異端の巫子

小目出鯛太郎

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「あなた、その汚れた服を貸して。せめてこれで顔を拭いて」

 俺に声をかけて来たのは、あの部屋にいた目の真っ赤な女の子だった。手にはハンカチが乗っていた。

「いや、いいよ。濡れちゃうし。それにこの服も帰ったら捨てるし良いんだ」

「良くないわよ!ごめんなさい止められなくて。まさかあんな酷いことするなんて思ってなかったの。今クロックスが近衛の方に連絡をして何か拭くものと着替えも持って来てくれると思うの。噴水の水は冷たすぎるわ、あなたもう唇の色が青いわよ。早く上がって」

 女の子に手を差し伸べられて、引き上げられて、顔にハンカチを押し当てられた。
 う、彼女の方が背が少し高くて、力も強いなんて…。

 髪から水が滴り、ハンカチは瞬く間にびしょ濡れになった。

「ごめん、ぬれちゃった」

「いいのよ、それにあなた謝る必要なんて全然ないわ」

 
 もうもうもうもう!と女の子は唸り声を上げた。俺はびっくりした。女の子ってもっとお淑やかなものだと思っていたから。俺、こんな歳の若い女の子と話すのも初めてだし、戸惑っちゃうよ。

「あんな奴らと机を並べてたなんて、あんな奴らが学友だなんて、自分が恥ずかしいわ。もう!その濡れた服を脱ぎなさいよ!風邪ひいちゃうわ!」
 女の子はひどく怒って、その怒りがおかしな方向に向かって来た。
 俺に掴みかかって、濡れた服の裾を捲り上げる。

「うひゃぁやだよ、裸になっちゃうじゃんか」
「弟達の裸で見慣れてるわ!気にしないで。脱いで!」

 ぎゃぁぁ。あんたは慣れてるかもしれないけど、俺はそんなの慣れてない!!

「ぬ、脱ぐから!自分で脱ぐから~」

 服の作りはふわっとしてたんだけど、濡れると張り付いてひどく脱ぎにくい。俺がもたもたと脱いでいると、エヌ様!と声がした。


 ううう、やだな、なんでこんな事になるのかな。
 飛ぶような速さで駆けて来たゼルド様が、黒いコートを脱いで有無を言わさず俺を包んでしまった。
「無礼をお許しください。お着替えのためにご案内申し上げます」

 君は館長に連絡を。ゼルド様が短くあの女の子に言うのが聞こえた。


 え、あ?お!え!?

 やだな、やだな飛空挺で吐いた時といい、なんでみっともないところばっかり見られちゃうんだろ…。
何があったのかと聞かれないのが嫌だった。いや、聞かれても嫌なんだけどさ。

 嫌な思いをして出て来た文学館を逆戻りだ。ただ今度は正面からではなくて、横から入り、階段を降りて地下へ、そこから昇降機で上のどこかの部屋へ案内された。

「申し訳ございません。このような物しかご用意できず」

 ゼルド様の手には白い布があった。そのまま俺の髪を包むように拭こうとする。

「ちょ、俺、自分で!自分で出来るから」
布だけ受け取り、頭をわしわしと掴むように拭いた。
 うわぁ…ゼルド様のコートに臭いとかついたらどうしよう。着替あるんだろうか?

 変な臭いはしなかった。逆に良い香りがした。あ、朝オレンジ食べたのかな?野の花と森、みたいな全部混ざったような。うわぁ、これは俺の方が絶対臭い。やばい。

「ゼルド様!」
 俺は、俺を包んでいた黒いコート脱いで掴んで彼に突き出した。

「私に敬称など不要です、エヌ様」

 うぇ…。偉い感じの軍人さんてみんな貴族なんじゃ…?呼び捨てにして俺怒られないのかしらん…。

 とりあえず上着と肌着と濡れた靴を脱ぐ。
あ、うん、着替がない。

「もう一枚あったら布下さい」
 同じような白い布をもらい、ちょっと後ろ向いててくださいねぇとお願いして。俺も背中を向けて濡れたズボンを蹴るようにして脱いだ。細みのは脱ぎにくいなー。
 それから白布を腰巻きにした。暑い時に市場のおっちゃん達がよくやる格好だな。ちょっと白布だから格好つかないし、なんか寡婦みたいになっちゃったけど。

