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この世界は残酷で
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目覚めた時、すぐ近くに暗い顔のファルカ様が座っていた。
「エヌ」
俺の顔を見てから、一度どこか遠くを見た。そのほんの数秒の間に、ファルカ様がどこか遠くへ行ってしまわれそうに思えて、俺は迷子を恐れる子供みたいに握られていた手を強く握り返した。
「オレはセルカに戻る事になった」
「じゃぁ、俺も」
「お前はレベリオに残るんだ。新しい護衛と世話係が決まるまではクレオが残る」
ファルカ様は、手をそっと引き抜いた。
「…母上の具合が悪いと連絡があってな。シェルも不安がっていて。まだ小さいしな」
シェル様は妹君だ。
お母さんが病気だったら、そりゃぁ不安だし、寂しいだろう。でも。
「お妃様が良くなられたら、また来られるんですよね?」
ファルカ様の返事が来るまで、俺の心臓は耳か頭か胸では無いところで大きく拍動していた。
「…もうレベリオに来ることはないだろう」
どうして、と尋ねる事が出来なかった。
脳裏にアルテア殿下のファルカ様に対する素っ気ない声と、姿が浮かんだ。
どうしてと尋ねることは、ファルカ様を傷つける事になるとわかってしまった。
「エヌ、オレは馬術や剣術なら負け知らずだと思っていた。…頭もそんなに悪くはないだろうと思っていたし、魔導もちゃんと収めて使えていると思っていた。やっていけると思っていた」
ファルカ様は椅子に座ったまま両腿の上に肘を突き両手を組み合わせた。そして頭が下がっていって顔が俺には見えなくなった。
「そのどれも、意味がなかった。…オレの思い上がりだった。レベリオでは馬術など無意味だし、オレの剣術の腕前など、殿下の騎士と比べたら児戯でしかなかった。試合の開始早々、剣を弾き飛ばされた。三度も同じ事をされてみろ…。剣を腰に下げている事さえ恥ずかしくなる」
ファルカ様の肩は震えていた。
「殿下が帰り際に、器の下の水溜まりについて仕組みを説明せよと仰っただろう?セルカでは、仕組みなんてない。器の下に水が溜まっていたならそれは『側付きの侍女か侍従の気が利かぬようだ』と言って役付を変える。そこに水蒸気だの飽和温度や大気圧なんて言葉は使わない。あれを数式で現したり…セルカでは誰もしないだろう?だが、レベリオでは、違う。
殿下が必要とされているのは、あの水の雫から、水蒸気を動力源として蒸気機関を利用するその流れを理解している者だ。エヌ、学校に行っていないお前が何故、蒸気タービンの話など出来るのだ?殿下達の会話は同じ言葉で話しているのにまるで、オレにはまるで異国の言葉のように聞こえた。何を仰っているのか全然分からなかった!オレが出来たのは…お前が描いた絵や、お前が書いた言葉を、さも自分が書いたようにして、アルテア殿下の気を少しばかり引いた…。それだけだ。オレの浅はかさはすぐに殿下に見抜かれて、この様だがな…。オレは愚かな王子として逃げ出す。だがエヌ、お前は…逃げるオレの替わりにセルカの旗になってくれ。レベリオでセルカを守ってくれ」
離された手がもう一度強く握られて、でも俺はファルカ様の言葉が理解できずにいた。
「お前は、稀有な巫子だ。お前が、セルカの巫子として立っていてくれれば、誰もオレ達の国を踏みにじれない。頼むセルカの巫子として、レベリオでアルテア殿下にお仕えしてくれ」
