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零章 『世界が分かれた日』

十七話 「RD事変 其の十六 『業火の縁』」

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 アピュラトリスの地上一階から五階までは、地下に降りる人間をチェックするシステムが大量に設置されている。

 カメラはもちろん、波動による検知も常時行っている。エレベーターでもあったような検査も再度行われるため、アピュラトリスの地下がいかに重要かを思い知るだろう。

 しかし現在、そのエリアに人はいなかった。すでに警備装置が発動し、スタッフのほぼすべてが神経ガスによって昏倒している状態にあった。武装した警備兵も隔離されたか、あるいは射殺済みである。

「六階に最上階へ向かう直通エレベーターがあります。そこを使ってください」
 オンギョウジたち結界師と護衛のロキたちは、マレンの誘導もあって首尾良く地上一階に出ることができた。周囲の安全はすでに確保されているので隠れるまでもない。全力で地上六階に向けて駆ける。

「サカトマーク・フィールドは、あと八分で使用可能となります」
 フィールドが展開されれば内外の出入りは完全に封鎖される。そうなればこの富の塔は、まさに絶対盗難不可能な大金庫と化すだろう。

 フィールドは自動的に一ヶ月は続く仕様になっており、一度発動すれば力付くで解除することは難しい。内部から解除されるかエネルギーが尽きるかしなければ、誰にも手出しはされなくなるのだ。

 第二ステージは、オンギョウジたちが最上階での仕事を終えた段階で終わりを告げる。それと同時にフィールドが展開される手筈となっていた。

「承知した。それまでに仕事を終わらせる」
「タイミングは延期可能です。多少の猶予はあります」
「それだけあれば問題ない。実際、余裕はなかろう。しかと成し遂げると主にお伝えいただきたい」

 マレンは相手を気遣ってそう言うが、すでに敵に察知された以上、いずれは外にも伝わるのは道理である。そうとわかれば一秒とて無駄にはできない。できる限り早く発動するのが望ましいのだ。

 あと八分。それがリミットである。

 オンギョウジたちは順調に六階にまで到着。ここは外との連絡口がある場所であり、今まで以上の警戒が必要である。ロキたちを前衛に出して慎重に進む。

 この階層の通路はいくつもの四角いブロック状に分かれており、何かあればすぐに分断または隔離が可能なシステムになっている。志郎が閉じ込められそうになったブロックも、おそらくそのまま居座っていれば自動的に隔離されていただろうと思われる。

 しかし、今はマレンが制御を奪っているので、そうした妨害に遭うことはないだろう。それどころか誘導の明かりが常に灯されるので、オンギョウジは迷う心配もなく一本道を進んでいく。

「マレン殿、エレベーターは問題ないか?」
「…はい。大丈夫です。付近に生体反応はありません」
 マレンの言葉はそう告げたが、一瞬の間をオンギョウジは見逃さない。

「何か問題でも?」
 マレンの指示は今まで機械のように的確で、言い淀むこともなければ逡巡することもなかった。言葉も簡潔なので、彼という存在が頭脳明晰で落ち着いた人間であることがうかがえる。

 そのマレンが一瞬気を取られる。単純に興味深いし、このアピュラトリス内においては非常に重要な意味を持つと考えるべきである。

「申し訳ありません。直通エレベーターには問題はありません」
 マレンが把握している直通ルートに障害は存在しない。生体反応もなく、安全なルートであった。

 しかし、それは次のことも意味している。

「では、エレベーター【以外】には問題があるということかな?」
 その鋭い質問を受ければ隠しておくことはできない。マレンは申し訳なさそうに白状する。

「一部のブロックの制御がこちらから離れているのです。この状態は入り口付近に集中しているので現在の作戦行動には支障はないのですが、第三ステージに影響する可能性は否定できません」

 地下制御室を押さえた今、警備システムは現にこうしてマレンの意図通りに動いている。軍司令室も制圧したので、アピュラトリスのシステムの【ほぼすべて】は掌握したと言ってよい。

 ただし、すべてではないのだ。

 アピュラトリスのシステムは万一にそなえていくつかに分かれており、最上階にだけ与えられる特殊権限もいくつかある。それは最高責任者である【塔の管理者】、つまるところヘインシーの権限で使えるシステムが残っているのだ。

 今はヘインシーがいないので妨害を受けているわけではないのだが、なぜか一部のシステムがマレンの制御を拒絶し、入り口付近のエリアについては何もわからない状態が続いているという。

 マレンは忙しい作業のさなか、その原因を特定しようとがんばっているのだがいまだに理由がわからないという。

「外部からの妨害ということか?」
「今のところ会議場での動きはありません。外の軍も気がついていないはずです」
 ヘインシーはわずかな異変を感じて動いてはいるが、まだシステムに干渉するといった行為は行っていない。あくまで危惧としてバクナイアに働きかけているだけだ。

 さきほど外の作戦本部からアピュラトリスへの問い合わせがあったが、こちらは地上二十階にある事務室の人間に拒絶するように命令を出している。

 これは地下制御室からの命令として出しているので、事務員も異変には気がついていないはずだ。そもそも彼らには質問する権限もない。制御室の答えは絶対なのだ。

「オンギョウジ様たちは、そのまま直行してください。こちらの問題はユニサン様たちに調査してもらいます」
 結界師の役目は、このステージにおける最優先項目である。その他に問題があっても彼らは自身の任務を遂行しなければならない。

「このようなことにまで口を出すとは、拙僧も少しばかり緊張しているようだ」
 本来ならば自分の役割に徹し、他のことは考えないのが望ましい。だが、知らずのうちにオンギョウジも緊張していたようだ。まだ完全に集中しきれていないらしい。

「無理もありません。すべてはオンギョウジ様たちにかかっているのですから」
 それは事実である。が、さりげなく圧力をかけてしまっていることにマレンは気がついていない。

 オンギョウジたちが入り組んだ通路ブロックを三十エリアほど進むと、塔のちょうど中心部分に各階に繋がる直通エレベーターを発見。地下とは違い、優先度が低い地上の階層にはこうしてエレベーターが設置されている。

 その一番奥の奥には、いくつもの強固なセキュリティで守られた特別なエレベーターが存在している。これはヘインシーが主に使うもので、塔の管理者専用の特別なエレベーターで最上階に直結している唯一のものだ。

