ほら吹き大探偵の朝

ポール・ブリッツ

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ほら吹き大探偵の朝・前編

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ほら吹き大探偵の朝

1 我輩は怒った

 我輩は怒った。激怒した。激怒の意味がわからなかったら辞書を引け、と怒鳴りつけてしまうくらいに怒った。若い女性ながらも我輩の助手を務めてくれている、シャーリー・ベイカーくんが止めてくれなかったら、我輩はわが探偵事務所のありとあらゆる家具を叩き壊していたかもしれぬ。持っておくのは、美人で気が利く、有能な助手である。

「所長、急に怒り出して、どうなさったんですか。パソコンをご覧になっていたようですけれど、そんなに怒るようなことが書いてあったんですか」

 我輩はうなずいた。

「うむ。シャーリーくん、これを見たまえ。ポール・ブリッツとかいう頭の悪そうなやつが、こともあろうに、我輩の事件簿を盗み読みして、ブログに面白おかしく書きよったのだ。それだけなら、まだ、我輩も赦したかもしれん。しかし、この犬にも劣る礼儀知らずは、我輩のことを……」

 シャーリー嬢は、我輩の指さす先の文字を読んだ。

「ほら吹き大探偵の冒険」

「いうに事欠いて、我輩を『ほら吹き』とは、いったい、どういうことだ! これは我輩の王族としてのプライドと、この探偵事務所の信用にも関わる問題だ。決して赦すわけにはいかん!」

「書かれてしまったものは、もう、どうにもなりませんから、濃い目の紅茶でもお飲みになられたらいいでしょう。ブランデーも入れましょうか」

「ふた口だぞ。ブランデーはふた口。そのくらい飲まないと、この怒りはおさまらんのだ」

 どすんと、椅子に腰を下ろしたとき、我輩は尻になんとなく痛みを感じた。椅子をよく見ると、我輩があまりにも力いっぱい尻をぶつけたせいか、椅子のクッションからバネがちょこんと顔を出していた。どうやら椅子までもが、我輩を馬鹿にしているらしい。

 我輩は椅子を睨んだが、椅子に文句をぶつけたところで、椅子が謝罪するわけも、名誉ある決闘に応ずるわけもない。それが、よけい我輩をいらだたせた。

 椅子から立ち上がり、クッションを母国のハイダラケ王国から航空便で取寄せねばならん、と考えていたとき、尻の痛みより激しい痛みを下腹部に覚えた。

 偉大なるハイダラケ王国の、王族の血を受け継ぐ者がこんな言葉をいうのもなんだが、今、我輩は猛烈にうんこがしたくなってきたのだ。

 我輩は、免許皆伝の腕前である錯乱寺拳法の呼吸法で痛みを押さえながらトイレへと向かった。いつもの朝の痛みではない。いつもより遥かに深刻な腹の痛みかただ。

 これは、我輩が誰かに毒を盛られたせいであろうか。我輩が何かの事件に関わることを恐れる、何者かの仕業であろうか。そういえば、この前トイレに行ったのはいつだっけ。ひどい便秘になったのに、これまで気づかなかったらしい。

 下腹の痛みは、もう耐えがたいほどになっていた。錯乱寺拳法の呼吸法でも、一歩一歩、歩みを進めるのがやっとの、ひどい切迫感である。

 トイレのドアの前に立ったときは、我輩は汗まみれになっていた。あぶら汗とも、冷や汗とも違う、トイレで切迫したことのある人間しかわからない汗だ。

 ドアを開けて便器のカバーを開けて、便座に腰を下ろした時、便器が口をきいた。

「大探偵、プリンス・ザレゴット・ダイスキー殿下、どうかわたしを助けてはくださいませんか」

 助けてほしいのは、我輩の下腹の痛みだというのに、急になにをいい出すのだ、この便器は!



2 便器は訴える

 便器だけでなく、誰に対しても、我輩は王家の一族であり、紳士である。

「相談事があるのなら、いってみたまえ。その前に我輩の用を足すことだけは許してほしいものだがね」

 便器は、はっと、自分のやることを思い出したようだった。

「あっ、申し訳ありません」

「うむ」

 そうやって我輩は力んだが、大腸のあたりでよほど固く詰まっているのか、きばってもきばっても、うんこは出てこない。

「あのう、殿下、あまり無理しても身体に毒だと、わたしは一介の便器として思います」

 便器がいうと説得力がある。我輩は呼吸法で痛みをこらえた。

「それで、便器くん。きみを依頼人と考えてよいのだな」

「はい。実は、わたし……便秘で苦しんでいるんです」

「便器が便秘だと?」

 我輩はあっけに取られた。

「便器くん、きみはいったいなにを食べているんだね。まさか……」

「主に食べているのは、水道の水です」

 我輩は汗をぬぐった。断じて恐ろしかったわけではない。

「よし、便器くん、我輩がいいことを教えてやろう。日本に古くから伝わる武術、錯乱寺拳法の呼吸法のやり方だ。まず、こうして息を吸う。大気からパワーを取り入れるのだ。我輩に続いてやってみろ。すうーっ。はあーっ」

「はい。すうーっ……。はあーっ……」

「うまいぞ。だが、もっと、自然に。すうーっ……」

「はあーっ……」

 呼吸法は効果があった。実に劇的な効き目を見せた。

 我輩が腰かけている便器が、ぶるっと震えたかと思うと、

「わあっ!」

 どすどすどすどす、という、べらぼうに大きな音をたてて、便器がうんこをし始めたのだ。

 我輩が探偵事務所をこのビルに開くよりも、ずっと前から溜まっていたらしい。この便器は、我輩に相談する前に肛門科の医者のところへ行くべきだったのだ。

 長い年月の間、溜め込まれていたうんこの放出により、便器は猛烈な勢いで天井を突き破って青い空へと飛び出した。我輩を乗せたままで。

 うんこは相当に溜まっていたらしい。きみは「作用と反作用の法則」というものを聞いたことはあるだろうか。何かに向けて力を使ったら、必ずその正反対の方向にも力が加わる、という物理学の法則なのだが、いまの便器はまさにそれだった。覚えておきたまえ。ロケットも、その「作用と反作用の法則」で、空を飛んでいるのだ。いまの我輩たちのように。

 とっさの機転で我輩が自分の頭の上にトイレットペーパーを乗せていなかったら、我輩も命が危なかったかも知れぬ。考えても冷や汗ものだ。

 あまりにびっくりすると、切迫した便意もどこかへ飛んで行ってしまうらしい。我輩は自分のカイゼル髭をいじり、これからどうしたものかと考えた。

 なにしろ、大の大人がズボンを下ろした状態で、大気圏を突破してしまったのだ。我輩でなくともどうしたらいいか悩むだろう。



3 気弱な便器

 我輩を乗せたまま、便器はどこまでも飛んでいった。その速さはソユーズ・ロケットの数万倍はあっただろう。我輩が錯乱寺拳法の長年の修行で身体を鍛えていなければ、とても生きてはいられないところだ。

「おい、便器くん。きみはまだ生きているかね。見たまえ、この宇宙を。君は地球上で初めて地球の引力圏を突破し、月の公転軌道をも突破した英雄だぞ」

 我輩のことばに、便器はしょんぼりした声で答えた。

「そんなこと言われても嬉しくありません。どうしましょう。ああ、わたしたちはこのまま宇宙のごみになってしまうのでしょうか。わたしの便秘が原因で、殿下まで地球に帰れなくなったらなんとお詫びしたらいいか……」

