指先が覚えている — What My Fingers Remember

梵天丸

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第二話 偽りのフーガ

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 披露宴会場の入り口をくぐった瞬間、花と香水が混ざった甘い香りが鼻をくすぐった。
 白いクロスのかかった丸テーブル、磨き上げられたカトラリー、天井から下がるシャンデリアが淡く揺れている。グラスに反射する光が、まるで水面のように瞬いていた。
 あちこちから笑い声と乾杯の声が響き、シャンパングラスの澄んだ音がその合間を縫っていく。

「おお、久遠じゃん!」
 背後から肩を叩かれ、反射的に振り返る。
 転職前の会社で同じ部署にいた元同僚が、懐かしそうに笑っていた。
「……一ノ瀬、だよ」
「あ、そうだったな。悪い」
 軽く手を上げて去っていく背中を見送りながら、胸の奥でひそかに息を吐く。
 両親が離婚し、母方の姓に戻したのは二年前。理由はそれだけじゃない。あの人と関わった痕跡を、できる限り消すためだった。

 ——その「あの人」が、この会場にいる。

 視線を巡らせた瞬間、心臓が一拍、強く打った。
 黒髪の男。長めの前髪が耳にかかり、柔らかな光を吸い込むように艶やかだ。深く切れ長の瞳が、鋭さと静かな熱を湛えてこちらを捉える。漆黒のスーツは肩から背中までぴたりと馴染み、胸元の白いシャツと漆黒のタイがその輪郭を際立たせていた。
 ——桐生 瑛司。
 4年ぶりに見るその姿は、以前よりも重厚で、息を呑むほどの存在感をまとっていた。



 視線が交わった瞬間、全身が強張った。
 目が離せない。離したら、二度と見られなくなるような気がした。
 彼の口元がわずかに動く。けれど、音は届かない。会場のざわめきとグラスの音が、すべてをかき消す。

 逃げるように席次表へ視線を落とし、反対方向へ歩き出そうとした——その腕を、不意に掴まれた。
「……!」
 大きな手が、迷いなく俺の肌に食い込む。
「久しぶりだな」
 低く落ち着いた声。4年前と変わらない響きに、胸の奥がざわつく。
「……偶然だね」
「偶然じゃない」
 短く言い切る目は、笑っていなかった。

「少し、外に出ないか」
 返事を待たず、掴んだ腕を引く。
「ちょ、瑛司——!」
 小声で抗議しても、彼は歩調を緩めない。

 会場を出ると、空気が一気に冷たくなった。廊下の赤い絨毯を踏みしめる音が響く。
「離せ」
「人前じゃ話せない」
「話すことなんてない」
「ある」
 低い声に、足がわずかに止まりそうになる。

 非常口の扉を押し開けると、夜風が吹き込んだ。
 小さなテラス。ガラス越しに広がる都会の夜景、流れる車のライト。遠くの街の明かりが、彼の黒髪の艶を縁取っている。

「……急に何のつもり」
「会えたから」
「……」
「ずっと、探してた」
 まっすぐすぎる言葉に、胸が揺れる。

 笑ってごまかそうとして、唇が勝手に動いた。
「……もしかしてさ、俺と寝たいの?」
 挑発だ。冗談にしてしまえば、この熱を冷ませると思った。

 だが、瑛司は瞬きもせずに言った。
「そう思ってもらってもいい。でも……それだけじゃない」
 低く響く声が、夜気よりも熱を帯びて胸の奥に沈む。
 息が詰まり、言葉が出ない。

 一歩、距離が詰まる。
「どうして俺から逃げた?」
 低く押し殺した声が、夜気の中で重く響く。
「何が嫌なんだ。俺が嫌か?」
「違う」
「じゃあ、何だ」
「……」
 喉が渇く。答えれば、壊したはずの何かがまた動き出してしまう。

 背中がガラスに押し付けられ、冷たさが背筋を駆け上がる。
 頬を包む手が、夜風より熱い。
 次の瞬間、唇が重なった。



 強引なのに、懐かしい温度。
 金髪の前髪が視界の端で揺れ、自分が震えているのがわかる。抗おうとした手は、彼の胸に置かれるだけで力が入らない。
「……っ」
 息を奪われ、目を閉じた。遠くの笑い声が、別世界の音みたいに遠ざかっていく。

 唇が離れたとき、冷たい空気が喉を落ちていった。
「……なんで」
「理由が欲しいなら、あとで全部話す」
「今は——」
 言いかけた声を、彼の指先が塞ぐ。
「逃げるな」

 背中が震える。
 彼は何も言わず、ゆっくりと手を離した。
「……戻るか」
 先に扉を開け、廊下へ歩き出す背中。黒髪が小さく揺れ、淡い光を吸い込む。

 足がすぐには動かなかった。
 唇に残る感触と、胸の奥で荒れる鼓動を持て余しながら、遅れてその背を追う。
 再び会場に入れば、光と音が押し寄せる。誰も俺たちの間に何があったかは知らない。
 ただ、手にしたシャンパングラスがわずかに震えていた。

ーーーーーー

第二話「偽りのフーガ」はYouTubeで公開している楽曲「偽りのフーガ — Fugue of Lies」とリンクしています。良かったらどちらもお楽しみいただけると幸いです。

偽りのフーガ — Fugue of Lies:https://youtu.be/dPHVk3YgJVE

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