鬼の名語り

小目出鯛太郎

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いののいはいや

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 あっ!と朽木くちきは飛び起きた。
失敗した。昨日は障子戸の紙が黒いうちに目覚めたのに、今朝はもう白い。真っ白だった。寝坊した。
隣を見ればはがねの布団はもう脇に片付けてある。

 布団を三つにたたんで壁に押しやると、朽木はからりと戸を開けた。

「おはよう、夜更かしをするから朝起きられないのだぞ。朝一番ではなくなってしまったな」

「おはようございます、お習字します」

 庭の泰山木たいさんぼくの陰にたたずんでいた鋼は、起きていのいちばんに習字かと呟いた。


 いの、と聞いた朽木は体が冷たくなるような震えに怯えたようになり、それを見た鋼がどうしたと聞く。

 いの嫌いと朽木は答えた。朽木のおぼろげな記憶の中でそれは恐ろしい生き物だった。毛むくじゃらで大きく重く痛く苦しく赤く黒い。なのにその後に続く記憶は青空だ。何故か地べたに転がって青空を見上げている。朽木はふるりと首を振った。

いのは俺が打ち払うから、恐れてここへは来ない。さぁこの枝を手に持って」

 鋼は枝葉を落とし棒状になった短い木の枝を朽木に手渡した。


「あれ?あのきれいな箱は使わないの?」
「紙があまりなかったからな、朽木が字の形を覚えたらあれを使うぞ」

 庭の地面は綺麗にならされていて、鋼はしゃがむと『岩』と枝で書いた。
 朽木にとってはかくかくとした線の集まりに見えた。
「これは難しいか?ではこう書くぞ」

 よほど朽木の表情が難しい、と訴えていたのだろう。

 鋼は『い』『わ』 と地面の上に書いた。

 朽木は鋼の手を真似て、隣で初めて字を書いてみた。い、の字は良くできた。鋼も褒める。しかし次のわの字は丸みのある部分が右上がりに尖ってしまった。
 
 途切れる、丸みが大きくなりすぎる、手に力が入る。
「さぁ、朽木一度手の力を抜いて、一緒に書くぞ」

 朽木の枝を持った手を、鋼が上から包むように掴んだ。
 鋼の書いた字をなぞり、それから成らされた地面に手を掴まれてわの字を書いた。
 縦線はまっすぐに、短い横線、そこから斜め下に下がって、最後はふわっと丸くなる。

 手を離されて、二度、三度書くとちゃんと文字になっていた。

 嬉しさに出来た!と横を見れば、鋼は優しい表情かお微笑わらっていた。

「さ、まだまだ書くぞ。次は『館』、『だ』と『て』になるぞ」
 
 朽木は地面に書かれた字を真剣に見つめて、なぞった。


 
 その日、道具の準備は鋼がしてくれて墨をつけた筆で半紙に『いわだて』と書いた。鋼が手本に書いてくれたものと比べると恥ずかしいが、これを届けてくれるという。

「朽木が憎くて閉じ込めているのではないぞ。嫌いで連れて行かぬのではないぞ。連れて行けばお前が金剛にかち割られてしまうからな…。良い子で大人しく待っているんだぞ」

 前と同じように足にかちりと枷を嵌められ、扉に鍵を掛けられる。
 朽木は悄然と項垂れたものの、前のように飛び跳ねて暴れたりはしなかった。



 

 
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