 我輩は大笑いした。

「きみ、物事を悲観的に考えたらいかんよ。笑う門には福来るというではないか。人間だろうと便器だろうと、それには変わりはないのだよ。ところできみ、我輩にはだんだんと、星々が大きくなってきているように思えるのだが、気のせいかね」

「あっ、わたしにも見えます。星が……いや星じゃない。あれは、穴です。どうして宇宙に穴が開いてるんですか。あれがブラックホールなんですか」

「便器くん、きみは便器だけでなく学問にも詳しかったのか。むろん、あれはブラックホールなどではない。我輩の見るところ、あれは古代の賢者たちが考えていた宇宙の穴だろう。この地球を閉じ込めるように、真っ黒なカプセルみたいな球体が、地球の外部を回っているのだと、古代の賢者は述べている。その黒いカプセルを天球と呼び、そこには無数の穴が開いているのだ。われわれが雨と呼んでいるものは、その穴から漏れてくる水なのだ」

 我輩の言葉に、便器はほっとしたようだった。

「ということは、あの天球の外には水があるわけですね」

 この便器は、学問を好むとは最近めずらしい見どころのある便器だったが、少し教養が足りないようだ。我輩は口髭を捻るといった。

「それだと星が光る理由が説明できまい。あの穴の外には炎が燃えているのだ。その炎が放つ光が穴から漏れているのを、われわれは星と呼んでいるのだ。そしてわれわれはその穴のひとつに猛烈な速さで突進しているのだ」

 便器は、「きゃっ」と、男らしくない悲鳴を上げた。そういえば、この便器は、男なのだろうか女なのだろうか。もしお嬢さんだったら、とんだ失礼なことをいったことになる。

『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』という言葉もある。

 我輩は便器に尋ねた。

「こんなときにつかぬことを聞くが、きみは男性なのかね、女性なのかね、中性なのかね。なにしろ、便器としゃべるのは今日が初めてなので見分けがつかないのだ」

「ほんとにこんな時に何をいっているんですか。ええと、考えたこともなかったけれど、生まれてから今までフランス語の男性形でしか呼ばれたことがないので、たぶん男だと思います」

「なるほど。ではきみを紳士と認めよう。そして紳士というものは『きゃっ』などとはいわないものだ。つねに落ち着いて余裕をもち……」

 我輩は便器がもごもごとなにかを呟いているのに気がついた。耳を澄ますと、それは聖書の一節だった。『主の祈り』である。

 我輩はあきれて口髭をひねった。まったくだらしないやつだ。



4 天球の裏側

 我輩と便器の前で天球の穴はどんどん大きくなっていった。

 便器は叫んだ。

「うわあっ、南無阿弥陀仏。はらたま、きよたま」

「便器くん、さっきの『主の祈り』といい、いったいきみはどんな神様を信じているのかね」

 便器は当然のようにいった。

「『トイレの神様』です」

 我輩はこの便器の性格がわからなくなった。

「じゃあその神様に祈ってくれ。突入だ!」

「ひゃああああ、熱い、くるしい、便座と蓋のプラスチックが溶ける、セラミックは熱さに強いというけど、こんがり火に焼かれたら、熱い熱い熱い熱いよう。うわあ、うわあ、あれ……熱くない」

 我輩は耳を塞いでいた両手の親指を離した。

「騒がしいやつだ。精神的に弱いのかもしれん。だから便秘になったとまではいわんが、その性格は直した方がいいと思うぞ。友人としての忠告だ」

「忠告はありがたいですが、殿下、あなたは怖くなかったんですか」

「怖いに決まっているだろう。あれが怖くないというやつがいたら面を見たい」

「じゃあどうしてあんなに落ち着いていられるんですか」

「我輩の拳法の師匠は昔こういった。怖い時はみんな怖い。当たり前のことだ。当たり前のことを当たり前に考えると当たり前の振る舞いができるはずだ、と。我輩は当たり前のことだから当たり前に振る舞っただけだ」

「わかったようなわからないような」

「我輩も実はよくわからん。わからんが、誰にも面倒をかけていないから、これはこれでよいのではないかな。それより見ろ、便器くん。まことに美しい眺めではないか」

 音のない静かな広がりの中に、灯のような、光の滝のような、我輩が日本に来て初めて見た線香花火の、冷たくはかない、それでいて軽やかに踊る光の囁き、その色を保ったまま何十億倍も強くした、透明さを帯びた金色の光が、ナイアガラの滝のように暴れまわり飛び散る、我輩の知性と教養をもってしても言い表すすべのない、まことに堂々たる光景だ。

「見事。見事。実に見事。この光を本物のシャンパンに溶かして飲んだら、インドの神々が宴会で飲んだというソーマよりもうまい酒になっただろうに、まったく惜しいものだ」

「何わけのわからないことをいってるんですか。もっとよく周りを見てください」

「いわれなくてもわかっているよ、便器くん。武器らしいものを構えたありがたくなさそうなやつらが、我輩らを取り囲んでいる。だがそれだからといって、どうして我輩が美しいものを美しいと讃えるのをやめねばならんのだ」

 我輩は棒のような太く長いものをこちらに向けて構えた、たくさんの黒い影たちを見た。一見したところ、敵意に満ち満ちているように見える。

「殿下は本当に怖くないんですか!」

「さっきもいったが、我輩が怖くないとでも思っているのかね。やれやれ。第一、彼らはまだ何も我輩らにしていないではないか。何もしていない相手を殴るのは、我輩はいやだね。ここは彼らに従うべきだろう。それが文明人というものだ」



5 影たちの国

 我輩は便器から降りてズボンをはき直した。紳士は身なりにも気を使うものだ。

「見ろ、便器くん。我輩だって心がどうにかなりそうだったんだ。そうでもなければ」

「わかりました。わかりましたよ。ズボンもパンツもはき直し忘れるなんて、やっぱり慌てていたし怖かったんですね。安心しました。でも、それに気がつかなかったわたしは、もっと怖かったんです」

 黒い影たちに護送された我輩と便器は連れ立って進んでいった。我輩は歩いてだが、便器は飛び跳ねて動いていたからけっこう大変なようだ。

「影たちはわたしたちをどうしようというんでしょう。武器を持って取り囲むなんて」

「便器くん、もし宇宙から宇宙人が地球に落っこちてきたら、人間はどうすると思うかね。普通は軍隊で取り囲んで移動させるのではないのかね。みんな怖いからだ。怖がることは当たり前だ。それがわからないと、相手が自分の気に入るように振る舞わないことから、互いに面白くなくなって喧嘩の原因になる。喧嘩で済めばまだいいのだが、あまりにひどいととんでもないことになる。我輩は母国であるハイダラケ王国の歴史を学んでつくづくそれを思い知らされたのだ。そもそも大国のはざまに生まれた小さな王国にすぎないハイダラケ王国は」

「ご先祖様の自慢話は後でゆっくり聞きます。ところであれは何でしょう。光に浮かび上がったあの真っ黒い城のようなものは。いかにもカラスの大群が飛び立ち、吸血鬼ドラキュラ伯爵が住んでいそうな……」

 我輩は楽しくなってきた。

「こんな天球の裏側で、あの名高い英雄、ワラキア公ヴラド・ツェペッシュどのに会えるのならばさぞや面白いだろうな。きみも知っての通り、吸血鬼ドラキュラはヴラド公がモデルで」

「知りたくなかったですよ、そんなこと。ああ、わたしたちはこんな地球の外で、血を吸われて、からからのミイラみたいになってこの燃え盛る炎の焚き付けにされちゃうんだろうなあ。ああ、便器が便器であるうちに燃えるような恋のひとつもしたかったなあ。かわいいお嫁さんもほしかったなあ。南無阿弥陀仏。はらたま、きよたま。アーメン。インシャラー。ええと、あとなんだっけ」

