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第2話 ミステリアスな彼
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株式会社味彩コーポレーションは、食品事業関連のイベントやメニューをプロデュースするお仕事だ。レストランメニューから食品メーカーのイベント、大手スーパーの惣菜メニューの考案などを手がけている。
食品やメニュー開発、生産事業を専門とする食品開発部。プロデュースの手助けとして、広報・宣伝・メディアを担当する広報部。味彩系列のレストランや、提携のスーパー、小売店などで営業活動をする飲食事業部。経営不振や出店依頼、イベントタイアップ、運営活動を担う企画部。その他、会社を支える経理部や理事などで形成されている。
そんな我が社のPR活動に使われるDVDをプロジェクターに映して、私は新入社員を見回した。
小さな会議室に、長テーブル一台だけを挟んで三人が座っている。右から花島さん、杉野くん、羽崎さんの順で。
「――はい。それでは、質問ある方はいますか」
まったく、こういう仕事が二年目の役割だなんて。歴史の浅い会社にしては、古風で変な伝統だと思う。
郷に入っては郷に従えの精神でやってきた私でも、これは嫌な役だった。新人三名を相手に堂々と説明をするなんて、緊張で喉が渇く。
企画部新人の花島さん、羽崎さんは質問はなさそう。一方、広報部新人の杉野くんはピシリとまっすぐに挙手していた。
「はい、どうぞ」
困ったな。広報部関係は浅い知識しかないんだけど。
「あの、この会社って行事が多いって聞いたんですけど、それについてはあまり触れられなかったので」
杉野くんは私より二つ下で、花島さんと同い年。緊張気味だけど、積極的で真面目そうな人だ。
聞けば杉野くんは、充実した会社行事に興味を持ったのがそもそもの志望動機だったらしい。それは確か、聖もだった。広報部はみんなそういう人種なのかな。
ひとまず、広報関係の質問じゃなかったことに安堵する。
「ええと、これはまぁ、会社説明の動画だからざっくりしか紹介できなかったね……毎年十月に麹野商店街さんと合同でバザーを開催します。麹野商店街さんは、毎年六月にお祭りをするんですけど、うちが運営のお手伝いをしています。このバザーは部署ごとに催しが違って、縁日みたいで。しかも、売上が多かった部署が優秀社員賞を貰えるからすごく盛り上がる……」
あれ、これ、説明になってる?
「へぇぇ、楽しそうですね。学園祭みたいで」
羽崎さんが言った。杉野くんも頷く。それはまるで子どものように。
「そういうの、会社とかにもあるんですねー、意外に」
「いや、珍しいんじゃないかな。どうなんだろ。前の会社はそういうのなくて、飲み会ばっかりだったし」
羽崎さんは苦笑交じりに思い出す。それを、杉野くんが「へぇ」と関心深げに聞いている。
その中に私も加わった。
「羽崎さんって、前職は何されてたんですか?」
「セールスですよ、健康食品の。スーツ着て営業してました」
彼は苦笑いで、嫌味を含むように返す。ラフな格好が好きなのかな。
「まぁ、普通の会社って感じでしたね」
「そうだったんですね。まぁ、うちって他より特殊みたいで、なんだかんだイベント業専門だし。社内の雰囲気もいいし」
聞きながら、言いながら思った。羽崎さんは私よりも社会人歴が長い。
それでも彼は本当に控えめで、ままならない年下の私にも対応が穏やかで。威圧がないからすんなりと談笑に昇華させてしまった。杉野くんも緊張が和らいだようで、前のめりに話に入ってきてくれる。
でも、花島さんだけはなんとも言えない、真顔で黙っていた。時間を気にしている。
同時に私もスマホを出して画面を見る。
「うわ」
社内のSNSグループから連絡がきていた。相田主任だ。
『そろそろ終わったー?』
これは、帰ってこいの指示だろう。
羽崎さんと杉野くんが話している間に、私は慌てて割り込んだ。
「はい、おわり! 続きは同期で飲み会かランチに行ってからやって。まずは仕事しないと」
「はーい」
すっかりくだけた杉野くんが率先して返事をする。花島さんはやはり無言で、ファイルやペンを片付けている。
私はプロジェクターやテーブルを元に戻しにかかった。
「あぁ、先に行ってていいよ。花島さんも。主任に言っといて」
そんな羽崎さんの声が背中に当たる。
ん? って振り返ると、彼はプロジェクターにつないだノートパソコンを操作していた。
「手伝いますよ、山藤さん」
「え? いや、いいですよ、別に……」
「だって、山藤さんがいないと、俺、仕事できませんし」
「あぁ……」
そうだった。指導役だもんね、私。そうだった。
なんか、変だな、私。動揺してる。
同時に、歓迎会で聖に言われたことが頭の隅から飛び出してくる。
「恋活しなさい」っていう。
