噺屋コトザメ

プルエ

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 この時間になってもしつこい暑さが仄かにシャツを濡らす。涼しいところから出たばかりで、こめかみには結露のような汗がはっきりと浮いている。
 暫く歩くと、コトザメは大通りを曲がって裏路地に入った。人も車も多い表通りとはうって変わって、随分と暗い路地だ。古いビルやアパートが立ち並んでいるが人の気配は無く、粉々に破れたチラシが張り付くアスファルトには、あちこちにちた看板の破片や空缶、塵が散らばっている。日影のせいか、急にひんやりとした空気が背中を撫でた。
 久義は、にわかに不安を感じた。こういった場所は昔から苦手なのだ。暗がりや廃れた場所、じめじめした場所──。とにかく、人の寄り付かない所には、直感で「よくない」と悟るようなおぞましい姿の「怪」が潜んでいることがあるからだ。
 コトザメは、何故わざわざこんな道を? 彼は怪についてかなり詳しいようだが、生業とは一体どういうことなのか。
 疑問ばかりが積もっていく。しかし、出会ってたかだか数十分の相手の思考など、推測すらできる筈もない。
 もしや騙されているのでは?
 度々考えることがあった。もしかしたら自分は幻覚を見ているだけで、本当はそんなもの──怪など存在しないのではないか。単に脳が勝手に作り出した妄想が、視覚に現れているだけに過ぎないとしたら……。
「久義」
 コトザメの声に、久義ははっとした。コトザメは、一棟のアパートの前で足を止めている。汚れきったコンクリートはひび割れ、全体に蔦が絡み付いているような、廃墟ともつかない古アパート。
「ここって……」
「蛇蔦の住処だ。さっき店にいた蔦も、ここで生まれたものだよ」
 コトザメは二階に繋がる錆び付いた鉄の階段を上がりながら、ジッポライターのスポンジに小さな小瓶から透明の液を垂らした。
 階段を上って外に面した通路へ曲がると、蔓延はびこる蔦のせいか二階は一階よりもずっと暗く、外に面した左手から蔦のカーテンの隙間を縫って差し込む光さえ不穏なものに見えた。
 右手には赤錆だらけの青いドアが十ほど等間隔で並んでいるが表札は無く、どこのドアポストにも長年チラシすら挟まれた形跡はない。
「住処って、まずいんじゃないのか?」
 久義は、いよいよ堪え切れなくなって尋ねた。ライターに火を灯したまま前を歩くコトザメは、数秒の間を置いて答える。
「まずいから駆除するんだ」
「駆除だって?」
「蛇蔦は成長しすぎると危ないんだよ。ここの奴は、既に子供を切り離せるくらいに成長してしまっている。人間に被害が出ない内に摘んでやらないと、面倒なことになったら困る」
「被害って、毒とか?」
「蛇蔦は肉食だ」
 コトザメはぴたりと立ち止まった。向こうにはまだ二つドアがある。ここは奥から三番目の部屋の前だ。
「若いうちは他の怪を、成長するにつれて植物や虫も食い始める。次は鳥や小動物。やがては人間まで食うようになる」
「まさか。だって、蔦がどうやって肉を食べるんだ?」
「大口開けて、パクリ」
 軽く冗談めいた口調が余計に久義をゾッとさせた。久義は無意識にバッグを両腕に抱え直し、コトザメがドアノブを握るのを青い顔で見詰める。
「すぐに終わるよ。中の蛇蔦を見たら、後ろに下がって」
「え、ちょっと──」
 待って、と久義が声を上げる前に、コトザメはドアを開け放った。
 否応いやおうなしに目に飛び込んできた光景に久義は絶句する。
 なんだ、これは。
 部屋の中一杯に、蔦が──。
 詰め込まれている、としか表現できない。一歩も踏み入る余地などなく、もはや蔦とは呼べぬ程の太さの蔦が我先にとドアの外へ出ようと軋みながらうごめいていた。
「早く下がって」
 コトザメはやや強い口調で言いながら、ほんの僅かな蔦の隙間にライターを投げ入れ、素早くドアを閉めた。
 恐ろしい悲鳴のような甲高い音が耳をつんざく。久義は反射的にバッグを落として耳を塞いだが、それでも鼓膜が破れそうだ。
 なのに、この大音量のなかでも「行くよ」と言ったコトザメの落ち着き払った声だけは、不思議とよく聞こえた。見ると、コトザメは久義のバッグを持ち、早くも階段の方へ歩き始めていた。



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