥリィ達に指先を突きつけた。
「そこ! メグル・エム・スワンリィ! 何をぼやっと見ているのですか!? 練習を続けなさい!」
「あっ、はい」
メグルはすぐにハルバートを構えると、ガンガンと立木打ちを再開した。
ハルバートがぶつかるたびに、丸太の胴が削れ大鋸屑となって舞い、すり減っていく。
メグルはロゥリィが腹心の仲と見なす四人の友の中で、最も武術の才能を有している。いや、同期の見習い達を見渡してもトップと言って良いほどの腕前であった。
それに匹敵するのがビムリコ、そして優等生のホロンという順で、ロゥリィの対戦成績は同期生の中では下から数えた方が早いくらいとなっている。
「ホロン・エム・ルーチェは……よろしい。真面目にやっていますね」
ホロン・エム・ルーチェ。エデンを牛耳る御三家の一頭、ルーチェ家の娘。十二歳だ。
優等生を自認しているせいか、こんな中でも一人淡々とアッシュブロンドを振り乱して丸太に甲高い音を上げさせている。視線は心配そうにベルティに向けられているが、そのために手を休めるということはしない。
「ロゥリィ・エム・マーキュリーはもっと気合いを入れなさい。試合に勝てないからと言ってふてくされてはいけませんよ」
「はぁい」
ロゥリィも、ハルバートを渾身の力で掲げ上げて丸太を打つ作業に戻った。
長い槍の先に斧頭、その反対側に突起のついたハルバートは練習用の木製であっても非常に重いため、頭上に掲げ上げるだけでも一苦労だ。
それでも何とか持ち上げさえすれば、あとは重さに任せるだけで木製の刃が風を斬ってくれる。
問題は、丸太に衝突した際の衝撃をどう受け止めるかだ。これに失敗するとハルバートは凄まじい激痛を伴う衝撃を両手に伝えて来るのだ。
木製の斧頭が丸太に触れる瞬間、ロゥリィは「ふんっ」と歯を食いしばり両手を握り込んだ。
腰を入れて、足を踏ん張り、なんとか衝撃を全身で受け止める。すると、いくら鍛えても少しも逞しくならない筋肉がプチプチと千切れるような悲鳴を上げ、いくら鍛えても少しも厚みを増さない掌の皮がズリっと剥けて、ハルバートの柄を赤く染めた。
「くうっっっっ!」
これがロゥリィが試合で勝てない理由だった。ハルバートをぶつけ合う度に身体のあちこちが悲鳴を上げていては戦いどころではない。
立木打ち稽古がなんとか様になっているのは、丸太が殴り返してこないからに過ぎない。
「ふぅっ!」
ロゥリィは盛大にため息をついた。
ふと気が付くと、皆から注目されている。
「な、なに?」
だが誰もロゥリィの問いには答えない。
「今の打ち込み見た? 丸太が一撃で折れちゃったわよ」
そんなひそひそ話があちこちから発せられる。
メグルもビムリコも「あれだからロリィの奴、侮れないんだよ」とお互いにだけ聞こえるような小声で話し合っていた。
「ロゥリィ、今の打ち込みは大変に良かったですよ。もう一度やってみせなさい!」
背後から突き飛ばすように指導官の叱咤が飛ぶ。
「はいっ!」
ロゥリィは返事をするともう一度ハルバートを掲げ上げた。そこでナムダから「待て」の声がかかる。
ナムダは、ロゥリィが打ち込む丸太の前に出た。
指導用のハルバートをぶら下げ、ロゥリィの間合いに無造作に突っ立ったのである。
「そのまま、私に打ち込んできなさい」
「……えっ、いいんですかぁ?」
ロゥリィは確かめるように尋ねた。このままハルバートを振り下ろせばナムダに当たる。
「かまいません。振り下ろしてきなさい。あなたは試合になるとどうも振りが鈍くなるようです。丸太に打ち込むつもりで来なさい。絶対に遠慮してはいけませんよ」
ロゥリィは戸惑いつつも、ナムダがそう言うならとハルバートを振り下ろした。
遠慮するなという言葉に従って手を抜かず渾身の力を込める。だがその瞬間ナムダが動いた。閃光のような一撃がロゥリィのハルバートを強く打ったのである。
ロゥリィの全身を凄まじい激痛が走り抜け、勢いに引きずられて前のめりに倒れる。
『ぐちゃ』というか『ぺちゃ』という感じで突っ伏すロゥリィ。
「あ……」
ナムダは考え込むようにしつつも、「ダメだこりゃ」と言わんばかりに深々と嘆息した。
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