「な、何言ってるんですか、そんな事、そんなことできるはずないでしょう!?ファルカ様、知ってるでしょう!?俺は殿下の船にゲロを吐き散らかして、殿下の護衛の方にもゲロをまぶして、挨拶もろくにできなければ、馬車にも乗れないんですよ!?旗って何ですか、そんなの無理に決まってるじゃないですか。ファルカ様が話してくださるから、俺は安心して、なんでも書き散らかして、俺何言って良いかもわかんないのに、どうすれば良いんですか」
ファルカ様、置いていかないでください。セルカに一緒に帰りたいです。守るとかお仕えするとか、そんなの無理です。
「エヌ、分かっているはずだ。今オレと共に帰ってもお前はますます辛くなるだけだ。お前が帰れば、派遣されている技師は引き揚げられてしまう。坑道も井戸も手付かずのまま。それがどう言うことかわかるだろう?レベリオに残ってくれ。お前一人に重責を押し付ける事を許してくれ、許せなければ、オレを殴れ」
ファルカ様はまた俺が出来ない事を言った。
ひどい人だ。ひどい王子だ。殴れるわけがない。
わかっている、あの国に俺の帰る場所なんてない。
鉱脈も水脈も見つけられない役立たずの巫子よりも、今ある坑道を整え、井戸を直してくれる技師の方がどんなにか必要されているかも。
「アルテア殿下のもとで、色んな事を学んでくれ。そしてそれをいつかオレにわかりやすく教えてくれ。俺も今よりもっと頑張って勉強するし、お前が帰ってくる場所を作るから、エヌ頼む」
泣いても、縋っても変えられない事は頭のどこかでわかっていた。
俺がどんなにお願いしても偉い人が決めた事はもう変えられないのだ。轢かれたレールの上を進んで行くしかない。
「…俺が帰る時は、桃と苺のパイを準備して、クレオさん特製のしゅわしゅわ飲み物も用意して、俺が大の字になっても大丈夫なベッドにふわふわなクッションをいっぱい並べてください…」
「約束する」
俺達は指切りをして、初めて一緒のベッドで眠った。ともすると泣きそうになる俺の頭を撫でながら、ファルカ様は俺が帰ったら、俺が住む家に本棚も、小さな暖炉も、なんでも用意してくれると言った。流石に飛空挺を買ったりは出来ないけれど、欲しいものは何でも買ってやるし、送ってやるからなと言ってくれた。
もし戻れたら犬か猫を飼っても良いか?と俺が聞いたら、いいぞ一緒に見に行こうと言ってくれた。
俺は、戻った時に増える犬か猫の名前を考えながら、寝落ちてしまった。
明日の午後迎えに来ると言っていたアルテア殿下の言葉も忘れて、眠ってしまっていた。
ファルカ様は星養宮を出られた。明けの明星のようにひっそりと。
悲しい事に眠いのだ。こんな時に眠いとは俺ってなんて薄情なんだろう。
「エヌ、元気でな。もし誰かに酷いことを言われたら、3秒ほど相手を見つめて猿が喋っているのかと思ったと言ってやれよ」
俺の肩を叩いたファルカ様の手が離れて行く。
俺は星養宮からお見送りした。
クレオさんの勧めでもう一度休むようにと促されて、ベッドに戻る。
ほんの少しだけ休むつもりだったのに、次に目覚めたのは昼の少し前だった。
出かけることの通達がされていたようで、俺が寝ている間にクレオさんが食事と今日の外出用の服一式を用意してくれていた。
顔を洗い、寝起きの姿のまま机に座り、出された食事を食べる。昨夜何も口にしていないのでいつもよりお腹が空いている気がした。ひとつかみの薄いクラッカーと、サクサクしたリンゴの薄切りを食べる。器に入っている緑色の飲み物は、野菜をすり潰して飲みやすく濾したジュースだ。これは不味そうな見た目に反して意外に飲める。
緊張しながら真新しい衣装に手を通す。白い太腿の半ばまであるふわっとした長衣と、細身のズボン。長衣の襟と袖は深い緑色、セルカの色で縁どりがしてある。靴はなんだかふわっとした白くて軽い布の靴で爪先まで刺繍がしてある。部屋靴みたいだけどいいのかな?汚れないかな。
