2 / 10
第二話 偽りのフーガ
しおりを挟む
披露宴会場の入り口をくぐった瞬間、花と香水が混ざった甘い香りが鼻をくすぐった。
白いクロスのかかった丸テーブル、磨き上げられたカトラリー、天井から下がるシャンデリアが淡く揺れている。グラスに反射する光が、まるで水面のように瞬いていた。
あちこちから笑い声と乾杯の声が響き、シャンパングラスの澄んだ音がその合間を縫っていく。
「おお、久遠じゃん!」
背後から肩を叩かれ、反射的に振り返る。
転職前の会社で同じ部署にいた元同僚が、懐かしそうに笑っていた。
「……一ノ瀬、だよ」
「あ、そうだったな。悪い」
軽く手を上げて去っていく背中を見送りながら、胸の奥でひそかに息を吐く。
両親が離婚し、母方の姓に戻したのは二年前。理由はそれだけじゃない。あの人と関わった痕跡を、できる限り消すためだった。
——その「あの人」が、この会場にいる。
視線を巡らせた瞬間、心臓が一拍、強く打った。
黒髪の男。長めの前髪が耳にかかり、柔らかな光を吸い込むように艶やかだ。深く切れ長の瞳が、鋭さと静かな熱を湛えてこちらを捉える。漆黒のスーツは肩から背中までぴたりと馴染み、胸元の白いシャツと漆黒のタイがその輪郭を際立たせていた。
——桐生 瑛司。
4年ぶりに見るその姿は、以前よりも重厚で、息を呑むほどの存在感をまとっていた。
視線が交わった瞬間、全身が強張った。
目が離せない。離したら、二度と見られなくなるような気がした。
彼の口元がわずかに動く。けれど、音は届かない。会場のざわめきとグラスの音が、すべてをかき消す。
逃げるように席次表へ視線を落とし、反対方向へ歩き出そうとした——その腕を、不意に掴まれた。
「……!」
大きな手が、迷いなく俺の肌に食い込む。
「久しぶりだな」
低く落ち着いた声。4年前と変わらない響きに、胸の奥がざわつく。
「……偶然だね」
「偶然じゃない」
短く言い切る目は、笑っていなかった。
「少し、外に出ないか」
返事を待たず、掴んだ腕を引く。
「ちょ、瑛司——!」
小声で抗議しても、彼は歩調を緩めない。
会場を出ると、空気が一気に冷たくなった。廊下の赤い絨毯を踏みしめる音が響く。
「離せ」
「人前じゃ話せない」
「話すことなんてない」
「ある」
低い声に、足がわずかに止まりそうになる。
非常口の扉を押し開けると、夜風が吹き込んだ。
小さなテラス。ガラス越しに広がる都会の夜景、流れる車のライト。遠くの街の明かりが、彼の黒髪の艶を縁取っている。
「……急に何のつもり」
「会えたから」
「……」
「ずっと、探してた」
まっすぐすぎる言葉に、胸が揺れる。
笑ってごまかそうとして、唇が勝手に動いた。
「……もしかしてさ、俺と寝たいの?」
挑発だ。冗談にしてしまえば、この熱を冷ませると思った。
だが、瑛司は瞬きもせずに言った。
「そう思ってもらってもいい。でも……それだけじゃない」
低く響く声が、夜気よりも熱を帯びて胸の奥に沈む。
息が詰まり、言葉が出ない。
一歩、距離が詰まる。
「どうして俺から逃げた?」
低く押し殺した声が、夜気の中で重く響く。
「何が嫌なんだ。俺が嫌か?」
「違う」
「じゃあ、何だ」
「……」
喉が渇く。答えれば、壊したはずの何かがまた動き出してしまう。
背中がガラスに押し付けられ、冷たさが背筋を駆け上がる。
頬を包む手が、夜風より熱い。
次の瞬間、唇が重なった。
強引なのに、懐かしい温度。
金髪の前髪が視界の端で揺れ、自分が震えているのがわかる。抗おうとした手は、彼の胸に置かれるだけで力が入らない。
「……っ」
息を奪われ、目を閉じた。遠くの笑い声が、別世界の音みたいに遠ざかっていく。
唇が離れたとき、冷たい空気が喉を落ちていった。
「……なんで」
「理由が欲しいなら、あとで全部話す」
「今は——」
言いかけた声を、彼の指先が塞ぐ。
「逃げるな」
背中が震える。
彼は何も言わず、ゆっくりと手を離した。
「……戻るか」
先に扉を開け、廊下へ歩き出す背中。黒髪が小さく揺れ、淡い光を吸い込む。
足がすぐには動かなかった。
唇に残る感触と、胸の奥で荒れる鼓動を持て余しながら、遅れてその背を追う。
再び会場に入れば、光と音が押し寄せる。誰も俺たちの間に何があったかは知らない。
ただ、手にしたシャンパングラスがわずかに震えていた。
