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兄様とわたし

26 わたしの王子様 前編

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 レザニード兄様が迎えに来てくれて、とても嬉しかったくせに、逃げてしまった。

 また、兄様に背を向けてしまった。
 
 傘に打ち付けられる雨が勢いを増す。
 雨音が大きくなり、いよいよ土砂降りになってきた。地面が、水浸しになっている。排水が間に合わず、水が溢れているのだ。

 地面がとても滑りやすくなっている。転ばないように注意しながらも、懸命に足を動かした。

 後ろを振り返る。

 人混みを掻き分けて、兄様が追いかけてきたのが分かった。傘を手放しており、上等な服も持っていた紙袋も濡れてしまっている。

 こんな冷たい雨に打たれ続けたら風邪を引いてしまう。

 お願いだから、追いかけて来ないでほしい。

 服の上から、胸元をギュッと掴んだ。心臓が痛い。

 わたしは、大通りを外れて路地裏に入った。角を曲った瞬間、目の前に男性が現れた。勢いを殺せず、ぶつかってしまう。ごめんなさいと言って走り抜けようとすると、大声で怒鳴られて傘を掴まれた。

 40代くらいの男性で、見るからに高そうなスーツを着ている。わたしがぶつかったせいで、男性は水溜りに足を突っ込んでしまっていた。革靴が泥水のなかに入っている。

「あ、あの! 靴はあとで弁償しますので、い、今はこの手を放していただけないでしょうかっ?」

 そう言っても、激昂は収まらなかった。わたしの貧相な身なりを見て、支払う能力がないと思ったのだろうか。あるいはわたしが子どもだと思われたのかもしれない。

 早くしないと兄様に追いつかれるのに、全く傘を放してくれない。それどころか、男性がわたしの腕を掴んで、どこかへ連れて行こうと、わたしの体を引っ張り始めた。

 攫われる……!!

「放して……っ!!」
「一度怖い目を見ないと分からないのか、この貧民がッ!!」

 ドンッ、と、突き飛ばされた。

 確か……わたしがいるのは水道橋の上だ。端っこには長めの階段があって、下りられるようになっている。

 いま突き飛ばされた先にあるのは、もしかして、その階段じゃ……?

 この高さから地面に落ちたら、頭を打って死んでしまうかもしれない。

 意外にも、そんなことを考えられるほどの余裕はあった。

 
 体が落ちていく。

 とっさに目を瞑った。



 誰かに、名前を呼ばれた気がした。
 懐かしい匂いに包まれて、力強く抱きしめられる。

 涙が出てくるほど温かくて、優しくて。

 激しい振動が脳を揺さぶってくるのに、あまり痛みを感じない。階段を転がり落ちてるはずなのに、なぜだろう。
 ようやく衝撃が収まったところで、恐る恐る目を開けた。

 視界に映ったのは、誰かの体だった。
 触った感触からして男性。
 後頭部に腕が回されている。たぶん、わたしの頭を守るために、庇ってくれたのだろう。

 …………誰に?

「え……」

 視線をあげて、絶句した。
 濡れて額に張り付いた金色の髪の隙間から、雨とは明らかに異なる、ぬるりとした液体が垂れていく。

 液体は、彼の閉ざされたまぶたに流れ、頬を下り、硬い地肌に落ちて真っ赤な水溜りを作り上げた。

「にい、さ……ま…………兄様っ!」

 わたしの“王子様”に、冷たい雨が容赦なく降り注いでいた。






 
 抱き込むような形でわたしを助けてくれたレザニード兄様は、幸いにもすぐに意識を取り戻した。ただ、階段から転がり落ちた時に頭を打ったみたいで、苦しそうに呻いたあと、また目を閉ざして呼びかけに反応しなくなった。

 わたしを突き飛ばした男性が、顔を真っ青にして人を呼んでくれた。冷たい雨に体温を奪われないように、親切な人が兄様を運ぶのを手伝ってくれた。近くの喫茶店が場所を貸してくれて、そこで兄様を看病することになった。

 頭から血が出ていた。わたしはシスヴェルさんに教えてもらった通りに、応急処置を行った。手の震えが収まらなくて、生きた心地がしなかった。

 30分ほどして、騒ぎを聞きつけたシスヴェルさんが駆け付けてくれた。
 怪我したの!?
 そう言って心配してくれるシスヴェルさん。兄様が庇ってくれたから、外傷らしい外傷は負っていない。わたしの手や顔についている血痕も、兄様の止血をするためについたものだ。……わたしが負うはずだった傷を、全部兄様が代わりに受けてくれた。

 わたしは泣いていた。
 こうならないために家を出て、兄様から離れたのに、これでは意味がない。

 目を腫らしているわたしに、シスヴェルさんは強くわたしの肩を叩いて「大丈夫」だと励ましてくれた。あとのことはシスヴェルさんに任せた。シスヴェルさんなら兄様を任せられる。

 わたしは、お客さんが一人もいない喫茶店の奥まったスペースで、身を縮こませてその時を待った。
 しばらくして、シスヴェルさんが奥の部屋から出てきた。

「背中と肩の打撲は痛々しいけど、うまく受け身を取ったんだろうね。階段から派手に落ちた割には、そこまで重症じゃない」
「頭はっ?」
「ルディちゃんが上手に止血してくれたからね。呼吸も安定してるし、一回は意識を取り戻したんだろう? だったら大丈夫。痛みで気を失っただけだろうから、そのうち目も覚ますと思うよ」

 ひとまず、ホッとした。
 兄様が死んでしまったらどうしようと、そればかり考えていた。

「できるだけ頭も動かさないこと。頭を打ってるから、少なくとも今日一日は様子を見る必要がある。異変があったら街の病院に行かないといけない」
「ありがとうございます。わたしがつきっきりで様子を見るので、心配ありません」

 わたしが強く頷くと、シスヴェルさんも頷いた。

「ちなみに、ルディちゃんを命懸けで庇ったってホント? 彼、何者?」

 兄であることを説明すると、シスヴェルさんは驚いていた。男前になったねえ、と、朗らかに笑っている。
 たぶん、シスヴェルさんが兄様を最後に見たのは、11歳頃かなと思う。確かにその頃と比べれば、かなり身長も伸びているし男前になってるかも。……いや、その時から兄様はかっこよかったけど。

「お兄さん、ルディちゃんを迎えに来たんじゃないの?」

 シスヴェルさんには、わたしがどうしてこの街に来たのか、詳しく説明していない。でもシスヴェルさんは、わたしに詳しい事情を聞かずに診療所で雇ってくれた。おそらく、家出だと思われている。

「どういう理由で家族と喧嘩したのかは分からないけれど、きっちり話し合いしたほうがいいと思うね」

 喧嘩ではないのだけれど、兄様に何も言わず黙って家を出たのは確かだ。
 兄様が心配するのも、連れ戻そうとするのも分かっていて、あえて無断で家を出た。

 こうでもしなければ、兄様から離れる方法がないと思ったから。

「あたしもしょっちゅう娘や息子と喧嘩するし、良かれと思ってやったことが全部裏目に出ることもある。話し合ってみたら、意外とすんなり解決することもあるよ」

 話し合い……。
 黙って下を向くわたしの肩を、シスヴェルさんが軽く叩いた。頑張れ、と言われたような気がした。

「じゃあ診療所に戻るよ」
「戻るんですか……っ?」
「おばさんね、人を待たせてるんだよ。お兄さんにはルディちゃんがついてるし、心配いらないと思ってね」

 シスヴェルさんが行ってしまう。
 わたしはどうしたらいいか分からず、しばらく立ち尽くしていた。
 








 夕方になった。
 喫茶店の店主はとても優しい30代くらいの女性で、このまま一晩泊めてくれることになった。……まあたぶん、兄様を見て惚れちゃったんだろう。「あとでお兄さん紹介してね!」と鼻息荒く手を握られたから、間違いない。

 店主は喫茶店の二階に住んでいるらしく、何かあれば呼んでねと言われた。わたしは頭を下げて、兄様が落ち着いたら、ちゃんとこの喫茶店でご飯を食べようと思った。タダで泊めさせてもらっているんだから、それくらいしないと……。

 ちなみに、わたしを突き飛ばした男性は、わたしに平謝りして、お金を渡そうとしてきた。
 たぶんこれを治療費にして、オオゴトにならないようにしてほしいのだろう。わたしもぶつかってしまった責任があるから、お金を返した。汚れた靴のクリーニング代にしてほしいと言っても、男性は納得してくれなかった。

「あのときは妻と喧嘩した後のことで、かなりイライラしておりました。本当に申し訳ないと思っています」

 そう言って、渡そうとしたお金の半分を自分のポケットに入れて、もう半分をわたしに渡した。これでおあいこにしてください、と言われ、また深々と頭を下げられた。「分かりました」と言って、わたしはお金を受け取った。

 喫茶店のキッチンを貸してくれるという話で、そこで軽い夕食を作った。ジャガイモをすり潰したポタージュと、喫茶店で売れ残ったパンを好意でいただいたので、細かく切って卵を絡め、フレンチトーストにした。

 あまりお行儀はよくないけれど、この場で食べてしまおう。
 とっても美味しい。
 兄様が起きたら、これを食べさせてあげたいくらいの出来だ。
 
 食欲があれば、の話だけれど。

 ガタンッ。
 
 奥の部屋から音がした。

「に、いさま……っ!?」

 壁にもたれかかるようにして、レザニード兄様が立っていた。
 着ていた服は治療の邪魔になるからと医療用ハサミで切られたから、上裸だ。ただ肩や胸板などは包帯でグルグル巻きにされて、巻かれていない部分から青い打撲痕が見えている。

 出血していた頭にも包帯が巻かれていて、本当に痛々しい。

 兄様が意識を取り戻した!
 嬉しさが込み上げるよりも早く、兄様を安静にさせないといけない、という焦りが勝った。

 兄様がおぼつかない足取りで近づいてくる。

「ダメです、早く寝てください! 兄様はまだ──」
「──無事で、よかった……」

 軽く、抱きしめられた。
 肩に兄様の吐息がかかる。

「なん、……で……」

 兄様のぬくもりに包まれて、わたしはまた、泣きそうになった。


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