心配そうにしているクレオさんと目があった。
「えーと、大丈夫だよ。あの、うん、自信はないけど、ファルカ様と先代が同じような事を仰っていらしたから、そんな感じでやってみるよ」
クレオさんの顔がますます不安げになった。
「ちなみに先代様は何と仰っていたのですか?」
俺はにっこりと笑って見せた。
「何か酷いことを言われても売れ残りの驢馬か駄馬が嘶いていると思えって」
クレオさんは珍しくあわあわした。
「何かあったら必ず私に言ってくださいよエヌ様。相手の顔にクリームのパイを投げつけに行ってやりますから」
「だめだよ、クリームもったいないよ」
埃ひとつついていない新しい服の肩を、クレオさんはぱしぱしと軽く叩く。
「ゼルド様と、いつもはアルテア殿下の離宮の警護をされていらっしゃる方を寄越してくださるので滅多な事はないと思うのですが、気をつけてくださいね」
「うん、大丈夫、大丈夫。多分俺がゲロさえ吐かなければ…」
俺がそう言うと、クレオさんは小さい缶を取り出した。中にはなんだか見覚えのある色の小さい飴が入っていた。あの殺鼠剤の蛍光ピンクが少し薄まったような色だ。
「これはあの酔い止めの薬を飴にしてみたのですが…どうにも良い味にはならなかったのです。正直まずいのですが…」
今舐める!と一粒もらう。
歯磨き粉に苺とハッカとジンジャーと後は苦いような粉っぽいような何かを混ぜ込んで煮溶かして突固めたような味だった。うん、まずい!
でもこれで行けるような気がした。
これで行ける!大丈夫と暗示をかけた。
太陽の位置が真上から少し下がった所でゼルド様ともう一人背の高いお一方がいらっしゃった。
なんかね、本当に申し訳ないよね。俺みたいな奴のためにお偉い軍人さんがこんな仕事を任されるって。
背のお高い方はバッシェスタス・シスエスという俺の滑舌を試すようなお名前で、も…勿論噛んださ!言えなかったさ!でもこの国でも呼び辛い名前だそうで、シェスとお呼び下さいと言われた。
俺はよろしくお願い致しますと頭を下げた。良いんだ。吐きさえしなければもうなんだって。
今日はゼルド様のお名前も分かった。ゼルド様はゼルドリス・シスエス。大きいのにリスだって。ぅふぅふと笑いそうになってしまった。
クレオさんに見送られ、星養宮を出て歩く道行きで、アルテア殿下に直接仕える強化兵は皆、もとの家名を捨ててシスエス姓を名乗るだとか、ゼルド様が小さい頃はそれは大変小さくお可愛いらしく小リスのようであったとか、そう言う話をしてくださるので、緊張が解れる感じがした。
講義が行われる場所は、レベリオの学舎ではなく星養宮から近い文学館で、入口に案内された時点でもう俺は圧倒されていた。
凝った彫刻の石柱を潜り抜けると、天井には八角形の大きなステンドグラスの天窓があり青いマーガレットの花が8輪模られ、中央にはバラに似た優美な花の模様が咲き誇るかのようだった。すぐ下には大きなシャンデリアが釣られている。中は吹き抜けで広く、壁は夜空の色。
壁面は書架になっていて黒檀の色の棚にぎっしりと本が詰っていた。
棚も柱も回廊も、手すりに至るまでも色は黒く、しかし非常に凝った造りになっていた。
うわぁ うわぁ うわぁ。
どこを見ても感嘆のため息がでた。
いや、星養宮に案内された時も壮麗さに驚いたけれど、文学館はまた別の意味で圧倒された。
「すごいですねぇ」
どうしたっておのぼりさん状態できょろきょろと見回してしまう。そして背の高い二人に子供を見るように微笑んで見下ろされているのに気が付く。