ーーーーーー
第二話「偽りのフーガ」はYouTubeで公開している楽曲「偽りのフーガ — Fugue of Lies」とリンクしています。良かったらどちらもお楽しみいただけると幸いです。
偽りのフーガ — Fugue of Lies:https://youtu.be/dPHVk3YgJVE
白いクロスのかかった丸テーブル、磨き上げられたカトラリー、天井から下がるシャンデリアが淡く揺れている。グラスに反射する光が、まるで水面のように瞬いていた。
あちこちから笑い声と乾杯の声が響き、シャンパングラスの澄んだ音がその合間を縫っていく。
「おお、久遠じゃん!」
背後から肩を叩かれ、反射的に振り返る。
転職前の会社で同じ部署にいた元同僚が、懐かしそうに笑っていた。
「……一ノ瀬、だよ」
「あ、そうだったな。悪い」
軽く手を上げて去っていく背中を見送りながら、胸の奥でひそかに息を吐く。
両親が離婚し、母方の姓に戻したのは二年前。理由はそれだけじゃない。あの人と関わった痕跡を、できる限り消すためだった。
——その「あの人」が、この会場にいる。
視線を巡らせた瞬間、心臓が一拍、強く打った。
黒髪の男。長めの前髪が耳にかかり、柔らかな光を吸い込むように艶やかだ。深く切れ長の瞳が、鋭さと静かな熱を湛えてこちらを捉える。漆黒のスーツは肩から背中までぴたりと馴染み、胸元の白いシャツと漆黒のタイがその輪郭を際立たせていた。
——桐生 瑛司。
4年ぶりに見るその姿は、以前よりも重厚で、息を呑むほどの存在感をまとっていた。
視線が交わった瞬間、全身が強張った。
目が離せない。離したら、二度と見られなくなるような気がした。
彼の口元がわずかに動く。けれど、音は届かない。会場のざわめきとグラスの音が、すべてをかき消す。
逃げるように席次表へ視線を落とし、反対方向へ歩き出そうとした——その腕を、不意に掴まれた。
「……!」
大きな手が、迷いなく俺の肌に食い込む。
「久しぶりだな」
低く落ち着いた声。4年前と変わらない響きに、胸の奥がざわつく。
「……偶然だね」
「偶然じゃない」
短く言い切る目は、笑っていなかった。
「少し、外に出ないか」
返事を待たず、掴んだ腕を引く。
「ちょ、瑛司——!」
小声で抗議しても、彼は歩調を緩めない。
会場を出ると、空気が一気に冷たくなった。廊下の赤い絨毯を踏みしめる音が響く。
「離せ」
「人前じゃ話せない」
「話すことなんてない」
「ある」
低い声に、足がわずかに止まりそうになる。
非常口の扉を押し開けると、夜風が吹き込んだ。
小さなテラス。ガラス越しに広がる都会の夜景、流れる車のライト。遠くの街の明かりが、彼の黒髪の艶を縁取っている。
「……急に何のつもり」
「会えたから」
「……」
「ずっと、探してた」
まっすぐすぎる言葉に、胸が揺れる。
笑ってごまかそうとして、唇が勝手に動いた。
「……もしかしてさ、俺と寝たいの?」
挑発だ。冗談にしてしまえば、この熱を冷ませると思った。
だが、瑛司は瞬きもせずに言った。
「そう思ってもらってもいい。でも……それだけじゃない」
低く響く声が、夜気よりも熱を帯びて胸の奥に沈む。
息が詰まり、言葉が出ない。
一歩、距離が詰まる。
「どうして俺から逃げた?」
低く押し殺した声が、夜気の中で重く響く。
「何が嫌なんだ。俺が嫌か?」
「違う」
「じゃあ、何だ」
「……」
喉が渇く。答えれば、壊したはずの何かがまた動き出してしまう。
背中がガラスに押し付けられ、冷たさが背筋を駆け上がる。
頬を包む手が、夜風より熱い。
次の瞬間、唇が重なった。
強引なのに、懐かしい温度。
金髪の前髪が視界の端で揺れ、自分が震えているのがわかる。抗おうとした手は、彼の胸に置かれるだけで力が入らない。
「……っ」
息を奪われ、目を閉じた。遠くの笑い声が、別世界の音みたいに遠ざかっていく。
唇が離れたとき、冷たい空気が喉を落ちていった。
「……なんで」
「理由が欲しいなら、あとで全部話す」
「今は——」
言いかけた声を、彼の指先が塞ぐ。
「逃げるな」
背中が震える。
彼は何も言わず、ゆっくりと手を離した。
「……戻るか」
先に扉を開け、廊下へ歩き出す背中。黒髪が小さく揺れ、淡い光を吸い込む。
足がすぐには動かなかった。
