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番外編
◆番外編:長男と部下の話
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ヴァンデンブルク公爵家の次期当主の屋敷の庭の片隅に、立派な落葉樹と小さなベンチがある。今日のように春の風の心地よい日であれば、木陰で読書を楽しむ夫人や、子供たちの姿を見ることもある。
今日そこに座っているのは、八歳の長男、エドリックただ一人だった。母のイリスによく似た利発そうな顔つきだ。紫色の瞳が物憂げに伏せられ、金の髪がそこに影を作っている。
「はぁ」
小さな唇からため息が漏れた。
「あれ? エドリック様」
焦げ茶の髪をした男性が、建物から顔を覗かせた。エドリックの父であるノアを補佐しているケビンだ。手にはいくつか封筒を手にしている。
「ケビン」
「今日は暑いですね。春というか、もう初夏ですよ……中より外のほうが快適ですね。隣に座っても?」
エドリックは頷いた。
ケビンはベンチに腰掛けると、手にした封筒を開いた。隣に座ったが何も言わず、そのまま便箋に目を走らせている。
「大切な手紙なの?」
「それなりに、ですね。使い道は暖炉の火の足しにするくらいしかなさそうだから、今日は全く役にも立ちません。そうだ。せっかくですし、世界一の高級紙、破ってみます?」
ケビンは手紙を雑に封筒に戻し、それをエドリックに差し出した。彼の皮肉っぽい言葉は、子供のエドリックには時々難しく聞こえるが、今日はよく意味が分かった。
「そんなことをしていいの?」
「ええ、イリス様に内緒にしてくださるなら」
ケビンが悪戯っぽく笑った。エドリックは、母の顔を思い出して、その母には言えないようなことをすることに、少しだけドキドキと心臓が早くなるのを感じた。
それから、ため息をついた。
「どうしました? 大丈夫ですよ。バレてもうまく誤魔化しますから」
「そのことじゃなくて……その……」
エドリックは、不安そうにケビンに視線を向けた。彼は、両親と同じくらいの年頃のはずだが、両親とも、ほかの使用人とも少し違う雰囲気をしている。
父のノアにとって、ロバートとともに一番近くに仕えているケビンは、エドリックにとっては兄に近い存在だ。ほかの人に言えないことも、ケビンには相談できる。
「父上のことで」
「えっ、あの人また何かしたんですか!」
ケビンのもの言いは、主人に対するものとしてはカジュアルすぎるが、その主人のノアが咎めないので、誰も何も言わない。
父に比べて、エドリックは自分が神経質すぎることに自覚はある。分かっていても、いろいろなことが気になってしまう。
以前、父はエドリックが家庭教師に褒められているのを聞いて、「エディが優秀だから私がいなくなっても安心だな」と言った。本当に何気ない言葉だった。
でもそのとき、幼いエドリックは、自分がいい子でいると父がいなくなってしまうかもしれないと思って、パニックになってしまった。
エドリックにできることと言えば、優秀じゃなくなること。でも、ちゃんとしないと、母の期待を裏切ることになってしまう。とても悩んだけれど、エドリックは家庭教師の先生の質問に全て「分からない」と答えることにした。テストも答えを書かないようにした。
優等生だったエドリックの態度が急におかしくなって、エドリックは母のイリスに呼び出された。怒られると思って下を向いていたら、イリスはエドリックの手をそっと握っただけだった。
「貴方が何かができなくても、お母様が貴方を大好きなことは変わらないわ。でも、エドリック、そのことで、貴方は辛そうに見える。何かあったの?」と、優しい声で聞かれて、エドリックは声を出して泣いた。
両親の期待に応えたいのに、そうしたら大好きな父がいなくなってしまうかもしれない。どうしていいか分からなくて、悲しくて……幼いエドリックはあのとき何を話したか覚えていない。ただとにかく悲しくて、母がいてくれることに安心して涙が止まらなくなってしまった。
父は、次の日に、「本当にごめん。いなくなることは絶対ないから! エディがおじいちゃんになってもここにいるよ!」と言って、「できるか分からない適当な約束をしないで」と母に怒られていた。
二人がいつものように喧嘩を始めたのを見て、エドリックは明日もきっと同じような日がくるはずだと思って、少しだけ安心したのだった。
それ以降も、エドリックは、自分が父の言葉に対して、父が意図した以上の意味を持たせてしまうという自覚がある。気にしすぎてはだめだと思っても、どうしても、ときどき複雑な気持ちになってしまうときがあるのだった。
エドリックは自分の足元に目を向けた。
「昨日ね」
「ええ」
「父上がぼくに、『世界一愛してるよ』と言ってくださったんだ」
「そうなんですね」
「でも、一昨日の夜、母上にも同じことをおっしゃっていた」
「……なるほど」
「世界で一番は一人しかいないはずだから、どっちが一番なんですか、ってつい聞いてしまって……そういうことは簡単には言わないほうがいいと思うんだ」
ケビンは苦い顔をしている。
「いや、本当にそのとおりだと思いますよ」
