十二英雄伝

ぷるっと企画

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零章 『世界が分かれた日』

十六話 「RD事変 其の十五 『それは夢見る少女のごとき炎』」

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「電池…」
 エリスはその言葉を何度かつぶやくが、どういった意味なのか理解できないでいる。この巨大なアピュラトリスが一人の人間を欲することなどありえるのか、という疑問が湧く。

「電池とは、どういう意味でしょう?」
 エリスは電池の意味をキリルに尋ねる。

「そのままの意味です。アピュラトリスを動かすための、いや、神の思考をこの次元に顕現するためのシステムの中核となるものです」
「それが私であると?」
「その通りです。ただし、電池はいずれ消耗していき、最後は使い物にならなくなります。それゆえの名称なのです」

 キリルは包み隠すことなく、はっきりと事実をエリスに伝える。電池とは使い捨ての消耗品であると。されどもっとも重要なパーツであると。

「では、今も電池…、すでに人間が使われていると?」
「はい。現在の電池はまだ残量が残っておりますが、劣化が酷くなっており、早めに交換が必要と判断されました。これには私どもも困っているのです」

 人間を電池として使用する。ここまではよい。しかし、人間である以上、それぞれの質はバラバラなのである。自然発生的なものなので、工場で生産するように均一なものを生み出すのは不可能である。

 となれば、場合によっては質の悪い電池を使わねばならないことがある。現在の電池であるユウトは、正直あまり良質な電池ではなかった。彼自身は善人とも呼べる男で知的能力もあるが、アピュラトリスが求めている素質はまた違う。

 求めるのは、いかにアナイスメルと共鳴できるか。

 ただそれだけである。

 どんなに生まれが良くても、どんな有名大学を出るだけの知能があれど、アナイスメルと共鳴できないのならば、真の意味でダマスカスに必要な人材ではないのだ。

「電池の才能を持つ人間は十万人に一人といわれていますが、実際はもっと少ないのです。良質のものとなれば、百万人から一千万人に一人、といったところでしょう」

 それでも電池には違いないので、アピュラトリスはどんな電池でも使うことにしているが、質が悪いとアナイスメルの思考領域をこちら側に顕現する割合が減っていく。簡単にいえば、演算能力が落ちるのだ。

 何事も性能が高いほど良いものである。アピュラトリス側も常に良質の電池を探しているが、【ダマスカス人限定】という条件が邪魔をして、なかなか贅沢を言っている余裕はないのが現状である。

「しかし、フォードラ様。あなたは違います。あのような劣悪品とは違って、あなた様は実に良質な電池であることがわかっています。これがその証拠です」

 キリルは、さきほどエリスが手を乗せたタブレットを見せる。そこには相変わらず手形が存在し、測定した彼女の波長データが波のようにうねっていた。それは単に横の波だけではなく、何十にも及ぶ波が存在し、一つの美しい球体を生み出している。

「ここにアナイスメルの擬似波長データがあります。その波長といかに共鳴するかを見ることで質がわかるのです。フォードラ様の場合は、すでに検査済みでしたが、確認のために行わせていただきました」

 キリルがエリスたちに見せた映像のように、一時的にアピュラトリスの能力を使えたのは、この擬似データがあったからである。そうでなければ一介の人間がアクセスすることはできない。

 ただ、これでも機能のほんの砂粒一つ。それを少しばかり垣間見たにすぎない。エリスが実際に電池として使用されれば、こうした末端における能力行使にも大きな進歩が見られるだろう。

「私も知らない間に調べられていたのね」
 エリスは、実際にアピュラトリスの機能を見て、自分の生活もすべて知られていたことを悟る。

 彼女が病院で武人適性の血液検査をした時も、すべての情報はアピュラトリスに送られていたのだ。いや、そもそも送るという動作も必要ない。アナイスメルが稼働していれば、すべての事象のデータは自動的に集まるのだから。

 エリスを見つけたのはアナイスメル。

 ここが重要である。アナイスメル自身が、エリスを適任者として選んだのである。キリルたちは、その結果に従って行動しているにすぎない。

「アナイスメルの思考に間違いはありません。そして、実際にそうでした」
 事実なのだから、アナイスメルという存在を認めるしかないだろう。おそらくキリルの言葉はすべて正しいのだろう。

「なんだか、機械に操られている気分だな」
 デムサンダーは、不思議な輝きを放つタブレットに表示された球体を見ながらぼやく。

「そうだね。あまり気持ちよいものじゃないよ。人間を電池呼ばわりすることもね」
 志郎もアピュラトリスの力は認めるしかなかったが、人を電池呼ばわりすることに強い抵抗感を覚えた。それは人として当然の感情なのだろう。

「お嫌いですか?」
「好きか嫌いかっていえば、そりゃ嫌いなんじゃねーの? 誰だってよ」
「なるほど。それもまた不思議なことですね」

 キリルは、志郎たちの発言こそが意外だという表情をする。

「人も部品と同じです。歯車を回すための部品。ですが、それは価値ある部品ではないでしょうか」
 自己が部品であることを受け入れることによって、より便利な社会が形成される。

 それはなぜか?

 多くの社会システムはそれなりの欠点があるにしても、往々にして完璧なのだ。その理論においては。しかしながら、それが完全に履行できないのは人間側に問題があるからだ。個人の感情や欲望が歪みを生み、いつしかシステムの流れを阻害してしまう。

 たった一つの脳血管が詰まっただけで人は大きな損害を受ける。特にアピュラトリスは強大な力でありシステムである。ならば、そこで働く人間は部品であらねばならない。個人の意思よりも全体の統一を目指さねばならない。

「誰かがワガママを言う。欲望によって間違った行いをする。だからこそ、さきほどおっしゃられたような不具合が起きる。それはシステムの不備ではなく、部品の欠陥なのです」

 構成する部品が自分勝手に動けば、当然機械は正常には働かない。この場合、システムは社会であり、部品は各人の人間である。社会を構成する一つ一つの要素が不用意に動くから、全体として欠陥となるのだ。

 しかし、アピュラトリスにおいては異なる。
 ここには、アナイスメルという【神】がいる。

 すべてはアナイスメルの統治下にあり、誰もがそれを信じて疑わない。誰も勝手な行動はしないし、するような人間はそもそも入れないし、劣化が見られたら交換あるいは廃棄される。

 それによってシステムは健全化し、常に正常かつ清浄な状態を保つことができる。そういう大きな一体感の中にあっては、個人の主観が重要視されることはない。すべては客観性によって構成されているからだ。

 だから、人間を電池と呼ぶことは当然であり、違和感がないことなのだ。少なくとも、ここで働く者にとっては。

「逆に、なぜシステムの一部であることを嫌がるのでしょう? アピュラトリスによって、人間の欲求はしっかりと満たされているではありませんか」
 人間が求めることなど、たかが知れている。肉体が求める衣食住の要素を満たし、ある程度の娯楽があれば、なかなか不満は言わないものだ。

 アピュラトリスが金融を支えているからこそ、これらの物も、その中にある自由な取引も許される。人間は働き、欲しいものを手にし、満足する。楽しんでいる。それならば何の問題はない。

「我々は人間の社会に干渉するつもりはありません。それは皆様がたが、自らの意思で構築すればよろしいこと。ですが、そのためにはアピュラトリスのシステムは、できる限り完璧であらねばなりません」

 そう言ったキリルの表情を見て、ようやくにして志郎は違和感の正体に気がつく。

(だから他人事なんだ)
 キリルの言葉は正論である。間違っていないし、むしろ正しいのだろう。しかし、どことなく無機質で、こことは違う世界の住人のような言葉である。

 それも当然。彼女たちは文字通り、違う世界に住んでいるのだ。

 アピュラトリスは、〈入国不可能な富の塔〉という意味である。ここだけで一つの国であり世界なのである。アピュラトリスはすでに完成されており、いっさいの不確定要素が入る隙間さえない。すべてが神の思考の完全なる統治下にある。

 そんな完璧なシステムの中にあれば、もはや他の要素は不要。【俗世】がどうなろうと関係ないのである。これは無責任ではなく、システムが完全なのだから「あとは何が起こっても、それはあなたがたの未熟さが引き起こすことです」という意味である。

 志郎は改めて、【人種の違い】というものを痛感した。

「アピュラトリスに勤める人たちは、誰もがそういう考えなのですか?」
「完全なシステムに欠陥部品は必要ありません。あれば交換が必要ということになりましょう」
「そうですか…」
「志郎、気にするなよ。ここはそういう場所なんだろうぜ」

 デムサンダーも志郎と同じ思いであったが、ここはアピュラトリス。畑違いの場所である。富を求める人間においては聖地であっても、そうではない志郎たちにとっては外側の世界なのだ。

 アピュラトリスは、見方によっては光にもなり闇にもなる。それも人それぞれの視点なのだ。

「エリス様はどうお考えですか。あなたは電池として役目を全うすることができますか?」
 キリルは今度はエリスに尋ねる。キリルにとって志郎たちの意見など、どうでもよいこと。重要なのはエリスがどう思うかである。

「具体的には何をすればよろしいのかしら。人柱にでもなればよいの?」
「ただ座っていればよいのです。それが何年間になるかはわかりませんが…」
「ふふっ、ずいぶんと簡単なものなのね」

 エリスはあまりに簡単な仕事に、思わず笑みをこぼす。もっと仰々しいものかと思っていれば、ただ座っていればよいなどと。これがコントならばつまらないネタだが、本当のことなのだから世の中は面白い。

「当然、見返りはあると思ってよろしいのかしら」
「あなたが望むものならば何でも手に入るでしょう」
「何でも、ですか。たとえば私が、ダマスカス陸軍の指揮権を欲したら、叶えてくださるのかしら?」

 エリスの目的はフォードラ家の再興。フォードラ家は軍人の家系であるから、つまりは軍の掌握が最終目標である。ただし、この最終目標は現実的に雲を掴むようなもの。あくまで目標であって目的ではない。

 しかし、キリルは何でもと言った。だから、はっきりと言ってみたのだ。それは少女のちょっとした気まぐれ。されど、相手を測るには最適な言葉である。

 そして、その回答やいかに?

「あなた様が望むならば」

 即答である。
 キリルは迷うこともしなかった。断言である。

「おい、それは言いすぎだろう」
 それにはさすがにデムサンダーも異議を唱える。ちょうどさきほど、メイクピークの苦悩を見てきたばかりだからだ。

 軍には大きな制約があるので何でも自由にできるわけではない。とりわけダマスカスには文民統制のシステムがあるので、そもそも一個人がどうこうできるものではないのだ。軍は誰のものか、と問われれば、それは国民のものなのである。

 デムサンダーにしては、その意見は真っ当なもの。常識的なこと。
 されど、あくまで一般人の常識である。

「まだ正しくアピュラトリスをご理解いただけていないようですね。人間が生み出したものに限定すれば、叶わない望みはないのです」
「じゃあ、ルシア天帝てんていになるってのも可能なのかよ」
 デムサンダーは、ここでルシア帝国の国家元首である天帝を引き合いに出す。

 世界最大国家のトップ。ルシア天帝になるということは、全世界の五分の一を手に入れたに等しいことである。それでも可能なのかと、若干の皮肉をもって言う。

 だが、デムサンダーは甘く見ている。
 まだまだ本質を理解していない。

「おそらく可能かと」
「馬鹿な! あいつらは世襲制だぞ。それは不可能だ。あんただって、血の国のヤバさは知っているだろうが!」
 ルシア帝国は、絶対血統主義である。血が持つ意味は、ダマスカス人が考えるものよりも遥かに大きく、意味深いのだ。

 だが、そんなことはキリルも知っている。

「いいえ、現状ならば可能です。なぜならば、彼らもまたアピュラトリスのためにダマスカスに赴いたからです」
 国際連盟そのものが、アピュラトリスを中心として存在している。誰もがこの富の塔を見に来たのである。この塔さえあれば、世界はいくらでもやり直せると知っているからだ。

 それゆえにルシア帝国といえど、アピュラトリスの要求をむげにはできない。それどころか積極的に叶えようとするだろう。

「嘘だろう…」
「事実です。されど、天帝になることが幸せとは限りません。なることは可能です。が、なったあとどうなるかは、ご自身の問題です」
 キリルは、そこに俗人への皮肉を込めていた。誰もが有名になりたいと願う。多大な財を欲しいと願う。だが、えてして分不相応。仮に天帝になったとしても、実力がなければ一瞬で潰されて終わりだろ。

 されど、天帝にすることはできるのだ。それはまるで、アピュラトリスの思想そのものといえた。

「ふふふ、あはははははは! 愉快。実に愉快ですわね!! ディム、あなたの負けですわ! あー、楽しい!! あはははは!!」

 呆然としているデムサンダーは、エリスの笑い声で我に返った。見ると、エリスは非常に楽しそうに笑っている。何度も何度も、お腹をかかえて笑っている。

 その様子は異様。
 何かの糸が切れたかのように、突然笑い出したのだ。

 人間、なかなか本気で笑う機会がないものである。大半は、愛想笑い、作り笑い、くすっとした笑い、苦笑い、微笑。そんなものであろう。だが、今のエリスの笑いは演技でもなく、心の底から笑っていた。

「エリス…大丈夫?」
 心配そうに志郎がエリスを覗き込む。

「ええ、大丈夫よ、志郎。私はまったくもって正常だわ。ただ嬉しいの。ここが期待通りの場所であったことがね」
 エリスは嬉しかった。同時に今までの経験から、何かを期待するということを半ば諦めてしまっていた自分がいたことに気がついた。それが可笑しくて可笑しくてたまらなかったのだ。

 なんてことはない。望めば手に入るではないか。
 富が望まぬ者に手に入らないのは道理である。
 求めなければ何も手に入らないのだから。

「では、フォードラ様の願望をお伺いいたしましょう」

 満を持してキリルはエリスに問う。

 あなたは何を欲するのですか。
 どんな望みでも叶えましょう。
 あなたが望むものを与えましょう。

 キリルは今まで、五人にこの質問をした。そして、この答えを聞く時が一番楽しいことも知っていた。

 たとえば現電池のユウト・カナサキの望みは、分相応の小さなものであった。今まで努力したぶんに見合うだけの出世して、それなりに金を持ち、それなりの余生を過ごしたいと求めた。

 ある者は異性に困らない偽りの楽園を望み、ある者は単純かつ莫大な金銭を求め、ある者は慎ましい生活の保障だけを求めた。願いの大小に限らず、当人たちにとっては大切な願いなのだ。

 ただ、ここで【器の大きさ】が知れる。

 願望とは、さまざまな欲求が集まって生まれたものである。肉体的な欲求が強まればより物的要素の意味合いの強い願望になり、精神的満足を求めれば願いも精神的になる。たとえば、前者は財産や快楽を求め、後者は思想の実現を欲する。

 その人間が何を求めるのかを知れば、おのずと何を考えているのかが知れ、いやがうえにも本質を垣間見ることになる。だからキリルは好きなのだろう。

 では、エリスは?
 エリスが望むものは何だろうか。

「わたくしの願いを申し上げる前に、一つ昔話をしたいと思います。といっても、さして前のことではありませんが」

 しばらく思案したのち、エリスは語りだした。

「再起が上手くいかず傷心していたかつてのわたくしは、地方の山で一人の木こりに会いました」

 木こりは富を得るために木を切り続けた。木は毎日値が変わり、大きな木を切っても金にならなくなってきた。そのうえもう大きな木は残っておらず、嘆きながらまだ成長途中の小さな木も切り続けた。

 次第にその山は禿げてしまい、エリスが見た時には、もう何もないような状況であったのだ。あまりに不思議な様子だったので、思わずエリスは声をかけた。

 そして、沈んだ顔で彼は言った。

「金にならないが、切らねば生きていくこともできない。どうして自分はこんなにも貧乏なのだろう」

 エリスは愕然とした。

 男を軽蔑したからではない。
 むしろ逆だった。

 その姿は自分でもあり、また自分が辿ろうとする未来でもあり、誰もが簡単に入り込んでしまう迷路であると悟ったのだ。もう一人の自分を見て、自分という存在を初めて違う角度から【視認】したのだ。

 その瞬間、何かに火が付いた。

 今まで自分の中に鬱積していた不安や恐怖を燃やすほどの熱が点火されたのだ。それは瞬く間に燃え広がっていった。

 燃料はすでにあった。そう、すべてが上手くいかずに傷ついていた日々、それこそが壮絶な燃料としてエリスの中に根付いていたのだ。その数は膨大、溢れかえるほどの量!!!

 燃える、燃える、燃える!!!
 燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ!!!!

 自分を否定した者。自分を変えようとしなかった者。愚かにも自分が何かすら忘れてしまった者。何のために生きるかもわからなくなった者。それらを食い物にしている者。

 すべて燃えてしまえ!!!

 この感情を知った瞬間、彼女は【変える者】となったのだ!!!

「もし言葉にすることで実現するのならば、わたくしはダマスカスに【尊厳】を取り戻したく思っております」

 エリスの目的はフォードラ家の再興である。ただ、それは目的にも手段にもなる。なぜならば彼女には、より大きな目的があるのだ。フォードラ家はその足がかりにすぎない。

 では、それを足がかりにして得たいものとは何か。

 それは尊厳! 誇り高き意思!

 エリスは父親の死後、ダマスカス社会の汚点というものをまざまざと見せつけられてきた。家の制度はまだよいにしても、富に執着する者たちによる悪質な社会構造を目の当たりにしてきた。