恋活、ねぇ……いやいや。仕事に私情は挟んじゃダメでしょ。しかも、まだ一緒に仕事し始めたばっかりの相手に。
私は影響されやすいんだから、そういうことは謹んでもらいたいものだ、聖め。
「山藤さん、早くしてください。満川さんに怒られますよ」
プロジェクターを持ち上げて飄々と言う彼。口元が少し、意地悪に思える。
手が止まっていた私は慌ててスクリーンを外した。
***
目まぐるしく動く新体制企画部は、未だぎこちない。
私は一年目と変わらずバタバタしていて、満川さんに小言をかけられるし、新人二人――特に花島さんとは私はまったく話していなくて、彼女はきっかり定時に上がってしまうし、羽崎さんは私のアシスタントみたいにさりげなく助けてくれる。どっちが先輩か分からない……
「先輩の威厳ってやつが欠片もないね、南帆」
「ひじりん、ひどい! 私だって頑張ってるのに!」
給湯室で一息、と言ってもほとんど雑談しかしていない。丁度、彼女がコーヒーを飲んでいたところに居合わせたので私はここ数日についてを話した。
「南帆、あんたに先輩は無理だわ」
なんて言われようだ。でも当たってるもんだから他に言い返す言葉がない。
情けなくふてくされる。
「でもまぁ、それも個性ってやつでしょ。うちの会社、そう堅苦しくないんだしみんな多目に見てくれてるし、いいじゃん。そういうキャラで」
聖は濃い緑色のタバコのケースを手の中でもてあそびながら言った。アメリカンスピリットっていう銘柄だと聞いたことがある。
「しかし、滝田部長もだけど主任はどうして南帆に羽崎くんをつけたんだろうねぇ」
そう言えばどうしてだろう。相田主任には「サポートしてくれ」と頼まれたけど、今のところ私のほうがサポートされている。
「ま、これからじゃない? まだまだ日は浅いんだしさ」
「うーん……」
不満にむくれていると、給湯室の入口に人影が。すらっと冷たいつららのような女性、満川さんだった。私達の間をすり抜けて、自分のマグカップを棚から探る。無言で。
聖が小声で「お疲れさまです」と言えば「お疲れさま」と返してくれるけれど、その素っ気なさが苦手なんだと聖が前に言っていたことを思い出した。
「そんじゃね、南帆」
聖はタバコを振って給湯室を出て行く。置き去りとは卑怯なり。まだ飲みきっていないコーヒーをズルズルすする。
と、急に満川さんが静かに言った。
「山藤さん」
「え、はい!」
トーンの暗さにドキドキしていると、満川さんはお湯をカップに注ぎながら溜息を吐く。
「さっき、羽崎くんに聞かれたんだけどね。あなた、コピー機の使い方くらい教えてあげたらどうなの?」
飛び出してきたのは呆れの声。
コピー機……使い方、教えていない。そうか、そういうのも教えないといけないのか。自然と扱っていたから忘れていたけど、私も新人の頃は満川さんに教えてもらった。
「あのね、山藤さん。部長と主任がどうしてあなたに羽崎くんをつけたのか、分からないようじゃダメよ。仕事を与えるのは私たちの方が的確に簡単に出来るんだから」
「はい……すみません」
言葉は冷たい。いつも怒っているように見える。でも、それに関して不満はない。当然のことを言われているから。
満川さんはコーヒーにグラニュー糖を流し入れ、かき混ぜると無表情のまま私を見た。眉一つ動かさない。
「それじゃあ、頑張って」
「はい」
私は頬を強張らせて返事した。声も固くなる。
満川さんは「うん」と頷くと、もうコーヒーにしか目を向けなかった。
この日は、私は近所の麹野商店街に用事がある。六月のお祭りは企画部を主導に運営するわけで、今年の担当は私だ。
相田主任から引き継いだこのお仕事。三月の時点から顔合わせや打ち合わせ、その他に向こうの祭りを取り仕切る振興会でも入れ替わりがあったりとばたついていた。年度が変わると、お互いに環境が変わってしまうのに、仕事は引き続き進んでいくから止まることはできない。
満川さんから「打ち合わせに羽崎くんを連れていけば」と助言をもらったので、言われたとおり打ち合わせに同行させることにする。
「あの、山藤さん」
後ろをついてくる彼は、よく私に話しかけてくる。
そして、私は余裕がないもので、時計を気にしながら早足で先を行く。
「なんですか」
「俺、ちょっと思ったんですけど、あらかじめ新人研修用にマニュアルとか作ってもらったほうが効率がいいなぁって」
「え?」
思わず足を止めて振り向く。だから、彼も「おっと」と慌てて止まった。
「いや、だって。山藤さんも仕事大変だろうし、俺に構ってる余裕ないでしょ」
彼は控えめに、気まずそうに言う。愛想のいい笑いも交えて。
それは、つまり、私だけじゃ不足だと言いたいのだろうか。
二年目だから。
「すみません……なんか、頼りないように思われてるみたいですね」
「あ、いやいや、そういうつもりじゃなくて。まぁ、頼りないと言えばそうかもしれないけど」
それは一言余計だ。