「どうしてきみはそう物事を悪い方に悪い方にかんがえるんだね。もしかしたらあの城の中には素敵なレディが待っているかもしれないじゃないか。我輩はそういう考え方のほうが好きだな」

 そうこうしているうちに我輩たちは城の門までやってきた。

「あの、プリンス・ザレゴット・ダイスキー殿下、なんだか喉が渇きませんか。そういえば地球を飛び出して以来、水の一滴も飲んでませんよ。喉がからからだ」

「それは我輩も思っておった。我輩はどちらかといえばシャンパンのほうがいいな」

 真っ黒い扉が音ひとつ立てずに滑らかに開いた。

 我輩が怖くなかったといえば嘘になるが、一歩、中に足を踏み入れた我輩はびっくりした。

「う、美しい! なんて素敵な……! この世のものとも……!」

 隣で便器が叫んだのも、無理はなかった。

 そう。我輩の目の前で静かにガラスの棺に横たわって眠っていたのは、心の眼があれば誰だって認めるであろう、それはそれは美しい姫君だったのだ。

 黒い影たちは、なにやら奇妙なしぐさをしはじめた。姫君にたいする礼をしているらしい。我輩も真似をした。隣では便器も出来る限り真似をしていた。



6 眠る姫

 我輩はにやにやしながら便器を肘でそっと小突いた。

「我輩のいった通りだろう。素敵なレディがいたではないか。こうでもなくちゃ、世の中は面白くもなんともない」

 面白くもないことに、便器は我輩の言葉に何も返事しなかった。ぼんやりと、棺を見つめ、「美しい……美しい……」と、CDのリピートボタンを押したみたいに繰り返すだけだった。

 我輩は便器を乱暴に揺すって動かした。

「おい、便器くん。しっかりしろ。この女性は眠ったままだし、我輩らは事情を何も知らない。冷静になりたまえ」

 便器は心ここにあらずとでもいわんばかりだった。わけのわからないことをぶつぶつと呟いている。

 我輩は奥の手を使った。水洗のつまみをがちゃがちゃやったのである。

「いた、いたた。何をするんですか」

「すまん。気をしっかりさせようと思ったのだ。しかし、そのつまみをがちゃがちゃやられると便器たちは痛かったのか。これから注意する」

「ソフトに優しく捻ってくれれば痛くはないですよ。急にがちゃがちゃされると痛いですが。それにしても、殿下、すてきなかたですねえ、このお姫様……」

「うむ。我輩もここまで美しい心を持っていそうな女性は見たことがない。でも気をつけたほうがいいのではないかな。『外面如菩薩、内面如夜叉』という言葉もあるぞ。誰でも外側からの見た目だけではわからないという言葉だ」

「このかたは悪いことなどしません!」

 便器は断言した。我輩は便器をぽんとたたいた。

「よし、きみの意見に我輩も乗ったぞ」

「え?」

「便器くん、きみの断言の仕方が我輩の気に入ったといってるんだ。事情は分からぬが、我輩たちふたりはこの姫の味方になってやろうじゃないか」

「殿下もそう思われますか!」

「だがその前に事情を聞かねばならん。この姫を起こして話を聞くのが一番手っ取り早いのだが、女性の眠りを妨げるのは、我輩の好むところではない」

 そんな風に我輩たちが話していたとき、急に影たちが動いた。

 何事かと身構えると、ねばねばしたゼリーか粘土のような物体がこちらに近寄ってきた。明かりと言えば姫君の眠るガラスの棺のそれと、窓の隙間らしいところから入ってくる外の白い光しかない中で、どうしてわかったかというと、緑色に輝いていたからだ。背中には同じく緑色のバケツが載っていた。そこには大きな字で『スライム』と書いてある。我輩は錯乱寺拳法の第一の形で身構えた。我輩は遊んだことはないが、ドラゴンクエストというゲームソフト以来、スライムは敵と決まっているのだ。

「殿下、落ち着いてください。向こうも敵意はないみたいです」

「しかしきみ」

「わたしはあれを見たことがあります。昔も昔、あれを持った子供がわたしの中にあれを流したことがあります。あれは、地球の子供のおもちゃです」

 地球生まれなら言葉も通じるかもしれない。我輩はほっとして構えを解いた。



7 城の主

 緑色のスライムの身体がぐにゃぐにゃと曲がった。

 便器はそちらをしっかりと見据えていたが、身体がぶるぶると震えていた。

「わ、わ、わたしは、怖くなんかありません。だってあれは地球のおもちゃですから」

「うむ。しかしあぶくみたいなものをぼこぼこいわせているのはなぜだろう」

 我輩はしばらく考えて、当然の結論にたどり着いた。

「そうか! 口だ! 口を作ってしゃべろうとしているのだ!」

 我輩は肌身離さず持っているスマートホンを取り出した。なんでそんなものを、という人もいるかもしれないが、我輩ひとりで探偵事務所にいたとき、トイレに籠っている間に電話がかかって来たら大変じゃないか。

 問題はスライムに操作できるかだが、そこは試してみるしかない。

 我輩が近寄ってスマートホンの入力画面を見せ、実際にやって見せると、スライムは触手のように身体を伸ばして画面に触れ、たどたどしく操作した。我輩は画面を見た。

 便器がごくりと息を飲み、我輩に尋ねた。

「いったい何ていってるんですか」

 我輩は文字を読んだ。

「入れ歯を探してください」

 お安い御用だ。我輩は探偵である。失くしものを探すのは得意中の得意だ。

 窓の下に落ちていた入れ歯を、我輩は拾い上げた。

「こ、怖くないですよ、わたしは、怖くないですよ」

「いや、美しい女性の前でなんだが、今は眠っているようだし、怖がってもいいと我輩は思うぞ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 義理堅く断ってから、便器は身体をがたがた震わせ大声で叫び出した。

「ひゃ、ひゃあああ! で、殿下、それ、入れ歯じゃないですよ。牙じゃないですか! そんなもの渡したら、わたしたち、がぶがぶがぶって、齧られ食べられちゃいますよ! それじゃなきゃ喉元を牙でぐさっとやられて血をちゅうちゅう吸われて、わたしたちはミイラみたいにからからになって焚き付けに」

 たしかに、我輩が手に取ったのは、映画に出てくるドラゴンのような、するどい牙の生えた大きな顎だった。少し前、我輩は小さな劇場で、こういう牙の生えたおっかない怪物が出てくる映画を助手のシャーリー嬢と見たのだが、そのことを便器に話したら絶対嫌がられるだろうと思ったので黙っておくことにした。

「我輩は、きみを齧ろうと考えるやつは少ないと思うが……。とにかく、この顎は、持ち主に返そう。困っているみたいだし、これで噛みつかれたらそこまでの話さ」

 我輩はスライムに牙を渡した。スライムの緑色の身体がもぞもぞと動き、ぼこぼこいっているあぶくに牙がすっぽりとはまり、便器に向かい、大きな口をぐわっと開けた。

「ひゃああっ」

 便器がまたしても情けない叫び声を上げた。

 スライムはそんな便器からこちらに向くと、我輩にむかっていった。

「スライムとは不便なものでしてな、入れ歯なしではなにもしゃべれんのです。しつれいしました。お客人、わしがこの城の主です」



8 奪われた姿

「あのう、お聞かせ願えませんか。主さん、わたしたちを食べるつもりでなかったら、どうしてそんな恐ろしい口をしていらっしゃるんですか」

 便器の質問に、城の主のスライムは照れくさそうに笑いながら答えた。

「もともとわしは地球の子どものおもちゃでしてな。おもちゃの小道具として、その入れ歯がついていたのです。そのころのわしの友人の赤いスライムには、人の指のようなおもちゃが入っていましたな。買った子供をびっくりさせるための小道具で」