ぬふぅ。なんか恥ずかしい。帰りに俺の貸出証をもらえるみたいで、そう!俺は、本を借りれるのだ!こんな凄い場所に俺が読める本があるかどうかは分からないけれど、それはとても嬉しい事だった。セルカでは本はとても高価だったから。
まばらにすれ違う人は皆なんだか賢そうで、物静かに会釈して去ってゆく。
講義の部屋は一番奥で、なんというかもう威圧感ただよう重そうな扉がでーんとそこにあった。
軍の政治や教育に対する介入を防ぐために、基本的に軍人さんは講義室には入らないそうなんだけど、シェス様が扉を開けて支え、ゼルド様が席まで案内してくださって、終わり頃にお迎えに参りますと二人会釈をして出られて扉が閉められ、俺は部屋がしーんと静まり返っていることにやっと気が付いた。
「ふーん。なんか思ってたのと違ーう」
「だね、なんか鈍臭い感じ」
「あの辺境の王子のほうがもうちょっとましだったんじゃない?」
歓迎されていないのが丸わかりの声だった。
振り返って声の相手を確かめるのは躊躇われた。三匹驢馬が鳴いていると思えばいい、とぐっと手を握る。
「よせよ、みんな、新入りが来たら盛大に歓迎してやろうって言ってたじゃないか」
その声がすごく自信に満ちていて、お祭りの前の子供みたいな無邪気さで楽しそうで、しかも感じの悪い発言を遮ってくれていたから、きっといい人なんじゃないかと思って、俺は振り返った。
「こんなふうに」
だから、クレオさんが言っていた『気をつけてくださいね』という言葉を本当に忘れていた。
何かが弾けた。
額の当たりにぶつかったようだけど痛くはなかった。
溝の底を浚たような腐った臭いが広がって、どろどろしたものが顔を伝い、肩や胸にも黒い汚れが飛び散っていた。
「やぁだ、避けれもしないなんて。信じられない。くさーい」
「汚いなぁ、教室でやらないでよね、臭いがうつっちゃうじゃない」
部屋の隅でヒヨコみたいな黄色い頭の子と目の真っ赤な女の子だけが、自分も泥玉を喰らったような蒼白な顔で棒立ちになっているのが目に入った。
そうだ。残りの奴らはみんな猿だ。
俺は今日講義のために学舎に来たつもりで、動物園にでも紛れ込んでしまったんだろう。軍人のあのお二人もきっと、ここが広いから間違って俺を案内したに違いない。
ファルカ様が俺に言った言葉が蘇る。『もし誰かに酷いことを言われたら、3秒ほど相手を見つめて猿が喋っているのかと思ったと言ってやれよ』
俺は残りの6人の顔を見た。
多分もしも次に会う事があっても覚えてなんていない。猿の顔なんてどれも同じだから。
「…レベリオにこんな立派な猿園があるとは思ってもいませんでした。頭がからっぽで喰うことと糞をすることしか知らないようで困ったものですね。それではごきげんようさようなら」
扉に向かう俺の肩と背にまた臭い溝水の玉が投げつけられる。
「もう、掃除が面倒くさいからやめてよね」
「一番臭い奴を追い出してやったじゃないか」
最後までそんな嘲い声が聞こえた。
文学館の中ですれ違う人が驚いて後ずさる。それはそうだろう。臭いし汚いし。
でも俺は謝らない。
くそ!こんな場所で泣いたりしない。
ここに来るまでに大きな噴水が二つ三つあったはずだ。あそこで顔と身体を洗おう。
折角用意してくれた服だけど、もう着ることもないし捨てても良いんだけど。
流石に裸で帰るわけにはいかないから、仕方ない。
お行儀悪く噴水の冷たい水に飛び込み、ざぶざぶと水をかぶる。
泣いてなんかいない。泣いてなんかいない。全部これは噴水の水しぶきなんだ。
やっぱりレベリオになんて来るんじゃなかった。ファルカ様と一緒に帰るべきだったんだ。
俺は憤懣やるかたなく、噴水で暴れた。
「エヌ」
