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第二話:『喉に刺さった棘』
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修学旅行から戻ったあの日以来、世界は薄い膜一枚を隔てて変質してしまった。 教室の風景は何も変わらない。黒板を滑るチョークの音、休み時間の喧騒、窓の外を流れる雲。 そして、俺の隣で屈託なく笑う翔の顔も。
変わったのは俺だけだ。 俺の網膜には、常にあの夜の湯気越しの映像が焼き付いていた。 制服のズボンの上からでも分かる太ももの筋肉の張り、ワイシャツのボタンの隙間から覗く鎖骨の影、体育の時間にバスケットボールを追いかけて汗ばむ首筋。 それら一つ一つが、視覚情報という名の毒となって俺の脳髄に降り注ぐ。
「おい、聞いてんのかよ?」
昼休み。購買で買ったパンを齧りながら、翔が俺の顔を覗き込む。 距離が近い。 以前なら何ともなかったその距離が、今は拷問のように俺を苛む。 彼の口元についたパン屑。それを親指で拭ってやりたいという衝動と、そんなことをすれば全てが壊れてしまうという恐怖が、俺の中でせめぎ合う。
「……悪い、ぼーっとしてた」
「最近お前、変だぞ。なんか悩みでもあるのか?」
翔は心配そうに眉を下げる。その優しさが、鋭利な棘となって喉の奥に突き刺さる。 お前のせいだ、と言えたらどれほど楽だろう。 だが、俺は笑顔という仮面を貼り付け、首を横に振ることしかできなかった。
「受験勉強で疲れてるだけだよ」
「ふーん。ま、無理すんなよ」
翔はポンと俺の頭に手を置いた。 大きく、温かい掌。 その熱が髪を通して頭皮に伝わり、背筋を痺れさせる。 触れられるたびに、俺の体は彼を求めて悲鳴を上げる。もっと触れてほしい、もっと強く、痛くなるほどに。 しかし、その欲望は決して口にしてはならないタブーだ。俺たちは「親友」なのだから。 この関係を維持するためには、俺は一生、嘘をつき続けなければならない。その事実に気づいた時、俺は深海に沈んでいくような息苦しさを覚えた。
季節は巡り、冬の寒さが教室の窓を白く曇らせる頃。 俺の焦燥は限界に近づいていた。 卒業が迫っている。 進路は別々だ。俺は都内の大学へ、翔は地元の専門学校へ進むことが決まっていた。 このまま何も言わずに卒業すれば、俺たちはただの「高校の同級生」になり、やがて年賀状だけの関係になり、いつか風の便りで彼の結婚を知るのだろう。 そんな未来を想像するだけで、嘔吐(えず)きそうになるほどの絶望が襲ってきた。
どうしても、欲しかった。 友達という特等席ではなく、彼の一番深い場所に触れられる唯一の存在になりたかった。
たとえそれが、茨の道だとしても。
俺の中で膨れ上がった怪物は、もはや理性の檻には収まりきらなくなっていたのだ。
三月一日。卒業式。 空は皮肉なほどに晴れ渡り、乾いた風が校庭の砂を巻き上げていた。 体育館での式典が終わり、ホームルームが解散になっても、俺は翔に声をかけられずにいた。 クラスメイトたちが写真を撮り合い、涙を流しながら抱き合っている喧騒の中、翔は人気者らしく女子たちに囲まれている。
「翔くん、ボタンちょうだい!」
「えー、もう袖のとこしかねーよ」
照れくさそうに笑いながら、学ランのボタンを毟(むし)り取られる彼を、俺は教室の隅からじっと見つめていた。 あの笑顔が憎い。誰にでも向けられるその無防備な愛想の良さが、俺を狂わせる。
夕暮れ時。 喧騒が去り、茜色に染まった教室に、俺と翔の二人だけが残った。 俺が呼び止めたのではない。帰ろうとした俺を、翔が呼び止めたのだ。 「なぁ、最後に部室寄ってかね? 忘れ物したかも」 その無邪気な誘いが、運命の分かれ道だった。
誰もいない部室棟は、ひっそりと静まり返っていた。 廊下を歩く上履きの音が、やけに大きく響く。 写真部の部室に入ると、埃っぽい空気と、現像液の酸っぱい匂いが鼻をついた。 窓から差し込む西日が、埃の粒子をキラキラと照らし出している。 翔はロッカーの中を漁りながら、「ねーなー」と独り言を言っている。 俺はドアを閉め、その背中を見つめた。 逆光に縁取られたシルエット。広い肩幅、学ラン越しにもわかる背中のライン。 今、言わなければ、二度とチャンスはない。 心臓が肋骨を砕くような勢いで暴れている。口の中がカラカラに乾き、舌が張り付く。
「……翔」 声が震えた。 翔が振り返る。
「ん? どうした?」
逆光で彼の表情がよく見えない。それが逆に、俺に僅かな勇気を与えた。
「俺……お前のことが、好きだ」
言った。言ってしまった。 世界から音が消えた。 自分の心臓の音だけが、耳元で轟音のように鳴り響く。 翔は数秒間、きょとんとしていた。言葉の意味を理解できていないようだった。
「は? あ、ああ。俺も好きだぜ? お前とは一番気が合ったしな」
明るい声。 違う。そうじゃない。 俺は一歩踏み出し、彼との距離を詰めた。
「違うんだ。友達としてじゃない」
俺は視線を彼の瞳に固定したまま、絞り出すように言葉を継いだ。
「男として、好きなんだ。ずっと、見てた。修学旅行のあの日から、ずっとお前に触れたいと思ってた」
沈黙が落ちた。 それは、重く、冷たく、そして鋭利な沈黙だった。 翔の顔から、あの人懐っこい笑顔が波が引くように消え失せた。 代わりに浮かんだのは、困惑、そして理解と共に急速に広がっていく――拒絶の色。
「……お前、何言ってんの?」
声のトーンが低い。今まで聞いたことのない、冷え切った響き。
「マジで言ってんの?」
「……ああ。本気だ」
俺は縋(すが)るように彼の手を取ろうとした。 だが、その手はパシッという乾いた音と共に、振り払われた。
痛みよりも、その拒絶の動作が、俺の心を抉った。 翔は一歩後ずさり、背中をロッカーにぶつけた。その目は、まるで汚いものを見るかのように細められていた。 「気色悪ぃな……」 吐き捨てられた言葉。 殴られるよりも痛かった。 「え……?」 「俺たち、男だろ? ずっとツレだと思ってたのに、お前、そんな目で俺のこと見てたのかよ」 翔の顔が歪む。それは怒りというより、生理的な嫌悪だった。 「風呂の時も、着替える時も、ずっと俺のこと、そういう風に見てたのか? ……うわ、鳥肌立つ」 彼は腕をさすりながら、心底軽蔑したような目を俺に向けた。
ガラスが割れる音がした。 俺の中で、何かが粉々に砕け散ったのだ。 積み上げてきた友情も、思い出も、信頼も。すべてがこの瞬間に瓦礫と化した。
「ご、ごめん……」
謝るしかなかった。何を謝ればいいのかも分からないまま、ただその場を取り繕うと必死になった。
「冗談、だよな? 今のは、その……」
言い訳をしようとした俺を、翔は冷酷に遮った。
「もういいよ。近づくな」
翔は鞄を掴むと、俺の横をすり抜けるようにして出口へ向かった。 肩がぶつかることすらなかった。徹底的に避けられたのだ。 ドアノブに手をかけ、彼は一度だけ振り返った。
「二度と連絡してくんな。……気持ち悪い」
バタン、とドアが閉まる音。 それが、俺たちの青春の終わりを告げる号砲だった。
俺はその場に崩れ落ちた。 埃っぽい床に膝をつき、呆然と閉ざされたドアを見つめる。 涙は出なかった。あまりの衝撃に、感情が追いついてこないのだ。 ただ、喉の奥に突き刺さっていた棘が、今は心臓にまで達し、どくどくと黒い血を流しているような感覚だけがあった。
西日が傾き、部室の中が次第に闇に沈んでいく。 俺の嗅覚には、現像液の酸っぱい匂いと、翔が残していった制汗スプレーの爽やかな香りが混ざり合って残っていた。 それは、一生忘れられない「喪失」の匂いだった。
帰り道、どうやって家まで帰ったのか覚えていない。 ただ、春の夜風がやけに冷たく、桜の蕾がまだ硬く閉じていることだけが目に入った。 スマホのアドレス帳から「翔」の名前を見つけた時、俺の指は震えていた。 削除ボタンを押す勇気すらなかった。 だが、もう二度と、この番号が鳴ることはないのだと分かっていた。
俺はこの日、恋を失い、友を失い、そして自分自身の半分を失った。 残されたのは、彼に拒絶されたという消えない焼印と、行き場をなくした巨大な劣情だけ。