 我輩は便器にいった。

「よくよく考えてみたら、あの入れ歯はぐにゃぐにゃしていてプラスチックというよりもビニールに近いようなものだったな。いや、便器くん、おどろかせてすまん。我輩もどうかしていたらしい」

「殿下もびっくりしてたんですね。それがわかって嬉しいです。それで、ご老人、ここはいったいどんなところなんですか。ザレゴット・ダイスキー殿下は、古代の賢者が語っていた天球の裏側だといってましたが」

 便器に対して、スライムはこたえた。

「そうです。ここは天球の裏側です。永遠の命の炎が燃える、魂の国です。ひとに大事にされ、使われたり遊ばれたりして、気がついたらいつの間にかどこにも姿が見えなくなっていた道具やおもちゃは、みんなここに来るのです」

「殿下」

 我輩はきゅうに便器にたずねられた。

「なんだね、便器くん」

「あのう、さっきと同じことを聞きますが、怖がってもいいでしょうか。なにぶん姫君が寝ている前なので」

「便器くん、きみは自分が死んでしまったのでここにきていると思っているのか。死んでしまったのならそれはそれでもうどうしようもないし、まだ生きているのなら、我輩たちにはまだやらねばならんことがあるはずだ。いずれにせよ、怖いと考えることが役に立つとも思えん。さっきこのスライムどのに、牙の入れ歯を渡した時は怖いと考える理由があったがな」

 我輩は便器から主に向き直り、たずねた。

「ここにいるたくさんの影たちも、あなたと同じ道具の魂なのですか。それとあそこで眠る美しい姫君はどなたですか」

「姫君のことからお話ししましょう。あのかたは、この城にとどまらず、この魂の国の王であるお方の娘、王女様でいらっしゃいます」

「どうりで気品が……」

 便器が呟いた。我輩は先を促した。

「主どの、それで」

「ここにいる影法師たちも、前は普通の道具の魂として姿を持っていました。しかし、あるときを境に、姿を奪われてしまったのです。王様も王妃様も行方知れずになり、この城まで逃げてきた王女様もあのガラスの水槽の中でお眠りになられて、目を覚まさなくなってしまいました」

「ガラスの水槽? じゃああれは棺じゃなかったんですか」

「違いますよ。地球では熱帯魚の水槽だったやつが、ああやって身を挺して王女様を守っているのです」

「じゃあ、わたしたちに影が突きつけていた棒は何ですか」

「わしらの最後の武器です。あの棒は『きぼう』といいます。わしらにはこれしか残っていないのです」



9 武器の使い手

 我輩は目をつぶった。

「主どの、その『きぼう』とやらを貸してはくれんかな」

「かまいませんが。きみ、このかたに『きぼう』をひとつ持ってきてくれ」

 主にいわれて、影が差し出したその武器を、我輩は軽く握ってみた。

「ふむ」

 我輩は具合を確かめると、軽く振ってみた。

 なるほど。

「あるじどの、また、しろのみなさまがた。あなたがたは、この武器の使い方をまだよくわかっておられないようだ。我輩もよくはわからぬことでは同じだが、いくらかまともに使って見せよう」

 我輩は便器に声をかけた。

「便器くん」

「なんでしょう……」

「きみもその武器を持ちたまえ」

「は、はい」

 便器が『きぼう』を受けとるのを確認した我輩は、城の主に尋ねた。

「あなたがたから姿を奪い、姫をこんな目に合わせたやつはどこにいるのかね?」

「王宮があったところです。地球では北極星と呼ばれている穴の上に建っているので、すぐにわかります」

「どんなやつかね」

「わからないのです。わしと水槽は城の中にいたから姿を保つことができましたが、そのときには他の者たちはすでに……」

「彼らはどうして逃げ遅れてしまったのかね」

「皆、朝のラジオ体操で城の外に出ていたのです。わしと水槽は城の中でチェックシートにハンコを押していたので助かったのです」

「なるほど。便器くん。ちょっと運動でもやりに行ってこようか」

「運動ですって?」

 便器の白い色がさらに青白くなったように見えた。

「……それは面白い、でですね。よ喜んでお伴いたしますす」

 傍から見ても気の毒になるくらい便器は震えていたが、それでもはっきりした声でそう言った。

「主どの、これがこの武器の正しい使い方です。いくら希望を持っていても、実際に使わなくては役に立たないというものです。それじゃ我輩らはひとっ走り北極星へ行って来ましょう。朝飯までには戻ります。戻ってこなかったら、そのときはそのときだ」

「先ほど、ザレゴット・ダイスキー殿下とお聞きしましたが、いったいあなたは……」

「ただのお人よしの諮問探偵ですよ。目が覚めたら姫君によろしくお伝えください。ほら、便器くん、きみも来たまえ」

 便器は眠る姫に深々と礼をした。我輩はそんな便器を引っ張るようにして城の外へ出た。

「殿下……」

「しっ。とりあえず、身を隠すぞ」

「えっ?」

「あんな怪しい話があってたまるか。主たちは悪玉というようには見えなかったが、なにかさらに深い事情がありそうだ。我輩の見立てが正しければ、なにか動きがあっていいはず。それを確認してからでも遅くはない」



10 探偵のやり方

「何も動きがないですよ」

「しっ。静かに待つんだ」

 我輩と便器がこの光のただなかに伏せてから、うんざりするほどの時間が過ぎたような気がした。退屈ではあるが、ここは頑張らなくてはならない。我輩は頭の中で懐かしきハイダラケ王国の国歌を歌いながらひたすらに待った。

 身動きをしようとする便器を押さえること四回、いや、五回、じゃなかった、とにかく何度も制して、我輩もしびれをきらしたころ、便器がもとから固い身を固くした。

 遠くから何かがやってくる……。我輩は目を凝らした。

 なにかマントのようなものを羽織ったでっかいものが、ずるりずるりと音を立ててやってくる。

 便器が息を飲むのがわかった。そう。そいつは、我輩にも見覚えがあるものだったのだ。

 小山のようなロール式のトイレットペーパー! マントと思ったものは、なんのことはない、背中に当たる方に垂れているペーパーの先っちょだったのだ。

 城からスライムと水槽が出てきた。遠くて聞こえないが、なにやらぺこぺことおじぎをしながらトイレットペーパーにいっている。

 トイレットペーパーはふんぞり返った。

 重苦しい時間が流れた。

 トイレットペーパーは、割れがねのような声でふたりに答えた。図体どおり、馬鹿でかい声だ。

「ええい、いいわけをちょこちょこと。わしがフローラ姫を差し出せといっておるのだ。お前らは素直に差し出せばいいのだ」

 我輩はぶるぶる震える便器を押さえつけた。

 スライムと水槽がさらに何かいった。

 トイレットペーパーは身を揺すって大笑いした。

「ふん。そんな北極星のほうに追いやらんでも、直接わしのところへ連れてくればよかったのだ。人間ひとりに便器ひとつ、わしのこの身体で踏みつぶせばぺっちゃんこのせんべいみたいになる。その上からさらに踏みつぶせば、クレープ屋で売っているクレープが一丁上がりだ。いちごのジャムを塗ってから畳んで、わしのおやつにしてやる」