 
 手を取られて座って、自分の身体が冷えている事が分かった。ゼルド様の…えーと…ゼルドのうーん、セルドさんの…さんでもいいのかな?とにかく手が温かくて、逆に俺の手は指先まで冷え切っていた。足先も冷たい。
 頭も重くなってくるけれど、これは気持ちが沈んでいるから余計に重く感じるんだろうな。

「お守りできず申し訳ございません。何があったのかお教えくださいますか?」

 ゼルドさんの顔が近い。近くで見ると単に美形というより、本当に男らしい作りである事に気がつかされる。ただ顔立ちの華やかさを眉間の深い皺や、頑固に見えそうな固く閉じた口元が邪魔している。ああ、今口角が下がっているからだ。…って人の顔を観察している場合じゃなかった。

 何があったのかといえば、馬鹿にされて知らない子に臭い泥玉をぶつけられた。と言う事になる。あ、子じゃなくて猿だったな。
 思い出すと腹が立ってくる。

 もう終わった事だ。きっとあの猿達はファルカ様にだって無礼だったに違いない。ああ!だめだ!!やっぱり腹が立つ。



 
 言えずに口をつぐんでいると、隔拍器メトロノームが早く鋭く打つようなカツカツと音が響き、扉が吹き飛ぶんじゃないかと思うぐらいの勢いでずばぁん!と開いた。ノックされなかった。頭の片隅でそんな事を思っていると名前を呼ばれて、俺はアルテア様の腕の中にいた。

 え? え!? ぁお!?!?

 今日はあえいうえおあおと滑舌を良くする訓練日なのかもしれなかった。驚きで目がぱちぱちしちゃうよ。
アルテア様なんで!?

 なんでそんな怒ってるんだ?

 扉を開けて入って来る顔が見えた瞬間から、それはほんの数週間前にセルカの星の降る荒野でくすくす笑って、本当は隕鉄が欲しいんだって子供のようにはにかんだ少年とは別人だった。
 王冠を頭上に抱く者が持つ冷ややかな威圧感が、彼の全身から発せられている。

 あ!

 なんで、じゃなかった。これはやっぱり俺が汚い格好で文学館の中を歩いて、噴水で水浴びなんかして、王宮でふさわしくない行いをしちゃったから…しかも靴も履かず奴隷みたいなみっともない格好でいるからだよな…。

「エヌ、怪我はない?話はクロックスから聞いた」
 
 クロックス。多分部屋の外から、羽をもがれた鳥みたいな蒼白な顔でこちらを見てるあのヒヨコみたいな黄色い頭の子だよね?

 ううう。ごめんね。俺の行動が全然知らない人にまでそんな顔色が悪くなるほど心配をかけちゃって。殿下にも、ゼルドさんにも、恐縮次第であります。ごめんなさいです。でも、俺は悪くないと言いたい。

「エヌ、すまない。私が悪かった」

 え?俺が聞き返そうとすると、外からお着替えをお持ちしました、と声が掛けられた。箱を持ったシェス…さんだった。

 俺はそこで、人前で着替えるのはやだと駄々をこね、妥協案としてゼルドさんとシェスさんが白布の両端を持って衝立のようにしてもらい、視線を遮って着替えた。
 
 俺が国で祭礼の時にだけ着る式典用の長衣を何倍も豪華にした長衣。長衣に施された刺繍と同じ金糸の縫い取りがされた柔らかい布靴。ズボンがなくて、突っ込みどころ満載の下着…紐パンがあって、履かないわけにもいかないから渋々身につけた。
 イヤリングもネックレスも断った。それから首から胸部を飾る襟飾えりかざりが、金と宝石で連ねた見るからに重そうなので断った。

「重いと、吐いちゃうから、だめ」
 
 腕輪もベルトも宝石がぎっしりで、それも断ると、アルテア殿下はわかった、でもこれだけは付けてもらう!ともう半ば無理やり額飾りを俺につけた。これは一粒の宝石を糸のように細い鎖で支えている、軽い作りだったので、断りきれずに身につけた。
 落としたら、どうしよう。俺、弁償できないよ?