 オンギョウジたちは素早くエレベーターに乗り込む。中は広く、簡素な椅子と机がそなわっている以外はさほど珍しいものはない。簡素さを好むヘインシーの要望で余計なものは取っ払ったのだ。

 しかし、彼が外出するのは年に一度もなく、そもそもエレベーターを使う機会がないので、それすら不要にさえ思えるが。

「最上階はこちらのアクセスが通じない場所となっております。援助はできませんのでご注意ください」
 扉が閉まり、エレベーターは最上階に向かって動き出す。

「承知した。貴殿と話すのもこれで最後であるな。これからも主のためにその力を貸してくれ。拙僧が願うのは、ただそれだけよ」
「オンギョウジ様…」
「フィールドは予定通りに頼む」
「わかりました。…ご武運を」

 マレンからの通信が終わる。これでもう二度と彼と話すことはないだろう。非常に簡単な別れの挨拶であったが、そこには同じ志を持つ仲間への万感の想いが宿されていた。

 すでに想いは同じ。
 ならば余計な言葉はいらないのだ。

(あとわずかか)
 第三ステージに入るまであとわずか。ここまで多少のトラブルはあったが想定の範囲内の事態である。すべては問題ない。

 しかし、オンギョウジはまだ楽観視はしていなかった。自分たちがこのアピュラトリスを狙っていることを誰かが知っている。そして妨害している。その兆候がすでに表れているからだ。

 ダンタン・ロームは誰にでも構築できるものではない。たしかに新技術をもちいれば理論的には可能なのだが、あれだけのものがすぐに開発できるとは思えない。

 オンギョウジたちが属する組織、賢人の遺産を扱えるラーバーンならばともかく、それ以外の者たちが簡単に用意できるものではないのだ。

 ならば、可能性は二つに限られる。

 自分たちと同等の技術を持つ人間が背後にいるか、あるいは技術の穴を何かしらの技能で補っている人間がいるか、である。

 前者とは考えにくい。ラーバーンがほぼ独占している賢人の遺産は、現状の技術体系を遙かに凌駕するものである。それは今の技術の数十年から数百年は先を行っているものだ。仮に流出したとて簡単に真似できるものではない。

 残るは後者。特異な技能を持った何者かが援助している可能性である。これはダマスカス防衛にエルダー・パワーが関わっていることからも推測はたやすい。

 問題は、これだけのことができる人間は誰かという点。そして、それに対するおおよその予測も終わっている。

(業…か)
 自身の顔に広がる火傷の痕が妙にうずく。何年経っても痛みが消えることはない。なぜならばこれは肉体の痛みではなく、心の痛みであるからだ。

 この痕を見るたびに心が痛む。
 それは言葉にできない複雑な感情である。

 かろうじて言葉にするのならば【業】と呼ぶしかない。すべては自らの業が招いたこと。今ここにいることもそうだ。だが、一度たりとも後悔はしていない。

 自分にはやるべきことがあるのだ。
 すべてを犠牲にしても、成すべきことがある。

 ついにエレベーターが最上階に着き、オンギョウジたちは外に出る。

 最上階は、今までの内部とはかなり違う異質な空間が広がっていた。周囲の壁は白い大理石のような鈍い輝きを放っており、床には規則正しい間隔でいくつもの丸十字の紋様が彫り込まれ、それが集まって複雑な紋様を編み出している。

 巨大な天窓からは光が差し込み、無数の色合いとなって世界を照らす。
 神々しく荘厳で、見る者に安らぎと信仰を与える。

 その様相はまるで神殿。教会。礼拝堂。

 富の塔と呼ばれ、金融システムを自在に操る近代的な世界に、こうした宗教的な場所が存在する事実。これこそが、人は単に物質だけの存在でないことを如実に表していた。

 地下が物的安定を求めた場であるのに対し、頂上は精神的安定を求めた場。それはまるで人そのものを示しているようでもあった。大地で這いつくばりながら物質にまみれて生きる人間が、ついには頭上を見上げて神を探すように。

 そして、精神性を表現した最上階は、そのさらに上にある天を覗いている。それこそ【霊】たるものへの憧憬を示し、人の可能性を欲する象徴であるかのようにも思えた。

 最上階のエリアは全六つのブロックで構成され、まず周囲五つのブロックで五芒星を生み出し、その中心部に最後のブロック、ヘインシーの執務室にもなっている中央システムが存在する。

 この形に見覚えがあるだろうか。

 そう、これはアナイスメルの石版、その台座を模して造られているのだ。あれも同じ星形であり、その中心にすべてを制御する六つ目の頭脳が設置されて初めて完全なる制御が可能となる。

 この最上階は、いわば【疑似アナイスメル】。

 最上階にいながら地下の石版にアクセスできる唯一のポイントなのだ。ここを押さえることこそ第二ステージの肝であり、次のステージに欠かせない要素となる。

「手筈通りに! 中央の間には拙僧が向かう!」
 オンギョウジが合図を送ると、四人の結界師と護衛のロキは周囲の四つのエリアに散る。

 彼らを見送ったあと、オンギョウジは【用事】を済ませるために一人中央の間、ヘインシーの執務室がある場所に向かった。そこはエレベーターから真っ直ぐにつながっており、障害となるものもない。

 また、執務室とはいっても普通の部屋ではない。それどころかこのアピュラトリスの中央に鎮座する、広さ直径一キロにも及ぶ巨大な玉座であり空間なのだ。

 オンギョウジは、ただただ静かにその場に向かう。近づくごとに周囲の壁は光を増していき、徐々に世界が白く染まっていく。入り口に着いた頃には、もはや壁と天井の境目もわからないほど白い世界が広がっていた。

 その白い世界の中に一つ、高さ五メートルほどの大きな【門】がある。門からは七色の光が溢れ出ており、まさにこの世ならざる光景、天上の世界かと思わせる神秘的な空間が広がっていた。

 アナイスメル(正確には石版と台座)が発見された時、同時にいくつかの【祭具】も見つかっている。この門もその一つである。

 オリハルコンで作られていること以外はよくわかっていないが、この素材を特定の位置に持ってくるとアナイスメルとの連結効率が上がるなどの効果が確認されており、試行錯誤の末にこうして最上階に設置されているという。