 我輩をいちごクレープにするだと? 馬鹿にするのもいいかげんにしろだ。我輩は腹が立ってきた。便器もぶるぶる震えている。

 スライムと水槽はさらになにか話しかけているようだった。

 トイレットペーパーはいらいらしてきたらしい。ごろりと城のほうを向くと、身体をもたせかけた。城のやぐらのひとつが大きな音とともにぐしゃりと潰れた。

「わしに逆らうと、お前たちも踏みつぶしてしまうぞ。踏みつぶされたらお前たちは形を保つことができずに、黒い影法師になってしまうのだ。それこそ、その黒い棒を振るうことしかできない影法師にな。『きぼう』だと? 笑わせるな。『でくのぼう』と名を変えたらどうだ。とにかく姫をよこせ。よこさないとこの城は、餃子の皮みたいにしてやるぞ」

 スライムと水槽にできることはなにもないようだった。水槽はトイレットペーパーの紙の先っちょにしがみついた。

「ええいうるさい。泣き声など出すな。いいか、わしはあのフローラ姫を鳥かごに入れてペットにするのだ。それがわしの復讐なのだ。邪魔などしたら容赦しないぞ」

 便器は怒りに震えて今にも飛び出しそうだった。そこをこらえるのが探偵のやり方なのだが。



11 後をつけて

「復讐ですって。あんなお姫様がどんな悪いことをしたっていうんです」

 スライムが城の中に戻った後、便器は我輩にそう訴えた。

「わからん。わからんが、なにか事情があるのだろう。さて我輩らも行動に移るか」

「ということは……」

 便器は『きぼう』を振り回した。

「あわてるな。まずは後をつけるんだ。気が利いた探偵なら、誰でもそうする」

「たしかにそうですね。あの図体なら後を追うのは簡単です。はやく行きましょう」

 命の白い光が渦を巻く中、我輩と便器はトイレットペーパーの後を追った。

「驚いたな。北極とはまったく逆の方角じゃないですか。あのスライム、嘘をついたのか」

「嘘をついたとしても、我輩らの身を案じてのことだろう。正面からあんなでかいやつと戦ったら、それこそ命がいくつあっても足りないからな」

「命……」

 一瞬、便器は立ち止まったが、すぐにしっかりした調子で進みだした。

「便器くん」

 歩きながら、我輩はいった。

「恋は人を勇者にするというが、それはちょっと違うぞ。恋は人の目を見えなくするのだ。前が見えなくなったとき、人はぽっかり口を開けた落とし穴へ落っこちてしまうものなのだ」

「あんな美しい姫が悪党にさらわれているんですよ。ここで急がなかったらいつ急ぐんですか」

「急ぐのはいい。だが油断はするな。視線はそのままで、進みつづけながら、周囲を見てみろ」

 便器が立ち止まりそうになるのを、我輩は小突いて進ませた。

 我輩たちの周りは、いつのまにか影法師の林になっていた。白い光の中で、檻のように黒い影が伸びている。目も口も無いようだが、なんとも気味の悪い風景だった。

「気がつかなかった……」

「うむ。きっと、これらの影法師もまた、あのトイレットペーパーによって元の姿を奪われたのに違いない。気をつけていないと、我輩たちもどんな目に合うのかわからん」

「確かにそうです。気をつけます」

「うむ」

 我輩は重々しくうなずいた。

「それと便器くん」

「なんでしょう」

「我輩がこうしてかっこいいことを述べていると、得てしてろくでもないことに足を突っ込んでしまう恐れがある。だから、その分も、きみにしっかりしてほしいのだ。我輩ひとりではあまりにも危ない」

 便器はほっと息を吐くと、静かに笑った。

「殿下は、リラックスさせるのもお上手ですね。わたしは」

 なにを便器がいおうとしたのかは聞きそびれた。なぜなら、次の瞬間、我輩らはでっかい落とし穴に落っこちてしまったのだ。

 あんなにかっこよく便器を諭した我輩とあろうものが、なんたる不覚! そしてその下では、黒々とした闇が待ち受けていたのだった。前が見えないのはいったいどこのどいつだ。我輩は落ちながら自分の頭を殴った。



12 穴の底には

 穴の底には、もちろん、何もなかった。

 あるわけがない! 天球を一枚くぐったら、そこは宇宙空間なのだから、当然だ!

 我輩は呼吸法で息を整えながら、便器を探した。

「便器くん。どこだ! どこにいる!」

「こっちです。助けてくださあい」

 我輩は『きぼう』をぐるぐると振り回して、とにかく声のする方に向きを変えようとした。

「大丈夫か便器くん!」

 大丈夫ではなかった。

「助けてくださあい。身動きができませえん。南無阿弥陀仏。はらたま、きよたま。アーメン。天は我を見捨てたり」

「しっかりしろ。傷は浅いぞ。しかし、便器くんも古い映画の文句を知っているもんだな」

 我輩も混乱していたらしい。自分でも何を口走っているのかわからなくなっていた。

 不意に、姿勢が安定した。

 ほっとしたのもつかの間、我輩は自分もまた動けなくなっていることに気がついた。

 宇宙空間のただなかで、見えないゴキブリ取りのように、身体がびくとも動かなくなっている!

 我輩は呼吸を整えた。どうしようもなくなったときは、それを認めて時を待つべきだ。我輩が観光ホテルの売店で買っためちゃくちゃ難しいパズルから得た教訓である。

 そのホテルで買ったパズルがどうなったかはここで語るのはよそう。今いるのは、宇宙空間なのだから。

 便器は相変わらず祈りの文句を唱えている。神様も種切れになったらしく、祈りの対象はマハトマ・ガンジーとか、野口英世とか、夏目漱石とか、もう手当たり次第になっていた。

 我輩は目だけを横に向けて、自分を捕えているものを確認しようと試みた。

 ねばねばした、ひも付きの網のようなものに捕まったらしい。ほんとにゴキブリ取りだ。それとも風呂場の排水溝で髪の毛を取るネットといったほうが正しいかもしれない。

 いったいこんな罠をこしらえるのはどこのどいつだ。あのトイレットペーパーの手下だろうか。

 いや。待て。我輩は考えた。もし我輩らを永遠に厄介払いしたいのであったら、こんな取り餅のようなわなを仕掛けておくものだろうか。そのまま宇宙の藻屑にしてしまえばよさそうなものなのに。

 すると、この罠を仕掛けたのは……。ひとつしか考えられない。

「便器くん」

「ナポレオンさま、チムール皇帝、どうかわたしたちを……」

「便器くん!」

「わっ、驚かさないで下さいよ、殿下。わたしは姫を助けるために神々のご加護を」

「いつからナポレオンやチムール皇帝が神様になったんだ。それはそれとして、我輩らをなんとかしに今に誰かやってくるぞ。たぶん、これは、罠ではなく、救命ネットだ」

「その通りです」

 誰かが急にいった。これには便器だけではなく我輩も驚いた。

「わっ!」

「驚かせてしまったようですね。すぐにお助けしますからじっとしていてください。いいですね」



13 隠れ家の修道士

「狭いですがおくつろぎください」

 身体からべたべたするものをぬぐった我輩と便器は、この隠れ家の住人に尋ねた。

「地球ではゴキブリ取りをやってらしたのですか」

 住人はうなずいた。

「罪深いことです。神様がおつくりになったとはいえ、わたしの手にかかってどれだけともわからぬゴキブリが死にました。動けないままで、おなかがすいた、おなかがすいたと泣きながら死んでいくのです。役目を終えてここにやってきたわたしは、せめてゴキブリのために祈って暮らそうと、修道士の誓いを立てたのです」