 己の利権しか考えない者たち、非道で卑劣な者たちが権力構造の上部に鎮座し、自分たちに都合良く物事を進めようとしている。それはあまりにもおかしな状況であった。

 しかも、多くの人々は、そのおかしな状況を見事に受け入れている。自分では受け入れていると思い込んでいる。思い込もうとして諦めている。

「人は炎を失った時に堕落するのです。わが身に宿した炎を消し去った時、人は死ぬのです」

 彼女が一番許せないものが、【堕落】である。
 炎を失うということは、堕落することである。

 女性を世継ぎの道具のように扱う風土も我慢できないし、富に溺れ、日々享楽に耽る者たちへの嫌悪感も募っている。度が過ぎるのだ。この国はあまりにも汚れてしまった。

 その時にエリスにとっての【敵】が決まったのだ。

 それはダマスカス自身である。
 ダマスカスの富という幻想に囚われてしまった人々を解放することであるのだ。

「物が溢れたことで愚かにも価値観まで見失ってしまいましたわ。愚か、いや、哀れですわね。このアピュラトリスそのものこそ【愚者の塔】であることを知らないのですから」

 それはかつての自分への言葉だったのかもしれない。だからこそ最大の皮肉を込めて言うのだ。

 誰もがここを富の塔と呼ぶ。
 富を求めて最後に行き着く場所だと思っている。
 それはエリスも同じこと。富を求めてのこと。

 だがしかし、今の彼女の目的は違った。
 富をもって富を制する。毒をもって毒を制するごとく。

「だからはっきりと述べましょう。わたくしの願いは、このダマスカスすべて。この国そのものを変えること」

 エリスは、はっきりとキリルの目を見つめ、自己の意思をぶれることなく叩きつける。その言葉は宙を貫き、張り詰めていながらも柔らかで慈悲深く、強固でありながら鮮烈である。


「つまり、富の塔を破壊することです」


 それがエリスの答えである。

 この答えを周囲の者たちが理解するまで、いったい何秒かかったことだろうか。あまりのエリスの願いに誰もが言葉が出ないでいた。

「エリス…」
 かろうじて志郎が彼女の名前を呼ぶ。本当はそんなことすらしたくなかった。エリスに触れたら爆発してしまいそうで。彼女がライターを持った手で、すでに導火線を握っているかのようで。

「あら、志郎。どうしたの? あなたほどの人が、もしかして怖いのですか?」
 一方のエリスは志郎の動揺を見透かし、からかうような視線と言葉を向ける。だが、志郎には対応する余裕がないようで、やはり言葉が出ない。

「でもエリス、それで…いいの?」
「いいもなにも私が決めたのですよ。それが正しいのです」
 エリスには、自分の答えと決断に一分の迷いもなかった。これは前々から考えていたことであり、塔に実際に触れた時に決意したことなのだ。迷うはずもない。

「俺はてっきり、富の塔をよこせ、とか言うんだと思ったけどな」
 唯一、あまり興味がなかったデムサンダーだけが軽口を叩く。だが、その声は少しばかり弾んでおり、エリスの言葉が彼の興味を引いたことを示していた。

「こんな塔をもらってどうするのですか。住むには不健康そうですし、覗き見なんて趣味じゃありませんわ」
「でも、お前さんは富を欲していた。金が欲しかったんだろう?」
「ええ、そうよ。でも、彼女も言っていたでしょう。富とはエネルギーであると。それならば、富が富を破壊してもおかしくはないわ」

 富とは力である。富を得て何をするかは、キリルが言っていたように各人の問題にすぎない。よって、エリスが富を得て何をするかは彼女の自由である。

 ただし、それは道理ではあるが、事が事だけにこう言わざるを得ない。

「それが…フォードラ様の願望なのですか?」
「願望とは気に入らない言い方ですわね。決定事項、と言っていただけますこと。それとも、さすがのあなたも驚いたのかしら?」
「…ええ、正直なところ驚きました」

 まるで完成された機械のように淀みなく語っていたキリルに、少しばかり乱れが垣間見えた。彼女もエリスの言葉には驚いたようだった。その証拠に、興奮してか頬に赤みが差しているように見える。

「私は答えを申し上げましたわ。これで契約成立かしら」
「それが可能だと思われますか。さきほど見せたのは塔の力の片鱗にすぎません。このアピュラトリスは、あなたが思っているより巨大な存在なのですよ」
 今まで問い直したことなど一度もないキリルが、エリスに再度問う。問わねばならない。その真意を、そのやり方を。

 しかし、エリスはキリルの目をまっすぐ見据えて言うのだ。

「それが夢見る少女の儚い夢であっても、わたくしはそうすると決めたのです」

 それはまるで夢見る少女のごとき炎。
 されど、けっして消えることのない決意の炎である。

 見よ。炎を見よ。あの猛々しく燃えている火を見よ。
 たった一人の少女に宿る力を見よ。

 この炎があってこそ人なり。この炎なくして人あらざるべし。ダマスカスが失った炎が、稀少にも、儚くも、今ここにあるのだ。これを潰すことは世界を潰すこと。人の可能性を潰すことなのだ。