俺の顔を見てから、一度どこか遠くを見た。そのほんの数秒の間に、ファルカ様がどこか遠くへ行ってしまわれそうに思えて、俺は迷子を恐れる子供みたいに握られていた手を強く握り返した。
「オレはセルカに戻る事になった」
「じゃぁ、俺も」
「お前はレベリオに残るんだ。新しい護衛と世話係が決まるまではクレオが残る」
ファルカ様は、手をそっと引き抜いた。
「…母上の具合が悪いと連絡があってな。シェルも不安がっていて。まだ小さいしな」
シェル様は妹君だ。
お母さんが病気だったら、そりゃぁ不安だし、寂しいだろう。でも。
「お妃様が良くなられたら、また来られるんですよね?」
ファルカ様の返事が来るまで、俺の心臓は耳か頭か胸では無いところで大きく拍動していた。
「…もうレベリオに来ることはないだろう」
どうして、と尋ねる事が出来なかった。
脳裏にアルテア殿下のファルカ様に対する素っ気ない声と、姿が浮かんだ。
どうしてと尋ねることは、ファルカ様を傷つける事になるとわかってしまった。
「エヌ、オレは馬術や剣術なら負け知らずだと思っていた。…頭もそんなに悪くはないだろうと思っていたし、魔導もちゃんと収めて使えていると思っていた。やっていけると思っていた」
ファルカ様は椅子に座ったまま両腿の上に肘を突き両手を組み合わせた。そして頭が下がっていって顔が俺には見えなくなった。
「そのどれも、意味がなかった。…オレの思い上がりだった。レベリオでは馬術など無意味だし、オレの剣術の腕前など、殿下の騎士と比べたら児戯でしかなかった。試合の開始早々、剣を弾き飛ばされた。三度も同じ事をされてみろ…。剣を腰に下げている事さえ恥ずかしくなる」
ファルカ様の肩は震えていた。
「殿下が帰り際に、器の下の水溜まりについて仕組みを説明せよと仰っただろう?セルカでは、仕組みなんてない。器の下に水が溜まっていたならそれは『側付きの侍女か侍従の気が利かぬようだ』と言って役付を変える。そこに水蒸気だの飽和温度や大気圧なんて言葉は使わない。あれを数式で現したり…セルカでは誰もしないだろう?だが、レベリオでは、違う。
殿下が必要とされているのは、あの水の雫から、水蒸気を動力源として蒸気機関を利用するその流れを理解している者だ。エヌ、学校に行っていないお前が何故、蒸気タービンの話など出来るのだ?殿下達の会話は同じ言葉で話しているのにまるで、オレにはまるで異国の言葉のように聞こえた。何を仰っているのか全然分からなかった!オレが出来たのは…お前が描いた絵や、お前が書いた言葉を、さも自分が書いたようにして、アルテア殿下の気を少しばかり引いた…。それだけだ。オレの浅はかさはすぐに殿下に見抜かれて、この様だがな…。オレは愚かな王子として逃げ出す。だがエヌ、お前は…逃げるオレの替わりにセルカの旗になってくれ。レベリオでセルカを守ってくれ」
離された手がもう一度強く握られて、でも俺はファルカ様の言葉が理解できずにいた。
「お前は、稀有な巫子だ。お前が、セルカの巫子として立っていてくれれば、誰もオレ達の国を踏みにじれない。頼むセルカの巫子として、レベリオでアルテア殿下にお仕えしてくれ」
「な、何言ってるんですか、そんな事、そんなことできるはずないでしょう!?ファルカ様、知ってるでしょう!?俺は殿下の船にゲロを吐き散らかして、殿下の護衛の方にもゲロをまぶして、挨拶もろくにできなければ、馬車にも乗れないんですよ!?旗って何ですか、そんなの無理に決まってるじゃないですか。ファルカ様が話してくださるから、俺は安心して、なんでも書き散らかして、俺何言って良いかもわかんないのに、どうすれば良いんですか」
