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【クリップ4】ルシアの置き手紙 備忘録 そして……
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@@@ メモ @@@
すぐに帰ります
待っていてください
愛してます
ルシアより
@@@@@@@@@@
**********
ルシアは忽然と姿を消した。テーブルには置き手紙が一枚と、何故かうどん玉が二食分。キッチンを確認してみたところ、ハンドブレンダーも無くなっていた。動揺せずにはいられなかったが、手紙には「すぐに帰ってくる」とある。きっと、ハンドブレンダーをあちらの世界に届けたらすぐにとんぼ返りで戻ってきてくれるのだろう。うどんは帰ってきてから彼女と一緒に食べることにして、とりあえず出社の準備に取り掛かる。
**********
仕事から帰ってきても、部屋は真っ暗なままだった。深夜近くになっても、彼女が帰ってくる気配はない。空腹も限界だし、うどんの準備をしてしまっていたので、うどんを茹でることにした。とりあえず、一玉分。
うどんはどうやら、ルシアが手作りしたらしい。捏ねが足りなかったのか、見た目は綺麗だったのに茹でたらボロボロと崩れてしまった。――うどんは、涙の味がした。
**********
大島にようやく、ルシアが帰ってしまったことを伝えた。大島は「ルッチィが嘘やお世辞で『すぐに帰る』とか『待っていて』なんて言うはずがない。絶対に帰ってくる」と言った。俺だって、そう思っている。でも、俺が「ずっとそばに」と言ったのは言葉通り離れ離れになりたくないということだし、だから連れて行って欲しいということだった。
どうしても連れてはいけないというのなら、俺がこちらの世界で待つほうが〈老いるまで、ずっと一緒に〉の約束を果たせるだろうと判断したのなら、せめてそう言って欲しかったし、見送らせて欲しかった。ていうか、どうせならメモでなく直接「愛してる」って言って欲しかった。初めての「愛してる」がメモって。ちゃんと、声で聞かせろよなあ……。
あのとき、きっと、一時的にでも別れとなるのが辛くて、それで俺が朝まで起きぬよう魔法をかけたんだろう。そのあとで、帰ってきてから一緒に食べるためか、はたまた一人分の分量が分からずにとりあえず俺がいつも作っている分量にしてしまったのか、とにかく一生懸命うどんをこさえてくれたのだろう。――なのにどうして、出会いの思い出であるうどんを今、彼女がいなくなったあとで俺はまた一人で食べているんだろうか。ひとりで食ううどんは、具を入れているはずなのにとても味気ない。早く、帰ってきて欲しい。
**********
彼女がいなくなってから、三ヶ月が経った。毎週末に干していた彼女の布団を、とうとう押入れにしまう決意をした。出しっぱなしよりは管理が楽になるだろうし、何より、所有者不在が長く続いているのだから仕方がない。
しまった途端に、涙が溢れ出た。彼女の布団分だけ部屋が広くなったが、同じだけ心にもぽっかり穴が空いたように感じた。
**********
彼女がいなくなってから、六ヶ月が経った。もしも俺が不在の間に彼女が帰ってきてもすぐに連絡がつくようにと、彼女のスマホは常にフル充電状態でテーブル上に置いておいてあった。しかし、ここ最近はすっかり管理を怠っていたようで、気がついたら電源が落ちていた。
充電し直しながら、これは〈彼女がいない生活に慣れ始めた結果〉なのかなと考えた。二ヶ月ほど前に待ち受けを彼女の写真から別のものへと変えたのだが、そのせいか。信じる気持ちよりも辛い気持ちのほうが勝ってしまい、写真を直視できなくなってしまったから変えてしまったのだが、俺はなんて馬鹿なことをしたのだろう。彼女がいないことに慣れるほうが、俺は嫌だし辛い。だからもう一度、待ち受けを彼女の写真に戻すことにした。
**********
九ヶ月経った。営業職は体が資本だから、どんなに飯が喉を通らずとも無理やり詰め込むようにはしてきた。だが、何だか最近、食が細くなったような気もする。一人だと食べるのも面倒というか、むしろあまり味も感じないようになってきた。大島が心配して食事に誘ってくれるのだが、それでようやく食えるという感じ。ありがたい。恩に着る。
俺が弱っていると大家さんから聞きでもしたのか、すっかり疎遠になっていたはずの明海さんからのアタックもじわじわと再開。でも、こんな状態でも、俺はまだ彼女を信じて待っている。それに、まだたったの九ヶ月。俺らの別れは一時的なものなのだし、それでも次に行く人もいるとは言ったって、やっぱりまだ九ヶ月。気持ちを整理して次へとは、俺はなれない。それに、九ヶ月なんて寿命の長い彼女からしたら「すぐ」の範囲だろう。ここいらがきっと、踏ん張りどき。
**********
「ほら、組み立て終わったよ。これでいいか?」
「わあ、拓郎さん、仕事早い! さすがですね!」
「ていうか、パソコンラックぐらい飯食ってからでいいだろう。何で最優先事項なんだよ……」
「だって、一分一秒でも早くパソ子ちゃん使いたいじゃないですか」
口を尖らせてそう言いながら、大島はつい今しがた俺が組み立てたばかりのパソコンラックに厳ついゲーミング用デスクトップを安置した。今まで住んでいた家で設置していたのと全く同じ環境へとパソコン周辺を整える作業を彼女が行うのを眺めながら、俺は冷蔵庫から飲み物を取り出した。
「一気に、俺の部屋じゃなくなった感が跳ね上がったな……」
「まあ、少しは仕方がないと思って諦めてくださいよ」
「分かってるよ。でも、これ以上モノは増やさないでくれよ? 俺の部屋じゃなくなるのは、本当に困るから」
分かってますよ、と言いながら、大島は鼻歌交じりのご機嫌な調子で〈自分の縄張り〉を整えていた。俺はリビング部分に戻りながら、彼女に「レンタカー返すついでに、昼飯行こうぜ」と声をかけようとした。しかし途中で言葉を飲み込むと、俺は耳をそばだてた。大島もまた、気配を探るように息を飲んだ。
糸をピンと張るように、部屋の中の空気に緊張が走ったような気がした。湖の表面が凍って氷が広がっていくような、そんな緊張感。そういう部類の張り詰めた音すら聞こえてきそうな、鋭い静寂。それが部屋全体に行き渡った瞬間、ドッと重たい衝撃が走った。
地鳴りのような音とともに、部屋は確かに揺れていた。しかし、揺れているのはこの〈部屋の中の空間〉だけだった。俺と大島はほんの一瞬視線を合わせると、その場から動くことなく、揺れの発生源を探って互いに視線をさまよわせた。そしてすぐに、俺たちの視線はリビングの一点に吸い寄せられた。――床に光でできた魔法陣が浮かび上がっており、そこから生えるようにして扉がするすると出現したからだ。
「えっ、なんでカティとカティのパソコン様が目の前に……?」
布の手提げを手に扉から現れた彼女は、部屋に足を踏み入れてすぐ困惑の表情を浮かべてそう言った。そしてぐるりと視線を巡らせて〈ここは俺の部屋である〉ということと、俺がいることを認識すると、何やら悲しげな表情を浮かべた。いつぞやの明海さん事件のときのような、今にも走ってどこかにいってしまいそうな雰囲気だった。
すかさず、彼女のすぐ近くにいた大島が彼女を羽交い締めにして捲し立てた。
「勘違いしないで! 私は〈拓郎さんの代わり〉としてここにいるの!」
彼女――ルシアは〈タクロー本人は今、眼の前にいるというのに、一体何を言っているの?〉と言いたげな表情を浮かべて、俺をじっと見た。俺はまるで夢でも見ているような気がして、思うように口も体も動かすことができなかった。それでも何とか「会社都合で、一時的にここを離れなければならなくなった」ということを伝えた。すると、ルシアは戸惑いの声を小さくあげつつも、体の力を抜いたようだった。それを感じたのか、大島は彼女から離れながら俺の代わりに続けた。
「拓郎さんね、どうしても断れない出向命令が出たんだよ。それで引っ越さなきゃいけなくなったんだけど、この部屋解約しちゃったら、ルッチィのこと待てなくなるでしょう? だから、出向が終わって帰ってくるまでの間、私が代わりに住むことに――」
説明しながら、大島はさり気なくルシアが手にしていた手提げを受け取ろうとした。ルシアは俺を見つめて「本当に?」と返しながら、大島にあっさりと手提げを譲り渡した。そして俺が返事の代わりに一生懸命コクコクと頷くと、ルシアは目に一杯の涙を浮かべて俺に向かって走ってきた。俺も彼女へと走り寄り、腕の中に飛び込んできた彼女を力の限り抱き締めた。
大島が空気を読んでこちらに背中を向けてくれたのをいいことに、俺とルシアは求めるがまま唇を重ね合わせた。――嗚呼。この柔らかな唇。花のように甘やかな香りをまとった髪。滑らかな肌はところどころ傷ができているし、抱き心地は何だか少し筋肉質な張りと硬さが増しているけれど、この一年、ずっと求めてやまなかったものが今、腕の中にあるだなんて。嗚呼、嗚呼。なんて。なんて幸せなん……
「あの、そろそろいいですかね? 私もちゃんと、ルッチィに『おかえり』が言いたいんですけど」
「……お前、めっちゃいいところで水を差すなよ」
俺は名残惜しそうにルシアから顔を離すと、彼女の肩越しに大島の背中を睨んだ。ルシアは俺の頬に頭を擦り寄せると、クスクスと笑いながら言った。
「ねえ、そろそろお昼どきでしょう? 私、こっちに来る前におうどん様打ってきたのよ。この一年ずっと練習してきたから、とても上手に打てているはずよ。さっそく確かめてみて」
「あ、本当だ。袋の中にそれっぽいものが。あれ、でもこれ、二人分? ……げっ、何このドス黒く変色したハンドブレンダーは。まさかこれ、おうどんメイク時に使ってないよね?」
それは大丈夫、と笑うルシアから完全に身を離すと、俺は大島からうどん玉を受け取った。大島はしょんぼりと「じゃあ、私、外で食べてきますね」と肩を落としたが、俺は「何で?」と返した。そしてルシアと俺は大島に笑顔を向けると、二人して大島の手を掴み、キッチン部分へと移動した。
「さあ、みんなで飯の準備をしよう。腹も心も満たされるような、とても美味い飯の準備をな」
「誰かだけが我慢なんて、そんなことさせないわよ。みんなでちゃんと、満たされましょうね」
「やった! ルッチィの愛情おうどん飯! 私も食べれるんだやったー!」
おかずをいろいろと用意すれば、二玉を三人で分けたって腹は膨れる。幸福のお裾分けは、やりようや気の持ちようでいくらでも行える。そしてそれは倍々にして増やしていけるのだ。
――俺はこれからもずっと、ルシアとともに。そして親友をはじめとする〈心優しい人たち〉とともに。小さな幸福を大きく育て、そしてそれで満たされる毎日を送っていこうと思ったのだった。
すぐに帰ります
待っていてください
愛してます
ルシアより
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ルシアは忽然と姿を消した。テーブルには置き手紙が一枚と、何故かうどん玉が二食分。キッチンを確認してみたところ、ハンドブレンダーも無くなっていた。動揺せずにはいられなかったが、手紙には「すぐに帰ってくる」とある。きっと、ハンドブレンダーをあちらの世界に届けたらすぐにとんぼ返りで戻ってきてくれるのだろう。うどんは帰ってきてから彼女と一緒に食べることにして、とりあえず出社の準備に取り掛かる。
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仕事から帰ってきても、部屋は真っ暗なままだった。深夜近くになっても、彼女が帰ってくる気配はない。空腹も限界だし、うどんの準備をしてしまっていたので、うどんを茹でることにした。とりあえず、一玉分。
うどんはどうやら、ルシアが手作りしたらしい。捏ねが足りなかったのか、見た目は綺麗だったのに茹でたらボロボロと崩れてしまった。――うどんは、涙の味がした。
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大島にようやく、ルシアが帰ってしまったことを伝えた。大島は「ルッチィが嘘やお世辞で『すぐに帰る』とか『待っていて』なんて言うはずがない。絶対に帰ってくる」と言った。俺だって、そう思っている。でも、俺が「ずっとそばに」と言ったのは言葉通り離れ離れになりたくないということだし、だから連れて行って欲しいということだった。
どうしても連れてはいけないというのなら、俺がこちらの世界で待つほうが〈老いるまで、ずっと一緒に〉の約束を果たせるだろうと判断したのなら、せめてそう言って欲しかったし、見送らせて欲しかった。ていうか、どうせならメモでなく直接「愛してる」って言って欲しかった。初めての「愛してる」がメモって。ちゃんと、声で聞かせろよなあ……。
あのとき、きっと、一時的にでも別れとなるのが辛くて、それで俺が朝まで起きぬよう魔法をかけたんだろう。そのあとで、帰ってきてから一緒に食べるためか、はたまた一人分の分量が分からずにとりあえず俺がいつも作っている分量にしてしまったのか、とにかく一生懸命うどんをこさえてくれたのだろう。――なのにどうして、出会いの思い出であるうどんを今、彼女がいなくなったあとで俺はまた一人で食べているんだろうか。ひとりで食ううどんは、具を入れているはずなのにとても味気ない。早く、帰ってきて欲しい。