 我輩はなんとなく胸が震えた。新聞紙を丸めてゴキブリを追いかけたものだが、物の見方はいろいろとあるものだ。

「ご立派だと思います」

 便器がいった。

「先ほどお話ししたように、わたしと、この人……ザレゴット・ダイスキー殿下は、ひょんなことからこの天球の世界に来てしまい、眠るフローラひめを悪漢の手から救おうと……」

「あのトイレットペーパーですね。あれが来てからこの天球も住みにくくなってしまいました」

「あいつは何者なんですか」

「自分では復讐者と名乗っています。過去にどんなことがあったのかは知りません。しかし、そのこころは病んでいます。美しいものや好かれているもの、そういったものを憎んで、片端からあの巨体でぺったんこにしてしまい、ぺったんこにされた皮をコレクションして、飾っています。皮から押し出された中身は、影法師となってふらふらとさまようことになります。中でも勇敢な者たちは、便器さん、あなたがたの持っている『きぼう』を手に城にいますが、影法師なのでなにもできません。そこまで勇気がなかった影法師たちは、じきに自分が自分であることも忘れ去り、林のひょろっとした木になってしまうのです」

 我輩はぞくっとした。なんと恐ろしいトイレットペーパーだ。横を見ると、便器も青白くなっている。

「フローラ姫を鳥かごに入れてペットにするとかいってました。姫はどんな方だったんですか」

「フローラ姫は、花のようにお綺麗な、そう、匂い立つように美しい方でした。みんなとともにラジオ体操をしていた王様と王妃様が目の前でトイレットペーパーに踏まれ、影法師になるのをみて、お心を痛められ、眠ってしまわれたのです。あのどら声でトイレットペーパーがわめいていたから、本当のことだと思います」

「城にはスライムと水槽が元の形でいましたが、泣きながら姫様をトイレットペーパーに差し出していました」

「会ったことがありますよ。ふたりともいい方ですがご老体ですから……スライムさんなんか、入れ歯がないとまともにものもしゃべれないんですよ。だから、トイレットペーパーも見逃したんだと思います」

「あのべたべたするネットは?」

「穴に飛び込んで宇宙の塵になろうとする方がけっこうおられたんです。そんな方を見捨てておくわけにはいくまいと……修道士の誓いとして戦いには加われないのですが、命を救うのは構わないでしょう。今、初めて役に立ちました。神に感謝です」

 我輩らが落ちたのがあの穴でよかった。別の穴だったら宇宙のちりに……。

 隣では便器があぶくを吹いていた。勇者への道は遠いようである。

「修道士さん、あやつの本拠への道をお教えいただきたい。逃げはしない。堂々と乗り込む」



14 影法師の谷

「何を考えておられるんですか! ついさっきまで、こっそりと後を付けるなんていってたのに、いきなり正面とかいい出すなんて」

「考えを変えたのだ。誰もよく知らない裏道を通って、またあの穴に落っこちたら大変だ。そこにはあのゴキブリ取りの修道士さんが救助ネットを張っているという保証はない。だから一番わかりやすい道を行くのが一番安全だ。だから考えを変えた」

「理屈じゃそうですが、そうなるとわたしたちは……」

「おい、見たまえ。あれが修道士さんのいっていた『影法師の谷』じゃないのか?」

 その恐ろしいことといったら、とても説明できたものではない。影法師たちがぐるぐると渦を巻いて、声にならない声で助けを求めているのがここから出もよくわかるのだ。

「おっかないところですねえ……あんな中に突っ込んでいったら、わたしたちも影法師になっちゃうんじゃないでしょうか」

「じゃあ、きみは行くのをやめるかね?」

 便器はほのかに赤くなった。怒りを感じたらしい。

「行かないわけがないでしょう。姫があそこで鳥かごに入れられてペットにされようとしているんです。姫のためにも私は行きます。一人でだって行きます。ただどうやれば行けるのかがわからないだけです。殿下に、何か名案でもあるんですか?」

「我輩の頭脳を見くびってもらっては困る。やつの本拠へ入る手段など、あの修道士の隠れ家を出たときから決めてある」

「さすがは殿下だ。それで、その手段って何ですか」

「うむ。トイレットペーパーの野郎に連れていってもらうのだ」

 便器は細かく身体を震わせた。

「どうしてあんな悪党が私たちを連れていってくれるというんですか! わけのわからないことをいわないで・・・・・・えっ? 殿下、まさか、ちょっと待ってください!」

 我輩は大きく息を吸った。ハイダラケ王国の王族として、声の出し方は昔から厳しく教えられてきたのだ。

「出て来い、悪党! ハイダラケ王国王族であるこのザレゴット・ダイスキー様が、わざわざフローラ姫を返してもらいに来たのだ! おとなしく返さなければ、我輩の錯乱寺拳法がお前の尻に生えている毛を一本残らずむしってやるから、そう思え!」

 影法師のあいだから、黒い塊が起き上がった。

「おれの悪口をいっているのは貴様か?」

 頭の割れそうになるほど大きくてがらがらな声でトイレットペーパーは叫んだ。近くで見るとさらに大きく見える。

 便器は物も言わずその巌のようなトイレットペーパーをにらみつけていた。その心がけは天晴れであったが、動きたくとも動けないのだと我輩は悟った。どうやら便器のやつ、腰を抜かしたらしい。

 とりあえずここはしゃべるだけだ。

「我輩は貴様と紳士としての決闘を申し込みに来たのだ! ピストルでも、刀でも、なんでもいいぞ。まあ我輩の錯乱寺拳法を使えば小指でだって勝てるがな」

 一瞬、しんとした時間が流れた。

「面白い。おれにそんなことをいうなんて、よほどのバカだな。来い。フローラ姫に会わせてやる。お前らを影法師にするのはその後だ」



15 鳥かごの姫君

 影法師が道を開けた。我輩は悠然と歩みを進め、その後ろから便器がついてきた。がくがくと震えて、少しかわいそうだが、ここへ来て逃げ出さないのは立派である。

 道はわずかに下へ下がっていた。どうやら浅いお盆のようにわずかにへこんでいるらしい。

 お盆の底、一番深いところに、トイレットペーパーはずしん、と座り込んだ。

「ひ、ひひ、姫様は、どこだ!」

 便器が叫んだ。叫んだのはいいが、言葉がもつれている。これではあのトイレットペーパーを怖がらせることはできまい。

 トイレットペーパーは、ひときわ大きな声でわははは、と、笑った。

「姫君なら、ちょうどおれの腹の中だ!」

「フ、フローラ姫は食べられてしまわれたのか! 悪党め! 悪党め! お前なんか!」

 便器がタンクから激しく水を流した。我輩はちょいちょいと突っついた。

「便器くん、泣くのはやめて、冷静になりたまえ。あれはなんだかわかるだろう」

 我輩が指さしたところを見て、便器も気がついたようだ。

「姫様は、あのトイレットペーパーの芯の中にとらわれているのですか!」

 トイレットペーパーは先に倍する大きな声で我輩らをあざ笑った。

「間抜けにしてはよくぞ気がついた。感心感心。フローラ姫はおれの腹の中の鳥かごの中で、一生の間、自分が見守ってきたこの国の住人たちの皮を見ながら暮らすことになるのだ」

 我輩はいった。

「修道士どののいわれた通りだ。お前というやつは、心が病気になっている。どうしてそのようなことをしているのだ。それにお前が復讐したいのは誰なのだ。それが美しい姫君だとしたら、お前はただの卑怯者だ」