ファルカ様、置いていかないでください。セルカに一緒に帰りたいです。守るとかお仕えするとか、そんなの無理です。
「エヌ、分かっているはずだ。今オレと共に帰ってもお前はますます辛くなるだけだ。お前が帰れば、派遣されている技師は引き揚げられてしまう。坑道も井戸も手付かずのまま。それがどう言うことかわかるだろう?レベリオに残ってくれ。お前一人に重責を押し付ける事を許してくれ、許せなければ、オレを殴れ」
ファルカ様はまた俺が出来ない事を言った。
ひどい人だ。ひどい王子だ。殴れるわけがない。
わかっている、あの国に俺の帰る場所なんてない。
鉱脈も水脈も見つけられない役立たずの巫子よりも、今ある坑道を整え、井戸を直してくれる技師の方がどんなにか必要されているかも。
「アルテア殿下のもとで、色んな事を学んでくれ。そしてそれをいつかオレにわかりやすく教えてくれ。俺も今よりもっと頑張って勉強するし、お前が帰ってくる場所を作るから、エヌ頼む」
泣いても、縋っても変えられない事は頭のどこかでわかっていた。
俺がどんなにお願いしても偉い人が決めた事はもう変えられないのだ。轢かれたレールの上を進んで行くしかない。
「…俺が帰る時は、桃と苺のパイを準備して、クレオさん特製のしゅわしゅわ飲み物も用意して、俺が大の字になっても大丈夫なベッドにふわふわなクッションをいっぱい並べてください…」
「約束する」
俺達は指切りをして、初めて一緒のベッドで眠った。ともすると泣きそうになる俺の頭を撫でながら、ファルカ様は俺が帰ったら、俺が住む家に本棚も、小さな暖炉も、なんでも用意してくれると言った。流石に飛空挺を買ったりは出来ないけれど、欲しいものは何でも買ってやるし、送ってやるからなと言ってくれた。
もし戻れたら犬か猫を飼っても良いか?と俺が聞いたら、いいぞ一緒に見に行こうと言ってくれた。
俺は、戻った時に増える犬か猫の名前を考えながら、寝落ちてしまった。
明日の午後迎えに来ると言っていたアルテア殿下の言葉も忘れて、眠ってしまっていた。
ファルカ様は星養宮を出られた。明けの明星のようにひっそりと。
悲しい事に眠いのだ。こんな時に眠いとは俺ってなんて薄情なんだろう。
「エヌ、元気でな。もし誰かに酷いことを言われたら、3秒ほど相手を見つめて猿が喋っているのかと思ったと言ってやれよ」
俺の肩を叩いたファルカ様の手が離れて行く。
俺は星養宮からお見送りした。
クレオさんの勧めでもう一度休むようにと促されて、ベッドに戻る。
ほんの少しだけ休むつもりだったのに、次に目覚めたのは昼の少し前だった。
出かけることの通達がされていたようで、俺が寝ている間にクレオさんが食事と今日の外出用の服一式を用意してくれていた。
顔を洗い、寝起きの姿のまま机に座り、出された食事を食べる。昨夜何も口にしていないのでいつもよりお腹が空いている気がした。ひとつかみの薄いクラッカーと、サクサクしたリンゴの薄切りを食べる。器に入っている緑色の飲み物は、野菜をすり潰して飲みやすく濾したジュースだ。これは不味そうな見た目に反して意外に飲める。
緊張しながら真新しい衣装に手を通す。白い太腿の半ばまであるふわっとした長衣と、細身のズボン。長衣の襟と袖は深い緑色、セルカの色で縁どりがしてある。靴はなんだかふわっとした白くて軽い布の靴で爪先まで刺繍がしてある。部屋靴みたいだけどいいのかな?汚れないかな。
心配そうにしているクレオさんと目があった。
「えーと、大丈夫だよ。あの、うん、自信はないけど、ファルカ様と先代が同じような事を仰っていらしたから、そんな感じでやってみるよ」
クレオさんの顔がますます不安げになった。
