初恋は幼馴染

たかし

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第三話:『空白を埋める劇薬』

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七年という歳月は、人の細胞をすべて入れ替えるのに十分な時間だという。  ならば、今の俺は、あの放課後の部室で膝をついた俺とは、生物学的には別物になっているはずだ。  あの日の絶望も、恥辱も、焼き切れるような恋心も、すべて代謝されて消え去っているはずだった。  そう信じていたからこそ、俺はその場所へ足を踏み入れたのだ。

 都内のホテルの宴会場。シャンデリアの人工的な光が降り注ぐ中、同窓会の受付には懐かしい、けれどどこか他人のような顔が並んでいた。  スーツに身を包んだかつての少年少女たちは、名刺交換という名の儀式に興じている。 
「うわ、久しぶり! 変わんないなー」 
「お前こそ、老けたんじゃね?」  
飛び交う社交辞令。俺は薄い笑みを張り付け、適当に相槌を打ちながら、ウーロン茶のグラスを握りしめていた。  視線は無意識に、会場の入り口を彷徨(さまよ)っている。  来るはずがない。彼は地元に残ったはずだ。  そう自分に言い聞かせていた時だった。

 会場の空気が、ふ、と揺らいだ気がした。  入り口から入ってきた男を見て、数人の女性客が色めき立つ。  仕立ての良いダークネイビーのスーツ。短く整えられた黒髪。照明を弾く革靴。  七年前のジャージ姿の面影など微塵もない。そこにいたのは、完成された「雄」としての自信を纏った、大人の男だった。

 翔だ。  心臓が、肋骨を内側から蹴り上げた。  全身の血液が沸騰し、次の瞬間に凍りつく。  逃げなければ。本能が警鐘を鳴らす。あいつは俺を拒絶した人間だ。「気持ち悪い」と吐き捨てた人間だ。  だが、足は床に縫い付けられたように動かなかった。

 翔は数人の友人に囲まれ、談笑しながらゆっくりと会場を進んでくる。  その視線が、ふと俺を捉えた。  時が止まる。  あの日の冷徹な眼差しがフラッシュバックし、俺は身を強張らせた。  しかし、翔の顔に浮かんだのは、予想もしないものだった。  彼は目を細め、人懐っこい笑みを浮かべると、真っ直ぐに俺の方へ歩いてきたのだ。

「よう。来てたんだな」 
低い声。変声期の不安定さは消え、腹に響くようなバリトンボイスになっていた。 
「……久しぶり」  
喉が張り付いて、掠れた声しか出ない。  翔は俺の隣に並び、ウェイターからシャンパングラスを受け取ると、カチンと俺のグラスに当てた。 
「七年ぶりか。元気にしてたかよ、東京の生活は」  
あまりに自然な態度。  まるで、あの卒業式の惨劇などなかったかのような振る舞いだった。  俺は混乱した。あの日、お前は俺を拒絶したはずだ。二度と連絡するなと言ったはずだ。  それとも、七年という時間は、あの大事件さえも「若気の至り」として風化させてしまったのだろうか。

「まあ、それなりに。お前は?」 
「俺? 俺は地元の営業所で働いてる。ま、適当にやってるよ」  
翔がグラスを傾ける。喉仏が動く様を、俺は盗み見るように追った。  大人の男の喉仏は、高校時代よりも太く、無骨に見える。  ふわりと、彼から香りが漂ってきた。  昔のような制汗剤の安っぽい匂いではない。白檀(サンダルウッド)とムスクが混じった、重厚で官能的な香水の香り。  それが、俺の理性をじわりと侵食していく。