あれから数年。 俺は心の空洞を何かで埋めるように、仕事に没頭する大人になった。 恋愛などという不確かなものには二度と触れないと誓って。 だが、運命という名の悪魔は、まだ俺を許してはくれなかったようだ。 忘却の彼方に追いやったはずのその名前が、再び俺の前に現れるまでは。
変わったのは俺だけだ。 俺の網膜には、常にあの夜の湯気越しの映像が焼き付いていた。 制服のズボンの上からでも分かる太ももの筋肉の張り、ワイシャツのボタンの隙間から覗く鎖骨の影、体育の時間にバスケットボールを追いかけて汗ばむ首筋。 それら一つ一つが、視覚情報という名の毒となって俺の脳髄に降り注ぐ。
「おい、聞いてんのかよ?」
昼休み。購買で買ったパンを齧りながら、翔が俺の顔を覗き込む。 距離が近い。 以前なら何ともなかったその距離が、今は拷問のように俺を苛む。 彼の口元についたパン屑。それを親指で拭ってやりたいという衝動と、そんなことをすれば全てが壊れてしまうという恐怖が、俺の中でせめぎ合う。
「……悪い、ぼーっとしてた」
「最近お前、変だぞ。なんか悩みでもあるのか?」
翔は心配そうに眉を下げる。その優しさが、鋭利な棘となって喉の奥に突き刺さる。 お前のせいだ、と言えたらどれほど楽だろう。 だが、俺は笑顔という仮面を貼り付け、首を横に振ることしかできなかった。
「受験勉強で疲れてるだけだよ」
「ふーん。ま、無理すんなよ」
翔はポンと俺の頭に手を置いた。 大きく、温かい掌。 その熱が髪を通して頭皮に伝わり、背筋を痺れさせる。 触れられるたびに、俺の体は彼を求めて悲鳴を上げる。もっと触れてほしい、もっと強く、痛くなるほどに。 しかし、その欲望は決して口にしてはならないタブーだ。俺たちは「親友」なのだから。 この関係を維持するためには、俺は一生、嘘をつき続けなければならない。その事実に気づいた時、俺は深海に沈んでいくような息苦しさを覚えた。
季節は巡り、冬の寒さが教室の窓を白く曇らせる頃。 俺の焦燥は限界に近づいていた。 卒業が迫っている。 進路は別々だ。俺は都内の大学へ、翔は地元の専門学校へ進むことが決まっていた。 このまま何も言わずに卒業すれば、俺たちはただの「高校の同級生」になり、やがて年賀状だけの関係になり、いつか風の便りで彼の結婚を知るのだろう。 そんな未来を想像するだけで、嘔吐(えず)きそうになるほどの絶望が襲ってきた。
どうしても、欲しかった。 友達という特等席ではなく、彼の一番深い場所に触れられる唯一の存在になりたかった。
たとえそれが、茨の道だとしても。
俺の中で膨れ上がった怪物は、もはや理性の檻には収まりきらなくなっていたのだ。
三月一日。卒業式。 空は皮肉なほどに晴れ渡り、乾いた風が校庭の砂を巻き上げていた。 体育館での式典が終わり、ホームルームが解散になっても、俺は翔に声をかけられずにいた。 クラスメイトたちが写真を撮り合い、涙を流しながら抱き合っている喧騒の中、翔は人気者らしく女子たちに囲まれている。
「翔くん、ボタンちょうだい!」
「えー、もう袖のとこしかねーよ」
照れくさそうに笑いながら、学ランのボタンを毟(むし)り取られる彼を、俺は教室の隅からじっと見つめていた。 あの笑顔が憎い。誰にでも向けられるその無防備な愛想の良さが、俺を狂わせる。
夕暮れ時。 喧騒が去り、茜色に染まった教室に、俺と翔の二人だけが残った。 俺が呼び止めたのではない。帰ろうとした俺を、翔が呼び止めたのだ。 「なぁ、最後に部室寄ってかね? 忘れ物したかも」 その無邪気な誘いが、運命の分かれ道だった。
誰もいない部室棟は、ひっそりと静まり返っていた。 廊下を歩く上履きの音が、やけに大きく響く。 写真部の部室に入ると、埃っぽい空気と、現像液の酸っぱい匂いが鼻をついた。 窓から差し込む西日が、埃の粒子をキラキラと照らし出している。 翔はロッカーの中を漁りながら、「ねーなー」と独り言を言っている。 俺はドアを閉め、その背中を見つめた。 逆光に縁取られたシルエット。広い肩幅、学ラン越しにもわかる背中のライン。 今、言わなければ、二度とチャンスはない。 心臓が肋骨を砕くような勢いで暴れている。口の中がカラカラに乾き、舌が張り付く。
「……翔」 声が震えた。 翔が振り返る。
「ん? どうした?」
