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番外編
◆番外編:冬の小話
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とある冬の昼下がり、ヴェルディア公領の次期当主のノア、そして彼の妻イリスは、ソファに並んで座っていた。
ノアは彼の隣で刺繍を楽しんでいる妻に目を向けた。イリスの場合は楽しむというよりは職人のような真剣な顔つきをしていて、その様子にノアの目元は緩む。
ノアは本を開いたまま読むのをやめて、しばらくイリスの横顔を眺めていた。窓から日光が差し込み、透明な冬の明るさが部屋を満たす。
几帳面に整えられたブロンドの髪に、隙のない美しい横顔。冬の明るい光に照らされた妻の姿は神々しささえ感じさせる。
集中している彼女にちょっかいを出したら怒られるのは分かっていても、頬をつついてみたい気持ちが湧き上がってくる。
ノアが一番嬉しいのは、イリスが声を出して笑いそうになって、声を抑えようとして、それでも隠しきれないくらい楽しそうに笑ってくれるときだ。しかし不機嫌な顔を見るのも好きだと思う。低い声で「ノア」と名前を呼ばれるのも、イリスに呼ばれるなら、悪くない。
「何よ?」
「へ?」
じっとイリスを見つめていると、イリスの視線がノアに向いた。
「なんでもないよ。器用だなって思って見ていただけ。邪魔してごめん」
ノアは正面に向き直って、読んでいない本のページをめくった。イリスは作業に戻らずにノアを見つめたまま口を開いた。
「貴方、なにか私に言いたいことがあるんじゃない?」
「え? 特にないと思うけど」
「よく考えて」
ノアはイリスの言葉に首を傾げた。
イリスは“ノアがなにか大切なことを伝えていない”ことに自信があるようで、彼の口が言葉を発することを疑わない顔をしている。
(本当に覚えがないんだけど! なにか怒らせるようなことしたかな?)
ノアはここ数日のことを思い返そうとした。冬の間は雪による被害について騎士団とやりとりをすることが多いけれど、今年は去年までの策が功をなして公爵家まで話が上がってくるような被害はなかった。
降星祭の準備も母とイリスが引き受けて、ノアは特に出る幕がなかった。
そのほかの公務に関することは基本的に朝食を食べながらイリスに話している。伝えるべきことも、伝えなくてもいいことも、ノアはイリスに話したいと思ったら顔を合わせれば話してしまう。改めて言いたいことと言われても思いつかなかった。
「あ」
その中で一つだけ忘れていたことがあり、ノアは表情を明るくした。
「分かった! メリソンの妹のところにいる羊の名前のことだね。今年最初の羊が産まれたらイリスに名前をつけてほしいって言われたのを忘れてた。ごめん。産まれたら教えてくれるって」
「え……?」
ノアは使用人の顔を思い浮かべた。年末の降星祭の準備で手伝ってくれた使用人の妹が、イリスの刺繍作品と彼女自身に憧れて、羊の名前をつけてほしいと頼まれていたのだった。
「羊の名前ね。ヴェルディアの慣習を教えて」
「慣習なんてないよ。みんな適当」
「名前は一生背負うものだし、頼まれたのに適当なんて難しいわ」
「まぁ、確かに。あまり長すぎても呼びづらいかもしれないね。花の図案を見ながら決めるのはどう? 多分生まれるのは2月かな。もうすぐ春になろうっていう季節だよ。春が待ちどおしくなるような名前とか、冬の終わりを名残惜しむのもいいかも」
「そうね……ちょっと待って、この話は考えておくけれど、貴方の話ってそれなの?」
「話?」
「ここ最近私を見ていたでしょう。その理由が知りたいの」
「見てたっけ?」
「見てたじゃないの。今、ソファに座っていたときにもずっと視線を感じていたわよ」
「えっ、イリスってもしかして結構腕が立つの? ほかのことに集中しながら視線を感じるなんてすごいな」
「茶化さないで」
イリスの瞳が不機嫌そうに細まった。
ノアは降参を示すように両手を上げる。
イリスを見ていたと言われても、自覚してのことではない。
ただ彼女がそこにいて、ふと視線が向いたのだ。
(だから理由なんて聞かれても困る)
先ほどまで刺繍枠に向いていた視線が、ノアを捉えている。
本当になんでもないのに、疑い深い顔つきをしている。
思いついたまま適当につけたり、そもそも名前をつけずに育てることも多い羊の名前を真剣に考えようとしたり、ちょっとしたノアの視線の意味を真剣に考えたりする生真面目さはノアにはないものだ。
ノアは思わずイリスの頬に手を添えた。表情はノアを疑っているのに、イリスは隙だらけで、簡単に頬に口付けできる。
彼女の頬に優しく唇を触れさせて、そのまま抱きしめた。
「何よ」
「したくなったから。理由なんかないよ」
イリスは納得していないようで、腕の中で居心地悪そうに動いている。突き放せば逃げられるのに、それはしないでそこにいる。
「誤魔化そうとしているの?」
「してない」
ノアが腕の力を緩めると、イリスと目が合った。
「遠慮しているわけじゃないのね?」
イリスの手がノアの腕を撫でた。
少し前に、遠慮されていると感じるのは寂しいと言われたことを思い出した。
「うん。けど、もっと遠慮なく君のことを見ていたい。イリスが可愛いから見ているんだと思う」
ノアは自分の口から出てきた言葉を聞いて、そこに間違いがないなと思った。可愛いから見ている。それだけだ。それが彼女に不審に思われるほど頻繁だったことを自覚すると、少し居心地が悪くなってくる。
――そんなに頻繁に見ているだろうか。
自分の行動を振り返るとノアは自分の頬が熱くなってきた気がして目を逸らした。
「ちょっと……自分で言って照れないで。私まで気まずいわ!」
「いや、うん……」
イリスの肌は白く、赤面すると耳まで赤くなるのが分かる。
そうさせているのは自分だと思うと、心臓がすごく痛くなる。ノアはその痛みを誤魔化すために、彼女をもう一度抱きしめた。
ノアは彼の隣で刺繍を楽しんでいる妻に目を向けた。イリスの場合は楽しむというよりは職人のような真剣な顔つきをしていて、その様子にノアの目元は緩む。
ノアは本を開いたまま読むのをやめて、しばらくイリスの横顔を眺めていた。窓から日光が差し込み、透明な冬の明るさが部屋を満たす。
几帳面に整えられたブロンドの髪に、隙のない美しい横顔。冬の明るい光に照らされた妻の姿は神々しささえ感じさせる。
集中している彼女にちょっかいを出したら怒られるのは分かっていても、頬をつついてみたい気持ちが湧き上がってくる。
ノアが一番嬉しいのは、イリスが声を出して笑いそうになって、声を抑えようとして、それでも隠しきれないくらい楽しそうに笑ってくれるときだ。しかし不機嫌な顔を見るのも好きだと思う。低い声で「ノア」と名前を呼ばれるのも、イリスに呼ばれるなら、悪くない。
「何よ?」
「へ?」
じっとイリスを見つめていると、イリスの視線がノアに向いた。
「なんでもないよ。器用だなって思って見ていただけ。邪魔してごめん」
ノアは正面に向き直って、読んでいない本のページをめくった。イリスは作業に戻らずにノアを見つめたまま口を開いた。
「貴方、なにか私に言いたいことがあるんじゃない?」
「え? 特にないと思うけど」
「よく考えて」
ノアはイリスの言葉に首を傾げた。
イリスは“ノアがなにか大切なことを伝えていない”ことに自信があるようで、彼の口が言葉を発することを疑わない顔をしている。
(本当に覚えがないんだけど! なにか怒らせるようなことしたかな?)
ノアはここ数日のことを思い返そうとした。冬の間は雪による被害について騎士団とやりとりをすることが多いけれど、今年は去年までの策が功をなして公爵家まで話が上がってくるような被害はなかった。
降星祭の準備も母とイリスが引き受けて、ノアは特に出る幕がなかった。
そのほかの公務に関することは基本的に朝食を食べながらイリスに話している。伝えるべきことも、伝えなくてもいいことも、ノアはイリスに話したいと思ったら顔を合わせれば話してしまう。改めて言いたいことと言われても思いつかなかった。
「あ」
その中で一つだけ忘れていたことがあり、ノアは表情を明るくした。
「分かった! メリソンの妹のところにいる羊の名前のことだね。今年最初の羊が産まれたらイリスに名前をつけてほしいって言われたのを忘れてた。ごめん。産まれたら教えてくれるって」
「え……?」
ノアは使用人の顔を思い浮かべた。年末の降星祭の準備で手伝ってくれた使用人の妹が、イリスの刺繍作品と彼女自身に憧れて、羊の名前をつけてほしいと頼まれていたのだった。
「羊の名前ね。ヴェルディアの慣習を教えて」
「慣習なんてないよ。みんな適当」
「名前は一生背負うものだし、頼まれたのに適当なんて難しいわ」
「まぁ、確かに。あまり長すぎても呼びづらいかもしれないね。花の図案を見ながら決めるのはどう? 多分生まれるのは2月かな。もうすぐ春になろうっていう季節だよ。春が待ちどおしくなるような名前とか、冬の終わりを名残惜しむのもいいかも」
「そうね……ちょっと待って、この話は考えておくけれど、貴方の話ってそれなの?」
「話?」
「ここ最近私を見ていたでしょう。その理由が知りたいの」
「見てたっけ?」
「見てたじゃないの。今、ソファに座っていたときにもずっと視線を感じていたわよ」
「えっ、イリスってもしかして結構腕が立つの? ほかのことに集中しながら視線を感じるなんてすごいな」
「茶化さないで」
イリスの瞳が不機嫌そうに細まった。
ノアは降参を示すように両手を上げる。
イリスを見ていたと言われても、自覚してのことではない。
ただ彼女がそこにいて、ふと視線が向いたのだ。
(だから理由なんて聞かれても困る)
先ほどまで刺繍枠に向いていた視線が、ノアを捉えている。
本当になんでもないのに、疑い深い顔つきをしている。
思いついたまま適当につけたり、そもそも名前をつけずに育てることも多い羊の名前を真剣に考えようとしたり、ちょっとしたノアの視線の意味を真剣に考えたりする生真面目さはノアにはないものだ。
ノアは思わずイリスの頬に手を添えた。表情はノアを疑っているのに、イリスは隙だらけで、簡単に頬に口付けできる。
彼女の頬に優しく唇を触れさせて、そのまま抱きしめた。
「何よ」
「したくなったから。理由なんかないよ」
イリスは納得していないようで、腕の中で居心地悪そうに動いている。突き放せば逃げられるのに、それはしないでそこにいる。
「誤魔化そうとしているの?」
「してない」
ノアが腕の力を緩めると、イリスと目が合った。
「遠慮しているわけじゃないのね?」
イリスの手がノアの腕を撫でた。
少し前に、遠慮されていると感じるのは寂しいと言われたことを思い出した。
「うん。けど、もっと遠慮なく君のことを見ていたい。イリスが可愛いから見ているんだと思う」
ノアは自分の口から出てきた言葉を聞いて、そこに間違いがないなと思った。可愛いから見ている。それだけだ。それが彼女に不審に思われるほど頻繁だったことを自覚すると、少し居心地が悪くなってくる。
――そんなに頻繁に見ているだろうか。
自分の行動を振り返るとノアは自分の頬が熱くなってきた気がして目を逸らした。
「ちょっと……自分で言って照れないで。私まで気まずいわ!」
「いや、うん……」
イリスの肌は白く、赤面すると耳まで赤くなるのが分かる。
そうさせているのは自分だと思うと、心臓がすごく痛くなる。ノアはその痛みを誤魔化すために、彼女をもう一度抱きしめた。
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