異端の巫子

小目出鯛太郎

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罰のかわりに

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 目の前に山盛りのセロリのサラダか、苦いクレソンのスープがあれば良いのに。もしくはここに、セルカの蒸風呂で使われたあの枝があったら、それで俺を打ち据えてくれたらいいのに。

 それはわかりやすい罰だった。

 殴るなり蹴るなり打ち払うなり、何かわかりやすい仕草で怒りを示してくれれば良いのに、へベスは無表情だった。へベスが怒ってくれたらいいのに。俺はそれを言えない。




『溢れたミルクを嘆いても仕方ない』という諺が生々しく俺の中に頭に飛来した。



 はい、先生。ミルクタンクは空っぽです。
 たくさんこぼして、空になって、たくさん注がれました。


 俺の心をさらに重くさせたのは、俺がそれを楽しんだ事だった。
 いけないと思った心もあったけれど、俺はシェスとの行為を楽しみ、欲しがった。


 シェスが作る声色は、低い囁きは、俺が諦めることのできないゼルドさんの声そのもので、彼が決して言うことのない愛の囁きや卑猥な言葉は俺の肉体を瞬時に熱くさせ、シェスの巧みな愛撫は簡単に俺を狂わせた。


 へベスの指と唇しか知らなかった場所にシェスを受け入れて、俺は喜んだよ。
 初めてだったのにね。


 お互いを見ていなくても優しくされて、抱きしめられて、繋がっていると、俺は愛されているような気になって自分の心の乾いてひび割れた部分が満たされるように思えた。



 へベスに優しくされていた時だって、俺は喜んだけれど。
 
 シェスに抱かれてへベスとの違いを実感した。


 へベスは俺を抱きしめることは出来ても、交わることは出来ない。へベスが俺と比較にならないほど男らしい体つきをしていても、強化体となったへベスに形だけの男根はあっても、それは機能しない。


『機能しなくても欲望は消えない…』と言ったのはへベス自身だった。あの日へベスの隠された劣等感の原因となる部位を晒した。俺が初めてへベスの強化体の性器に触れて、好きだよって思いをこめていっぱい舐めたりキスしたりした。

 お互いの性器を愛撫して慰めて満たされたように見えて……お互いに満たされていなかったんだ。


 もし俺とへベスがあの時に満ちたりていたら、二人の間にこんな距離は出来なかっただろう。もし心から満たされていたならハティの事を差し引いてももっと穏やかな形で寄り添えた筈だ。



 悪いのは俺なんだ。


 シェスに抱かれた事で、決定的な事がわかるなんて。
 抱きしめられるだけじゃ足りなかったなんて。


 身体の奥にシェスの熱を感じて、律動に揺らされて快感に喘いで。何年も水脈を探して地面を掘る仕事をしていたのに掘られる方が好きだなんて、そんな馬鹿な事、笑い話にもならない。でもそれが事実だった。


 俺の身体は抱かれたがって、深く繋がることに歓喜した。
 へベスと寝た時より深く充溢して、満たされるように思えたことがへベスへの裏切りのように思えた。

 
 俺が何も感じない石の身体になればいいのに。
 何も誰も感じとることのできないように心も身体も石だったら良かったのに。


「私に謝る必要はありません」

 
 へベスは床から一枚の紙切れを拾い上げた。

 シェスが持って来た雇用契約書だ。


「これはどうするおつもりですか」

 俺に尋ねる声は冷静で、何の感情も伺えない。ただへベスが手にした紙は燃え上がりそうに見えたのは、そうあって欲しいと思う俺の願望が見せる幻だった。


 もし、シェスの囁く声がゼルドさんと同じ声をしていなかったら、その紙をへベスの前で破り捨てる事ができたのに。
 視線を向けるとシェスは腹ただしいほど平然と微笑んでいた。


 俺が承諾することを確信しきった表情だった。『エヌ、また抱かれたいだろう?』
 へベスに見えない位置からシェスの唇だけがゆっくりと動いた。


 俺は泣きたくなった。
 見えずに背後から突かれて揺らされて、中をかき回されると、乱れた息遣いも身体中で動いて脈打つ熱の塊も絡みつく手も俺にとってはみんなシェスじゃなくてゼルドさんのものだった。
 俺が一度知った代用品それを捨てられるはずがなかった。


 あの紙を捨てて、なんてへベスに言えなかった。


「……ルゥカーフが長く星養宮にいるより………シェスの方がいい……」


 それが俺の答えになってしまった。



「私は家宰の真似事はできませんから、あくまで護衛の延長線ですよ?」
 


 へベスは紙を持ったまま机に向かい、多分サインか何かをしたようだった。そして立ち去り際にそれをシェスに投げつけた。
「あなたが提出してください。…私は他に済ませなくていけない用事があるので失礼します」



 へベスは俺を振り返りもせず足音も無く部屋から出て行った。


 毛足の長い絨毯に座り込んだままのシェスは、そのまま背中から倒れるように絨毯に転がった。

やっこさん、エヌのサインが入ったものを渡されるのが嫌だったんだろうな」


 俺はシェスが言った意味がよく分からなかった。
「どう言う事?」

「平たく云うと、これからもう一人愛人を増やすねって恋しい相手に言われるようなものだってこと」


 俺はその言葉を胸中で反芻した。
 俺とへベスは恋人同士なんかじゃない。普通の主従でもない。
 例えようのない関係の中に性的なものがあった。


 あの時に、スーツケースの中に入れて連れて行ってなんて言わなければ良かった。俺の寂しさと甘えと依存心が悪い。節操のない俺が悪いよ…。


 俺の寂しさを埋めてくれる相手を求めて、へベスでなくても俺は縋り付いただろう。



 へベスは何事もなかったように振る舞った。儀礼的に微笑みかけ星養宮を整え、週の半分はハティの所へ向かう。変わったのは俺に触れなくなった事だけだった。

 このままだとへベスの感触を忘れてしまいそうだった。でもへベスが望んでいることはそれかもしれなかった。
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