 トイレットペーパーは薄笑いをした。

「何とでもいえ。本当に卑怯なのはお前たちのほうだ。おれはそんなお前たち全員に対して復讐をしているのだ」

「埒があかないな。お前の口から聞くよりも、捕らわれている姫君に聞く方が早い。姫君と話させろ」

「いいだろう」

 トイレットペーパーの芯のところから、細い腕が伸びてきた。その一番先っぽのところには、しっかりと鳥かごが握られているのだった。

 花々の描かれた美しいドレスを身にまとったフローラ姫は、はっきりわかるほど青ざめていた。

「姫!」

 便器が叫んだ。

 フローラ姫はこわばった声で我輩らに答えた。

「あなた方は、わたくしを助けに来てくださったのですか」

 便器は震えながらもうなずいた。

「そうです!」

 姫はかぶりを振った。

「おやめなさい。わたくしのために、これ以上罪もない者たちがつぶされて影法師になっていくのを見るのは、わたくしには耐えられません。勇気あるお方、その勇気だけでわたくしは満足です」



16 世界への復讐

「フローラ姫、あなたはこのトイレットペーパーから聞いているはずだ。一体このトイレットペーパーは、どうしてそんな復讐だなどと考えるようになったのですか」

 我輩の質問に、姫は顔を俯けて答えた。

「このトイレットペーパーは、自分の生まれと運命とに絶望したあまりに、こうなってしまったのです」

「生まれ? 運命?」

 便器が小さな声でいった。

「はい。自分はなぜトイレットペーパーに生まれたのか、どうして汚いものをふき取るというつらい仕事をしなくてはならない定めに生まれたのか、どうして仕事をした後は、すぐに便器に流されてしまうのか……それを考えると悔しくて悔しくてたまらないそうなのです」

「後はおれが話す」

 トイレットペーパーは、フローラ姫をぶら下げたまま話を続けた。

「おれは考えざるを得なかった。どうしてこの世のものは、生まれ落ちたときに、ここまでその後の運命が決まってしまうのか、どうして生まれた違いによってここまで一生が違ってしまうのか、おれは考えた。どうしてこのフローラ姫は姫として生まれただけで、みんなから愛されているというのに、おれは汚い仕事をするだけの汚いものにならなくてはならなかったのか、それを考えるだけで、おれは心から怒りを覚えた。怒りを覚えるたび、おれの身体はだんだんと大きくなっていった。雲をつくばかりに大きくなったとき、おれは自分のやるべきことに気がついた。この、おれみたいな不幸なものを生み続ける、間違った世界と間違った者たちをすべてぶち壊し、それをこの世界の王族の者どもに見せつけてやるのだ。王と王妃はうっかり踏みつぶしてしまったものの、こうしてフローラ姫を捕えることはできた。さっきも話した通り、姫は王と王妃のぺっちゃんこになった抜け殻とともに、おれがこの世界をすべて影法師にして行くようすを、ずっと最後まで見ていなくてはいけないのだ。それがおれの復讐なのだ」

 そういうとトイレットペーパーは、げらげらと笑った。

 我輩は拳を握り締めた。もう少し力を強くしたら、『きぼう』まで握りつぶしてしまっただろう。

 我輩がそんなことをしなくてすんだのは、一にも二にも、便器のおかげだった。

「だまって聞いていれば、いい気になりやがって……」

 いつもの怯えた口調とは違う、怒りを押し殺した声。

「お前は自分の仕事が汚いと本気で思っているのか! ただ汚いことをするためだけに生まれてきたようなものがいるとでも思っているのか! 仕事それ自体に綺麗なものと汚いものとがあって、綺麗な仕事をする者は汚い仕事をするものよりも、偉くて威張れるものだと思っているのか!」

 便器の声の勢いに、トイレットペーパーがたじたじとなるのがわかった。

 便器は続けた。

「仕事に偉いものと偉くないものの差があるとしたら、それは仕事をする者が、一生懸命にやれたかどうかと、それに伴う仕事の仕上がり具合でしかない! それに、一生懸命にやっていれば、どんな仕事でも、よほど向いていない限り、最後にはきちんとできるようになるものだ! お前が惨めなのは、自分が自分を惨めなものとしか思えずにいるからだ! お前は自分で自分を惨めにしているのだ!」

 トイレットペーパーが動いた。

「いってくれたな、こいつめ。おまえも影法師になって、永遠にその口を閉じているがいい!」



17 王者の余裕

 恋は誰でも勇者に変える。我輩は『きぼう』を構えて、にやりと笑った。

「よくいった、便器くん。きみはむちゃだが、我輩はそういうむちゃにつきあうのは大好きだ。あんなでかぶつでもやってやれないことはあるまい。覚悟ができたなら突っ込むぞ!」

 便器はまだ腰が抜けたままだったが、それでも我輩の言葉にはっきりとうなずいた。

「姫には恥ずかしいところなんて見せられませんからね」

 トイレットペーパーは、我輩らが戦う気をまったく失っていないのを知って、動きを止めた。

「お前たち、おれが怖くないのか?」

 我輩はいった。

「怖くないわけがなかろう。だが、怖いと思うことは別に恥ずかしいことではあるまい。当たり前のことだから、我輩は当たり前に振る舞うだけさ」

 便器は叫んだ。

「わたしが怖いのは、姫に恥ずかしいところを見せることだけだ! 腰が抜けているのは恥ずかしいことだけど、ここで逃げたら姫にもっと恥ずかしい姿を見せることになる! そんなことができるか!」

 鳥かごにとらわれた姫は、真っ青になっているのがここからでも分かった。

「やめて! やめてください! あなたたちの勇気と立派さはわかります! だけど、わたくしの目の前で、あなたたちまで影法師になってしまったら、わたくしはどうすればいいのですか!」

「卑怯者に影法師にされるほど、ハイダラケ王国の男は軟弱ではありませんぞ。日本の昔話に『一寸法師』という話がありましてな。針の刀を腰に差し、それはそれはめざましい活躍をしたのだが、その活躍を、我輩らがここでお見せいたしましょう。ここにあるのは『きぼう』でしかないが、『きぼう』でも、当たるところに当たれば、泣くほど痛いぞ!」

 我輩は身構えた。免許皆伝の武術、錯乱寺拳法には棒術の教えもある。風のように走り、痛いところをちくちく突き刺し、あのトイレットペーパーに目にもの見せて泣かせてやるのだ。

 我輩は『きぼう』を構え、身体をほぐすため軽く棒術の基本の形を見せてやった。

 便器、姫、トイレットペーパーの目が、我輩の『きぼう』さばきに吸い寄せられているのが分かった。

 最後のひと振りをして、我輩は気合を入れた。

「えいっ!」

 びりびりと空気が震え、命の白い光が、鮮やかに舞い踊った。

「さて、準備運動も済んだし、トイレットペーパーくん、ひと勝負行こうか」

 トイレットペーパーからは、先ほどまでの余裕がいくらか失われているのが分かった。我輩の経験では、卑怯者というのはそういうものである。

「ま、待て。お前たち本当に命は惜しくないのか」

「命は惜しいが、お前ごときに取られるような命は持っとらん」

 トイレットペーパーはきょろきょろと周囲を見回していたが、急にドラ声で笑いだした。

「姫が人質になっていることを忘れていたようだな。姫の命を助けたければ、お前とそこの便器、ふたりで戦え! 勝った方と、相手をしてやる!」

 なんと卑怯なやつだ!