「母上には、父上が、母上にもぼくにも世界一だと言ったことは、秘密にしておくことにしたんだけど……父上が、『嘘をついたつもりはないよ。エディと一緒にいるときはエディのことしか考えてない。愛してるよ』っておっしゃって」
「なるほど」
「それを聞いて、ぼくは……」
エドリックは膝の上で拳を握った。つい、声が大きくなってしまう。
「父上が浮気するときってこんな感じなのかなって、頭によぎってしまって……! 父上のことを信じられないなんて、ぼくは……ぼくは、本当に最低の息子だ……!」
「それはエドリック様は悪くないと思いますよ! その言い方は俺もそう思います!大丈夫です。大人でも同じ印象を受けますから!」
「本当に?」
「はい、本当です。クズの発言です」
父をクズと言わせてしまったことに対して、エドリックの瞳には涙が滲みそうになった。ケビンがノアに辛辣なことを言っても、ちゃんと忠誠心を持って仕えていることを知っているのだ。エドリックのせいで、ケビンに思ってもいないことを言わせてしまったかもしれないし、もし本当にクズだと思わせてしまったのなら、父の評価を下げてしまったことになる。
ケビンがはっとして言葉を続けた。
「あ、でも、発言は完全にクズですが、大丈夫です。ノア様はイリス様とエドリック様と、ジェーン様もアルヴィン様も、世界一だと思ってるんですよ。妻と子供って、そういう存在なんです。俺も選べないですから」
「ケビンも?」
「はい」
エドリックは大きな瞳をぱちぱち瞬きした。ケビンはあまり自分の家族の話をしないから、そんなふうに思っているのを知らなかった。
「だから、今回のことは許してあげてください。紛らわしい言い方をしたのは怒ってもいいですけどね」
ケビンは困ったように笑った。
「……分かった。ありがとう、ケビン」
ケビンが大きく頷いた。エドリックは、ケビンの金色の瞳を見つめた。
「あの……ケビンの家族の話を聞いてみたいな。だめ?」
「え、俺のですか? 別に楽しくないですよ。普通に家の都合の結婚です」
「父上と母上も、家の都合で結婚したと聞いたけれど、昔の話をするのは楽しそうだよ」
「そりゃあ、お二人は……うーん、まぁ、話すのはいいですけど、別にたいしたネタもありませんよ。なんだか気恥ずかしいから、俺とエドリック様の間だけの話にしてください」
ケビンは身をかがめて、声を小さくした。
秘密の話をするのは楽しくて、特別な感じがする。エドリックは、父に「母上には内緒だよ」と言われるのが好きで、母に「お父様には内緒よ」と言われるのも好きだ。
その二人にも言うことがない秘密を抱えるのは、なんだかとても大人になった気がする。エドリックは気持ちが高揚するのを感じて、ソワソワと落ち着かない気持ちで身を乗り出した。
今日そこに座っているのは、八歳の長男、エドリックただ一人だった。母のイリスによく似た利発そうな顔つきだ。紫色の瞳が物憂げに伏せられ、金の髪がそこに影を作っている。
「はぁ」
小さな唇からため息が漏れた。
「あれ? エドリック様」
焦げ茶の髪をした男性が、建物から顔を覗かせた。エドリックの父であるノアを補佐しているケビンだ。手にはいくつか封筒を手にしている。
「ケビン」
「今日は暑いですね。春というか、もう初夏ですよ……中より外のほうが快適ですね。隣に座っても?」
エドリックは頷いた。
ケビンはベンチに腰掛けると、手にした封筒を開いた。隣に座ったが何も言わず、そのまま便箋に目を走らせている。
「大切な手紙なの?」
「それなりに、ですね。使い道は暖炉の火の足しにするくらいしかなさそうだから、今日は全く役にも立ちません。そうだ。せっかくですし、世界一の高級紙、破ってみます?」
ケビンは手紙を雑に封筒に戻し、それをエドリックに差し出した。彼の皮肉っぽい言葉は、子供のエドリックには時々難しく聞こえるが、今日はよく意味が分かった。
「そんなことをしていいの?」
「ええ、イリス様に内緒にしてくださるなら」
ケビンが悪戯っぽく笑った。エドリックは、母の顔を思い出して、その母には言えないようなことをすることに、少しだけドキドキと心臓が早くなるのを感じた。
それから、ため息をついた。
「どうしました? 大丈夫ですよ。バレてもうまく誤魔化しますから」
「そのことじゃなくて……その……」
エドリックは、不安そうにケビンに視線を向けた。彼は、両親と同じくらいの年頃のはずだが、両親とも、ほかの使用人とも少し違う雰囲気をしている。
父のノアにとって、ロバートとともに一番近くに仕えているケビンは、エドリックにとっては兄に近い存在だ。ほかの人に言えないことも、ケビンには相談できる。
「父上のことで」
「えっ、あの人また何かしたんですか!」
ケビンのもの言いは、主人に対するものとしてはカジュアルすぎるが、その主人のノアが咎めないので、誰も何も言わない。
父に比べて、エドリックは自分が神経質すぎることに自覚はある。分かっていても、いろいろなことが気になってしまう。
以前、父はエドリックが家庭教師に褒められているのを聞いて、「エディが優秀だから私がいなくなっても安心だな」と言った。本当に何気ない言葉だった。
でもそのとき、幼いエドリックは、自分がいい子でいると父がいなくなってしまうかもしれないと思って、パニックになってしまった。
エドリックにできることと言えば、優秀じゃなくなること。でも、ちゃんとしないと、母の期待を裏切ることになってしまう。とても悩んだけれど、エドリックは家庭教師の先生の質問に全て「分からない」と答えることにした。テストも答えを書かないようにした。
優等生だったエドリックの態度が急におかしくなって、エドリックは母のイリスに呼び出された。怒られると思って下を向いていたら、イリスはエドリックの手をそっと握っただけだった。
「貴方が何かができなくても、お母様が貴方を大好きなことは変わらないわ。でも、エドリック、そのことで、貴方は辛そうに見える。何かあったの?」と、優しい声で聞かれて、エドリックは声を出して泣いた。
両親の期待に応えたいのに、そうしたら大好きな父がいなくなってしまうかもしれない。どうしていいか分からなくて、悲しくて……幼いエドリックはあのとき何を話したか覚えていない。ただとにかく悲しくて、母がいてくれることに安心して涙が止まらなくなってしまった。
父は、次の日に、「本当にごめん。いなくなることは絶対ないから! エディがおじいちゃんになってもここにいるよ!」と言って、「できるか分からない適当な約束をしないで」と母に怒られていた。
二人がいつものように喧嘩を始めたのを見て、エドリックは明日もきっと同じような日がくるはずだと思って、少しだけ安心したのだった。
それ以降も、エドリックは、自分が父の言葉に対して、父が意図した以上の意味を持たせてしまうという自覚がある。気にしすぎてはだめだと思っても、どうしても、ときどき複雑な気持ちになってしまうときがあるのだった。
エドリックは自分の足元に目を向けた。
「昨日ね」
「ええ」
「父上がぼくに、『世界一愛してるよ』と言ってくださったんだ」
「そうなんですね」
「でも、一昨日の夜、母上にも同じことをおっしゃっていた」
「……なるほど」
「世界で一番は一人しかいないはずだから、どっちが一番なんですか、ってつい聞いてしまって……そういうことは簡単には言わないほうがいいと思うんだ」
ケビンは苦い顔をしている。
「いや、本当にそのとおりだと思いますよ」
「母上には、父上が、母上にもぼくにも世界一だと言ったことは、秘密にしておくことにしたんだけど……父上が、『嘘をついたつもりはないよ。エディと一緒にいるときはエディのことしか考えてない。愛してるよ』っておっしゃって」
「なるほど」
「それを聞いて、ぼくは……」
エドリックは膝の上で拳を握った。つい、声が大きくなってしまう。
「父上が浮気するときってこんな感じなのかなって、頭によぎってしまって……! 父上のことを信じられないなんて、ぼくは……ぼくは、本当に最低の息子だ……!」
「それはエドリック様は悪くないと思いますよ! その言い方は俺もそう思います!大丈夫です。大人でも同じ印象を受けますから!」
「本当に?」
「はい、本当です。クズの発言です」
父をクズと言わせてしまったことに対して、エドリックの瞳には涙が滲みそうになった。ケビンがノアに辛辣なことを言っても、ちゃんと忠誠心を持って仕えていることを知っているのだ。エドリックのせいで、ケビンに思ってもいないことを言わせてしまったかもしれないし、もし本当にクズだと思わせてしまったのなら、父の評価を下げてしまったことになる。
ケビンがはっとして言葉を続けた。
「あ、でも、発言は完全にクズですが、大丈夫です。ノア様はイリス様とエドリック様と、ジェーン様もアルヴィン様も、世界一だと思ってるんですよ。妻と子供って、そういう存在なんです。俺も選べないですから」
「ケビンも?」
「はい」
エドリックは大きな瞳をぱちぱち瞬きした。ケビンはあまり自分の家族の話をしないから、そんなふうに思っているのを知らなかった。
「だから、今回のことは許してあげてください。紛らわしい言い方をしたのは怒ってもいいですけどね」
ケビンは困ったように笑った。
「……分かった。ありがとう、ケビン」
ケビンが大きく頷いた。エドリックは、ケビンの金色の瞳を見つめた。
「あの……ケビンの家族の話を聞いてみたいな。だめ?」
「え、俺のですか? 別に楽しくないですよ。普通に家の都合の結婚です」
「父上と母上も、家の都合で結婚したと聞いたけれど、昔の話をするのは楽しそうだよ」
「そりゃあ、お二人は……うーん、まぁ、話すのはいいですけど、別にたいしたネタもありませんよ。なんだか気恥ずかしいから、俺とエドリック様の間だけの話にしてください」
ケビンは身をかがめて、声を小さくした。
秘密の話をするのは楽しくて、特別な感じがする。エドリックは、父に「母上には内緒だよ」と言われるのが好きで、母に「お父様には内緒よ」と言われるのも好きだ。
その二人にも言うことがない秘密を抱えるのは、なんだかとても大人になった気がする。エドリックは気持ちが高揚するのを感じて、ソワソワと落ち着かない気持ちで身を乗り出した。
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