古慕麗離子

小目出鯛太郎

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別章 砂の海

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 あ、俺は喰われたのか…とはやては思った。黒いもやのような中にいる。ほんの一瞬の痛みもなかった。手も足も首もどこも千切れてはいない。あの破廉恥な衣装のまま、丸呑みにされたのだろう。
 
 ふわふわと綿の上を歩く様に黒い靄の中を進んでいく。
 指の先までじんわりと温かい。温度を感じるはずのない髪の先まで温かく持ち上げられるように体が上昇する気がした。歩いているのか泳いでいるのかもわからないまま颯の身体は黒い靄に飲まれた。



 靄の先に見慣れたものがあった。痩せた畑。小さな白菜と大根しか植わっていない。広がる空は鉛色で、暗い色の山が三方を囲んでいる。晴れていれば残り一方には海が見えるはずだった。沈んだ紺色の海が。世界のすべてがくすんでいて、灰色か錆びた色か茶色か、鬱屈した世界が広がっていた。
 
 次に見えたのは着ているものは汗と染みと泥の汚れでもとが何色だったかも分からないような継ぎ当てだらけの着物。履物もない。手には泥で汚れた木の鍬が一つ。

 木枯らしで身を竦めても、首に巻くものひとつ持っていない貧相な男がいた。
 
 痩せて、頬がこけて、目ばかりが大きい。洗っていない髪は干し固まったあらめのようだ。寒さのせいか背を丸めて姿勢は悪い。

 陽が沈みつつあった。痩せた男は道ばたの枯れかけた小菊を摘み、吹けば飛びそうなあばら家の裏手に歩いて行った。石が二つ転がっており、ツワブキの黄色い花が咲いている。男が枯れた花をそこへ供え、手を合わせた。


 颯はそれに見覚えがあった。

 これは俺だろう。

 颯の身体は自然に後ずさった。ふわりと包まれた。颯は寒さを感じなかった、むしろ指の先まで温かい。俺ではなく、あいつを温めてやってくれと思った。あの痩せて、着る物もろくに持っていなかった過去の自分を。

 後ろから押されて、暗いあばら家の中へ足を入れる。

 木の戸もなく、筵を下げるだけの入口だ。


 物がない。土間に石で囲んだだけの囲炉裏とも呼べない火炊き場があり、土鍋の中は空だった。薪もない。残りの場所に一人横になれるぐらいの割り竹の床と粗末なむしろがあった。
 痩せた男はぶら下げてあった干し柿を一つ食べると、割り竹の床に横たわり筵を被り寝てしまった。


 見るなよ。颯は後ろから自分を抱きしめている黒風に訴えた。
 どうして俺が忘れているようなものが見えるんだ。


 眠ったはずの男がもぞもぞと動いている。寒さで寝付けないのだろう。颯にも覚えがあった。冷えは下から上がってくる。冷たい竹の床では冷気を遮れない。筵ではろくに暖も取れない。冷たい指を首にあて、脇の間に挟み、こすってもなかなか温まらず、体を小さく丸めてしまいには足の間にいれた。
 腹が減って疲れているのに、足の間の玉竿に触れると心地よくなってしまい、誰も聞く者がいないとわかりながら一人静かにそろそろと手を動かす。わずかばかりの間心地よくなり、嗚呼と掠れた声が出る。


 ひどい。こんなものを見せるなんてひどい。思い出させるなんてひどすぎる。
 颯は両手で顔を覆った。
 見ようとして見たわけではない、お前が見るなと言うなら見ない。黒風の慌てたような声に周囲は黒い靄に包まれ、粗末な床で自慰する男の姿も、掠れた声も何もかも靄に飲まれていった。

 次に見えたのは、山の中を歩く男の姿だった。背には背負子しょいこを担ぎ、手には一応刃物を持っている。素足でどこに行こうというのか。
 
 山が黄色と褐色に染まる中を痩せた男が黙々と歩いて行く。
 やがて山中のブナの木の倒木の陰で群がっているムキタケとナメコを採り始めた。

 この後に起こることを颯は朧気に思い出した。

 せっかくキノコも山栗も採れたのに、男は何かで足を切って滑落し、採れた山の恵みもばらまいてしまい…
「黒風、頼む、もう見せないでくれ…」


 この後に冷たい雨が降り続き、雪になる。雪が降る前に死んだのか、降ってから死んだのかは覚えていない。一人で静かに死んで、その上に枯れ葉と雪が厚く降り積もっていった。

 次に生まれてくる時は飢えや寒さに苦しむことなく生まれてきたいとこいねがった。恐らくその願いは叶ったのだ。人ではないあやかしとして、生まれなおして。

「お前が人であった時に、お前のそばにいたかった」
黒風は顔を覆って静かに泣く颯の肩を抱いて囁いた。

 颯の脳裏に、泣きべその朽木の顔が思い浮かんだ。すぐ泣いて岩館いわだての胸に頬を押し付けていた。今ならその気持ちが分かるような気がした。
 ぬくもりがあれば縋らずにはいられない、その遣る瀬無い寂しさを、颯はようよう理解した。
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