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彼女がいなくなってから、三ヶ月が経った。毎週末に干していた彼女の布団を、とうとう押入れにしまう決意をした。出しっぱなしよりは管理が楽になるだろうし、何より、所有者不在が長く続いているのだから仕方がない。
しまった途端に、涙が溢れ出た。彼女の布団分だけ部屋が広くなったが、同じだけ心にもぽっかり穴が空いたように感じた。
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彼女がいなくなってから、六ヶ月が経った。もしも俺が不在の間に彼女が帰ってきてもすぐに連絡がつくようにと、彼女のスマホは常にフル充電状態でテーブル上に置いておいてあった。しかし、ここ最近はすっかり管理を怠っていたようで、気がついたら電源が落ちていた。
充電し直しながら、これは〈彼女がいない生活に慣れ始めた結果〉なのかなと考えた。二ヶ月ほど前に待ち受けを彼女の写真から別のものへと変えたのだが、そのせいか。信じる気持ちよりも辛い気持ちのほうが勝ってしまい、写真を直視できなくなってしまったから変えてしまったのだが、俺はなんて馬鹿なことをしたのだろう。彼女がいないことに慣れるほうが、俺は嫌だし辛い。だからもう一度、待ち受けを彼女の写真に戻すことにした。
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九ヶ月経った。営業職は体が資本だから、どんなに飯が喉を通らずとも無理やり詰め込むようにはしてきた。だが、何だか最近、食が細くなったような気もする。一人だと食べるのも面倒というか、むしろあまり味も感じないようになってきた。大島が心配して食事に誘ってくれるのだが、それでようやく食えるという感じ。ありがたい。恩に着る。
俺が弱っていると大家さんから聞きでもしたのか、すっかり疎遠になっていたはずの明海さんからのアタックもじわじわと再開。でも、こんな状態でも、俺はまだ彼女を信じて待っている。それに、まだたったの九ヶ月。俺らの別れは一時的なものなのだし、それでも次に行く人もいるとは言ったって、やっぱりまだ九ヶ月。気持ちを整理して次へとは、俺はなれない。それに、九ヶ月なんて寿命の長い彼女からしたら「すぐ」の範囲だろう。ここいらがきっと、踏ん張りどき。
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「ほら、組み立て終わったよ。これでいいか?」
「わあ、拓郎さん、仕事早い! さすがですね!」
「ていうか、パソコンラックぐらい飯食ってからでいいだろう。何で最優先事項なんだよ……」
「だって、一分一秒でも早くパソ子ちゃん使いたいじゃないですか」
口を尖らせてそう言いながら、大島はつい今しがた俺が組み立てたばかりのパソコンラックに厳ついゲーミング用デスクトップを安置した。今まで住んでいた家で設置していたのと全く同じ環境へとパソコン周辺を整える作業を彼女が行うのを眺めながら、俺は冷蔵庫から飲み物を取り出した。
「一気に、俺の部屋じゃなくなった感が跳ね上がったな……」
「まあ、少しは仕方がないと思って諦めてくださいよ」
「分かってるよ。でも、これ以上モノは増やさないでくれよ? 俺の部屋じゃなくなるのは、本当に困るから」
分かってますよ、と言いながら、大島は鼻歌交じりのご機嫌な調子で〈自分の縄張り〉を整えていた。俺はリビング部分に戻りながら、彼女に「レンタカー返すついでに、昼飯行こうぜ」と声をかけようとした。しかし途中で言葉を飲み込むと、俺は耳をそばだてた。大島もまた、気配を探るように息を飲んだ。
糸をピンと張るように、部屋の中の空気に緊張が走ったような気がした。湖の表面が凍って氷が広がっていくような、そんな緊張感。そういう部類の張り詰めた音すら聞こえてきそうな、鋭い静寂。それが部屋全体に行き渡った瞬間、ドッと重たい衝撃が走った。