「ちなみに先代様は何と仰っていたのですか?」
俺はにっこりと笑って見せた。
「何か酷いことを言われても売れ残りの驢馬か駄馬が嘶いていると思えって」
クレオさんは珍しくあわあわした。
「何かあったら必ず私に言ってくださいよエヌ様。相手の顔にクリームのパイを投げつけに行ってやりますから」
「だめだよ、クリームもったいないよ」
埃ひとつついていない新しい服の肩を、クレオさんはぱしぱしと軽く叩く。
「ゼルド様と、いつもはアルテア殿下の離宮の警護をされていらっしゃる方を寄越してくださるので滅多な事はないと思うのですが、気をつけてくださいね」
「うん、大丈夫、大丈夫。多分俺がゲロさえ吐かなければ…」
俺がそう言うと、クレオさんは小さい缶を取り出した。中にはなんだか見覚えのある色の小さい飴が入っていた。あの殺鼠剤の蛍光ピンクが少し薄まったような色だ。
「これはあの酔い止めの薬を飴にしてみたのですが…どうにも良い味にはならなかったのです。正直まずいのですが…」
今舐める!と一粒もらう。
歯磨き粉に苺とハッカとジンジャーと後は苦いような粉っぽいような何かを混ぜ込んで煮溶かして突固めたような味だった。うん、まずい!
でもこれで行けるような気がした。
これで行ける!大丈夫と暗示をかけた。
太陽の位置が真上から少し下がった所でゼルド様ともう一人背の高いお一方がいらっしゃった。
なんかね、本当に申し訳ないよね。俺みたいな奴のためにお偉い軍人さんがこんな仕事を任されるって。
背のお高い方はバッシェスタス・シスエスという俺の滑舌を試すようなお名前で、も…勿論噛んださ!言えなかったさ!でもこの国でも呼び辛い名前だそうで、シェスとお呼び下さいと言われた。
俺はよろしくお願い致しますと頭を下げた。良いんだ。吐きさえしなければもうなんだって。
今日はゼルド様のお名前も分かった。ゼルド様はゼルドリス・シスエス。大きいのにリスだって。ぅふぅふと笑いそうになってしまった。
クレオさんに見送られ、星養宮を出て歩く道行きで、アルテア殿下に直接仕える強化兵は皆、もとの家名を捨ててシスエス姓を名乗るだとか、ゼルド様が小さい頃はそれは大変小さくお可愛いらしく小リスのようであったとか、そう言う話をしてくださるので、緊張が解れる感じがした。
講義が行われる場所は、レベリオの学舎ではなく星養宮から近い文学館で、入口に案内された時点でもう俺は圧倒されていた。
凝った彫刻の石柱を潜り抜けると、天井には八角形の大きなステンドグラスの天窓があり青いマーガレットの花が8輪模られ、中央にはバラに似た優美な花の模様が咲き誇るかのようだった。すぐ下には大きなシャンデリアが釣られている。中は吹き抜けで広く、壁は夜空の色。
壁面は書架になっていて黒檀の色の棚にぎっしりと本が詰っていた。
棚も柱も回廊も、手すりに至るまでも色は黒く、しかし非常に凝った造りになっていた。
うわぁ うわぁ うわぁ。
どこを見ても感嘆のため息がでた。
いや、星養宮に案内された時も壮麗さに驚いたけれど、文学館はまた別の意味で圧倒された。
「すごいですねぇ」
どうしたっておのぼりさん状態できょろきょろと見回してしまう。そして背の高い二人に子供を見るように微笑んで見下ろされているのに気が付く。
ぬふぅ。なんか恥ずかしい。帰りに俺の貸出証をもらえるみたいで、そう!俺は、本を借りれるのだ!こんな凄い場所に俺が読める本があるかどうかは分からないけれど、それはとても嬉しい事だった。セルカでは本はとても高価だったから。
まばらにすれ違う人は皆なんだか賢そうで、物静かに会釈して去ってゆく。
