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第三章 葎屋敷【二】
しおりを挟むそのときにはすでに、この家に仕えるのは、門番と雑役を兼ねた老人が一人と、女房として仕える大叔母が一人という有様であった。その二人も、流行病の風邪で、ぱたぱたと一年ほど前に儚くなってしまった。
いよいよ生活に困窮し、あこぎは薫の暮らしを支えるため、外の御屋敷に昼間は奉公に出ることにした。女房見習いの女童として、見目も良く利発なあこぎは、このまま御屋敷に仕えぬか? と通い所のあちこちで声をかけられるが、すべて断り続けている。
優しい姫宮様を見捨てることなど出来ない。わたしがいなくなれば、この方のお世話を誰がするのだろう──
昨日の出来事を経て決意を新たにした、その翌夜である。崩れた門を強引に押し開けて横付けされた牛車を目にし、あこぎはぎょっとして、薫のもとへ走った。
「宮様、宮様、大変です! また、もの好きな、素性も知れぬ男が……!」
「おや、まあ困ったこと」
薫はおっとりとした口調で、扇で口許をそっと隠した。
「以前のように、垣間見をわざと許して欺くしかありませぬ」
「あこぎが前に言ってくれた、末摘花の姫のように?」
「そうです、そうです。お美しい宮様が、そのような噂を流されるのは口惜しゅうございますが……」
あこぎは悔しさに唇を噛みしめた。しかし、高貴な宮様を野良犬のような男どもから退けるには、この方法しかなかったのだ。
こんな葎の屋敷にも姫宮が一人住んでいると聞きつけ、やってきた好色な男がいた。それが、かの二条藤家の左大臣の末の息子であり、親の権勢をかさに来てやりたい放題と噂の男である。
十一のあこぎには、先に文一つよこしもせず押しかけてきたこの不作法な男とその供の者を、力ずくで追い返す術などない。そこで、一計を案じたのだ。
幼いながらも、あちこちの屋敷に女童として出入りしている。そこの女房達からこのような男達のあしらいも見て学んでいる。
薫に目眩ましを使ってもらい、“末摘花”のように見せる。――それが、唯一の手だった。
初め、「こうなったら致し方ありません、宮様、とびきりの醜女に化けてくださいませ」と頼めば、屋敷から出たことのない箱入りの薫は、首をかしげるばかりで「醜女様とは、どんな顔とお姿をしているの? あこぎ」と尋ねてくる。そのおっとりぶりに、さすが、わたしの姫宮様! と頬を染めて、ときめいている場合ではなかった。
「源氏に出てくる末摘花の姫です」と説明すれば、薫は「そう、あの方が醜女なの?」とこくりとうなずき、その通りの姿になられた。
あこぎがそ知らぬふりで男を案内する。男がそっと、すすけているどころか布の端が破れた几帳をめくると、ひと目見るなり後ずさりし、「今日は陰陽師の占いで方替えだ、方角が悪い」だのと言い出した。ならばなぜこの御屋敷に来たのだ? という見え透いた嘘をついて逃げていったのである。
あのあと、「葎の御殿に住むのは、とんだ醜女の化け物屋敷だ」と噂を流され、その悔しさにあこぎは唇を噛みしめたものだが──まさか、その話を聞いていそうなものなのに、再びやってくる馬鹿がいるとは。
しかし、牛車からおり立った二藍の直衣姿もあでやかな、その一目で高貴な公達とわかる姿に、あこぎは息を呑んだ。なにより、烏帽子の下からのぞくその美貌に。
これほどの方ならば、どこの屋敷の女房達でも噂でもちきりで、ときめく相手であろうに、あこぎにはとんと見当がつかなかった。通いどころの御屋敷の女房達の噂では、先年、春宮に若くして位を譲られた三条院様が、それはそれはもうとんでもない、触れたらこちらが斬れてしまいそうな美貌の方だと聞いているが──まさかね……と思う。
しかし、目の前の公達の放つ気配は、どこか「ただの美しさ」とは異なる、ぞくりとするほどの鋭さを孕んでいた。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
出迎えてくれた女童は、昨夜出会った男が貴仁であるとは、気づいていないようだった。利発そうな顔立ちをした、歳の頃十を少し過ぎたあたりの少女だ。
新月の暗闇では、こちらの顔などわかるはずもない。もっとも、夜目が利く貴仁には、なにもかも見えてはいたが。
「大変、内気な宮様です。今宵はお姿をそっと見られるだけで、ご無体なことはなされず、お帰りください」
しっかりしているというか、まるで年かさの女房のような口ぶりだ。「無体なことはなされず……」とは、女房たちの常套句だ。姫君のいる御帳台に案内するもしないも、仕えている女房の胸三寸なのだから、ここまで案内しておきながら、男がその気になれば、姫君に抵抗する手段などない。
それでも、少女のすすけた汗衫から覗く手はかすかに震えていた。生意気な口ぶりとは裏腹、緊張しているのだろうその姿に、貴仁の唇にかすかな笑みが浮かぶ。
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