7 / 8
凍える無常
しおりを挟む
「懐かしい…そうよ、この匂いだわ」
座敷に上がるなり、少女はそう言って畳の上に膝をついた。白く細い指が静かに枯れた藺草をなぞる。まるで、何かを辿るように。いや、実際何かを辿っているのだろう。虚空を探るように軽く閉じられた少女の瞼と長い睫毛が、かすかに震えていた。
「…ここ、そう、ここよ。ここにお祖父ちゃんがいた…」
言いながら少女は閉じていた目を開き、立ち上がって座敷の奥へ入っていく。誰もいない座敷の上座に置かれた座布団が少女を迎えた。ふっくらとした綿の感触を指で感じ、ほう、と安堵したような溜息。暗闇の中に光を見つけたような表情だった。
「私、お祖父ちゃんっ子だったの。よくお風呂で髪を洗ってもらったわ」
言いながら、少女は天井を見上げて儚くほほ笑んだ。
「シャンプーハットを持ってお祖父ちゃんの所へ行くのよ。そうしたらいつも笑ってお風呂場へ連れて行ってくれた」
思い出を辿る笑みを湛え、少女は振り返る。
「…ねえ」
「…私も、お祖父ちゃんのところへ行くのね?」
振り返った先の影が、ゆらりと蠢いた。それは急速に人の形をとり、黒い服をまとった男になった。男は頭の先から足の先までぐっしょりと濡れ、髪の先からぱたぱたと水を滴らせていた。しかし、滴る水は床に落ちる前にすうっと掻き消えてしまう。
不思議なことに、男が踏みしめた畳はからりと乾いたままで、まるでこの座敷の中で男だけが、別の世界に立たされているような格好だった。男は伏せていた顔をあげ、億劫そうに一、二度濡れて頬に貼りつく髪を掻揚げてから、気まずそうな顔をして、ぼそぼそと低い声で呟いた。
「…なんで、分かった?」
「私自身の事だもの」
少女はまるで数学の問題について解法を説明するようにそういうと、男に向かって笑みを深くした。少女と目があって、あからさまに具合の悪そうな顔をする男に向かって、更に可笑しそうに肩を震わせて笑う。
「もうじきお迎えが来るのだって分かっていたわ。ね、死神さん?」
死神は少女から目をそらして、もごもごと口の中で呟いた。
「お前、お前の祖父さんと同じ病気だ。それで…それで鬼籍に載った」
そう、と少女は呟き、もう一度座布団を見つめる。その細い肩に、酷くさびしげな影が落ちた。指先で座布団をなぞりながら、小さく震える声で、悲しげに囁く。
「お祖父ちゃんは、私を守ってくれたのでしょう?」
「そうだ。本当なら、お前は子供の時に連れていくはずだった。けれどお前の祖父さんが、お前の代わりに行くといって訊かなかった」
もう一度、少女はそう、と呟いて、それから小さな声で何か付け加える。死神にはそれが、ありがとう、と聞こえた。
「…もうじき、時間だ」
死神が言いにくそうにそういうと、少女はもう一度座布団を細い指でなぞってから立ち上がった。死神の元までやってきた少女の脚は、細かく震えている。それを見た死神はぎゅっと眉をしかめると、壊れ物に触れるようにおずおずと、少女の黒い髪に濡れそぼった手を伸ばした。
死神の触れた先から、少女の身体が濡れていく。髪が濡れ、頬が濡れ、身につけていたブラウスが濡れ…。やがて少女が死神の腕の中にすっぽりと収まる事には、少女の全身が雨に打たれたようにぐっしょりと水気を含んで冷え切ってしまっていた。寒さに色を失った唇を震わせ、少女は小さく小さく囁いた。
「…死神さんは、冷たいのね」
大きく肩を震わせて、今にも泣き出しそうな声で死神は呟いた。
「冷たくない死なんて、どこにもないんだ」
そうね、と少女は静かに呟き、まるで子供をあやすように死神の背中へ腕を回す。
「でも、こうしていれば、私が冷たくなるまでに死神さんが温まるかしら?」
やがて少女の手が色を失い、ことりと黒い背中から外れると、死神は静かに力を失った小さな体を抱き上げた。ぱた、と少女の髪の先から落ちた滴は、畳に落ちるまでにすうっと掻き消えてしまった。
「…行こう、祖父さんが、待ってる」
低く呟き、死神は自らの落とした影に、沈み込むように消えていく。
――最後に死神の頬を伝って流れおちた温かな雫は、かき消えることなく畳に当たり、ぱたりと音を立てて弾けた。
――――――――――――――――――――――――――――――
「凍える無常」 了