講義の部屋は一番奥で、なんというかもう威圧感ただよう重そうな扉がでーんとそこにあった。
軍の政治や教育に対する介入を防ぐために、基本的に軍人さんは講義室には入らないそうなんだけど、シェス様が扉を開けて支え、ゼルド様が席まで案内してくださって、終わり頃にお迎えに参りますと二人会釈をして出られて扉が閉められ、俺は部屋がしーんと静まり返っていることにやっと気が付いた。
「ふーん。なんか思ってたのと違ーう」
「だね、なんか鈍臭い感じ」
「あの辺境の王子のほうがもうちょっとましだったんじゃない?」
歓迎されていないのが丸わかりの声だった。
振り返って声の相手を確かめるのは躊躇われた。三匹驢馬が鳴いていると思えばいい、とぐっと手を握る。
「よせよ、みんな、新入りが来たら盛大に歓迎してやろうって言ってたじゃないか」
その声がすごく自信に満ちていて、お祭りの前の子供みたいな無邪気さで楽しそうで、しかも感じの悪い発言を遮ってくれていたから、きっといい人なんじゃないかと思って、俺は振り返った。
「こんなふうに」
だから、クレオさんが言っていた『気をつけてくださいね』という言葉を本当に忘れていた。
何かが弾けた。
額の当たりにぶつかったようだけど痛くはなかった。
溝の底を浚たような腐った臭いが広がって、どろどろしたものが顔を伝い、肩や胸にも黒い汚れが飛び散っていた。
「やぁだ、避けれもしないなんて。信じられない。くさーい」
「汚いなぁ、教室でやらないでよね、臭いがうつっちゃうじゃない」
部屋の隅でヒヨコみたいな黄色い頭の子と目の真っ赤な女の子だけが、自分も泥玉を喰らったような蒼白な顔で棒立ちになっているのが目に入った。
そうだ。残りの奴らはみんな猿だ。
俺は今日講義のために学舎に来たつもりで、動物園にでも紛れ込んでしまったんだろう。軍人のあのお二人もきっと、ここが広いから間違って俺を案内したに違いない。
ファルカ様が俺に言った言葉が蘇る。『もし誰かに酷いことを言われたら、3秒ほど相手を見つめて猿が喋っているのかと思ったと言ってやれよ』
俺は残りの6人の顔を見た。
多分もしも次に会う事があっても覚えてなんていない。猿の顔なんてどれも同じだから。
「…レベリオにこんな立派な猿園があるとは思ってもいませんでした。頭がからっぽで喰うことと糞をすることしか知らないようで困ったものですね。それではごきげんようさようなら」
扉に向かう俺の肩と背にまた臭い溝水の玉が投げつけられる。
「もう、掃除が面倒くさいからやめてよね」
「一番臭い奴を追い出してやったじゃないか」
最後までそんな嘲い声が聞こえた。
文学館の中ですれ違う人が驚いて後ずさる。それはそうだろう。臭いし汚いし。
でも俺は謝らない。
くそ!こんな場所で泣いたりしない。
ここに来るまでに大きな噴水が二つ三つあったはずだ。あそこで顔と身体を洗おう。
折角用意してくれた服だけど、もう着ることもないし捨てても良いんだけど。
流石に裸で帰るわけにはいかないから、仕方ない。
お行儀悪く噴水の冷たい水に飛び込み、ざぶざぶと水をかぶる。
泣いてなんかいない。泣いてなんかいない。全部これは噴水の水しぶきなんだ。
やっぱりレベリオになんて来るんじゃなかった。ファルカ様と一緒に帰るべきだったんだ。
俺は憤懣やるかたなく、噴水で暴れた。
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当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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