 オンギョウジが近づくと、門の中心部の宝珠から一筋の光が胸に放射され、リィンという不思議な音を響かせる。それは彼がペンダントとして胸につけている【鍵】に反応したものである。ヘインシーも同様のものを持っており、これがないと中央エリアに入ることはできない。

 余韻が幾重にも広がったあと、門は静かに開いた。

 オンギョウジもまた静かに中に入る。それと同時に世界が変わった気がした。これは比喩ではなく、実際に変わったのだ。

 その場はもう違う世界。
 すべてが白に包まれた光の世界である。

 そして、彼はその中心部にいる【人物】と出会う。

「やはりあなたでしたか」
 オンギョウジは光の空間の中央にいる人物に視線を向ける。驚きはない。すでにそうであろうと考えていたことが実際に起こったにすぎない。

 白い空間にいたのは、一人の老婆であった。

 赤い狐火が円を巻いたように描かれた白い着物、すでに長い年月を経てそうなったであろう長い白髪を後ろで結わき、穏和そうな表情をした老婆。

 アピュラトリスの最上階はヘインシーしか入れない領域。そこで出会った老婆という存在。本来ならば、もっと驚いてしかるべきである。

 しかし、オンギョウジは老婆を見据えると、初めからわかっていたように歩みを止めて対峙する。

「ご無沙汰しております、羽尾火はびか殿」
 オンギョウジは老婆を羽尾火と呼んだ。その名に反応してか、羽尾火はゆっくりと視線をオンギョウジに向ける。

「おやまあ、どこかで感じたことのある気質だと思えば、やはりボウズか」
 羽尾火は、とぼけたような口調でオンギョウジに笑いかける。だが、対するオンギョウジに笑みはまったくない。

 それも当然。

「エルダー・パワーの術士師範ともあろう御方とこのような場所で出会うとは、時代は変わりましたな」
 羽尾火。エルダー・パワー術士特別第二席に位置する術士師範である。通常の席は第一から十まで存在し、数字が小さいほど強さと権威があることを示す。

 しかし、そこで終わりではない。

 その先、第一席を超えた先には師範と呼ばれる者たちがおり、彼らは特別席として扱われている。特別席は各分野別に二席存在し、羽尾火は術士の中でナンバー2である特別第二席という存在であった。

「ほっほっほ。まだ覚えておったとは感心なことじゃ。もうすっかり忘れておると思っておったよ」
「忘れたことなどございません。一日たりとも」
「そうかい、そうかい。それは嬉しいものじゃな」

 愉快そうに笑う羽尾火と、一瞬たりとも表情を変えないオンギョウジの姿は、まるで正反対である。

 ただし、表情は変わらずともオンギョウジの胸には、羽尾火に対する特別な感情が燃えている。オンギョウジは羽尾火を忘れたことは一度もないのだ。エルダー・パワーという存在を忘れたことなど一度もない。

 なぜならば、彼もまたエルダー・パワーであったからだ。

 元エルダー・パワー術士第四席、オンギョウジ。

 忘れるはずもない。忘れられるはずもない。かつては一緒に生活していた仲間であり、家族なのだから。

「懐かしいの。ほんに懐かしい。それで、このような老いぼれに何の用じゃ?」
「それはこちらの言葉です。あなたこそ、このような俗世に何の用があるというのですか」
 エルダー・パワーの師範が外に出ることはまずない。彼らにとっては秘伝を守ることが最重要であり、世俗にはできうる限り関わらないのが決まりなのだ。

 今回のアピュラトリス派遣についても、一部のエルダー・パワーのメンバーから疑念が湧いているのはそのためだ。それでもマスター・パワーが決めたことゆえに従っているだけのこと。アズマも志郎たちも、その【本当の意味】を理解していないまま参加している。

 しかし、師範である羽尾火はその意味を知っている。知っているからこそ師範クラスがわざわざ出てきたのだ。

「あのような術封じを施し、富の塔に味方するとはエルダー・パワーらしくありませぬな」
 オンギョウジは自分の言葉に皮肉が宿るのを止めることができなかった。

 かつて自分が属した組織が敵対していることに憤ったわけではない。彼らが自らの理念に反していることが気に入らなかったのだ。

 オンギョウジたちを苦しめた術封じ、ダンタン・ロームは羽尾火の補助によって発動していた。あれはまだ未完成の技術。優れた術者の援護がなければオンギョウジの術を破ることはできない。

 羽尾火はこの場所よりアピュラトリス全体を【観察】していた。それは一点に集中するというよりは全体を俯瞰する視点である。だからこそオンギョウジは、地下にいる段階から常に大きな力を感じていたのだ。

 そして、それが羽尾火のものであることにも気がついていた。この老婆の視線は、忘れようにも忘れられないのだ。

「気に入らぬようじゃな」
「俗事に関わらぬのならば、そのまま見ておればよろしいのです。それがあなたがたの意思のはずです」
「言う通りの俗事よ。じゃが、席を剥奪されたおぬしに言われるとは、なんとも耳が痛いものよ」

 すでにオンギョウジの席は剥奪され、第四席には違う術者が座っている。オンギョウジはすでに部外者なのである。されど部外者になったからこそ、エルダー・パワーの行動の不自然さが見て取れるのだ。

 エルダー・パワーは俗事には関与しない。ダマスカスを守りはするが、俗人たちの金融などというものには興味を示さない存在である。それは価値観が大きく異なるからである。

 志郎たちがアピュラトリスの在り方に違和感を感じるのは当然である。人間の可能性を追い求める者たちにとって、金融は何の価値もないからだ。そうであるのにエルダー・パワーはアピュラトリスに加担している。

 それはなぜか?

 羽尾火は持っている杖で床を軽く叩く。すると地面に薄い火が広がり、この世界の形を生み出した。だが、それにとどまらない。

 広がった火は徐々に螺旋をもって集約し、その中の一点、ダマスカスの中心部に集まって炎の柱となる。炎は激しく燃え上がり、噴き上がりながら世界に散っていく。火は火を呼び、いつしか世界は炎の渦に巻き込まれていった。

 そう、これこそが暗示。
 これから起こることを示したものなのだ。

「ボウズ、いつからぬしは火遊びをするようになったのじゃ」
 羽尾火の声には、若干の哀れみが込められていた。その声は懐かしく、そしてオンギョウジが乗り越えねばならない恐ろしい声でもあった。

「あなたに顔を焼かれた日から。そう言えば納得していただけるのでしょうか」
 オンギョウジは、無意識のうちに火傷の痕を触っていた。それは羽尾火によって作られたものだからだ。

 羽尾火には師範としてではないもう一つの顔がある。それはエルダー・パワーの奥義や秘術を外部に持ち出そうとする人間を処分する【処刑人】の役割である。

 エルダー・パワーで扱う奥義や秘術は、すべて危険なものである。安易な気持ちで手を出せば、当人はもちろん他者まで犠牲にしてしまう。強い力を使うには強い心が必要。まず最初に心を鍛えるのはそのためである。

 エルダー・パワーの里の人間は、誰もが家族のようなつながりを持つ。それだけ見れば和気藹々あいあいである。されど、そのつながりが強固ゆえに犯した過ちも厳しく罰せられる。

 子供がおふざけで犯したものならばともかく、意図的に秘術を持ち出そうとした人間には大きな罰が下される。よほどの情状酌量の余地がなければ、抹消処分となってしまうほどに厳しい。

 羽尾火も数多くの人間を焼いてきた。その多くは才能もあり期待をかけた者たちであったが、心が成長しなかった。知性や技術ばかりが発達し、技術を悪用しようとする者も多くいた。

 結局、しっかり育った人材はごくごくわずかである。オンギョウジは、その数少ないまっとうな術者の中の一人であった。

 そのはずであった。
 しかし、彼はいつしか変わっていった。

「拙僧がここに来たのは、前と同じ理由からです」
 オンギョウジは、かつて羽尾火と対峙した時と同じ言葉を紡ぐ。

「力は、正しい者が正しく使わねばならないのです」

 かつてのオンギョウジは、力を得るごとにそうした考え方をするようになる。この力は悪を打ち倒し、正義を守り、弱者を救うための力ではないのか。現にエルダー・パワーは、力を使ってダマスカスを陰ながら守っているではないか。

 それなのにどうしてエルダー・パワーは、その力を人々のために役立てないのか、と。

 秘術を狙う存在に対してはしっかりと力を使って防衛していたのだ。オンギョウジも責務として、何度も敵と戦ったことがある。

 しかし、オンギョウジはふと自己の国に目を向けた。自分が守ってきた存在とは何なのかを考えた。

 そこで見たものは人々の堕落である。

仏性ぶっしょうの開発を忘れ、霊としての責務を忘れた者。享楽に溺れ、物質にまみれた者たち。それこそが悪なのです」

 オンギョウジがダマスカスを守れば守るほど、この国は堕落していく。人々は物質のみを崇め、自己中心的な生き方を続けていく。他人から物を奪ってまで蓄積し、財を成すことだけを考えている。

 なんて恐ろしい。
 オンギョウジは愕然としたのだ。ショックを受けたのだ。
 この堕落した社会を変えねばならないと強く思った。

 そして、彼の意見に賛同する僧を集めてマスター・パワーに直訴した。この力を使って真の人間の在り方を人々に示さねばならないのだと。人の本質は霊であり、もっと美しいものなのだと訴えねばならない、と。

 しかし、エルダー・パワーという存在はオンギョウジを認めなかった。人々が知らぬところで力を使うことを役目とするエルダー・パワーとは、所詮相容れないものであったからだ。

 また、あまりにやり方が過激であった。つまるところオンギョウジの意見は、「最悪は力を使ってでも正しいことを成す」ということだったからだ。それは堕落した人々を傷つける可能性があった。

 幾度も赤虎と対話し諭されたオンギョウジであったが、彼は意見を曲げることはなかった。逆に自ら計画を立て、改革を実行に移そうとしていた。

 それはアピュラトリスの制圧。

 堕落した人間の目を覚ますには、この塔を破壊するしかない。そう考えた若きオンギョウジは、無謀にも数十人の手勢で挑もうとしていたのだ。

 奇しくも、今と同じ状況である。
 しかし、それがついに決定的な決別につながる。

 説得に応じないオンギョウジたちに対して羽尾火が送られ、彼に帯同していた僧兵隊は全滅。オンギョウジは顔と身体の半分以上を焼かれて生死の境をさまようことになった。

 彼はその日を忘れたことは一日たりともない。その日こそ、彼が生まれ変わった日なのだから。

「ゆえにエルダー・パワーを見限り、【悪魔】に下ったというわけじゃな」
「よくご存知だ。いったい誰からお聞きになったのですかな」
「さて、風の噂でな」

 ラーバーンの存在は非常に秘匿性の高い情報である。いくらエルダー・パワーであるといっても簡単に知ることはできない。

 羽尾火はとぼけたが、ダンタン・ロームといい背後に何かしらの意図を持つ協力者がいることは明白である。それはおそらくメラキ。敵側の知者たちであろう。

「悪魔は危険じゃ。その力は世界を燃やしてしまう。どれだけの被害が出るかわかっておろうに」
「あなたがたにとっては悪魔。されど拙僧たちにとっては【英雄】です」
 富の塔に加担し、世界を今までのまま管理しようとする者たちにとっては、ゼッカー・フランツェンは悪魔である。力によって物事を推し進めるため、多くの被害が出ることも容易に想像できる。

 しかし、英雄なのだ。

 彼という存在こそ、正義を信じ、公正と平等を信じて戦ってきた者たちにとっては紛れもなく英雄である。旗印であり、唯一の希望となる存在なのだ。

 【ラーバーン〈世界を焼く者たち〉】

 ゼッカーが作った新しい組織。
 世界を変えるための力そのもの。

 人々が悪魔と呼ぶであろう英雄のもとに集った者たち、同じ志を持つ者たちがいる。それはエルダー・パワーを捨てたオンギョウジにとって、残りの人生を費やすに足る唯一の存在になったのだ。

 英雄を得たオンギョウジに、もはや恐れるものはなかった。

「ボウズ、ぬしは【神法】を知らぬわけではあるまい。悪魔は滅ぶ。必ずじゃ」
 だが、羽尾火は忠告する。悪魔は必ず滅びると。それは神法によって引き起こされるであろうと。

 世界は法則によって完璧に支配され制御されている。これは星を管理している偉大なる者すらどうにもできないもので、宿命の螺旋すら超える巨大なシステムである。ある意味では宿命の螺旋とは、人を神法に向かわせるための【枷】であるのだ。

 原因と結果があることも、星が回ることも、人や動植物が生まれ育つことも、すべては巨大な神法という法則に則って維持されている。その神法に逆らった者はいずれ滅びる。これは絶対なる定めであり、例外なくそうなるのだ。

 なぜならば、神法とは【愛】であるから。

 この宇宙すべてを支配するのは愛なのである。愛とは叡智であり、力であり、すべての事象を進化へと向かわせる偉大なるベクトルである。

 独裁者が必ず滅びるように、剣をもちいた者は剣で滅ぼされるように、それは完全なる因果の流れとなって戻ってくる。そうなればゼッカーという悪魔は必ず死ぬ。ラーバーンも滅びる。これはすでに決まっている未来である。

 だが、オンギョウジは静かに頷く。

「存じております。それゆえにこの命を捧げにまいったのですから。我らの誰一人、命を惜しむ者はいません」
 オンギョウジたちは生きて帰るつもりなど最初からないのだ。ユニサンにしてもロキにしても、現地に直接乗り込んだ彼らはいわば【生け贄】である。

 悪魔と契約するには必ず生け贄が必要なのだ。
 その犠牲の対価は【世界に火を放つこと】である。

「所詮、我らは滅びゆく運命にあります。火を放てば火で焼かれるのは当然のこと。しかし、今は火が必要なのです」
「何も変わっておらぬな。むしろこの老いぼれの火が、ぬしを焚きつけてしまったかのようじゃ」
「そうです。あの時の続きなのですよ、これは。我々が人の世の堕落を正すのです。あの日から拙僧の想いはさらに強化されました。それにはお礼を申し上げねばなりません」

「これも業…か」
 羽尾火は自身が生み出した炎を見つめていた。その目は過去を静かに映す。

 かつては静かに修行に明け暮れた若者。真面目で人が好く、弱き者を守ることに一生懸命であった者。口癖は「どうすれば人の役に立てるのでしょうか」であった。

 自身の未熟さを日々戒め、心を砕いて修行に努め、人の未来を守ろうと思っていた若者である。

 しかし、すでに時は来た。
 一度離れた大きな二つの線は、螺旋となり再び交わるに至ったのだ。

 ただし、強烈な激突として。

「言葉は通じぬか」
「それも宿命でありましょう。この場でまみえることも!!」

 オンギョウジは印を結び水刃砲を放つ。水の刃は羽尾火に迫り、切り裂こうとする。だが、羽尾火は避けない。避ける必要がない。

 水の刃は彼女に届く前に地面から発せられた火に喰われて、一瞬で蒸発したのだから。それどころか火はさらに燃え盛る。

「ぬしは変わっておらぬ。その力もな」
 オンギョウジの術の威力は、平均的な術者の三倍の威力に相当する。そのMGすら切り裂く威力の水刃砲がまったく通じない。

 それもそのはず。羽尾火の力はオンギョウジを遙かに超えている。なにせ顔を焼かれた時は、必死に逃げまどってようやく九死に一生を得たほどなのだ。

 羽尾火は二百年以上、エルダー・パワーで術の修行を続けている、デムサンダーいわく「妖怪ババア」である。一方のオンギョウジは、たかだか三十年。彼がいくら才能豊かな術士であろうとも積み重ねた日々が違う。実力差は明白である。

「やはり別格ですな。その火の力があれば世界ももっと変わるでしょうに」
「なぜそうく。時代は変わっていく。この塔もいずれは神法によって滅びよう」
 羽尾火も、このアピュラトリスがそう長くはないことを悟っていた。このような堕落には必ず滅びが伴うもの。それは神法によって定められた末路である。

 それだけ見ればオンギョウジたちと同じ考えである。ただし、ここには大きな見解の相違があった。

 その【時間】、長さである。

「あなたのおっしゃる『いずれ』という言葉。それはいつなのでしょう」
 赤虎も常々「待て」と言う。だが、それがいつかは言明されないため、若い僧が焦るのも無理はなかったのだ。

「さて。神法の働きを知ることは人間にはかなわぬこと。百年かもしれぬし千年かもしれん。だが、どのみち終わりは来る。待てばよい」
 時代を眺めれば、過去の堕落した社会がいずれは滅びる運命にあることがわかる。一時は栄華を極めても永続的に続く悪徳などは存在しない。

 それはこのダマスカスも同じ。今は優雅な生活を送っているが、神法を忘れ、物質に染まりすぎた彼らに待っているのは痛みと滅び。それがいつどう訪れるのは問題ではないのだ。終わることが決まっている。それが重要である。

「所詮は俗物たち。放っておくがよい」
 羽尾火は、富に酔いしれ自己を見失う者たちを、ばっさりと切り捨てる。

 崩壊はすでに始まっている。動物が死んだ瞬間から内部の微生物が腐敗を促すように、それはすべて自然の摂理によって成り立つものである。

 人の尊厳が死んだ時、ダマスカスは腐敗を始めたのだ。今はその発酵分解期。その臭いに気がつく者もいれば、すでに鼻が麻痺しており破滅に気がつかない者もいる。たとえ気がついたとしても、もはや結果は変えられない。腐ったものはいつか土に還るのだ。

 そして、自然はゆっくりと働くことを望む。この世界の進化は非常にゆっくりとしており、長い年月の視点で眺めれば、破壊も創造も大きなリズムの中で起こる遅々とした変化にすぎない。

 人が進化するには、それこそ何千万という月日が必要なのだ。それを急いで成そうとしても反動が出るのは必至である。

「待てばよい。マスター・パワーもそう言っておろう」
「それでは遅いのです。あまりに遅すぎる」
 しかし、オンギョウジは異を唱える。オンギョウジはメラキたちから得た情報によって、それでは遅いことを確信している。

「ぬしらが恐れているのは【星の粛清】であろう?」
「やはりご存知でしたか」
「知らぬわけがない。わしらもまた、ぬしらの言うメラキと似て非なる存在であるから」

 ゼッカーたちがこうして動くことには大きな理由がある。それは避けられないこの星の現状と、その後に起きるより大きな災厄に関係している。

 そして、こう提案しているのだ。

 このまま病気を放置しておき、この後に待ち受ける何千年もの壮絶な闘病生活を送るか、緊急手術をしてガンを取り除いて早期回復を図るか。

 あなたはどちらを選ぶのか?