 会は進み、二次会へと流れる頃には、俺たちの距離はかつてのように近くなっていた。  アルコールが回っているせいだろうか。翔の瞳はどこかとろんと潤み、俺を見る視線に粘度が増しているように感じられた。  居酒屋の狭い個室。隣に座った彼の太ももが、俺の太ももに押し付けられる。  スーツの生地越しに伝わる熱。  俺は何度も席を立とうとしたが、そのたびに翔が
「まあまあ」
と俺の肩を抱き、酒を注いできた。 
「お前さ、高校の時より痩せたよな。ちゃんと食ってんのか?」  
耳元で囁かれる。酒臭さと香水の匂いが混ざった吐息が、鼓膜を震わせる。 
「……仕事が忙しいからな」 
「ふーん。相変わらず真面目そうだしな」  
翔の手が、俺の背中を這うように撫でた。  背筋に電流が走る。  これは何だ? 単なる酔っ払いのスキンシップか? それとも……。  期待してはいけない。これは罠だ。また突き落とされるに決まっている。  理性はそう警告しているのに、体は正直に彼の熱を求めていた。七年間、乾ききっていたスポンジが水を吸うように、俺の細胞は彼の接触を貪欲に吸収しようとしていた。

 二次会がお開きになり、路上に放り出された時、深夜二時を回っていた。  タクシーを拾おうとする同級生たちの輪から少し離れた場所で、翔が俺の袖を引いた。 
「なぁ」  
街灯の下、翔の顔が陰影を帯びて浮かび上がる。
「この後、どうする?」  
その問いの意味を、俺は正確に理解できなかった。いや、理解することを恐れた。 
「……帰るよ。明日も仕事あるし」 
「つまんねーこと言うなよ。せっかく会えたんだぜ?」  
翔が一歩、距離を詰める。  彼の革靴の爪先が、俺の靴に触れる。 
「飲み直そうぜ。二人で」  
その瞳の奥に、揺らめく暗い炎を見た気がした。  それはかつて大浴場で見た無垢なものではなく、獲物を絡め取ろうとする大人の狡猾さと、隠しきれない欲望の色だった。

 断れるはずがなかった。  たとえそれが地獄への招待状だとしても、翔が差し出す手を取らない選択肢など、俺にはなかったのだ。

 タクシーの中では、互いに無言だった。  流れる街の灯りが、車内の闇を断続的に切り裂く。  翔の手が、シートの上で俺の手に重なった。  振り払わなかった。指を絡めると、彼は強く握り返してきた。  掌(てのひら)が硬い。仕事で培われた男の手だ。  その痛みすら愛おしく、俺は涙が出そうになるのを必死で堪えた。

 行き着いた先は、繁華街の外れにあるビジネスホテルだった。  フロントで鍵を受け取り、エレベーターに乗る。  密室。上昇する浮遊感と共に、緊張が極限まで張り詰める。  部屋に入り、カードキーを差し込むと、無機質な照明が点灯した。  ドアが閉まる重たい音。  それが合図だった。

 翔が背後から俺を抱きすくめた。 
「……翔?」 
 問いかける間もなく、彼は俺の体を強引に反転させ、唇を押し付けてきた。  荒々しく、飢えたようなキス。  唇が押し潰される痛みと、口内に侵入してくる舌の熱さに、思考が白く弾けた。  酒の味がする。タバコの苦みがする。そして、ずっと焦がれていた翔の味がする。
「ん、ぅ……!」  
抵抗する気などなかったが、あまりの激しさに呼吸ができず、俺は彼の肩を叩いた。  翔は一度唇を離し、乱れた呼吸で俺を見下ろした。  その目は、完全に据わっていた。 
「お前、まだ俺のこと好きなんだろ?」  
残酷な問い。  
七年前の傷口を無理やりこじ開け、そこに塩を塗り込むような言葉。  だが、今の俺にはプライドなどというものは残っていなかった。 
「……そうだよ。忘れられるわけ、ないだろ」  
涙声で認めると、翔は満足げに口角を歪め、再び俺に口づけた。今度は深く、粘着質に、俺の全てを支配するかのように。

 ベッドになだれ込む。  互いのスーツが擦れ合う音が、耳障りなほど大きく響く。  翔の手が俺のネクタイを乱暴に緩め、シャツのボタンを引きちぎる勢いで外していく。  肌が空気に晒される。エアコンの冷気よりも先に、翔の熱い手が胸板に触れた。  指先が乳首を掠める。 
「ひっ……!」  
声にならない悲鳴が漏れる。  敏感になりすぎている。七年間の禁欲と、目の前に翔がいるという事実が、俺の神経を異常なまでに高ぶらせていた。 
「可愛い声出すなよ。高校の時は、こんなの知らなかったのにな」  
翔が低く笑い、俺の首筋に顔を埋める。  舌が肌を這い、吸い付く。  ちゅ、じゅる、という卑猥な水音が部屋に響くたびに、俺の腰が勝手に跳ねた。

