鬼神の都~退屈上皇と大神の花宮(はなみや)~

志麻友紀

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第二章 退屈上皇【二】

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 逃げなければと思うのに、足が動かない。人のものではない丸太のような太さの腕と、大きなかぎ爪の生えた手が、少女の怯えた顔へと近づいてくる。

 が、それは少女に触れる前に止まった。横から伸びた“白い手”が、闇の腕を掴んで止めた。光を帯びて浮かぶほど白い指が、ひと握りで“それ”の力を奪っていく。

 骨の折れるような鈍い音がして、闇の腕は白い指の一握りで力を失い、だらりと崩れ落ちた。バケモノはそれでもあきらめず、今度はその口をぐわりと開く。大きな頭が半分に割れて見えるほどの大口で、こちらを丸ごとのみ込もうとした。

 が、それも白い手が大きな頭をわしづかみにした瞬間、ぐにゃりと横へねじられる。骨のきしむような音とともに、バケモノの首は奇妙な角度に折れ曲がり、どさりと地面に倒れ伏した。

 あこぎは、己をかばうように前に立つ、すすけたうちきを頭からすっぽりとかぶった背に声をかけようとした。だが、新月の影に塗り潰されたその姿が、ふいにとん、と軽く彼女の身体を押した。

「え?」

 次の瞬間、二人のあいだに白刃の閃光が走る。狙われたのはあこぎではなく、もう一つの袿の影であった。

「俺の一の太刀を避けるか」

 低い美声が闇に落ちた。狩衣の背の高い男が、太刀を構えている。切っ先が向く先は、あこぎではない。――頭から袿を被った“白い手の主”だ。

 それを一つ、二つとうち払ったのは、白い手に握られた袙扇あこぎおうぎであった。

「この刃を扇で……ああ、違うか。風使いときたか」

 男が、わずかに感嘆をにじませてつぶやく。

 あこぎには見えなかったが、扇の周りには見えない風が渦を巻いていた。

 この状況をなんとかしなければ、あの方がこの武者に斬られてしまう。あこぎの小さな頭はその考えで一杯だった。

「違うのです! その方は、このあこぎを助けてくださいました! ここに倒れている、このバケモノから!」

「は?」

 男の動きがぴたりと止まる。

 狩衣の男の動きが止まると、袿姿の影は扇をかざして、ごう……と風を起こした。突然の突風に、狩衣の袖がはためき、あこぎもまた思わず肩をすくめる。

 同時に、頭から袿をかぶったその姿は、ふわりと宙へ舞い上がった。長袴の裾をひらひらとさせながら近くの築地塀つきじへいの上に軽々とおどり、さらには天女のごとく舞い上がって寝殿造りの屋根を飛び越え、その向こうへと消えていく。

「あの袿装束で、あれだけ動くとは……」

 妙に感嘆したような男の声が漏れる。

 男の言葉に被せるように、あこぎは「ありがとうございました」と深く頭を下げた。

「危ないところを、お助けいただきました」

「いや、助けたのは、今、去っていった者だろう?」

 たしかにそのとおりではあるが、あこぎの頭の中には、今この場を立ち去って、あの方のあとを追いかけることしか浮かんでいなかった。

「急いでいますので、これで!」

 ぺこりともう一度頭を下げるなり、あこぎは「おい」と呼び止める声を無視して、その場から駆け出した。

 胸の鼓動が早鐘のように鳴り続ける中、あこぎは一刻も早くこの場から遠ざかろうと、必死に足を動かした。

 それを呆然と見送っていた狩衣の男──貴仁は、「惟光」と名を呼んだ。「は、こちらに」と、一の従者はたちどころに傍らに片膝をつく。

「すでに管狐くだぎつねに、あの娘のあとを追わせております」

 管狐くだぎつねとは惟光の使い魔である。なにも言わずとも主人の意をくみ取る、なかなかに出来の良い従僕と言えた。貴仁が横目でちらりと見れば、惟光はニヤリと笑う。その顔は少々小ずるいが、狐とはだいたいこういうものだ。

 そして、貴仁は足下に転がるバケモノに目を落とす。名も持たぬ、それはこの都の闇が固まり育った、鬼のなり損ないであった。

「その首を一撃で折るか」

 まだ形を保っている闇の巨躯に太刀を静かに突き立てると、それは煙のごとくほどけ、霧散して消え失せた。

   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇

「強くて怖かったな……」

 真っ暗な屋敷に戻るなり、薫は座敷の真ん中にぺたりとへたり込んだ。

 さきほどまで張り詰めていた神経がふっとゆるみ、全身から力が抜けていく。

 決して外に出てはならないという父宮と母上の禁を破ったのは、あこぎが危なかったからだ。

 このよく聞こえる耳は、遠くから駆けてくる少女の聞き慣れた足音と、そしてそれを待ち構える闇の気配を、確かにとらえていたのだ。

 危ない──そう思うより早く、身体が自然に動いた。肩にかけていた袿を頭からかぶって顔を隠し、むぐらの生い茂る庭を一気に駆け抜け、崩れた築地塀を跳び越え、闇に紛れて駆けだしていた。

 間一髪であこぎを救うことは出来たものの、予想外だったのは、あの太刀の男である。なんとかしのぎ切ったが、あれは──。

 黒い瞳が、一瞬、金色へと変わって見えた。あのまま、あの目に射抜かれていたなら――。

「鬼神……」

 薫はかすれた声で呟いた。

 ぶるりと背筋が震える。そのとき、小さな足音が駆けてくる気配がして、薫は袿の袖をひるがえし、ぽう、ぽう、ぽう……と蛍火ほたるびを起こした。己は闇の中でも目が見えるが、あの幼い童女は慣れているとはいえ、真っ暗な中では痛んだ床につまずくこともある。

「宮様!」

 飛び込んできた少女は、床に座る薫のもとへ膝立ちでにじり寄ってくる。「もっと近くに」と呼び寄せ、うなだれたその頭を撫でてやり、涙に濡れた額髪ひたいがみをそっとかき分けた。

 蛍火に照らされ、頬を涙で濡らしたあこぎは、「申し訳ありません」と震える声で謝った。

「宮様に、六条の辻には近寄ってはならぬと仰せつかっていたのに……」

「うん。あこぎが無事でよかった」

 その言葉どおり、言いつけを破られた怒りなど、薫には微塵もなかった。ただただ、少女が生きて帰ってきたことへの安堵のほうがはるかに大きかった。

「頂いたお守りも、こんなことに……」

 彼女が、いささかくたびれてくたりとした汗衫かざみのふところから取り出したのは、黒く焦げ、ぼろぼろになった一枚のお札であった。薫がてづから作り、持たせたものだ。

「また書けばよい。それがそうなったのは、ちゃんと役に立った証だから」

「お優しい宮様……あこぎは一生、姫宮様に御仕え申し上げます」

 泣きじゃくる少女の頭に、薫は白い手をそっと伸ばして撫でた。






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