「君を愛していくつもりだ」と言った夫には、他に愛する人がいる。

夏八木アオ

文字の大きさ
29 / 30
番外編

◆番外編:冬の小話

しおりを挟む
 とある冬の昼下がり、ヴェルディア公領の次期当主のノア、そして彼の妻イリスは、ソファに並んで座っていた。

 ノアは彼の隣で刺繍を楽しんでいる妻に目を向けた。イリスの場合は楽しむというよりは職人のような真剣な顔つきをしていて、その様子にノアの目元は緩む。

 ノアは本を開いたまま読むのをやめて、しばらくイリスの横顔を眺めていた。窓から日光が差し込み、透明な冬の明るさが部屋を満たす。

 几帳面に整えられたブロンドの髪に、隙のない美しい横顔。冬の明るい光に照らされた妻の姿は神々しささえ感じさせる。
 集中している彼女にちょっかいを出したら怒られるのは分かっていても、頬をつついてみたい気持ちが湧き上がってくる。
 ノアが一番嬉しいのは、イリスが声を出して笑いそうになって、声を抑えようとして、それでも隠しきれないくらい楽しそうに笑ってくれるときだ。しかし不機嫌な顔を見るのも好きだと思う。低い声で「ノア」と名前を呼ばれるのも、イリスに呼ばれるなら、悪くない。

「何よ?」
「へ?」

 じっとイリスを見つめていると、イリスの視線がノアに向いた。

「なんでもないよ。器用だなって思って見ていただけ。邪魔してごめん」

 ノアは正面に向き直って、読んでいない本のページをめくった。イリスは作業に戻らずにノアを見つめたまま口を開いた。

「貴方、なにか私に言いたいことがあるんじゃない?」
「え? 特にないと思うけど」
「よく考えて」

 ノアはイリスの言葉に首を傾げた。
 イリスは“ノアがなにか大切なことを伝えていない”ことに自信があるようで、彼の口が言葉を発することを疑わない顔をしている。

(本当に覚えがないんだけど! なにか怒らせるようなことしたかな?)

 ノアはここ数日のことを思い返そうとした。冬の間は雪による被害について騎士団とやりとりをすることが多いけれど、今年は去年までの策が功をなして公爵家まで話が上がってくるような被害はなかった。
 降星祭の準備も母とイリスが引き受けて、ノアは特に出る幕がなかった。

 そのほかの公務に関することは基本的に朝食を食べながらイリスに話している。伝えるべきことも、伝えなくてもいいことも、ノアはイリスに話したいと思ったら顔を合わせれば話してしまう。改めて言いたいことと言われても思いつかなかった。

「あ」

 その中で一つだけ忘れていたことがあり、ノアは表情を明るくした。

「分かった! メリソンの妹のところにいる羊の名前のことだね。今年最初の羊が産まれたらイリスに名前をつけてほしいって言われたのを忘れてた。ごめん。産まれたら教えてくれるって」
「え……?」

 ノアは使用人の顔を思い浮かべた。年末の降星祭の準備で手伝ってくれた使用人の妹が、イリスの刺繍作品と彼女自身に憧れて、羊の名前をつけてほしいと頼まれていたのだった。

「羊の名前ね。ヴェルディアの慣習を教えて」
「慣習なんてないよ。みんな適当」
「名前は一生背負うものだし、頼まれたのに適当なんて難しいわ」
「まぁ、確かに。あまり長すぎても呼びづらいかもしれないね。花の図案を見ながら決めるのはどう? 多分生まれるのは2月かな。もうすぐ春になろうっていう季節だよ。春が待ちどおしくなるような名前とか、冬の終わりを名残惜しむのもいいかも」
「そうね……ちょっと待って、この話は考えておくけれど、貴方の話ってそれなの?」
「話?」
「ここ最近私を見ていたでしょう。その理由が知りたいの」
「見てたっけ?」
「見てたじゃないの。今、ソファに座っていたときにもずっと視線を感じていたわよ」
「えっ、イリスってもしかして結構腕が立つの? ほかのことに集中しながら視線を感じるなんてすごいな」
「茶化さないで」

 イリスの瞳が不機嫌そうに細まった。
 ノアは降参を示すように両手を上げる。

 イリスを見ていたと言われても、自覚してのことではない。
 ただ彼女がそこにいて、ふと視線が向いたのだ。

(だから理由なんて聞かれても困る)

 先ほどまで刺繍枠に向いていた視線が、ノアを捉えている。
 本当になんでもないのに、疑い深い顔つきをしている。

 思いついたまま適当につけたり、そもそも名前をつけずに育てることも多い羊の名前を真剣に考えようとしたり、ちょっとしたノアの視線の意味を真剣に考えたりする生真面目さはノアにはないものだ。

 ノアは思わずイリスの頬に手を添えた。表情はノアを疑っているのに、イリスは隙だらけで、簡単に頬に口付けできる。

 彼女の頬に優しく唇を触れさせて、そのまま抱きしめた。

「何よ」
「したくなったから。理由なんかないよ」

 イリスは納得していないようで、腕の中で居心地悪そうに動いている。突き放せば逃げられるのに、それはしないでそこにいる。

「誤魔化そうとしているの?」
「してない」

 ノアが腕の力を緩めると、イリスと目が合った。

「遠慮しているわけじゃないのね?」

 イリスの手がノアの腕を撫でた。
 少し前に、遠慮されていると感じるのは寂しいと言われたことを思い出した。

「うん。けど、もっと遠慮なく君のことを見ていたい。イリスが可愛いから見ているんだと思う」

 ノアは自分の口から出てきた言葉を聞いて、そこに間違いがないなと思った。可愛いから見ている。それだけだ。それが彼女に不審に思われるほど頻繁だったことを自覚すると、少し居心地が悪くなってくる。

――そんなに頻繁に見ているだろうか。

 自分の行動を振り返るとノアは自分の頬が熱くなってきた気がして目を逸らした。

「ちょっと……自分で言って照れないで。私まで気まずいわ!」
「いや、うん……」

 イリスの肌は白く、赤面すると耳まで赤くなるのが分かる。
 そうさせているのは自分だと思うと、心臓がすごく痛くなる。ノアはその痛みを誤魔化すために、彼女をもう一度抱きしめた。
しおりを挟む
感想 68

あなたにおすすめの小説

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にノーチェの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、ノーチェのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。