 あと、帰るだけなのになんでわざわざこんな服装を…って思ったら、この服は今日のために準備したものではなく、本当は次回別の巫子と会食をするために誂えたものだったと言われた。

 別の巫子と会食と言った時だけアルテア殿下の目元が柔らかく微笑んだが、裸で謝罪を受けさせるわけにはいかないからねと言った殿下の目には、冷徹な光が浮かんでいた。

「エヌ、今日のことは本当にすまない。私はこんな仕打ちをするために君を呼んだ訳では断じてない。彼らには謝罪させ、相応しい罰を与える。それで、許してくれるかい?」

「…謝ってくれるなら、それでいいよ。別に罰とかいいよ。そんな面倒なことしなくていいよ」

 彼らは形ばかりは謝るだろう。でもそれは心からの謝罪じゃなくて、アルテア殿下がいるからだ。そんな意味ない謝罪なんて、いらないんだけどな…。心の内を言うのは難しい。
 
 アルテア殿下の靴音が隔拍器のように静まり返った文学館に響く。乱れず、迷わず、一足ごとに強い意志を滲ませるかのような音だ。
 その後を迷子だった子羊が縄で引かれ歩くように、俺の布靴がぺたぺたと続く。

 そして前後を二頭の優秀な黒い番犬が付き従う。




 シェスさんがあの部屋の扉を開けて中に入る。殿下が続き、俺は手を引かれ、最後にゼルドさんが入って扉をずしんと閉めた。
 部屋にいたうちの四人が慌てて立ち上がり、躾けられた動物みたいな礼をした。四人は着替えた俺を見て戸惑っているのが分かった。

 残る二人のうち男の方は足を机の上に投げ出してガムを噛んでいる。
 その隣に座っていた少女が、さも今気がついたといった風に立ち上がり「ご機嫌麗しゅうございます」と足の膝を曲げて跪礼きれいした。

「リタ・フェデル、おめでとう。君の婚期は早まりそうだな」
 跪礼した少女は殿下の言葉をものともせず、くびれた腰に手を当てて首を傾けた。自分の事が一番可愛らしく見えるのを理解し尽くしたようなあざとい角度で。

「殿下、突然何を仰るのですか?」
「この集まりは今日で終了だから。リタ、君はここでの失態が広まらないうちにすぐに誰か相手を見つけるべきだよ。君で良いと妥協してくれる相手とね」


「クラン、もしかしたら君は巻き込まれただけかもしれないが君の家が大きな商家で良かった。君が戻っても働く口の一つや二つはあるだろうから」
 少女の反撃が始まる前に、殿下は別の少年に言い放った。


 クランと呼ばれた少しふくよかな少年は、餌を落としたハムスターみたいにきょとんとしていた。
「で、殿下?」

「ベスティア、君は士官学校への推薦と奨学金が欲しいと言っていたね。推薦状は今日にも出そう。そこそこ優秀だとね。しかし備考欄に一つ記入が必要なようだ『巫子の背に泥玉を投げた過去あり』とね。さて、受かる学校がレベリオにあるかな。目出たく推薦が受理されれば、奨学金は私が出そう」

 ベスティアと呼ばれたのは少年というより体つきがもう大人の男だった。彼の表情が最初は喜色から一転して絶望に染まるのを見て、俺まで怖くなってしまった。
 
 殿下が突然何を言い出すのかと、俺は戸惑い焦ったけれど、振り返ってもゼルドさんもシェスさんも平然としている。

 
 六人のうち五人が、殿下の言葉にこれは只事ではないと恐慌状態に陥った。
「殿下、僕達は何もしていません」
「殿下、自分もです。泥玉を投げるなんてしていないし、その方に失礼な事も…」

 俺と目が合うと一人は気まずそうに言葉を途中で飲み込んだ。

「私は君達にこの学舎で自由に発言し、自由に振る舞う事を許可していたけれど、君達は自由の意味を履き違えていたようだ。今日あったことの報告は既に受けている。何か申し開きがあるなら今言うがいい」

 怒号でも罵声でもない静かな声なのに、殿下を前にして俺を笑った奴らは喪心しかねなかった。真夏の水のぬるくなった水槽の金魚のように口がぱくぱくするけれど、声も出ず皆怯えて沈黙してしまう。





