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過去
しおりを挟むふわふわと雲の間を漂うように良い気持ちでいたのに翼が折れたように落ちた。手がそこに触れたせいで思い出してしまった。
『この災を呼ぶ口は閉じていなさい』
『描いてはいけないと言っただろう』
先代は優しくて、感情に任せて荒れることをしない方だった。俺の中の誰かの記憶が語りだし、描きだしたりすると家の中にいる時はある程度は許してくれた。
相槌をうって聞いてくれることさえあった。あの場所は、水が出るのと言って褒められた事もあったように思う。
だが彼以外の前でその片鱗が溢れると静かにだが強く掴まれる。
そこで俺ははっとなって、口を噤んだり、地面に枝で描いた絵を足で消したりした。
そんな日の晩はいつも苦いクレソンと辛い玉ねぎのスープか、千切りになったセロリに塩を振っただけの山のようなサラダだった。
どちらも嫌いだった。
俺は先代にごめんなさいと謝り、次からはきっと気をつけますと言って二人でその夕食を黙々と取るのだ。
俺は大好きな先代に嫌な思いをさせたくないと相当頑張ったように思うがそこは子供なので興奮したり上機嫌になっては幾度も失敗し、先代に、何度筋だらけのセロリを食べさせたかもしれない…。
先代が烈火の如く怒ったのは一度だけ。
朝目覚めて、汚れた下着と下肢の間をどうして良いか分からずそれを持ったまま先代の部屋に入った時だ。
「汚らわしい!巫子となるものがなんという汚らわしい」
先代は俺の髪を掴んで引きずるように街の蒸し風呂に連れて行き、そこで働く男に念入りに洗うように、そして着ているものは浴場のかまどで燃やしてしまうようにと告げて俺を置いていった。
前に水をかけられ、蒸し風呂で汗を少しかき、男にヘラで全身を擦られ、その間中俺は先代に捨てられてしまったのではないかと怯えていた。
俺の服を買って戻って来た先代は隣の小部屋で、香草を器に入れて火を焚いて部屋が白くなるほど煙を出した。そして煙でむせる俺をそこに立たせると葉っぱのついた枝で俺を叩きはじめた。
先代は神に祈りながら、俺の罪をお許しくださいと言って俺を叩いた。
俺はもうただこわくて、こわくて、意味も良く分からないまま泣きながら慈悲を乞うた。
先代に許してほしくて泣いた。
香草を粉にしたものを体にも塗られ、もう決してこんな風になってはいけない。心の正しい巫子は決してこんな事にはならないのだと先代は俺に諭した。
先代は生まれてから一度もこのように汚れた事もなく、淫行に耽けることもなく、女性と交わることもなく巫子として汚れない正しい勤めを果たして来たのだから、エヌお前もそうで無くてならないと言った。
何故今そんなことを思い出すんだろう…。
暗いのに目が覚める。
天蓋の縫い取りの星も見えない。
ひどく汗をかいて、よごれている。よごれてはいけない場所が汚れている。
ベッドから足を下ろした。
絨毯の毛足が長いせいで、音がしなくて良かった。
ランプはつけない。
ベッドサイドに置いた銀の鈴を鳴らしたら、きっとすぐにへベスが来てくれるのだろう。
真夜中でも、明け方でも…。だから鳴らさない。
静かに静かに歩く。
セルカと違って、レベリオは水が豊かだから、いつだって好きな時にシャワーを浴びれる。
驚いた事に、一階にも二階にも風呂の設備がある。シャワーも湯船もある。
変わった形のハンドルを捻ると勢いよく水が噴き出た。
冷たかった。それで良かった。
服の上から水を当てて、ズボンをめくってさらに流した。
ずっともうずっとこんなことはなかったのに。
先代、ごめんなさい。堕落するなどと言ったから、俺の身体はだめになってしまったのかもしれません。
でも、先代、もういいですよね?
もうあなたは天国にいて永遠に汚れる事がないのだから。
ごめんなさい、俺の身体がおかしくなっても許してください。
濡れた服をびしゃと脱いで、水を浴び続ける。
香草がないから、いつもは使わない香りの強い石鹸を身体中に擦り付けた。頭の先から足の指の間まで石鹸と石鹸の泡を擦り付けて、かけてあった布でこすった。
髪が悪魔の笑い声のようにキシキシとした感触になる。このまま角が生えて牙や爪が伸びて、蝙蝠のような羽が生えたら本当に堕落したと割り切って何処へでも落ちて行くのに。
泡を洗い落として、身体を見る。肌の上で水が弾ける。
何も変わっていないように見える。
巫子に、巫子と誰が見てもわかるような烙印が押してあるべきだ。
あるいは汚れていたら、堕落したらすぐわかるような印が。
立ち尽くす俺の背中にふんわりと柔らかいものがかけられる。
髪から滴る雫を遮るように、頭にもタオルを被せられる。
「どうして、起きてるんだ…」
せっかく銀の鈴も使わず、起こさないように水を浴びたのに。
「…新しいバスローブの着心地をお聞きしたくなったのかもしれません」
「こんな夜中なのに」
「そうですね、こんな夜中なので気になりました」
へベスの手が後ろから俺の頭を拭いた。
前にもこんな事があったなと思って、そうだ。あれはゼルドさ…んが白い布を持って来てくれて、俺の頭を拭こうとしてくれたんだった。恥ずかしくて自分で拭いたけど。
俺の濡れた身体を包んでいたコートに変な臭いがつかないかと焦っていたら、オレンジの香りと花と森が混じったような良い香りがしたんだった。
どうして今こんな事を思い出すんだろう。
俺は自分の手首の匂いをかいだ…。
花っぽいような香りがする。うまく言えないけれど、高そうな石鹸の香りだった。
「…へベス、オレンジの香りがする石鹸てある?」
「明日ご用意いたします」
へベスは遠慮がちにバスローブの上から俺の身体を押さえて水滴を拭った。
てっきりこのまま寝るのかと思ったら、バスローブは身体を拭くもので寝巻とは違うらしい。
髪をしっかり拭ってから、へベスが用意してくれた寝巻を着た。
「あの服、汚れちゃったから捨てて」
「……はい」
へベスは珍しく奥歯に物の挟まったような返事をして、何か言いたいようだった。
このまま横になって目を瞑ると、怒った先代が葉っぱのついた枝を持って俺を叩きに来そうな気がするのはどうしてだろう。
ベッドはもう何事もなかったように綺麗に整えられていた。
ヘベスの手が俺をベッドに寝かしつけ、上掛けを引き上げる。
「…俺、ちゃんと洗ったからどこも汚れていないよね?きれいになってるよね」
「どこも汚れていませんよ、さぁもう休みましょう」
へベスは小さい子にするように俺の頭と髪に唇をつけた。
唇をつけて欲しい場所はそこじゃないと、言う事ができない俺は堕落しているのかな?
「何かありましたら、すぐに鈴を鳴らしてください」
夜中、ずっと鈴を鳴らし続けたら側にいてくれるのかな?
これは多分、いけない事なんだ。へベスでなくてはいけない、そういう気持ちにならないと…。
暗い中に消えていく広い背中を見つめる。
暗闇の中で先代はどうやって耐えたのだろうとぼんやりと考えた。
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