神送りの夜

千石杏香

文字の大きさ
9 / 123
第一章 秋分

7 別れの決意

しおりを挟む
数十分後――谷川からのメッセージがスマートフォンに入った。

〈着いたよ。〉

それを目にし、マンションのロビーを美邦は出る。

黒い車が路肩に止まっていた。見慣れた谷川の車だ。そのドアを開け、助手席に乗る。

病院へ向けて静かに走り出した。

耐え難い思いと、激しい動揺が胸を駆け巡る。死期が近くても、もう少し時間があると思っていた。覚悟はできていない。しかし、そんな美邦を無視するように、流れるように朝の街を車は進んでゆく。

ほどなくして病院へ着いた。

夏から見慣れた廊下を進み、「大原昭」というネームプレートの貼られた部屋へ這入る。

病室には、主治医と啓が先に来ていた。啓は、美邦ちゃん、と言ったあと、谷川へ目を留める。谷川が、お久しぶりです――と言って頭を下げた。

昭は、いつも通りベッドに横たわっていた。しかし、顔に被せられた白い布が、昨日までの昭ではないことを示している。

主治医が静かに告げた。

「心筋梗塞です。――未明に亡くなりました。腎不全に最も多い死因です。」

両眼が熱くなり、唯一見える右の視界がかすむ。自然と手が動き、顔を覆っていった。

美邦の肩を、そっと谷川が抱く。

熱い暗闇の中、主治医の声が聞こえた。

「昭さん、これを握りしめて亡くなりました。」

少しして、啓の声が聞こえる。

「これは僕に宛てたものでしょうか?」

「それは――分からへんですが。」

主治医の声が自分へ向く。

「美邦さんも、こちらを。」

顔から手を離すと、温かい雫が頬を伝った。

ぼやけた視界が、徐々に明瞭となってゆく。医師が差し出した物は、くしゃくしゃになったメモ用紙だった。何かが書かれていることに気づき、目を凝らす。

「みくにをたのむ」

随分と歪んでいるが父の字だ。

父の意識は存在しない。しかし意思は伝わる。

ふたたび、温かい流れが頬を伝った。今は、何かを考えられる状況ではない。ましてや、これからどうなるのか――そんなことは。

葬儀場へ向かった。

窓の外に、明るい朝がある。

涙で歪んだ視界の中、まつ毛に反射した光が六角形の結晶となった。一つの六角形が、ずれて拡がるように六つに増える。均等に重なった中央に、六つの菱形が花のように開く六芒星が現れた。

運転席から、谷川の声が響く。

「お葬式に必要なことは僕らでやるから、美邦ちゃんは休んでて。けれども、一旦マンションに帰る必要があるかもしれない――通夜のために必要な物を取ってこなきゃいけないから。」

はい――と美邦は答えた。

昭のいない人生が始まる。だが、この朝の明るさは、何かが始まる予感を覚えさせた。

――ねえ。

――お父さん。

――お母さんと暮らしてた町はどこ?

もう何度も訊ねた言葉が蘇る。

――お母さんのお墓はどこなの?

昭の墓はどうなるのだろう。

     *

その晩は葬儀場に泊まった。

一人だけの寂しい通夜だ。しかし、一人になってむしろほっとする――葬儀の準備などで、見慣れない大人と顔を合わせ続けていたためだ。

一晩の眠りに就き、やがて朝が来る。

通夜室で髪を結い、制服を着た。そんなさなかも胸は痛む。学校へ行くためではなく、父を送るために着るのだ。

安置室へ向かう。

廊下には、半透明の人影が多く見えた。近づけば消えるそれは、遠目には、他家の葬儀に来た人と見分けがつかない。

「大原家式場」と書かれた部屋へ這入る。そこでは、祭壇が既に出来上がっていた。

同時に、棺の左右にある提灯が目に留まる。

表面には、六つの菱形が作る六芒星が描かれていた。

大原家の家紋を美邦は初めて見た。昭の棺を守るように、その左右に鎮座している。

しばらくして谷川が現れた。それを皮切りに、昭の友人や知人が姿を現す。先日と同じく、お悔やみの言葉をかけられた。機械的に美邦は応えてゆく。悲しむ暇のない時間がしばらく流れた。そんな挨拶のさ中、女の声が耳に入る。

「美邦ちゃん?」

顔を上げると、三十代初めほどのショートボブの女性が立っていた。

「あ、やっぱり美邦ちゃんだ。」

彼女は素早く近寄り、美邦の肩を抱いた。いきなり触れられ、避けがたい不愉快感をいだく。

「本当に大きくなってぇ。口元なんか夏美さんそっくりだわ。」

戸惑っていると、詠歌えいか、という声が聞こえた。顔を向けると、喪服を着た啓が立っていた。その隣には、十歳ほどの女の子を連れている。

「美邦ちゃん、覚えとらん。」

啓の言葉に、彼女は少し残念な顔となる。

「あ、それかあ。」

気まずそうに啓が説明した。

「叔母さんの詠歌だで。」

そうして、目の前の人物が叔母だと気づく。啓とは不釣り合いなほど若く見え、短い髪が勝気な印象を与えた。

「それと、娘の千秋。」

言われて、啓の隣の子供に目を向ける。

そして解った――なぜ詠歌が自分に気づいたのか。

――似ている。

幼めの顔立ちも、褐色の瞳も、癖のない黒髪も。いや――部位ではなく、全体的な雰囲気が同じだ。自分の妹だと言われても可怪おかしくないほどに。

詠歌の目が潤んだ。

「昔は叔母さんの処に、よう遊びにきとっただよ? 覚えとらん?」

「あ――いえ、その――昔のことは――よく覚えていなくて。」

「あら――そう――」

再び、残念そうな顔が現れた。

「ごめんなさいね、あまりに久しぶりなだけぇ――。でも、本当に綺麗になってぇ――」

忖度のないことを言えば、この叔母は少し気持ち悪い。

平坂町にいた頃の記憶はほぼないのだ。たしかに、親戚らしき人と遊んだような覚えはある。それでも、それが渡辺家の人かもよく分からないのだ。

詠歌は振り返り、そして、戸惑った様子の千秋に気づいた。

「千秋、この子が美邦ちゃん。お父さんのお兄さんの娘さんだで。」

千秋と目が合う。

やはり似ていた――四親等も離れているにも拘らず。自分が失明しておらず、ほどほどのロングヘアだったなら瓜二つのはずだ。

美邦の目元を気にかけてか、千秋は目を逸らす。そして、ふかぶかと頭を下げた。

「初めまして。渡辺千秋――です。」

声まで似ていることに少し驚く。つられて美邦も頭を下げた。

「大原美邦――です。」

    *

斎場の近くにあるレストランで昼食を摂った。その最中、美邦の今後について話題が及ぶ。大まかな事情は、詠歌と千秋にも既に伝わっていた。

悲しげでありつつ、優しげな声で詠歌は言う。

「私は、美邦ちゃんを預かることは構わんけど。」

そして、美邦によく似た少女へ顔を向けた。

「千秋は?」

話を振られ、千秋は困惑した。

「え――っと。」

褐色の瞳が、おずおずと美邦へ向かう。しかし、こちらの様子を窺うように何度か逸らされては向けられた。

「あの、あたしも、全く問題ないけれど。でも――」

心配そうに眉が垂れる。

「お姉さんは大丈夫なんですか? 友達とも街とも離れてこっちに来るなんて。」

「うん。」

美邦は目を伏せた。

くしゃくしゃになったメモ用紙を思い出す。

平坂町と親戚に対し、冷淡な態度を昭は貫いていた。

しかし、美邦を町へ返したくないわけではない――とも言っていたのだ。その本音を、今さら覗いたように思う。もちろん、平坂町で何が起きたか説明する前に昭は逝ってしまったが。

心配そうに啓は声をかける。

「別に、今すぐ決めんでええで。何なら一度、町を訪れてから決めてみん?」

「いえ――構いません。」

珍しく、迷いなく首を横に振る。断らざるを得ない理由があった。

顔を上げ、長く気にしていたことを尋ねる。

「叔父さん――父のお墓は、やっぱり平坂町ですか?」

唐突な質問に啓は目を瞬かせた。そして、そうなるが――とうなづく。

「大原家のお墓は十年も放置されとる。そこを綺麗にして葬るつもりだで。お坊さんも、大原家の宗派の人を呼んできた。美邦ちゃんがそれ以外のことを望めば、話は別だけど。」

「是非とも――母と同じお墓に入れて下さい。父も、本当は、平坂町へ帰りたかったんだと思います。」

再び目が熱くなってくる。

「でも――そうなれば、私はまた――父と離れ離れになってしまいますから――」

今までいでいた感情が蘇る。熱い雫が頬を落ち、テーブルを叩いた。美邦の背中を、そっと詠歌は撫でる。年下の前で泣いてしまったことが恥ずかしかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

それなりに怖い話。

只野誠
ホラー
これは創作です。 実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。 本当に、実際に起きた話ではございません。 なので、安心して読むことができます。 オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。 不定期に章を追加していきます。 2025/12/25:『がんじつのおおあめ』の章を追加。2026/1/1の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。 2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/20:『にんぎょう』の章を追加。2025/12/27の朝8時頃より公開開始予定。 2025/12/19:『ひるさがり』の章を追加。2025/12/26の朝4時頃より公開開始予定。 ※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

(ほぼ)1分で読める怖い話

涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話! 【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】 1分で読めないのもあるけどね 主人公はそれぞれ別という設定です フィクションの話やノンフィクションの話も…。 サクサク読めて楽しい!(矛盾してる) ⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません ⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

百物語 厄災

嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。 小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

処理中です...