向かいの席の彼女

荒深小五郎

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職場にいて、誰にも言えないことがひとつやふたつある。
それは、ミスでも悪口でもなく、もっと曖昧なもの。
「誰と、何を話したか」みたいな、ちいさな記憶のかけらたち。

あの日の残業も、いつものように、ふたりだけだった。
係長が珍しく早く帰った日のことだった。

彼女はちょっと疲れて見えた。
上司の理不尽な指示にうんざりしたのか、それとも単に眠かったのかはわからない。でも、少し口が軽くなるときの彼女だった。

「知ってますか? あの課長、前の部署でもやらかしてたらしいですよ」

彼女は誰にも聞かれないように、少しだけ身体を傾けてそう言った。
声は小さかったけど、目だけはやたらと輝いていた。

ぼくは曖昧に笑った。
彼女のそういう時、どうリアクションするのが正解かまだわからない。
でもたぶん、同意や否定よりも「聞いてるよ」という空気が大事なのだと思っている。

「ここだけの話ですからね」
彼女はそう言って、目の前のファイルに視線を戻した。
でもその言葉は、ぼくの胸の奥にずっと残っている。

秘密といっても、たいした話ではない。
ただ、その「ここだけ」という空気が、
ぼくにとっては、ちょっとした信頼のように感じられた。

彼女はあの日以来、何度かぼくに小さな“ここだけの話”をしてくれた。
それが嬉しくて、ぼくもつい、昔の部署の笑えない話なんかを返した。

誰にも言わない。
言わない代わりに、ただ静かに覚えている。
そんな秘密をひとつ、またひとつ、ふたりで重ねていくような感覚。

そのあとで彼女がまた不機嫌になる日もあるし、
目も合わない日もあるけれど、
「秘密を知っている人」としてだけは、心のどこかに残っているような気がする。

そんなふうに、今日もまた静かに過ぎていく。
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