逆光で彼の表情がよく見えない。それが逆に、俺に僅かな勇気を与えた。
「俺……お前のことが、好きだ」
言った。言ってしまった。 世界から音が消えた。 自分の心臓の音だけが、耳元で轟音のように鳴り響く。 翔は数秒間、きょとんとしていた。言葉の意味を理解できていないようだった。
「は? あ、ああ。俺も好きだぜ? お前とは一番気が合ったしな」
明るい声。 違う。そうじゃない。 俺は一歩踏み出し、彼との距離を詰めた。
「違うんだ。友達としてじゃない」
俺は視線を彼の瞳に固定したまま、絞り出すように言葉を継いだ。
「男として、好きなんだ。ずっと、見てた。修学旅行のあの日から、ずっとお前に触れたいと思ってた」
沈黙が落ちた。 それは、重く、冷たく、そして鋭利な沈黙だった。 翔の顔から、あの人懐っこい笑顔が波が引くように消え失せた。 代わりに浮かんだのは、困惑、そして理解と共に急速に広がっていく――拒絶の色。
「……お前、何言ってんの?」
声のトーンが低い。今まで聞いたことのない、冷え切った響き。
「マジで言ってんの?」
「……ああ。本気だ」
俺は縋(すが)るように彼の手を取ろうとした。 だが、その手はパシッという乾いた音と共に、振り払われた。
痛みよりも、その拒絶の動作が、俺の心を抉った。 翔は一歩後ずさり、背中をロッカーにぶつけた。その目は、まるで汚いものを見るかのように細められていた。 「気色悪ぃな……」 吐き捨てられた言葉。 殴られるよりも痛かった。 「え……?」 「俺たち、男だろ? ずっとツレだと思ってたのに、お前、そんな目で俺のこと見てたのかよ」 翔の顔が歪む。それは怒りというより、生理的な嫌悪だった。 「風呂の時も、着替える時も、ずっと俺のこと、そういう風に見てたのか? ……うわ、鳥肌立つ」 彼は腕をさすりながら、心底軽蔑したような目を俺に向けた。
ガラスが割れる音がした。 俺の中で、何かが粉々に砕け散ったのだ。 積み上げてきた友情も、思い出も、信頼も。すべてがこの瞬間に瓦礫と化した。
「ご、ごめん……」
謝るしかなかった。何を謝ればいいのかも分からないまま、ただその場を取り繕うと必死になった。
「冗談、だよな? 今のは、その……」
言い訳をしようとした俺を、翔は冷酷に遮った。
「もういいよ。近づくな」
翔は鞄を掴むと、俺の横をすり抜けるようにして出口へ向かった。 肩がぶつかることすらなかった。徹底的に避けられたのだ。 ドアノブに手をかけ、彼は一度だけ振り返った。
「二度と連絡してくんな。……気持ち悪い」
バタン、とドアが閉まる音。 それが、俺たちの青春の終わりを告げる号砲だった。
俺はその場に崩れ落ちた。 埃っぽい床に膝をつき、呆然と閉ざされたドアを見つめる。 涙は出なかった。あまりの衝撃に、感情が追いついてこないのだ。 ただ、喉の奥に突き刺さっていた棘が、今は心臓にまで達し、どくどくと黒い血を流しているような感覚だけがあった。
西日が傾き、部室の中が次第に闇に沈んでいく。 俺の嗅覚には、現像液の酸っぱい匂いと、翔が残していった制汗スプレーの爽やかな香りが混ざり合って残っていた。 それは、一生忘れられない「喪失」の匂いだった。
帰り道、どうやって家まで帰ったのか覚えていない。 ただ、春の夜風がやけに冷たく、桜の蕾がまだ硬く閉じていることだけが目に入った。 スマホのアドレス帳から「翔」の名前を見つけた時、俺の指は震えていた。 削除ボタンを押す勇気すらなかった。 だが、もう二度と、この番号が鳴ることはないのだと分かっていた。
俺はこの日、恋を失い、友を失い、そして自分自身の半分を失った。 残されたのは、彼に拒絶されたという消えない焼印と、行き場をなくした巨大な劣情だけ。
あれから数年。 俺は心の空洞を何かで埋めるように、仕事に没頭する大人になった。 恋愛などという不確かなものには二度と触れないと誓って。 だが、運命という名の悪魔は、まだ俺を許してはくれなかったようだ。 忘却の彼方に追いやったはずのその名前が、再び俺の前に現れるまでは。
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