18 騎士の決闘

 我輩は『きぼう』を構えて、いった。

「便器くん。王族のひとりとして、きみにはひとこといっておきたいことがある」

 便器はがたがたと身を震わせながらも、我輩に対して『きぼう』を向けた。

「その根性は見上げたものだ。一目で好きになった女性に対し、自分はどうなってもいいから邪悪な手から守る、と、考え、そして行動で示したことはまことに素晴らしい。我輩は大いに気に入った」

 便器はなにもいわなかった。ただ、青ざめているだけだ。

「我輩はきみを『騎士』として認めよう。その上で話している。まず、姫君を守ろうとする『騎士』ならば、その足腰をもうちょっと何とかできないものか。動けないやつと決闘をしたところで仕方がないではないか」

 我輩はその言葉が、便器に伝わってくれることを祈った。

「便器くん。我輩は、東京は好きだが卑怯は大嫌いだ。オムレツとカツレツは大好きだが卑劣と愚劣は見るのも嫌だ。そんなことをするやつは、いっぺん頭に一発食らってからものをいえばいいのだ」

 我輩は『きぼう』を油断なく構え、便器に近づいた。

「きみは、覚えているだろう。あのとき教えた呼吸法を。呼吸を整えて、そんな腰が抜けたままでいないで立ち上がるのだ。決闘はそれからだ。我輩に続いてやってみろ。すうーっ……。はあーっ……」

 便器は繰り返した。

「すうーっ……。はあーっ……」

 我輩は近づいた。

「すうーっ……」

「はあーっ……」

「すうーっ……」

 今だ。

 我輩は便器にまたがった。

「地球脱出!」

 便器はあの我輩の事務所のビルをぶっ壊した時のように、溜まっていたうんこを派手に吹き出し、猛烈なスピードで空に飛びあがった。

「わっ!」

 トイレットペーパーも、フローラ姫もまったく予想していなかったらしい。

 我輩と便器はトイレットペーパーの脳天に当たる部分に猛烈な一撃を見舞った。相手がくらくらっとしたところで、我輩は便器から飛び降り、トイレットペーパーの身体を駆け下り乍ら、あの手の指を『きぼう』を使ってしたたかに打ち据えた。

 トイレットペーパーは、あっと鳥かごを取り落としたが、落ちて行く下には空飛ぶ便器が回り込んでいた。

 我輩と姫と便器は地面に降りたち、鳥かごをぶち壊した。我輩の錯乱寺拳法がその気になれば、こんな鳥かごなど、枯れ木のようにぽきぽき折れるのだ。

 姫君を連れ出して、我輩はいった。

「フローラ姫、『自由』へようこそ。ちょっと汚いかもしれませんが、当たり前の『自由』というのは、だいたいが、こんなもので……。ほら、便器くんも、なにかいいたまえ」

 便器はうつむいて何も言わなかった。当然かもしれんが、男の心は測りがたい。

「さて、姫君は助けたぞ。次はトイレットペーパー、お前が鳴いて謝る番だ!」



19 悪党は泣き虫

 自分の手の中に、フローラ姫はもういないとわかると、トイレットペーパーはみるみる顔色を青くしていった。

「そ、それでは、お前たちを押しつぶして影法師に変えてやるぞ。それでもいいんだな!」

「やりたければやりたまえ」

 我輩は便器にまたがったままでいった。

「だが、我輩とこの便器が、そう簡単にお前ごときにつぶされて、影法師に変わってしまうと思っているのか。そうだとしたらお前には、小学校からやり直してもらうことになるぞ」

 そういった瞬間、我輩はふいに自分の言葉の残酷さに気がついた。

 我輩がいい直す暇もなく、トイレットペーパーの顔が真っ赤になると、トイレットペーパーはその場でぐるぐるとコマのように回り始めたのだった。それも、わんわんと涙をこぼして泣きながら。

「どうしたんですの?」

「ほんと、どうしたんですかあいつ。急に泣き出してしまって」

 我輩は自分でもわかる、震える声でいった。

「あいつの心の一番弱いところを我輩は突き刺してしまったのだ。考えてもみたまえ。あいつが小学校で勉強したり遊んだりしたことがあったか。そもそもあいつには友達と呼べるものがひとりでも、本当にいたのか」

 我輩は、ちらりとフローラ姫を見た。

「もしかしたら、あいつは、姫様、あなたに友達になってほしかったのかもしれん」

 フローラ姫は黙り込んでいたが、いった。

「それでもわたくしには、父や、母や、友達を、あんな目に合わせたあのトイレットペーパーと、友達になることなんてできません」

 我輩はうなずいた。

「もっともだ。それがやつの救われないところでもある。でもそこをなんとかしなければ、やつはいつまでたっても……」

「殿下! あれを見てください! トイレットペーパーがどんどん縮んでいます!」

 便器の叫びに、我輩は目を凝らした。

「違うぞ、便器くん。あれは縮んでいるのではない。回りながら天球に穴を掘り、下に沈み込んでいるのだ」

 そのとおり、トイレットペーパーは、すでに半分まで下にめり込んでいた。

 トイレットペーパーが、泣きながら叫ぶ声が聞こえた。

「見ていろ! お前らがやってきた地球を、これからひどい目に遭わせてやる! 何もかも、ぶっ壊して、地球を影法師の星にしてやる! そのとき、お前らは、おれよりもひどい声で泣くんだ! あははは! あははは!」

「なんだって!」

 ものすごく大きな音とともに、トイレットペーパーの身体は見えなくなった。

 我輩らが近寄ると、そこにはとてつもなく大きな穴が口を開けており、そしてそこからは宇宙が見えた。

「なんということでしょう……」

 姫君は涙を流した。

「地球まで追うしかあるまい。便器くん、まだ頑張れるかね」

「ごめんなさい、殿下。身体の中のうんこを使いきってしまいました。もう空を飛べません!」
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 私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。  だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。 「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」  優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。  ……これは一体どういう状況なんですか!?  静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん  できるだけ目立たないように過ごしたい  湖宮結衣(こみやゆい)  ×  文武両道な学園の王子様  実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?  氷堂秦斗(ひょうどうかなと)  最初は【仮】のはずだった。 「結衣さん……って呼んでもいい?  だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」 「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」 「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、  今もどうしようもないくらい好きなんだ。」  ……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。

カリンカの子メルヴェ

田原更
児童書・童話
地下に掘り進めた穴の中で、黒い油という可燃性の液体を採掘して生きる、カリンカという民がいた。 かつて迫害により追われたカリンカたちは、地下都市「ユヴァーシ」を作り上げ、豊かに暮らしていた。 彼らは合言葉を用いていた。それは……「ともに生き、ともに生かす」 十三歳の少女メルヴェは、不在の父や病弱な母に代わって、一家の父親役を務めていた。仕事に従事し、弟妹のまとめ役となり、時には厳しく叱ることもあった。そのせいで妹たちとの間に亀裂が走ったことに、メルヴェは気づいていなかった。 幼なじみのタリクはメルヴェを気遣い、きらきら輝く白い石をメルヴェに贈った。メルヴェは幼い頃のように喜んだ。タリクは次はもっと大きな石を掘り当てると約束した。 年に一度の祭にあわせ、父が帰郷した。祭当日、男だけが踊る舞台に妹の一人が上がった。メルヴェは妹を叱った。しかし、メルヴェも、最近みせた傲慢な態度を父から叱られてしまう。 そんな折に地下都市ユヴァーシで起きた事件により、メルヴェは生まれてはじめて外の世界に飛び出していく……。 ※本作はトルコのカッパドキアにある地下都市から着想を得ました。

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