鬼の名語り

小目出鯛太郎

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見ずは恋しと思はましやは

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 濡れると落ち着かないと、手を引かれて雨を避けられる場所まで案内された。剥きだしの岩面の他には何もない寂しい場所だった。此処に格子があれば、石牢かと思っただろう。


 岩館いわだてが着物の袖で朽木くちきの顔と髪を拭う。
「飛ぶのははじめてだろう?驚いたよ。どうしたんだ」


 朽木は岩館に縋りつき、胸いっぱいに岩館のにおいを吸い込んだ。
 そのまま仔猫のように胸に頭をこすりつける。

 
 朽木は話すことも、相手の目を見ることも苦手だった。相手が岩館であってもすらすらと話せる訳ではない。

 そのまま何もない石の床に二人は座り岩館の長い指が朽木の髪を梳き、一房を耳の後ろに流した。
「ん、どうした?寂しくなったのか、どこか痛いのか」


 ずうっとこのままでいられないかな、と朽木は思った。ぴったりとくっついて、髪を撫でられて優しい声を聞いて、他には何もいらないから。

「…頭領が、もう番をもてるだろうって、部屋を…それで、こわくて、それでにげてきた、の」


「…そうか…」
 返ってきた言葉はそれだけだった。ぎゅうっと抱きしめられる。

「つがいはいらないといったけれど、聞いてもらえなかった…」

 抱きしめられたままなだめるように髪を撫でられる。岩館もまた雄弁というわけではなくどちらかと言えば寡黙なたちだ。その岩館の言い淀む気配が朽木に伝わった。

「……つがいを持つのは嫌か」

 朽木は黙って頷いた。

かがりの事があったから、余計に辛く思えるのだろう」

 岩館の腕の中にいてさえ、その名を聞くと朽木の身体は震える。

「…おれは、かがりのことがなくても」

 言葉の途中で、ゆっくりと唇を押さえられた。人差し指で唇をかるくかるくたたかれた。

「おれ、ではないだろう…。わたし、と言いなさい。なかなか治らないな、その言い方は」

 下唇を指で摘まれて、朽木は泣きたくなった。大声で泣き叫びたくなった。自分を指す呼称がおれ、であれわたしであれ、そんなことは今どうでも良いことだった。番の話をしているのに、まるで何でも無い事のように違う話をされて、泣いて暴れたくなった。泣かなかったのは困らせたくなかったからだ。泣いても何も変わらない事が良く分かっていたからだ。

 では、ただ話を聞いてもらいたかっただけなのか…。

 ただそうか、そうかと聞いて欲しかっただけなのか?

 
 助けてと言って、金剛への口添えをもらい猶予を稼ぎたかったのか……それも違う。


 朽木の手は、ぐっと岩館の着物の背を掴んだ。

 俺の元へ来いと言って欲しかった。俺のものになれと言って欲しかった。俺と番になろうと言って欲しかった。
 
 いつもぼうっとして、物を覚えていられない朽木の手をいつもしっかり掴んでいてくれていたのは岩館だったから。上から見下ろし優しく微笑みかけてくれたのも岩館だったから、誰よりも長く側にいてくれたから、朽木は、すっかり勘違いをしていた…。

 
「誰が、朽木の番になるのかな。この里の若手であれば…篝か、はやてか。同族であれば此処からは遠いが杉と銀杏がずっと見合いの相手を求めていたな、奴らはもう大き過ぎて歩けぬから」


 岩館の優しい声が降ってきた。
 雨音より静かに、囁きより強く、朽木の先の未来の事を呟く。


 皿なら落とせば、ぱりんと壊れた音がする。心の壊れる音はないのかと朽木は思った。


 何処か遠くで雷鳴が響く。ああ、あのいかづちの音に紛れて心が壊れる音は聞こえなかったのだ、そう思うしかなかった。



 番として、岩館に望まれてはいなかった。その事が分かれば、此処には居てはいけない。最後が泣いて暴れて迷惑をかける存在おもひであってはならない。もう嵐を待つことも恐れる事もない。飛び込んで雷で頭から裂いて貰えればそれで朽木の世界は綺麗に終わる。

 朽木はぎゅうぎゅうと力いっぱい岩館にしがみつき頭を擦りつけた。そしてゆっくり手を離す。やはり名残り惜しくて岩館の手を取ると額づいた。


「…いままでながく、おせわいただきありがとうございました」


 すき

 たった二つの音を相手に伝える事が出来ない。

 誰か想う相手はいないのか?誰か会いたいと思う相手はいないのか?心から慕う相手はいないのか?金剛や鋼に、いる、とさえ言えなかったのだ。当人に言えるはずもなかった。


「…番の相手と幸せに健やかに暮らせ」
 頭の上に唇が触れた気がした。


「送る」
 外は雨足が強くなり岩から跳ねた水滴が簾のようになっていた。

「あの場所へ送ると言わないでください」


 岩館の腕の中が、朽木の帰る場所だった。あの格子扉の中に岩館の手で送られたら、朽木の望む終わりは得られない。

 雨の中に進み出た。足元は硬い岩肌で、雨水がさらさらと流れてゆく。

 
 振り返り見送る姿が無いのを確認すると、朽木の身体から力が抜けた。
 岩肌がそこで途切れてしまう。あと一歩脚を踏み出せばそれでもう縁もなにもかも途切れてしまう気がして朽木は、未練がましく振り返った。
「好きだ、岩館が好きだ」

 さぁ、これで後は雷が輝く場所を目指せば良い。

 朽木は、足を踏み出した。
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