「富の塔をすべて明け渡す、それでよろしいでしょうか?」
「物だけもらっても価値はありません。当然、人もです」
「おい、どれだけ欲張りだよ、お前は!」

 富の塔だけでは飽き足らず、そのスタッフまでよこせとは、さすがのデムサンダーも呆れる強欲である。

「いいですか、黒くて太くて大きいもの。これは強欲ではありません。もらえるものは全部もらう。それが私の流儀です」
「それを強欲というのでは…」
 志郎も思わずつっこむが、エリスの厳しい視線を受けて途中で引っ込める。

「安心なさい。富の塔をいきなり解体なんていたしませんわ。ただ、この富は私が正しく使わせていただきます」
 エリスは簡単に言うが、これは全世界の富を手にするに等しいことである。全世界の富ということは、あらゆる金融市場を彼女が牛耳ることを意味する。

 彼女の意思が介入すれば、あらゆる取引を停止させることができることも意味するので、まさに【神の見えざる手】を手にすることになるのだ。

「やばい、こいつはやばいぜ。おい、キリルさんよ、これは断ったほうがいいんじゃねえのか? ほら、無理だと言ってやれよ」
「ディム、僕たちが口を挟む問題じゃないよ」
「志郎、よく考えろ。こんなやつに富を渡したらどうなると思うよ。とんでもないことになるぞ」

 女性蔑視発言をした人間のお家取り潰しなどは可愛いほうだろう。それどころか、今よりも酷い不平等社会が顕現するに違いないのだ。今ここで止めておいたほうがよいだろう。

「どう考えても無理だろう。なあ、そう思うだろう?」
「いや、僕は…」
 志郎は言葉を濁す。どんどん事が大きくなるので、もう関わらないほうがよいと思ってきたのだ。下手に口を出して事態を悪化させたくない、というのが本音であるが。

「ダイトウジ様はどう思われますか?」
「え? 僕ですか?」
 しかし、キリルは志郎、本名、志郎・ダイトウジにも問う。その目は冗談で話を振ったというわけではなく、至って真剣なものであった。

「いえ、その、僕は…」
「あなた様のご意見を伺いたいのです。どうか本気でお答えください。あなたは彼女の言葉をどう受け止めましたか?」
 キリルの視線が志郎を射抜く。今までは事務的であったが、今のキリルからは殺気に似た迫力すら感じる。

(やっぱり目が怖い…)
 断っておくが、細い目の女性を蔑視しているわけではない。単純にキリルの眼光が鋭いので志郎がビビッたにすぎない。

「そうですね…」
 いきなり話を振られたので驚いたが、志郎は少し考えてから静かに語った。

「エリスは…正しいと思います」
「その根拠はありますか?」
「彼女は自分で見てきたと言いました。自分で見て、そして決めた。多少強引ではあっても、れっきとした強い意思だと思います」

 これがただの少女の夢物語であれば、志郎も関わらないでおこうと思ったに違いない。しかし、エリスがそんな女性でないことは、この短期間でもすぐにわかることである。

 エリスには、人を惹きつける魅力がある。
 言葉には力があり、目には炎が宿り、意思は猛々しく心を掴む。

「エリスの願いは、とても難しいと思います。いや、これは本当に難しい。でも、そういった心から闘いは始まります。武人の鍛錬だって同じです。最初に心がなければ何も生まれません」
 志郎は生粋の武人なので戦うことしかわからない。しかし、【闘う】という意味においては、普通の人間も武人も同じなのだ。

 人はいつだって闘っている。闘争している。自分を高めようと、何かを成し遂げようと傷ついて、あらがって、闘っているのだ。

 エリスは闘う意思を示した。自らの動機をはっきりとし、宣戦布告をしたのだ。そうなればもう後はない。闘うのみである。

「少なくともエリス自身の願いは間違っていないはずです。できればやり方は穏便であってほしいですけど」
 彼女がどんなやり方を考えているのかはわからないが、エリスの言葉は志郎には普通に思えた。むしろ彼にとっては、それが良いとか悪いとか考えるほうがおかしいのだ。

 しかし、人は迷うものだということも知っている。何かが、おそらくは富というものが人を狂わせてしまったのかもしれない。本来ならば人を幸せにする道具が、いつの間にか人間の主人になってしまったのだろう。

 だから、エリスが壊したいと願うのならば、壊してもよいのではないかと思ったのだ。

「さすが私が見込んだ男ですわ。志郎は、よくわかっていますわ」
「全肯定したわけじゃないからね。やり方は穏便にだよ?」
「さすが志郎ですわね。全部任せておきなさいな」
 駄目だ。聞いていない。