 俺もまた、震える手で翔のジャケットを脱がせ、シャツの下へと手を滑り込ませた。  背中の筋肉。七年前よりもさらに厚みを増し、硬くなった肉体。  生きている翔だ。幻覚でも妄想でもない。  この温度、この重み。  俺は夢中で彼にしがみつき、その背中に爪を立てた。  もっと深く。もっと痛く。俺の存在を、お前に刻み込みたい。

 翔が俺のベルトに手をかけ、バックルを外す金属音が響いた。  ズボンと下着が一気に引き下ろされる。  露わになった俺の欲望を見て、翔は
「元気だな」
と揶揄(からか)うように言った。  恥ずかしさで顔を覆おうとした俺の手首を、彼は片手で掴み上げ、頭上で拘束した。 
「隠すなよ。全部見せろ」  
命令口調。かつての対等な関係はそこにはなく、圧倒的な捕食者と被食者の構図があった。  けれど、それがたまらなく興奮した。  彼に見られること、彼に支配されることこそが、俺が七年間待ち望んでいた「救済」だったのだから。

 彼の手が、俺の最も弱い部分を愛撫する。  容赦のない、それでいて手慣れた指使い。  どこでこんなテクニックを覚えたのか。七年の間に、誰が彼に触れたのか。  嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。  だが、快楽の波はそんな思考さえも飲み込んでいく。 
「あ、ああっ、翔、だめ、そこ……ッ!」 
「いい顔だ。昔の真面目な顔が台無しだな」  
翔は俺の反応を楽しみながら、徐々に、しかし確実に、最後の一線へと準備を進めていく。    痛みが走った時、俺は一瞬だけ現実に引き戻された。  異物が体を割り入る感覚。  だが、すぐにそれは甘美な痺れへと変わった。  翔が俺の中に入ってくる。  繋がった。  物理的に、俺たちは一つになった。  その事実だけで、涙が溢れて止まらなかった。 
「泣くなよ」  
翔が俺の涙を舐めとる。その舌のざらつきすら愛おしい。  彼は激しく腰を打ち付け始めた。  ベッドがきしみ、肉と肉がぶつかる音が連続する。  俺は彼の背中にしがみつき、ただその名前を呼び続けた。 
「翔、翔、好きだ、愛してる……ッ」  
何度言っても足りなかった。  この言葉を伝えるために、俺は七年間生きてきたのだ。

 絶頂の瞬間、視界が真っ白に染まり、俺は魂が体から抜け出るような感覚を味わった。  翔もまた、俺の首筋に歯を立てながら、低く唸って果てた。

 事後。  重なる体の重みと、汗の匂い。  翔は俺の上に覆いかぶさったまま、荒い息を整えている。  俺は震える手で、彼の汗ばんだ髪を撫でた。  夢ではない。  俺たちは結ばれたのだ。  あの日の拒絶を乗り越え、ついに彼を手に入れたのだ。

 翔がゆっくりと体を起こし、サイドテーブルの水を一気に煽った。  そして、ふぅと息をついて俺を見た。  その目は、行為の最中の熱情が嘘のように凪いでいた。 
「……悪い。酔っ払って、勢いで」  
その一言に、俺の心臓は凍りついた。  勢い? ただの酒の席の過ちだと言うのか?  俺が何か言う前に、翔はぽん、と俺の頭を無造作に撫でた。 
「でも、悪くなかったな。お前、意外と感度いいし」  
悪魔のような微笑み。  その笑顔を見て、俺は悟った。  彼は俺を愛したから抱いたのではない。  かつて自分に向けられた好意を利用し、空白を埋めるための「都合のいい道具」として俺を選んだのだ。

 それでもよかった。  彼が俺を求めてくれるなら。  たとえそれが愛でなくとも、彼の体温を感じられるなら、俺は喜んでその毒を飲み干そう。  俺はシーツを握りしめ、自分自身に嘘をつくように微笑んだ。 
「……うん。俺も、良かったよ」

 これが、底なし沼への第一歩だとも知らずに。
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