その聖女、神の愛し子です!

一路(いちろ)

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第三十一話

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朝食を終えると、辺りにはまだ柔らかな朝の光が満ちていた。
焚火の名残として残っていた炭も、使った食器も、昨夜の名残は確かにそこにあったはずなのに――。

「片付けるので、少し待ってください」

ルミナがそう言って、地面に手を置いた瞬間だった。

ふわり、と風が撫でるように吹き抜ける。
同時に、焚火の跡は砂のように崩れ、黒ずんだ土は元の色へと戻っていった。踏み固められていた地面は自然に均され、蔓で作られていたテントも、ほどけるように消えていく。

まるで、最初から誰もいなかったかのように。

「……本当に、跡形もないな」

フェルディナントは周囲を見回し、思わず低く呟いた。
騎士団の遠征では、どれほど気を配っても野営の痕跡は残る。踏み荒らされた草、焚火の跡、簡易の寝床。
それがここには、一切ない。

「これなら、誰が見てもただの森だ」

「はい。ここで野営してたなんて、分からないと思います」

ルミナは屈託なく笑った。
その言葉通り、鳥が枝から枝へと移り、朝露に濡れた草が静かに揺れているだけだ。

ユリウスは一歩下がり、整えられた地面を見てから小さく息を吐いた。

「……完璧でございますね。これなら追跡の心配もございません」
「追跡?」

ルミナが首を傾げる。

「冒険者や盗賊に限らず、野営跡から人の動きを読む者はおります」

ユリウスは穏やかに説明した。

「ルミナ様の力は、結果として最上の警戒にもなっております」
「そっか……」

フェルディナントは二人のやり取りを聞きながら、改めてルミナを見た。
昨夜まで、ただの“力のある少女”として見ていた認識が、静かに塗り替えられていく。

――戦わずとも、守ることができる。
――剣を抜かずとも、痕跡すら残さない。

それは騎士として学んできた在り方とは、まったく異なる力の使い方だった。

「ヴァルガも、お願い」

ルミナが声をかけると、傍らに伏せていた黒き魔獣が、低く喉を鳴らした。
次の瞬間、その大きな体躯が、まるで影が縮むように小さくなっていく。

骨が軋む音も、苦しげな様子もない。
ただ、呼吸を整える間に、そこにいたのは大型犬ほどの黒狼だった。

「……本当に自在だな」

フェルディナントは苦笑する。
魔獣は討伐すべき存在。そう教えられてきたはずなのに、今やこの黒狼は“仲間”として自然にそこにいる。

「これで大丈夫だね」

ルミナは満足そうにヴァルガの頭を撫でた。

「ええ。これなら街道でも目立ちません」

ユリウスが頷く。

準備は、もはや整いすぎているほどだった。
荷物を背負い直し、最後に周囲を一瞥してから、三人は森を抜ける。

振り返っても、そこには何もない。
昨日、確かに笑い、食べ、眠った場所があったとは、誰にも分からないだろう。

----

街道へ出ると、朝の空気はひんやりとして澄んでいた。
遠くから馬車の軋む音がかすかに聞こえ、旅人たちの往来も少しずつ増えていく。

「依頼先の村までは、順調に行けば昼前には着くでしょう」

ユリウスが歩きながら告げる。

「意外と近いんだな」

フェルディナントは周囲を警戒しつつ答えた。

「はい。ただし、狂暴化した魔獣が出ているという話ですので、油断は禁物です」

その言葉に、フェルディナントは無意識に剣の柄へと手を置いた。
彼の思考は、自然と“討伐”へと向かう。

――暴れる魔獣を討つ。
――村人を守る。

それが騎士として、当然の役目だった。

「フェル様」

街道を進みながら、ルミナは背筋を伸ばしたまま声をかけた。

「冒険者や騎士の方は、依頼に向かうとき……何を最優先にお考えになるのでしょうか」

その問いに、フェルディナントは足を止めはしなかった。
視線は前方、背負った剣の重みを確かめるように歩き続ける。

「任務だ」

低く、迷いのない声だった。

「依頼を受けた以上、成否がすべてだ。結果を出せねば、信頼も次もない」
「結果、ですか」

ルミナは一拍置き、言葉を選ぶ。

「その結果に至るまでの過程は……どこまで許されるとお考えですか」

フェルディナントの眉が、わずかに動いた。

「許される、という考え方は甘い」

言い切りだった。

「守るべきもののために、切り捨てねばならぬものが出るのは当然だ。騎士とは、そういう役目を引き受ける者だ」

ルミナは歩調を緩め、フェルディナントの横顔を見上げた。

「……命も、ですか」

一瞬の沈黙。
だがフェルディナントは目を逸らさなかった。

「必要とあらば」

その言葉には、覚悟だけがあった。

「躊躇すれば、より多くが失われる。だから剣を振るう」

ルミナは視線を前に戻し、小さく息を吸った。

「そうお考えなのですね」

否定も、批判もない。
ただ事実として受け止める声音だった。

「私は――」

ルミナは静かに続ける。

「できる限り、誰も失わない道を探したいと思っています」
「理想だな」

即座に返された言葉は、鋭く、容赦がなかった。

「現場では通用しない。迷えば死ぬ。救おうとした結果、さらに犠牲が増えることもある」
「はい」

ルミナははっきりと頷いた。

「その可能性は、理解しています」

フェルディナントは、思わず彼女を見た。
反論でも感情でもなく、覚悟を含んだ肯定だったからだ。

「それでも――です」

ルミナは真っすぐに言葉を重ねる。

「救える可能性があるのなら、私は一度は手を伸ばしたいです」
「それが失敗だった場合は?」
「その責任は、私が負います」

迷いのない声だった。
フェルディナントは、わずかに目を細める。

剣を振るう覚悟を持つ者は多い。
だが、振るわない選択の責任を引き受ける覚悟を口にする者は少ない。

「……重い言葉だな」
「そうかもしれませんね」

ルミナは小さく頭を下げた。

「ですから、フェル様。もし意見が分かれたときは
その場で、状況を見て判断しましょう」

フェルディナントは、しばらく無言で歩いた後、短く答えた。

「……いいだろう。だが、甘さが命取りになると判断したときは、私は剣を取る」
「はい」

ルミナは即座に応じた。

「そのときは、私も止めません」

その言葉に、フェルディナントは小さく息を吐いた。

――この少女は、理想を語るだけではない。
理想が崩れた先の責任まで、見据えている。

それが正しいかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも。

「……見届けさせてもらう」

その背中に向けて、フェルディナントはそう呟いた。
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