座敷に上がるなり、少女はそう言って畳の上に膝をついた。白く細い指が静かに枯れた藺草をなぞる。まるで、何かを辿るように。いや、実際何かを辿っているのだろう。虚空を探るように軽く閉じられた少女の瞼と長い睫毛が、かすかに震えていた。
「…ここ、そう、ここよ。ここにお祖父ちゃんがいた…」
言いながら少女は閉じていた目を開き、立ち上がって座敷の奥へ入っていく。誰もいない座敷の上座に置かれた座布団が少女を迎えた。ふっくらとした綿の感触を指で感じ、ほう、と安堵したような溜息。暗闇の中に光を見つけたような表情だった。
「私、お祖父ちゃんっ子だったの。よくお風呂で髪を洗ってもらったわ」
言いながら、少女は天井を見上げて儚くほほ笑んだ。
「シャンプーハットを持ってお祖父ちゃんの所へ行くのよ。そうしたらいつも笑ってお風呂場へ連れて行ってくれた」
思い出を辿る笑みを湛え、少女は振り返る。
「…ねえ」
「…私も、お祖父ちゃんのところへ行くのね?」
振り返った先の影が、ゆらりと蠢いた。それは急速に人の形をとり、黒い服をまとった男になった。男は頭の先から足の先までぐっしょりと濡れ、髪の先からぱたぱたと水を滴らせていた。しかし、滴る水は床に落ちる前にすうっと掻き消えてしまう。
不思議なことに、男が踏みしめた畳はからりと乾いたままで、まるでこの座敷の中で男だけが、別の世界に立たされているような格好だった。男は伏せていた顔をあげ、億劫そうに一、二度濡れて頬に貼りつく髪を掻揚げてから、気まずそうな顔をして、ぼそぼそと低い声で呟いた。
「…なんで、分かった?」
「私自身の事だもの」
少女はまるで数学の問題について解法を説明するようにそういうと、男に向かって笑みを深くした。少女と目があって、あからさまに具合の悪そうな顔をする男に向かって、更に可笑しそうに肩を震わせて笑う。
「もうじきお迎えが来るのだって分かっていたわ。ね、死神さん?」
死神は少女から目をそらして、もごもごと口の中で呟いた。
「お前、お前の祖父さんと同じ病気だ。それで…それで鬼籍に載った」
そう、と少女は呟き、もう一度座布団を見つめる。その細い肩に、酷くさびしげな影が落ちた。指先で座布団をなぞりながら、小さく震える声で、悲しげに囁く。
「お祖父ちゃんは、私を守ってくれたのでしょう?」
「そうだ。本当なら、お前は子供の時に連れていくはずだった。けれどお前の祖父さんが、お前の代わりに行くといって訊かなかった」
もう一度、少女はそう、と呟いて、それから小さな声で何か付け加える。死神にはそれが、ありがとう、と聞こえた。
「…もうじき、時間だ」
死神が言いにくそうにそういうと、少女はもう一度座布団を細い指でなぞってから立ち上がった。死神の元までやってきた少女の脚は、細かく震えている。それを見た死神はぎゅっと眉をしかめると、壊れ物に触れるようにおずおずと、少女の黒い髪に濡れそぼった手を伸ばした。
死神の触れた先から、少女の身体が濡れていく。髪が濡れ、頬が濡れ、身につけていたブラウスが濡れ…。やがて少女が死神の腕の中にすっぽりと収まる事には、少女の全身が雨に打たれたようにぐっしょりと水気を含んで冷え切ってしまっていた。寒さに色を失った唇を震わせ、少女は小さく小さく囁いた。
「…死神さんは、冷たいのね」
大きく肩を震わせて、今にも泣き出しそうな声で死神は呟いた。
「冷たくない死なんて、どこにもないんだ」
そうね、と少女は静かに呟き、まるで子供をあやすように死神の背中へ腕を回す。
「でも、こうしていれば、私が冷たくなるまでに死神さんが温まるかしら?」
やがて少女の手が色を失い、ことりと黒い背中から外れると、死神は静かに力を失った小さな体を抱き上げた。ぱた、と少女の髪の先から落ちた滴は、畳に落ちるまでにすうっと掻き消えてしまった。
「…行こう、祖父さんが、待ってる」
低く呟き、死神は自らの落とした影に、沈み込むように消えていく。
――最後に死神の頬を伝って流れおちた温かな雫は、かき消えることなく畳に当たり、ぱたりと音を立てて弾けた。
――――――――――――――――――――――――――――――
「凍える無常」 了
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる