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堕落してやる!
しおりを挟む外は暗くなり、たぶんもう19時を過ぎたように思う。いつもなら夕食の案内に来るはずのヘベスが来ない。
お腹はすいているような気もするし、すいていないような気もする。
アルコーブベッドでぐだぐだと寝転んで、ふわふわのクッションに顔を埋めて俺は思い悩んだ。本当は起きて午後の勉強をさぼった事を謝ってすぐに食事をするべきだ。
厨房で片付けをする人だって困ってしまうだろう。
俺の中にあった行き所のない怒りは随分小さくなっていた。
怒りのままに癇癪玉を炸裂させて目の前にあるものを手当たり次第に全部壊していったらどんなりすっきりするだろうかと思う事があるのだ。大きな一枚のガラスをばりんと、美しく花瓶をがしゃんと、天井に釣り下がるダイヤのような豪奢なシャンデリアを玄関ホールにぐわしゃんと落としたら、もうそれはどんなに胸がすくだろうと思う。…思うのだけれどその後の片付けや弁償や責任の事を考えてしまうと、とても実行は出来ない。
このままこの小さな苛立ちを騙して宥めすかして、俺は二年をここで過ごせるだろうか。
このままだらだらして、毎日ぐたぐたになって、だれかが『この巫子はふさわしくありません、不適格です。そもそも巫子ではありません』そう言ってこの美しい星養宮から俺を摘みだして、セルカに強制送還してくれないかなぁ。でも替わりにセルカで技術提供を受けてる人達は困っちゃうか…。
もしも、俺がセルカに帰らずに行方知れずになったら…どうなるかな。レベリオで行方不明になれば、レベリオの過失で…そのまま削岩機やドリル重機なんかをセルカに貸し続けてくれないかな…無理かな。駄目かな。
レベリオで死んだらどうだろう?
レベリオで預かった巫子が殺されたら、重大な過失だよね?問題は、そんなにひょいひょいと殺してくれるような殺し屋さんがその辺にいる訳がないと言うことだった。
それにそんな事になったら、ヘベスや星養宮にいる人達も、名ばかりで護衛に任命された人も迷惑を被るだろう。
俺がそんな馬鹿な事を考えていると、がっちゃんと珍しく音がした。
「巫子様、本日はお食事をこちらにお持ちしました」
お茶用ではない銀のワゴンを部屋の入口に置いてヘベスは言った。
「…ねぇ、今日はなんで怒らないの?」
アルコーブベッドの上でだらりと横になったままヘベスに声をかける。
「お身体が辛い時までそんなことは言いませんよ」
テーブルにいくつか並べてから、ヘベスはベッドの脇に来た。
「あちらへお抱きして運びましょうか?」
ヘベスはきっと、彼がそう言えば俺がすごすごといつものように行進すると思っているに違いなかった。
俺は、ん、と持っていたふわふわのクッションをヘベスに押し付けた。
流石に寝ていては持ち上げづらいだろうと思い、アルコーブベッドの端に腰かけて、幼い子供が父母に抱っこをねだるように両手を突き出した。
ヘベスは一瞬だけ!?と目を泳がせたけれど、楽々と俺を抱え上げた。
木にしがみつく子守熊…袋熊だったかな。
そのなんとか熊と同じようにヘベスにしがみつく。ヘベスが俺を柔らかいソファーの上に下ろしても、俺はまだヘベスから手を離さなかった。
「…俺はね、今日から堕落して、堕落した巫子になって、ヘベスを顎でこきつかうんだ」
俺がヘベスに持たせたままのクッションに顔を埋めて言うとヘベスは笑っていた。
「では本日ヘベスは堕落した巫子様の、堕落した側仕えになるわけですね。かしこまりました。それでは記念すべき最初の堕落した夕食をどうぞお召し上がりください。お好きなものばかりですよ」
俺が手を離すと、クッションを脇にやり、ヘベスは机の上の銀色の蓋を取った。
「最初は巫子がお好きな海老を使った一口のお楽しみですよ」
皿の上に並べられた小さな料理を、ヘベスは長い指で摘んだ。
「こちらは新鮮な海老とじっくり漬け込んだオイルサーディンのカナッペですね。巫子、お上がりになりますか?」
俺は頷いて口を開けた。
ヘベスはそれを摘んで俺の鼻先へ運び、鼻先をつんとかすめると、優雅に旋回して自分の口へ運んだ。
俺のエビが、ヘベスの口の中へ入ってしまった。
むしゃむしゃ…ではない。なんかもっと優艶に口元が動く。
銀縁の眼鏡の奥で瞳が笑う。
「…私も堕落した巫子にお仕えする、誇り高き堕落した側仕えですので、心置きなく堕落しようとこのように振舞う所存でございます。はい。この海老、大変おいしゅうございますね」
あ!あぁぁぁぁ!!俺のエビ…。
「ああ、こちらの赤いのは、じゃがいもを生クリームで滑らかにして炙った鰹の薄切りで包んだものでございますね。これもまた美味な。巫子様、このヘベス堕落しても真面目に毒見を行いますのでどうぞご安心を。あああまりに小さくて、巫子様が食べる分があるかどうか…」
もう!俺はヘベスの手を待たずに摘んだ料理を口の中に放りこんだ。帆立の上にバターがじゅわっと染みた何かが乗っている。美味い。