「アルテア殿下、何で俺には何も言わないんですか?」
 足を投げ出して座っていた不遜な態度の少年が、立ち上がった。

 少年というよりは背が高く、肩幅も広く、殿下よりも大人びていた。眼前の殿下を前に怯えるわけでもなく敬うわけでもなく、自信に満ちた顔をしている。

「何も言う必要がないからだよ。君の心配などしていないからね」

 二人が距離をおいて向かい合わせに立つ。

 まるで白い太陽と黒い太陽が向き合ったようだった。

 俺はアルテア殿下の後ろにいるのに、俺に泥をぶつけた彼の圧迫感にじわりと押されそうになる。


 何か言葉を交わすより前に、心の中でこの嫌な奴に膝を屈している。そうだ、戦わずに逃げた、俺は一人では立ち向かえず心の中で敗北感に打ちひしがれる。
 アルテア殿下を盾にして立つことに申し訳なさでいっぱいになる。だからこそ俺は俯いたり、後ずさったりせずに立たなくちゃいけない。


「ロベリオ、お前は巫子を傷つけた」

 その顔に泥をぶつけ、その背にも泥を塗り、辱めた。そしてここにいる誰もそれを止めず見ていたな。しかも笑いながら。殿下はまるで自分がここにいて見ていたかのように言った。
 穴があったら入りたい。
 それを報告したのがクロックスというあの子か、あの目の赤い女の子なのかわからないけど。俺はあんな事はなかった事にしたかったから。

 
 つらい。




「殿下、何を仰っているんですか?俺が巫子を傷つけた?冗談でしょう?」

 ロベリオはまるで役者のように優雅に腕を広げ、殿下を包容しようとするそぶりを見せた。


「もし俺が巫子を傷つけていたとしたら泥をぶつけた部位は焼けただれ、手足なら腐り落ちる。そうでしょう?殿下、良く見て下さいよ。俺の顔、焼けていますか?それは偽物ですよ、良くいる自称かたりの」

 ロベリオが言えたのはそこまでだった。

 空気に亀裂が走るのが見えた。

 魔導をろくに使ったことのない俺に、それが見えた。多分その空気の壁みたいな物が無ければロベリオの身体は後ろの壁に叩きつけられていたのではないかと思う。


「呪いの意味さえ理解していなかったとは…愚かしい。巫子を辱めたら呪力ですぐに顔が焼かれると思っていたのか?本当に愚かだなロベリオ。お前がやったと知れ渡れば、お前とお前の家族に泥が投げられ、お前が生きていれば翌日石が、お前がまだ生きていればその次の日に炎がお前と家に投げ込まれる。それでなお生きていれば、手足を落とし逃げられぬようにして息絶えるまで行う。人の手で。呪いは人の手によってもたらされるのだ」


 悲鳴をあげてベスティアが身を投げ出してきた。お許しください、どうかお許しくださいと。クランは恐怖で引き攣った顔で泣いていた。俺と目が合うと椅子から転げ落ちるようにして、土下座し始めた。

 ロベリオとリタ以外の子がごめんなさい、そんなつもりはありませんでした、お許しください、と必死で言い募る声を聞いて、なんだか悲しいような虚しいような気になってきた。
 俺はこんなの見たくない。


「アルテア殿下、もう…」

 星養宮に帰りましょう。本当はセルカに帰りたいけれど、帰れないから。文学館は綺麗な場所だったけれど、中にあるものがみんな綺麗なわけじゃない。でも汚れた俺のためにハンカチを出してくれる子がいて、俺のために真っ青な顔で助けを呼びに行ってくれる子がいて、俺のために怒ってくれる殿下がいて、俺の半歩まえで庇うように、後ろで支えるようにしてくれるゼルドさんとシェスさんがいてくれて、もうそれで十分です。
 もう、本当に十分です…。


「巫子は優しいから、謝罪も命乞いも聞いてくださるかもしれないが…」

 殿下は、どこまで皆を追い詰めるつもりなんだろう。俺は殿下の服の裾を掴んで引いた。
「殿下!」

「巫子様お許しください」
 詫びる口が一つ増えた。リタが膝をついて頭を下げた。

 どうしてこんなことになるのかわからないと混乱と恐怖と怒りで目が充血していた。
 臭いと笑っただけでこんな風になるなんて誰も思わないよね、俺もそうだよ。

 謝られても詫びられても息が苦しくなるばかりだ。
「アルテア殿下、もう」

 殿下は俺の唇を人差し指でひたと押え、俺が話すのを許してはくれなかった。


「私の巫子は本当に優しいが、猿のわめきなど理解できぬそうだ」

 その時のアルテア殿下の顔に浮かんだ微笑みは刺す事を全く躊躇わない鋭いナイフのようだった。
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