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偽物でいい
しおりを挟む唇が離れて、そこでこれが初めてじゃない事を思い出した。
あまり思い出したくない思い出の中で、殺鼠剤みたいなピンク色のどろっとした液体とともに、唇がついていた。
ゼルドさんが口移しで俺に液体の酔い止めを飲ませたのが初めてのキスだった。
あれをキスと呼んでいいなら。
嘔吐物と酔い止めの甘いような苦いような味に支配されたものがキスならば。
あ、俺ってちょっと可哀そうって思ってしまった。今更ながらゼルドさんも気の毒に。こんなのとちゅーしなくちゃいけなかったなんて。
俺のせいでごめんなさい。
俺の気持ちが逸れている間に、ヘベスの唇が離れて、二回目のキスが襲ってきた。
さっきのが舌先がちょっとだけ入る感じだったのに、今のは口の中を探すように動いて、口蓋を撫でられるようにされるとふ、んって自分でも恥ずかしいくらいの変な声が出た。
ヘベスのダークブラウンの瞳は影の中で深みのある黒に見えた。
いつも背中で三編みにされている髪は、カーブもなく真っ直ぐするりと流れ落ちる。髪も黒髪に見えてしまう。
ゆっくり息ができるようになると、ヘベスからはやっぱりオレンジの香りがする。オレンジと少しのミントの香り。
おかしいよ、ヘベスからこの香りがするのは変だよ、駄目だよ。これじゃぁまるで…。
ランプを点けたくて左手を伸ばした。
逃げようとしたようにヘベスには見えたのか、彼は俺の手首を軽く押さえた。
「ヘベス、ランプを点けたいだけ。オレンジのリラのやつ」
広いベッドの真ん中にいたから、ランプの位置が遠すぎて、ベッドから降りなければ点けられない。彼の躊躇いが肌から伝わった。
「逃げないから、ランプちっちゃいの点けて、天蓋はおろして」
身体から重みと熱が離れて、ベッドサイドのリラのランプが優しいオレンジ色の光を灯した。天蓋を下ろすと、不思議な感じにリラの花影と銀の星の縫い取りが光る。
小さなランプを点けるだけで、そこにいるのは紛れもなくヘベスだった。こうして見るとゼルドさ…んに似てなくて俺は何だかほっとした。似せなくて良いんだ。
ベッドに上がり俺の上に両手をつくへベスを見上げる。
のみで彫ったようにくっきりと見事な形の唇は、今は一文字に引き結ばれている。
その唇から出る言葉が、怖かった。
俺達は唇を見つめあって、お互いに何を言い出すのか怯えているみたいだった。
「…へベスはオレンジの香、禁止」
「どうしてですか?」
「…眉間に皺を寄せるのもだめ」
俺は手を伸ばしてへベスの眉間の皺を指先で伸ばすように撫でた。
「どうしてですか?」
その時のへベスの声は掠れていて、心の中の懊悩が初めて現れたように俺には思えた。
「俺が、おかしくなっちゃうから」
俺の耳朶にそっと唇を押し付けて、おかしくなってくださいと彼は囁いた。そうやって少し近づいただけで、熱を感じる。その熱が離れていってしまうことが寂しい。
俺の頭の中では、もしへベスがいなくなったらどうなるんだろうと考えていた。
もし彼が辞めてしまって星養宮を出て行ってしまったら、誰が俺をここから遠くへ連れて行ってくれるだろうか。
世界旅行なんて行けなくて良いんだ。
ずっと手を離さないで側にいてくれる人が、他にいるだろうか…。
「…ベッドの上で巫子様って呼ぶのもだめ、誰かの真似をするのもだめ、へベスはへベスでいてくれないと、だめ」
眉間を撫でていた手を頭や髪に滑らせる。耳の付け根から首筋にかけてゆっくりと手を這わせると、へベスの喉がゆっくりと動いたのが見えた。そこに唇をつけて舐めたら、へベスはどんな顔をするだろう…。
先代の言葉に怯えていた俺はどこへ行ったのか。
くっきりとした鎖骨やその窪みや、厚みのある胸に触れたら、へベスはどうなるんだろうと、それはきっと俺があの本を読んだからこそ思う変化だった。こんな事を考えるのはいけない事だったのに。
視線を向けると、へベスは待てと言われた従順な犬のように俺を見つめていた。
へベスのシャツの胸で一箇所結ばれていた部分を解く。へベスは動かない。
俺は、だめ、ってばかり言っているなとふと思って、エヌって呼んでと小さく呟いた。
エヌ、エヌ…俺の名前を呼んで、へベスはさっき触れたのとは反対の耳に触れた。俺の肩と首がひゃん、と震えた。
右と左の触れられる感覚が違って俺が戸惑い驚いている間に、へベスの唇は耳の付け根あたりを吸って、俺の着ている服の襟に指をかけた。
彼の指先が鋭い刃物になったように、ペールブルーの服が開かれていく。脱がすためにあるような服だった。
へベスはずるい。
この服を渡す時から、へベスはこうなるのを考えていたのかな?
俺はもう一度へベスを見上げる。オレンジ色の柔らかい光に半分照らされて、聖人のような顔をしている。
ずるい、へベスはずるい。
もっと色欲に塗れた獣みたいな顔をすべきだ。
暗闇の中で無理矢理カマルを奪ったザラムのように。灯りを点けたのは間違いだったかもしれなかった。でも俺は幻か誰かわからぬ姿を思い浮かべるより、明るい中でへベスに触れてもらう方が良かった。
だから彼の首を引き寄せて、小さな声でさわって、とお願いした。
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