地鳴りのような音とともに、部屋は確かに揺れていた。しかし、揺れているのはこの〈部屋の中の空間〉だけだった。俺と大島はほんの一瞬視線を合わせると、その場から動くことなく、揺れの発生源を探って互いに視線をさまよわせた。そしてすぐに、俺たちの視線はリビングの一点に吸い寄せられた。――床に光でできた魔法陣が浮かび上がっており、そこから生えるようにして扉がするすると出現したからだ。
「えっ、なんでカティとカティのパソコン様が目の前に……?」
布の手提げを手に扉から現れた彼女は、部屋に足を踏み入れてすぐ困惑の表情を浮かべてそう言った。そしてぐるりと視線を巡らせて〈ここは俺の部屋である〉ということと、俺がいることを認識すると、何やら悲しげな表情を浮かべた。いつぞやの明海さん事件のときのような、今にも走ってどこかにいってしまいそうな雰囲気だった。
すかさず、彼女のすぐ近くにいた大島が彼女を羽交い締めにして捲し立てた。
「勘違いしないで! 私は〈拓郎さんの代わり〉としてここにいるの!」
彼女――ルシアは〈タクロー本人は今、眼の前にいるというのに、一体何を言っているの?〉と言いたげな表情を浮かべて、俺をじっと見た。俺はまるで夢でも見ているような気がして、思うように口も体も動かすことができなかった。それでも何とか「会社都合で、一時的にここを離れなければならなくなった」ということを伝えた。すると、ルシアは戸惑いの声を小さくあげつつも、体の力を抜いたようだった。それを感じたのか、大島は彼女から離れながら俺の代わりに続けた。
「拓郎さんね、どうしても断れない出向命令が出たんだよ。それで引っ越さなきゃいけなくなったんだけど、この部屋解約しちゃったら、ルッチィのこと待てなくなるでしょう? だから、出向が終わって帰ってくるまでの間、私が代わりに住むことに――」
説明しながら、大島はさり気なくルシアが手にしていた手提げを受け取ろうとした。ルシアは俺を見つめて「本当に?」と返しながら、大島にあっさりと手提げを譲り渡した。そして俺が返事の代わりに一生懸命コクコクと頷くと、ルシアは目に一杯の涙を浮かべて俺に向かって走ってきた。俺も彼女へと走り寄り、腕の中に飛び込んできた彼女を力の限り抱き締めた。
大島が空気を読んでこちらに背中を向けてくれたのをいいことに、俺とルシアは求めるがまま唇を重ね合わせた。――嗚呼。この柔らかな唇。花のように甘やかな香りをまとった髪。滑らかな肌はところどころ傷ができているし、抱き心地は何だか少し筋肉質な張りと硬さが増しているけれど、この一年、ずっと求めてやまなかったものが今、腕の中にあるだなんて。嗚呼、嗚呼。なんて。なんて幸せなん……
「あの、そろそろいいですかね? 私もちゃんと、ルッチィに『おかえり』が言いたいんですけど」
「……お前、めっちゃいいところで水を差すなよ」
俺は名残惜しそうにルシアから顔を離すと、彼女の肩越しに大島の背中を睨んだ。ルシアは俺の頬に頭を擦り寄せると、クスクスと笑いながら言った。
「ねえ、そろそろお昼どきでしょう? 私、こっちに来る前におうどん様打ってきたのよ。この一年ずっと練習してきたから、とても上手に打てているはずよ。さっそく確かめてみて」
「あ、本当だ。袋の中にそれっぽいものが。あれ、でもこれ、二人分? ……げっ、何このドス黒く変色したハンドブレンダーは。まさかこれ、おうどんメイク時に使ってないよね?」
それは大丈夫、と笑うルシアから完全に身を離すと、俺は大島からうどん玉を受け取った。大島はしょんぼりと「じゃあ、私、外で食べてきますね」と肩を落としたが、俺は「何で?」と返した。そしてルシアと俺は大島に笑顔を向けると、二人して大島の手を掴み、キッチン部分へと移動した。
「さあ、みんなで飯の準備をしよう。腹も心も満たされるような、とても美味い飯の準備をな」
「誰かだけが我慢なんて、そんなことさせないわよ。みんなでちゃんと、満たされましょうね」
「やった! ルッチィの愛情おうどん飯! 私も食べれるんだやったー!」
おかずをいろいろと用意すれば、二玉を三人で分けたって腹は膨れる。幸福のお裾分けは、やりようや気の持ちようでいくらでも行える。そしてそれは倍々にして増やしていけるのだ。
――俺はこれからもずっと、ルシアとともに。そして親友をはじめとする〈心優しい人たち〉とともに。小さな幸福を大きく育て、そしてそれで満たされる毎日を送っていこうと思ったのだった。
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