 どちらを選んでも結果は同じである。
 ただし、やり方は大きく違う。

 そして、ラーバーンは後者を選んだ。この星を救うために痛みを伴う手術が必要であると。

「拙僧らは日和見主義者とは違う。自ら動き、その腐敗部分を切除するのです。それならばまだ間に合います」
 腐敗の七割を切除しても人は生きていける。その後に回復していけば失った部分を再生することもできるのだ。

 まずは人類を生き延びさせること。人の進化を守りながら存続させることが重要である。闘病中に死んでしまったら元も子もないのだから。その瞬間の痛みが壮絶であっても短時間で済むのならばましだと考える。

「だから罰を与えるというのか? 傲慢だとは思わぬか。人の分を超えておるよ」
 罰を与えるのは神法の役目。人が人に罰を与えれば自らに返ってくる。それが神の法なのだ。カルマの処理に労力を使い、人の進化もまた遅れることになる。

 むろん、彼はそれも知っている。

「所詮、神法は人を通じて働くもの。これは人々が求めたのではありません。【星自ら】が求めたのです。それゆえの悪魔という存在でしょう」

 人々が堕落を求めた時、星という生命は浄化を決めた。

 最初は地殻変動。天変地異。異常気象。星の悲鳴であり、人によって汚染された部分の修復と再調整を目的としている。これらは物的な変動であるが、実際はより精神的、霊的な分野に及んでいる。人の憎悪、嫉妬、恐怖、幾多の戦争と略奪、差別によって生み出された禍根と遺恨が世界に大きなダメージを与えているのだ。

 そして、もっともダメージを受けたのは【ウロボロス】。
 これが致命的であった。

「人の魂の再生が止まれば人類は滅びますぞ。この地上は、もはや霊の暮らす場所ではなくなります」
 再生とは進化である。幾多の人生を星で生きることで霊は進化していくが、その星自体の進化にも責任を負う。その最高責任者こそが女神たちである。

 女神の子らである今の人類は、この星の進化に対しての責任を負っている。星を汚せば掃除をしなければならない。奪ったのならば与えねばならない。これは義務である。

 本来は水の優しさをもって行われるべきものが、人の無知ゆえに火によって成されることが決まった。

 星は業火による痛みを欲したのだ。
 やむにやまれぬ痛みから【外科手術】を要請した。

 そして、悪魔を呼んだのだ。
 その声の強さや、時代を突き抜けるほど。
 悪魔の誕生こそ星の求めたことである。

「いわば光の女神マリス様誕生より連なる、一連の大事業の終止符。その締めくくりです!!」
 光は闇を淘汰する力。炎は暗闇を打ち消す巨大な力。だからこそ光は今まで闇に包まれていた。自ら燃え立たせるために。

 そして、今こそ闇を打ち払う時なのだとオンギョウジは感じるのだ!

「闇は急がぬ。人の進化を見守る穏やかな力じゃ。急速な進歩は必ず反動を生むものよ」
「それでも安穏とした日々を怠惰に過ごすよりはましでありましょう。人には刺激が必要なのです」
 進化から外れた者が辿る道は、怠惰と退屈という耐えきれない痛み。それは火で焼かれるよりも痛いのだ。人がそう思わなくても、まさに地獄である。

 もし火が人々を焚きつけなければ、そうした未来が待っている。自分が病気であると知らず、安穏と日々を暮らす人間が幸せだろうか? 真実を知らぬほうが楽だろうか?

 それはそれで楽であろう。ただし、最後はもっと苦しむことになるのだ。それを知った以上、黙って見ていることはオンギョウジにはできない。

「火は強い力じゃ。痛みが強すぎる。それでは治る前に死んでしまうぞ」
「何千年と封じられるよりは自由を求める。それが人の心、霊の本質でありましょう」
「愚かなことを…」

 オンギョウジの答えに羽尾火は首を横に振るしかない。もうすでに両者の意見が重なることはないのだと悟る。

「この対立も、すでに女神によって定められたことか」
 羽尾火はそう確信した。

 この宿命の螺旋は両者の激突を欲している。巨大なうねりの中にある作用と反作用による爆発と再照合を欲している。この結果を受けて世界が再び微調整をするかどうかを決めるのだろう。

「ならば、仲間を連れてこなかったことは失敗じゃ。なぜ一人で来た」
 オンギョウジはあえて一人でやってきた。結界師が一人でも欠ければ作戦に支障が出ることと、何よりももう一つの理由。

「あなたお一人倒せないようでは、世界を相手にはできませぬからな」
 顔の焼けただれた痕が自身を奮い立たせる。自身の使命を果たすための最大の障害の存在を喜んでいるのだ!!

「傲慢よ。身の程を知るとよい」
 羽尾火の背後から膨大な火が生まれ、やがて一つの形を生み出していく。それは炎で出来た十メートルはあろうかという三つ首の竜神であった。

(巨大よ。さすが羽尾火殿!)
 オンギョウジは、膨大な魔力の波動に思わず気圧される。火秘術かひじゅつ、【竜形炎化りゅうけいえんげ】。魔王技の火を操る術をエルダー・パワー独自で改良した術である。

 いわば式神の一種で、自身が発した炎に形態を与えて自在に操るものだ。魔王技の炎の術は威力が高い反面消耗も大きいので、こうして式神を作っておくと効率化と同時に安定した術の運用が可能となる。

 大きさは与えた魔力によって変わるが、生み出した大きさと形成時間によって相手の基本能力を知ることができる。一瞬にして巨大な炎の理を生み出した羽尾火に文句のつけようもない。構築の速度、規模、美しさ、どれも師範に相応しい存在。感嘆するしかない。

「あの時は加減したが、今度はそうもいかぬぞ」
 竜は三つの口から巨大な炎を放つ。それは螺旋となってオンギョウジに迫る!