ミルフィオリみたいな色鮮やかな野菜のテリーヌも口に放りこむ。それぞれのさっくりとした食感の後にじゅわっと野菜の甘みが広がる。
ちゃんと、巫子様の分もございますよ、とヘベスはもう一個の銀色の蓋を取った。
あ、エビがある。
キッシュもテリーヌもパイもどれも、一口で収まる大きさに作ってあった。
そのどれもが美味しそうだ。
「堕落と言えばお酒でございましょう。なんと料理長秘蔵のお酒がございます。巫子様がお好きそうな柑橘酒でございます」
ヘベスは美術館に飾ってあってもおかしくないような透明な美しい細工の小さなガラスの器に黄色い果実酒を注いだ。
檸檬、蜜柑、ジュースみたいな甘い桃の酒。
順番など構わずにいただきましょうかと、皿の蓋は取られ、ヘベスは私はこれが一等好きですね、と小さなパイの包みを取った。今度は上品とは無縁にがぶっと一口齧る。
中には牡蠣のコンフィと半熟の鶉の卵。
牡蠣のコンフィの油の中なら泳げる気が致しますと、半熟卵と一緒にちゅるっと啜る。
ヘベスが牡蠣に魅了されている間に、俺は人参とアスパラが星みたいに散らされた小さなミートローフを食べた。塊の肉は好きじゃないけど、こういうのは好きだ。これも食べやすくて美味しい。優しい味がする。アスパラとソラマメを摘む。好きなんだ、これ。
ヘベスが食べていた牡蠣のパイは、牡蠣のむにゅっとした食感に戸惑った。う、ちょっと苦手かも…
鶉の卵はいいよ、でもこれどうしようと思うと、目があったヘベスが俺の手から食べかけの牡蠣のパイをするっと持って行った。
「ああ、主のものを奪い取るのも堕落の神髄でしょうかね」
オイルを舐めたヘベスの舌が赤くてどきっとする。なんだかヘベスには色が無いような気がしてたんだけど。
折角作ってくれたものが無駄にならなくて良かったと俺は笑う。
小さく作ってあるのでいつもより色んな味を楽しめた。
美味しいと思っている間は辛いことは隠れてしまうんだなとしみじみする。
蜜柑のお酒を飲みながら、またヘベスが出してくれたナッツの乗ったチョコレートを食べる。
セルカで食べたことのあるざらっとしたチョコレートではなくて、口の中に入れたとたんチョコレートがふわっと溶けていく。硬いナッツは歯でさっくりと割れる。いくらでも食べれる。やばい。
蜜柑のお酒、甘味の少ない檸檬のお酒、最後にとろりと甘い桃のお酒。
おかしいな、お酒を飲むと饒舌になると誰かが言っていたような気がするのに。市場のおっちゃんかな?
なんだか瞼が重くなるだけで、うまく話せるわけでも多くしゃべれるようになるでもないようだ。
「…俺は、堕落したので風呂にも入らずここで寝ます。おやすみヘベス」
幸いなことに俺の愛用のクッションはそこにあるし、ソファーは俺が横になっても支えてくれる広さがある。
「堕落したヘベスは反逆しますよ。ここで寝るのはいけません」
ヘベスは簡単に俺を横抱きにして広いベッドの上に横たえてしまった。
それからあのクッションを俺の胸元に持ってきてくれた。
「ねぇヘベス…俺は殿下が行っちゃって寂しいんじゃないよ…」
食器の片付けを始めたヘベスの背に語り掛ける。
「…わかってもらえないからだよ。…わかる?…わかってもらえないからだよ」
俺はね、みんなの好意に値しないよ、だからこんなに良くしてもらっちゃいけないと思うんだ。もう、すぐにでもこの星養宮からごみみたいに摘まみだして路地裏とかどこかへやるべきなんだよ。だからこんな広々したベッドで寝ちゃいけないんだよ。ここはきっと他のもっとちゃんとした人が使う場所だから。俺は俺にふさわしい場所へ行かなくちゃ。
俺は眠いけどそんな事を訴えたように思う。
「巫子様が捨てられてしまったら、私もクビになりますね」
ヘベスは何でもないことのようにのんびりとした声で言った。
俺が捨てられても、ヘベスはクビにならないよ。ヘベスは何でもできるから、新しい巫子が迎えられたら新しい巫子にお仕えするんだよ。
ワゴンも何もかもみんな片付けてしまったのか、部屋は静かになった。
「堕落した側仕えはきっと雇ってもらえませんから、ここをクビになりますよ。そうしたら路地裏かどこかで良い拾い物をしたとエヌ様を拾って家に帰って私の物にするから良いんですよ。それからここを出たら一緒に世界旅行へ行く予定ですからね、忘れてはいけませんよ」
上掛けを引き上げられて、肩まで包まれ、灯りが消されて暗くなり、本当に静かになった。
「巫子様、きょうのこれは堕落したではなくて、いつもよりほんの少し多く食事を召し上がられただけのことです。もっと自由にわがままにお過ごしになっても良いのですよ…」
堕落するのは難しいことなんだな。それから聞き過ごそうとしたけれど俺は誰かの物になるということを考えて、少しぞくぞくした。
俺の瞼は果敢に抗おうとしたけれど引力という誰も抗えない不思議なものに引かれて落ちてしまった。
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