「デムサンダー様はどうでしょう?」
「俺はどっちでもいいさ。関係ない話だからな。だが、そいつが言ったことは、少なくともあんたの話よりは面白かったし、心に響いたぜ」
 そう言うデムサンダーであるが、エリスの言葉には十二分に共感していた。彼もまた、ここまでして守らねばならない塔を作ったこと、そんな一部の人間が扱う権益が存在すること自体が気持ち悪い、そう思っているのだ。

 ちなみに意見を聞かれなかったディズレーも主人と同じ気持ちであることは間違いないだろう。エリスがキリルを挑発したあたりから、すでに半分魂が抜けた感じになっており、空気と化しているが。

「なるほど、よくわかりました」
 キリルはそう言うと、四人を先導するように再び歩き出した。その顔は最初と同じ営業スマイルであるが、実際にどう思っているかはわからないのが若干怖い。

 キリルは次のブロックが存在する扉を開けると、まず自分がそこに入り、それから四人を招き入れる。

「さあ、お入りください」
 部屋は三十メートル四方の、この塔のブロックにしては小さなもので、ソファーなどの最低限の家具だけが置かれている質素なものである。

「こちらでしばらくお待ちください」
「なんだ、また待たされるのかよ」
 デムサンダーはまた待たされるのかと苦々しい顔を浮かべる。しかも、さきほどの庭園の待合室とは違い、とても簡素で質素である。相当退屈しそうだ。

「では、失礼いたします」
「お待ちなさい。まだ答えを聞いておりませんわ」
 部屋を出ていこうとするキリルをエリスが呼び止める。

「まだ明確な返事を頂戴しておりません」
 エリスは自分の意思を示したが、キリルはまだ答えていない。自分の中で納得したにすぎない。それでは回答にはならないだろう。

(キリルさんにそこまでの権限はないと思うけど…)
 いくら経済に疎い志郎とて、一介の事務員であるキリルにそこまでの権限があるはずもないことはわかる。これだけの大きなこと、叶うにしても相当な時間と協議が必要になるはずだ。

 だから、エリスが呼び止めたのは早計。そもそも無意味。

 と、志郎は思っていたのだが、驚くべき答えが返ってきた。

「答えはすでに出ております。あなた様は、すでにご存知なのではありませんか?」
「試されるのは好きではありませんわね」
「試してなどはおりません。答えはもう出たのです。アナイスメルは、すでに答えを出しているはずです。今の私にはもう聴こえませんが…」
「聴こえる? どういう意味ですか?」

 キリルはエリスの言葉に答える代わりに、志郎とデムサンダーを見つめる。

「勇気ある戦士たちよ、どうかフォードラ様を守ってください。そして、一時いっときの【敗北】にけっして心を打ち砕かれてはいけません。勝利とは、敗北の後にやってくるのですから。どうか心に留めておいてください」

 キリルの雰囲気がまるで違っていることに志郎は困惑を隠せない。最初に感じたやり手の事務員の印象とはまったく異なっている。今はその言葉の重みと深みが強調され、まるで予言者のようでもあった。

「キリルさん、それはどういう…」
 と志郎が言おうとした瞬間、周囲に設置されていた隔壁が降り、四人を部屋に閉じこめる。瞬間的にデムサンダーが動いて壁を押すがビクともしない。

 隔壁は特殊な強化ガラスで作られて透けており、閉じ込められた状態でもキリルの顔ははっきりと見えた。

(キリルさん…?)
 志郎は、キリルの顔を見て驚いた。笑っていたのだ。しかし、その笑みは企みが成功して笑っている人間のそれではない。

 優しさと柔らかさをそなえた、さきほどとはまるで違う素敵な顔であった。最初からこのように笑えば、多くの人から好感をもたれるだろうにと残念に思えるほどだ。

 そして、【ガスの注入】を確認したキリルは、静かにその場を去っていった。

「うっ…志郎…、これは何です…の」
 耐性のないエリスとディズレーはすぐに意識が朦朧とし、崩れ落ちるように意識を失った。

 志郎とデムサンダーは、二人が怪我をしないように崩れる寸前に受け止め、着ていたジャンパーを下に敷いて仰向けにして寝かせる。二人からは静かな寝息が聞こえていた。

 それは間違いなく生きている証であり、志郎は安堵する。そして、分析。

「睡眠ガスだね。それもかなり強力だ」
 志郎はすぐにガスの性質を見極める。

 エルダー・パワーでは、さまざまな毒物に対する耐性を高めるための修練があり、実際に毒や神経ガスを使って身体を慣らしている。慣れると神経の感覚から、どんな種類の毒であるかがすぐにわかるようになるのだ。

「金持ちの歓迎の仕方ってのは変わってやがるな」
 デムサンダーもガスの中にあって平然としている。多少くらっとするが、動きや思考にはまったく問題がない。日々の修練の賜物である。

「やっぱり普通じゃないってことでいいか?」
「そうだね。いくらここの人たちが変わっているとしても、これが歓迎だとは思えないよ」
 デムサンダーの問いに志郎は頷くしかない。どう考えても客人を迎える態度ではないのだ。それに今まで歩いた通路はかなり長くて広いのに、他の職員がまったくいないことも気になっていた。

「で、どうする?」
 デムサンダーはこれから起こるであろう出来事を想像し、にかっと笑う。志郎はそんな楽しい気分ではなかったが、ここまで関わった以上は突き進むしかないと覚悟を決めた。

「行こう。何かが起こっている。それを確かめないとね」
 志郎は、右腕のリグ・ギアスをすっと外した。次に右手を使って左腕のリグ・ギアスも外す。それを見て、ひゅーと口笛を鳴らすデムサンダー。

「相変わらず、えぐいな。拘束具ってのは、拘束するからそういう名前がついているんだぜ?」
「そんなこと言われてもな」
 志郎は苦笑いをしながらデムサンダーのリグ・ギアスも外していく。

 志郎には天賦の才ともいえる特殊な能力がある。彼が護衛に向いている最大の特徴とは武術ではなくこの能力なのだ。

 彼にはいっさいの拘束が効かない。あるいは中和してしまう特異な体質であるのだ。加えて縄抜けなどの技術もエルダー・パワー随一である。

「このガラスは、ちと硬いな。それに厚い」
 デムサンダーは強化ガラスを叩いて強度を確かめる。

 これもさすがアピュラトリスというだけあって特注物のようだ。先が見えるほど透明ではあるが、厚さは三十センチ以上あり、人間の力では到底破壊は困難に思える。

 武人であるデムサンダー単独でも壊せなくはないが、それには相当な労力が必要になりそうだ。よって最良の選択肢を選ぶことにした。

「じゃあ、頼むわ」
「わかった」
 そう言われた志郎は強化ガラスに両手を置き、強い声を発した。

「はっ!!」
 両手から振動が生まれ、強化ガラスの内部に流れていく。力は内部で波を打って共鳴し、存在そのものを揺らしていく。

「ご機嫌にいくぜぇええーーー!」
 そこにデムサンダーが重い蹴りを放った。衝突した打撃力が志郎の発した波に共鳴してガラス全体を激しく叩く!!

 瞬間、ガラスは粉々に砕け散った。

 あの重く厚い強化ガラスが内部から粉々になったのだ。その威力や想像を絶する。だが、彼らにしてみれば普通のこと。何事もなかったかのように軽い口調でデムサンダーは倒れている二人を指さす。

「お嬢様と爺さんはどうする?」
「安全な場所にまで連れていったほうがいいね。持っていこう」
 すでにアイテムのような扱いをされている二人。相手側の考えがわからない以上、ここで離れるのは逆に危険だと考える。

 二人を担いで再び通路に出ると、最初とは様相が違った。すでに背後にはいくつもの隔壁が下りており、入り口に戻るのは容易ではないようだ。

「ったく、悪意しかないな、これ」
 デムサンダーがぼやくのも仕方がない。入り口への道は封鎖されていても、内部へと続く道は綺麗に通っているのだ。それは明らかにキリルの意思が志郎たちを中へと導いている証拠であった。

「キリルさんは敵なのかな?」
「あれが味方に見えたか? 閉じ込められたじゃねーか」
「でも、僕たちを殺さなかったし。毒ガスでもよかったんだよ」

 どのみち志郎たちは毒ガスでは死なないが、彼女は睡眠ガスという手段に出た。もちろん、それしかなかったという可能性もあるし、エリスを殺したくないのも本音だろう。だからこそ意図が見えない。

「単純にお嬢ちゃんを捕獲するためだろう? やっぱり欲張りすぎたんで怒ったんだろうさ」
「うーん、そうかー。それもあるね。でもキリルさん、いい笑顔だったんだよね」
「お前、案外ああいうのがタイプか?」
「違うよ」

 あっさり否定。キリル、無念である。

「しゃあない、メイクピークのオッサンのためじゃないが、やるしかないようだな」

 志郎たちは、アピュラトリスの内部へと入っていく。

 そしてそれは、この世界が変わるための第一歩であることを、まだ彼らは知らない。

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