「ぬんっ!!」
 オンギョウジは飛び跳ねながら防御の術を生み出す。床から草が伸び、自身の周囲を折り囲むように魔力の障壁を生み出す。

 真言術【魔障草ましょうそう】である。単純な単一のシールドではなく、幾重にも草状の魔力を編み込むことで強度を飛躍的に上昇させることができる術である。

 一本一本に使う精神力は、実に微々たるものであり消耗も少ない。この術に必要なものは、自在に組み合わせる瞬時の想像力と細かい作業を正確に素早く行う集中力である。

 編まれた十層の壁が炎を受け止める。一瞬では貫通しないほど強固であった。

「ボウズは細かいことは昔から上手であったな」
 羽尾火もその緻密な理の練度に目を見張る。高度かつ日々の鍛錬がなくてはできないものだからだ。

 しかし、それだけにすぎない。二秒後、炎はあっさりと魔障草を貫通し完全に燃やし尽くしていく。二枚、五枚、八枚、あっという間に炎が迫ってくる。

(十層編み出して三秒もたぬか)
 これだけ苦労して編んだものが、たったの二秒で燃え尽きる。されど二秒はもつのだ。羽尾火相手の二秒は実に貴重な時間である。

 オンギョウジは再び跳躍しながら魔障草を生み出す。羽尾火は竜の炎で攻撃。壁が防いでいる隙にオンギョウジは真言を唱える。

「オン・マイタレイヤ・ソワカ!」
 オンギョウジの両腕から二匹の水でこしらえた【大蛇】が生まれる。大蛇は床を高速で移動し、炎竜を追い越し術者である羽尾火に迫る。

「ほっほっほ、あざといのぉ」
 強力な炎竜に直接戦いを挑んでも勝ち目はない。勝機は常に一つ。直接羽尾火を倒すしかない。彼女は老婆。術者としては超一流だが身体的には末期なのだ。そこが狙い目である。

 大蛇は羽尾火を捉え、その水の牙を突き立てる。普通の人間が噛まれれば胴体が砕け散るほどの威力である。羽尾火もそうなるはずであった。

 しかし、水の牙は彼女の身体に触れるや否や、まるで呑まれるかのように羽尾火の身体の中に消えていった。

(あれを喰ったか)
 魔王技【流連水蛇りゅうれんすいじゃ】。水の理を用いた中レベルの攻撃術である。生まれた蛇の大きさは術者の能力に左右され、オンギョウジが放った水蛇は長さ五メートルはあろうかという大蛇。威力も申し分ない。

 だが、羽尾火はそれを【喰った】。術の理を分解して、自らの要素に取り入れたのだ。はっきり言えば放った術を【吸収】された。

「ほっほっ、なかなかおつなものじゃったぞ。腕を上げたの」
 その光景は昔よく見たものであった。術を学ぶ者たち全員が羽尾火に攻撃を仕掛けても、彼女はすべて喰ってしまうのだ。オンギョウジの中に懐かしさが募る。

(さすが羽尾火殿。まともな術では勝ち目がない)
 喰われるということは術の練度に差がありすぎるのだ。オンギョウジも、もしかすれば差が縮まったかもしれないという淡い期待で放ったのだが、まさに淡いものであった。

「さて、少し威力を上げるぞ」
 炎の竜がさらに膨れ上がる。火力を上げたのだ。あれでもまだ力を温存している。

「これはどうかの」
 竜が首を後ろに大きく振りかぶり、勢いよく放ったのは巨大な火焔の玉。小さな太陽が向かってくるような恐るべき熱量である。

(まずい!)
 オンギョウジは瞬間的にこれが避けられないものであり、かすりでもすれば自身が一瞬で黒い影になることを悟った。

 即座に防御の構え。そして魔王技、破邪顕生を構築して火焔玉の解除を図る。しかし、それは簡単な仕事ではなかった。編み込まれた膨大な量の術式の解析と解放を同時にやらねばならない。

「ぬぅううう!」
 必死に力を振り絞り、衝突間際で消すことに成功する。しかし、あまりの【難問】に思わず唸るほどだ。本当にギリギリであった。

「ほっほ、今のをよく消したの。では、次は二つでいくか」
 まるで生徒に問題を出す教師のように、さらに難易度を上げた二つの火焔玉を同時に放つ。

 オンギョウジはもう避けることを諦め、破邪顕生の展開に全力を尽くした。身体を動かしながらでは到底間に合わない質と量なのだ。

「オン・マイタレイヤ・ソワカ!」
 もはや何度目になろうかという真言を使って二つを消した時には、オンギョウジは苦悶の表情を浮かべていた。

「はぁ…はぁ!!」
 地下での戦いでもかなり無理をしてしまい、今はハイレベルな術の戦いである。あまりに消耗が激しすぎる。すでにオンギョウジの集中力とオーラは限界に達しようとしていた。

 一方の羽尾火は真言すら使っていない。
 羽尾火は常々こう諭していたものだ。

「真言を何でもできる道具として考えるなど愚の骨頂。使わずにいられる霊力を日々の鍛錬で養うのじゃ」

 真言は限界を超えるために意図的にリミッターを外す行為。しかし、当然ながら負荷が重くのしかかることになる。武人がオーバーロードを使えば筋肉の断裂や骨折が起きると同じく、真言で術を使いすぎれば激しい精神的ダメージを負う。神経を損傷すれば植物人間にもなりえるのだ。

 それが力の代償。分を超えた者が支払う対価。
 そして、愚かさである。

「人が人を超えることはできぬ。ぬしもわしも超人ではない。分を知るのじゃ」
「それで…黙って見ていろというのですか」
「苦しいかもしれぬが、すべては良きに計らわれる。世界の意思とは【愛】なのじゃ」

 すべての苦しみが愛につながっている。痛みを引き起こしたものが人の愚かさであれ、最後は必ず愛によって昇華される。それがエルダー・パワーの道理である。

「その愛を殺したのは誰であったか!! 人ではありませぬか! オン・マイタレイヤ・ソワカ!」
 オンギョウジの周囲に四つの仏像が生まれ、それぞれが詠唱を始める。
 
 真言秘術【四観韻行しかんいんぎょう】。念霊を生み出して同時詠唱する複韻の上位版とも呼べる術である。生み出す観音は、事前に行動パターンを与えることで、戦闘時に自動的に動くという優れた術の一つだ。

