指先が覚えている — What My Fingers Remember

梵天丸

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第一話 最後の夜

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 薄く開けたカーテンの隙間から、夜景の粒がベッドの白にこぼれ落ちていた。
遠くの信号が青から赤に変わるたび、壁紙に淡い色の波が映る。その淡い光の中で、俺は桐生 瑛司の体温に絡め取られていた。
 背中に回された腕は重く、逃げ場を奪う。熱のこもった吐息が耳元に落ち、鼓膜が内側から震えた。
 シーツが肌に貼りつくほど、互いの体温は高くなっていた。濡れた髪の先から落ちる汗が、首筋を伝って背骨のあたりで止まる。その生々しい感覚に、息が詰まる。

「……っ」

 短く漏れた声に、瑛司は口の端をわずかに上げ、体の芯を灼くような熱で、ゆっくりと奥をこじ開けてくる。逃げ場のない快感が腹の底で渦を巻き、思考を麻痺させた。

「我慢しなくていい」

 低く、湿った声。

「もっと声、聞かせろ」

 耳の奥に残る響きに、理性が削られていく。
 指先が、背中をなぞる。背骨の窪みをひとつひとつ確かめるように辿り、汗で滑る肌の上を執拗に往復する。そこから熱が伝わって、全身の神経がその指の動きだけに支配されるようだった。何度も触れられてきたはずなのに、今日の手つきはやけに執拗で、逃がす気配がなかった。

 唇を重ねるたび、息の中に混ざる微かなアルコールの匂いが鼻をくすぐる。

 その匂いが、最初の夜を思い出させる。酔った勢いで始まった関係。理屈より先に、体がこの男を求めてしまった、あの夜を。

 髪を掴まれ、顎を上げさせられる。視線が絡む一瞬、瑛司の瞳が熱を帯びて揺れていた。

 深く抉るような動きと、焦らすような浅い動きが繰り返される。波のようなリズムに、呼吸が合わせられていく。
 腰骨のあたりを撫でる大きな手が、わざとらしくゆっくりと動く。その指が腹の下へと回り込み、中心に触れた瞬間、体が勝手に跳ねた。

「……っは、……やめ……」

 抵抗の言葉は、しかし、彼の舌によって音になる前に飲み込まれた。抵抗しようとする意志とは裏腹に、体は正直に彼の熱を受け入れてしまう。その裏切りにも似た感覚が、罪悪感と共に快感を増幅させた。

 肩口に落ちる歯の感触と、その後に押し当てられる舌の温かさ。甘噛みされた箇所にじんと熱が集まる。強くも弱くもない圧に、拒めない安堵が混ざる。
 胸の奥で高鳴る鼓動は、もはや自分のものじゃない。

 気づけば、指先が瑛司の背に爪を立てていた。わずかに吸い込まれる息と、その息が肌に落ちる感触が、どうしようもなく熱を煽る。

 耳元で名前を呼ばれる。短く、低く、溶けるように。
 その一言で、もう何も考えられなくなる。

 呼吸が荒くなり、視界の端が白く滲む。腰を支える腕がさらに強くなり、一番奥を強く押し付けられ、逃げ場は完全になくなった。

「……瑛司……っ」
「もっと、こっち見ろ」

 顎を掴まれ、視線を絡めたまま深く沈められる。痛みと快感の境界が溶け、喉の奥から獣のような声が勝手に零れた。
 やがて、体の中で熱い奔流が放たれる感覚と共に、波が収まるように動きが緩む。熱のこもった額を俺の肩に預け、荒い呼吸が耳をかすめた。汗と体温と、彼の匂い。すべてが胸の奥に沈み込んでいく。


 シーツに崩れ落ちたあと、互いの息が少しずつ落ち着いていく。天井を見つめながら、瑛司がペットボトルの水を手に取ってキャップを開け、俺に差し出す。

「……飲む?」
「うん」

 冷たい水が喉を流れ、火照った体をわずかに落ち着かせる。

「シャワー、先に浴びて」
「一緒じゃダメ?」
「ダメ」

 苦笑する声に、肩をすくめる。「じゃあ、タオルは温めておく」

 こういうところだ。
 俺はこの不器用なやさしさに、弱い。
 だから、いけない。
 いま、ここで境界をまたいだら、戻れなくなる。

 浴室から戻ると、ベッドライトの周りに柔らかな輪ができていた。瑛司はシーツを整え、俺の濡れた髪をタオルで拭きながら、何か言いたげに唇を結ぶ。

「何?」
「いや」——首を振った。「仕事の話、してもいい?」
「うん」

 彼が経営している会社のこと。少数精鋭で、新しい案件が決まったこと。ひとり辞めた部下の話と、残ったメンバーの顔ぶれ。
 事実だけを並べるくせに、ひとつひとつに体温が乗る。
 彼の話を聞くのが好きだ。
 それが、俺には一番危険だとも知っている。

「……楽しい?」

 口をついて出た問いに、瑛司は少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。

「苦しいことのほうが多いけど、楽しいよ」
 その返事がまぶしく見えて、目を逸らす。
「悠斗は?」
「俺は——」

 言いかけて、喉が止まる。言ってはいけない。君の隣は、楽しい。そう言ったら、どこかが決壊してしまう。

 視線をごまかすように、彼の鎖骨に指先で円を描く。触れることなら、まだ嘘にできる。

「もう一回、したい?」

 冗談めかして言えば、彼は少しだけ眉を下げた。

「無理はしなくていい」

 その言葉が、急所に刺さる。どうして、そんなふうにやさしくするの。どうして、俺の弱さを許してしまうの。所詮はヤるだけのセフレの関係なのに。

 彼の唇に触れる。浅く重ねて、深く奪って、また浅く戻る。呼吸が絡まるたび、胸の奥で誰かが囁く。やめておけ。これ以上、好きになるな。

 終わった後、シーツに広がる静けさのなかで、俺は彼の胸に額を預けた。

「眠い?」
「少し」
「寝るまで撫でてる」

 大きな手が、後頭部をゆっくり往復する。安心は、期待を呼ぶ。期待は、裏切りに似る。——昔の恋人の顔が、一瞬、脳裏をよぎる。

 心臓の早さを数える。ここは安全じゃない。この人は、やさしすぎる。やさしさは、刃物だ。俺はきっと、切り傷だらけになる。

「……瑛司」
「ん?」
「ごめん。——もう、終わりにしよう」

 彼の手が止まった。

「……どういう意味?」
「こういうの、もうやめよってこと」
「俺、これ以上は無理。たぶん、ダメになる」
「ダメって?」
「好きになったら、傷つく」

 瑛司はすぐには何も言わず、目を閉じた。

「……わかった」

 ベッドから立ち上がり、服を拾う。

「タクシー、呼ぶ?」
「駅まで歩くよ」
「雨、降ってる」

 玄関の鍵が開く音がする。

「……送らない」
「うん」

 背中に視線を感じながら、ドアノブを回す。

「……体、気をつけて」

 やさしい声に、胸が痛くなる。

 外は雨の匂い。
 傘を差さず、しばらく立ち尽くした。
 ——指先は、まだ熱い。
 記憶は、まだ柔らかい。
 忘れなきゃ、生きられない。そう言い聞かせ、夜に溶けた。
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