短編詰め合わせ

shuben_liehu

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凍える無常

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「懐かしい…そうよ、この匂いだわ」
座敷に上がるなり、少女はそう言って畳の上に膝をついた。白く細い指が静かに枯れた藺草をなぞる。まるで、何かを辿るように。いや、実際何かを辿っているのだろう。虚空を探るように軽く閉じられた少女の瞼と長い睫毛が、かすかに震えていた。

「…ここ、そう、ここよ。ここにお祖父ちゃんがいた…」
言いながら少女は閉じていた目を開き、立ち上がって座敷の奥へ入っていく。誰もいない座敷の上座に置かれた座布団が少女を迎えた。ふっくらとした綿の感触を指で感じ、ほう、と安堵したような溜息。暗闇の中に光を見つけたような表情だった。

「私、お祖父ちゃんっ子だったの。よくお風呂で髪を洗ってもらったわ」
言いながら、少女は天井を見上げて儚くほほ笑んだ。
「シャンプーハットを持ってお祖父ちゃんの所へ行くのよ。そうしたらいつも笑ってお風呂場へ連れて行ってくれた」
思い出を辿る笑みを湛え、少女は振り返る。
「…ねえ」

「…私も、お祖父ちゃんのところへ行くのね?」
振り返った先の影が、ゆらりと蠢いた。それは急速に人の形をとり、黒い服をまとった男になった。男は頭の先から足の先までぐっしょりと濡れ、髪の先からぱたぱたと水を滴らせていた。しかし、滴る水は床に落ちる前にすうっと掻き消えてしまう。

不思議なことに、男が踏みしめた畳はからりと乾いたままで、まるでこの座敷の中で男だけが、別の世界に立たされているような格好だった。男は伏せていた顔をあげ、億劫そうに一、二度濡れて頬に貼りつく髪を掻揚げてから、気まずそうな顔をして、ぼそぼそと低い声で呟いた。
「…なんで、分かった?」

「私自身の事だもの」
少女はまるで数学の問題について解法を説明するようにそういうと、男に向かって笑みを深くした。少女と目があって、あからさまに具合の悪そうな顔をする男に向かって、更に可笑しそうに肩を震わせて笑う。
「もうじきお迎えが来るのだって分かっていたわ。ね、死神さん?」

死神は少女から目をそらして、もごもごと口の中で呟いた。
「お前、お前の祖父さんと同じ病気だ。それで…それで鬼籍に載った」
そう、と少女は呟き、もう一度座布団を見つめる。その細い肩に、酷くさびしげな影が落ちた。指先で座布団をなぞりながら、小さく震える声で、悲しげに囁く。

「お祖父ちゃんは、私を守ってくれたのでしょう?」
「そうだ。本当なら、お前は子供の時に連れていくはずだった。けれどお前の祖父さんが、お前の代わりに行くといって訊かなかった」
もう一度、少女はそう、と呟いて、それから小さな声で何か付け加える。死神にはそれが、ありがとう、と聞こえた。

「…もうじき、時間だ」
死神が言いにくそうにそういうと、少女はもう一度座布団を細い指でなぞってから立ち上がった。死神の元までやってきた少女の脚は、細かく震えている。それを見た死神はぎゅっと眉をしかめると、壊れ物に触れるようにおずおずと、少女の黒い髪に濡れそぼった手を伸ばした。

死神の触れた先から、少女の身体が濡れていく。髪が濡れ、頬が濡れ、身につけていたブラウスが濡れ…。やがて少女が死神の腕の中にすっぽりと収まる事には、少女の全身が雨に打たれたようにぐっしょりと水気を含んで冷え切ってしまっていた。寒さに色を失った唇を震わせ、少女は小さく小さく囁いた。

「…死神さんは、冷たいのね」
大きく肩を震わせて、今にも泣き出しそうな声で死神は呟いた。
「冷たくない死なんて、どこにもないんだ」
そうね、と少女は静かに呟き、まるで子供をあやすように死神の背中へ腕を回す。
「でも、こうしていれば、私が冷たくなるまでに死神さんが温まるかしら?」

やがて少女の手が色を失い、ことりと黒い背中から外れると、死神は静かに力を失った小さな体を抱き上げた。ぱた、と少女の髪の先から落ちた滴は、畳に落ちるまでにすうっと掻き消えてしまった。
「…行こう、祖父さんが、待ってる」
低く呟き、死神は自らの落とした影に、沈み込むように消えていく。

――最後に死神の頬を伝って流れおちた温かな雫は、かき消えることなく畳に当たり、ぱたりと音を立てて弾けた。

――――――――――――――――――――――――――――――
                    「凍える無常」 了
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