「やはり言葉は通じぬようじゃな」
「その程度の覚悟で来ているわけではまいりませぬ!」
「ならば、ここで焼くのみよ」

 再び羽尾火の火焔玉。今度は三つ。

 まず第一観音が合掌。オンギョウジが生み出した魔障草をさらに包み込む防護壁が生まれ、炎を食い止める。第二観音が開眼。周囲の理の解析を始め、分解していく。

「今度は拙僧が喰わせていただく!」
 観音が生み出したのは、羽尾火がそうしたように術を奪い取る場。羽尾火の火焔玉を観音が受け止め、分解吸収する。

 そして今度は第三観音が広手。解析された理を状況に合わせて急速に組み直していく。第四観音が発音。新たに編まれた理が一つにまとまっていく。これに今吸収した力をそのまま使って、最高難易度の術が完成した。

「餓鬼道輪廻!」
 オンギョウジを中心として円形状に黒い光が広がり、その中から真っ黒な無数の【人影】が生まれていく。数百にも及ぶ人影は一斉に炎の竜神に飛びかかった。

「オォォオオオオ!!」
 人影は炎に焼かれながら断末魔の悲鳴を上げる。それでも消える間際にその身に炎を吸収して散っていく。そのさまはあまりに壮絶である。

 火に焼かれ苦悶を浮かべる人影たち。それらは本物の人間ではないが、業を背負った者たちが生んだ思念の集まりであった。

 地獄的境涯に引きつけられた霊人が発する痛みと苦しみ、地上への未練の思念が周囲の幽的物質を媒体に動いているのだ。これもエルダー・パワーにおける禁術の一つである。

 自ら焼かれながらも必死に竜を食い破っていくその姿は、炎に焼かれたかつてのオンギョウジに重なる。それを見て羽尾火は哀れむ。

「自らの痛みを他者に与えるつもりかい。人は痛みを受けても変わらぬもの。痛みで錯乱し、むしろ害悪が増えることになろうな」
 目の前の光景こそがその証。人が自らの行いで罰を受けたとしても、あまりの痛みで正常な判断ができなくなる。

 そして次第に思考力を失っていく。それこそが地獄の恐ろしいところ。ラーバーンは世界に一時的な混乱と地獄を生み出そうとしているのだ。

「それでも激痛は人を動かしましょう。痛みこそ最大の教訓でありますゆえに」
「それを人が与えるというのが傲慢なのじゃよ」
 羽尾火は炎の竜神を自爆させ、餓鬼どもを一気に薙ぎ払う。オンギョウジはその隙を見逃さない。

 術を使わずに一気に間合いを詰めて錫杖で羽尾火を突く。錫杖の先端には隠し刀。オンギョウジは術士ではあるが身体能力は高く、接近戦も可能である。

「ほっほ、ボウズは血気盛んじゃな」
 羽尾火はまたも避けない。腰周りから生まれた三本の【火の尻尾】が代わりに杖を迎撃。

 一気に巨大な尻尾と化した炎は錫杖を弾き、オンギョウジをいともたやすく殴り飛ばした。しかもただ殴っただけではなく、攻撃した相手を燃やすという凶悪な攻撃である。

「さすが…ですな」
 オンギョウジは炎に包まれながら羽尾火を見る。彼の体表にはうっすらと水の膜が張られ火傷を防いでいた。すでにこの攻撃も読んでいたのだ。

 相手は自身の師である。お互いの手の内もある程度は知っているのだ。羽尾火の尻尾も、かつて一度だけ見たことがあったものである。

「ボウズや、これらすべては【力】じゃ。力とは何のためにあろうか。相手を傷つけるものではないのじゃぞ」
 羽尾火はかつてと同じことを言う。これは何度も何度も弟子に対して伝えてきたことである。ただ、そのたびに無力を痛感する言葉でもあるのだ。

「拙僧も理解しております。力の真髄は創造の理。それらが神慮であることも」
 力はけっして乱用するために与えられたのではない。すべての力には意味があり意図がある。

 世界を創造する力、それこそが最大の意義である。
 しかし、力にはもう一つの側面がある。それが【破壊】だ。

「破壊なくして創造はありませぬ。今まで人類が構築したものはあまりに古く、なおも強固でございます。これを打ち破るには大きな火が必要なのです」
「自らあの餓鬼と同じになるつもりかえ?」
「それで進化が進むのならば」

 オンギョウジの瞳は炎に揺れていた。自身を焼く炎、その業を焼く炎の中で決死の覚悟で燃えていた。それはもはや殉教者のものである。

「ぬしは純粋よ。あまりに純じゃ。おそらく、ぬしのしゅもそうなのであろう」
 真っ直ぐなほどに純粋。ここにいる一人の坊主だけでなく、集まったすべての存在が純粋なのだ。ただ真っ直ぐに人の未来を案じ、信じ、それでも火を放つ役割を担う側に身を投じるのだ。

 なぜか。

「主は誠に人を愛しているからでございます」

 愛を知らぬ者に世界は焼けない。
 愛を知るから悪魔になれる。
 だからこそ強いのだ。

「ならばもう終わりにしようではないか。わし自らの手でな」
 羽尾火の尻尾が一つ、また一つと増えていく。そうして増えて十尾となった羽尾火は、初めて印を作った。

「ボウズにも見せたことはなかったの。これが火秘術の奥義じゃ」
 炎の十尾が肥大化し、羽尾火を包み込むように巨大な形を生み出していく。それはさきほど見た炎の竜神に近いものであるが、羽尾火を核としているため出力はまったく比較にならないほど強大である。

 それは、炎狐。

 見るも美しい赤に染まった炎の狐である。その名を十美乃神炎狐とびのかみのえんこという。

 かつてダマスカスを守った四神獣の一神とされているが、実際は術士が使った火秘術であった。それを見た一般の人々が勘違いして言い伝えになったという火術の奥義である。

 この術の発動こそ、羽尾火が本気になった瞬間である。

(ここが勝負の分かれ目。拙僧のすべてを出して挑むのみ!)

 オンギョウジ、人生最大の戦いである。

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