唇に残る感触と、胸の奥で荒れる鼓動を持て余しながら、遅れてその背を追う。
再び会場に入れば、光と音が押し寄せる。誰も俺たちの間に何があったかは知らない。
ただ、手にしたシャンパングラスがわずかに震えていた。
ーーーーーー
第二話「偽りのフーガ」はYouTubeで公開している楽曲「偽りのフーガ — Fugue of Lies」とリンクしています。良かったらどちらもお楽しみいただけると幸いです。
偽りのフーガ — Fugue of Lies:https://youtu.be/dPHVk3YgJVE
1
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
氷の檻に閉じ込められた月~兄上のすべては、私のもの~
春野ふぶき
BL
『兄上は私のものだ。魂も、肉体も。永遠に―—』
アーヴェント侯爵家の長男ライカは、妾腹として正妻に虐げられ続けてきた。
唯一の救いは、次期当主を目される異母弟カイエンの存在。
美しく聡明で、氷の騎士と呼ばれる彼だけは、常にライカの味方だった。
だが、その愛情は兄を守るものではなく、深く歪んだ執着だった。
母を排除し、兄を囲い込み、逃げれば鎖で捕らえる。
そしてついに、ライカの心身は限界に追い詰められていく。
——カイエンが下す「最後の選択」とは。
ふたりが辿る結末は、幸福か、それとも狂気の果てか。
【完結】《BL》溺愛しないで下さい!僕はあなたの弟殿下ではありません!
白雨 音
BL
早くに両親を亡くし、孤児院で育ったテオは、勉強が好きだった為、修道院に入った。
現在二十歳、修道士となり、修道院で静かに暮らしていたが、
ある時、強制的に、第三王子クリストフの影武者にされてしまう。
クリストフは、テオに全てを丸投げし、「世界を見て来る!」と旅に出てしまった。
正体がバレたら、処刑されるかもしれない…必死でクリストフを演じるテオ。
そんなテオに、何かと構って来る、兄殿下の王太子ランベール。
どうやら、兄殿下と弟殿下は、密な関係の様で…??
BL異世界恋愛:短編(全24話) ※魔法要素ありません。※一部18禁(☆印です)
《完結しました》
テメェを離すのは死ぬ時だってわかってるよな?~美貌の恋人は捕まらない~
ちろる
BL
美貌の恋人、一華 由貴(いっか ゆき)を持つ風早 颯(かざはや はやて)は
何故か一途に愛されず、奔放に他に女や男を作るバイセクシャルの由貴に
それでも執着にまみれて耐え忍びながら捕まえておくことを選んでいた。
素直になれない自分に嫌気が差していた頃――。
表紙画はミカスケ様(https://www.instagram.com/mikasuke.free/)の
フリーイラストを拝借させて頂いています。
星降る夜に ~これは大人の純愛なのか。臆病者の足踏みか。~
大波小波
BL
鳴滝 和正(なるたき かずまさ)は、イベント会社に勤めるサラリーマンだ。
彼はある日、打ち合わせ先の空き時間を過ごしたプラネタリウムで、寝入ってしまう。
和正を優しく起こしてくれたのは、そこのナレーターを務める青年・清水 祐也(しみず ゆうや)だった。
祐也を気に入った和正は、頻繁にプラネタリウムに通うようになる。
夕食も共にするほど、親しくなった二人。
しかし祐也は夜のバイトが忙しく、なかなかデートの時間が取れなかった。
それでも彼と過ごした後は、心が晴れる和正だ。
浮かれ気分のまま、彼はボーイズ・バーに立ち寄った。
そしてスタッフメニューの中に、祐也の姿を見つけてしまう。
彼の夜の顔は、風俗店で働く男娼だったのだ……。
恋した貴方はαなロミオ
須藤慎弥
BL
Ω性の凛太が恋したのは、ロミオに扮したα性の結城先輩でした。
Ω性に引け目を感じている凛太。
凛太を運命の番だと信じているα性の結城。
すれ違う二人を引き寄せたヒート。
ほんわか現代BLオメガバース♡
※二人それぞれの視点が交互に展開します
※R 18要素はほとんどありませんが、表現と受け取り方に個人差があるものと判断しレーティングマークを付けさせていただきますm(*_ _)m
※fujossy様にて行われました「コスプレ」をテーマにした短編コンテスト出品作です
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる

