向かいの席の彼女

荒深小五郎

文字の大きさ
4 / 6

4

しおりを挟む
異動ではなかった。
でも、ちょっとした席替えがあった。
その理由は「機器配置の都合」とか「業務の効率」とか、まあそんなもの。

彼女の席は、ぼくの向かいから2つ右に移った。
たったそれだけのことで、日々の会話の量が目に見えて減っていった。

以前は、書類の受け渡しも、ちょっとした目配せも、ごく自然にできた。
今は、話すには“立ち上がる必要がある距離”になった。

人は、物理的な距離を越えて関係を保てると言うけれど、ぼくたちはそういう関係ではなかったのかもしれない。

昼休みも、彼女は別の同僚と話すことが増えた。
あの、残業中に交わしていた愚痴や秘密のやりとりは、少しずつ思い出に変わっていった。

寂しかった。
でも、それを「寂しい」と感じていることさえ、自分に許していいのか迷っていた。

一度だけ、席替えのあとに彼女がこんなことを言った。

「前の席、よかったですよね。なんか落ち着いたんですよ」

ぼくはその言葉にうまく返せなかった。
ただ、うなずいた。
それだけだった。

何も壊れたわけじゃない。
ただ、少しだけ流れが変わっただけ。
それだけのはずなのに、世界の輪郭が違って見えた。

たぶん、あの距離感がちょうどよかったんだと思う。
仕事という日常の中で、誰にも見られないちいさなやりとりを交わせる場所。

今の席では、それがもうできない。
でも、ふとした拍子に彼女がこっちを見て笑うときがある。
そのときだけは、なんだかまだ“つながっている気配”が残っていて、それに少しだけ救われる。

今日も、彼女は向こうの席で誰かと話していた。
笑っている声が、少し遠くから聞こえてくる。
それが、うれしくて、ちょっとだけさみしい。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

【完結】さよなら私の初恋

山葵
恋愛
私の婚約者が妹に見せる笑顔は私に向けられる事はない。 初恋の貴方が妹を望むなら、私は貴方の幸せを願って身を引きましょう。 さようなら私の初恋。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

さよなら 大好きな人

小夏 礼
恋愛
女神の娘かもしれない紫の瞳を持つアーリアは、第2王子の婚約者だった。 政略結婚だが、それでもアーリアは第2王子のことが好きだった。 彼にふさわしい女性になるために努力するほど。 しかし、アーリアのそんな気持ちは、 ある日、第2王子によって踏み躙られることになる…… ※本編は悲恋です。 ※裏話や番外編を読むと本編のイメージが変わりますので、悲恋のままが良い方はご注意ください。 ※本編2(+0.5)、裏話1、番外編2の計5(+0.5)話です。

なくなって気付く愛

戒月冷音
恋愛
生まれて死ぬまで…意味があるのかしら?

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

処理中です...