「主任にも言ったんですよ、そしたら『山藤さんに任せてるから、提案してみたら』って言われたので。すみません、急に」
こうも包み隠さず言われればいっそ清々しい。
私は、もう少し気を配るべきだった。役不足だと思われても仕方がない。だって、余裕がないから。
羽崎さんは黙り込んでしまった。私が俯いたからか、彼の気まずそうな唸りが上から聞こえてくる。
「うーん……気を悪くさせるつもりじゃなかったんですけど……」
「や、大丈夫です。うん……」
気をしっかり持て、南帆。こんなことでくじけるな。
顔を上げて、口角を持ち上げてみせる。すると、羽崎さんは安堵したように笑った。
「はい、じゃあ行きましょうか。打ち合わせ」
気を取り直して言いつつも、私は大きな壁にぶち当たった感覚だった。
聖に笑われ、満川さんに怒られ、羽崎さんに指摘され……このトリプルパンチはさすがに精神にくる。
打ち合わせくらいはきっちりこなさないとなぁ。でも、商店街までの道のりが遠く感じる。
これきり、羽崎さんは何も話しかけてこなかった。私も無言でいる。気まずくって仕方ない。
***
打ち合わせは簡単なものだったので手間取ることなく、すんなりと終わった。まぁ、ポスターの配色決めだけだし、電話でも良かっただろうけど、私は直に会って話をしたいから、営業練習のためにもよく出かける。
羽崎さんも大人しく、私の打ち合わせの様子をじっと見ていた。それに関しては問題ないけど、やっぱりお互いに気まずくて。
どうして、主任は未熟な私に彼を任せたのか。それは、多分、スキルアップのためだと思う。
そして、満川さんと主任は今、とても忙しい。二人が抱える大きなプロジェクトが五月に控えているから。
私は二人に比べればまだまだで、回ってくる仕事も個人経営のお店や契約しているお客さんばかり。ご新規さんの案件を取ったことはない。要するに、指導役が適任だった。
部署に戻ると、相田主任が花島ちゃんに電話の掛け方を教えているのがすぐに見える。あぁ、そうか。そういう基本的なところを教えないといけないんだ。
思えば私は後輩指導のためのプランニングをしていなかった。思いついたことや自分の業務の手伝いをしてもらうだけ。
それじゃダメなんだ。まったく、人にものを教えるってとてつもなく難しい。
じっと彼らを見つめ、どう教えているのか調べる。すると、気づいた相田主任が二度見してきた。
「え、何、どうした山藤」
「いえ。なんでもないです……」
すごすごと自分のデスクに逃げる。そしてレポート用紙を破り、ペンを走らせた。
まずは電話の応対、コピー機やファックスの使い方、メールの書き方、ポスティング、顧客管理、仕様書の手順……おぉ、いっぱいある。書き出せば実は業務内容が結構あり、一体どこから教えようかと悩んでいたのが嘘みたいに晴れる。よし、これらを全部まとめよう。
「へぇ。山藤さんって字、上手いんですね」
「まぁね。これでも書道初段だもん。硬筆だってやってたんだから当然……」
言いかけて止まる。横から入ってきたのは羽崎さんだった。
昼間の気まずさを払拭するような、さらりとした声だったので私も自然に喋っていた。自分でびっくりしてしまう。
「あぁ、どうりで。教科書っぽい楷書でキレイですね」
彼は柔らかに言うと、自分の席に座った。
「なんか、すみません。余計な仕事増やしちゃったみたいですね」
「いや、そんなこと……羽崎さんにはっきり言われて目が覚めました」
言葉を改める。すると、彼はキョトンとした目を向けた。
「さっきみたいにくだけた感じでいいんですよ、山藤さんは先輩なんだから」
「え?」
「だってほら、敬語だとなんか堅苦しいし。俺は別に気にしませんよ」
その言葉には気が抜けてしまう。目を覚ましたばかりだというのに。
「うーん……そう、ですかぁ?」
でも、急にくだけろって言われても。
私の目は行き場がなく、ゆっくりとレポート用紙に落とした。
「そっか……それじゃあ、そういうことで」
「はい。そのほうが俺もやりやすいです」
「え、そうなの?」
「はい」
よく分かんないな。でもまぁ、それでいいなら、徐々に。
私は曖昧に笑っておき、羽崎さんにメール整理を頼んだ。私にはくだけろと言うくせに、彼は礼儀正しく「はい」と返事する。
なんだろう。不思議な境界線を感じる。
話せば話すほど、彼はミステリアスな空気感を漂わせる。
***
研修時期の新人は定時退社する。現在、十八時。
「お疲れ様です」と私に声を掛けて退社する羽崎さんの後ろ姿を見ながら、もやもやと胸中に溜まったものをぷはっと吐き出した。
デスクに突っ伏す。冷たくてひんやりとしたステンレスが頬に当たって気持ちいい……冷たさに癒されていると頭上から低い声が降ってきた。
「はーい、チョコ欲しい人ー」
チョコ……甘いお菓子……!
すぐさま起きて顔を上げた。見るとそこには宙吊りになったチョコレートの赤い包み……
「欲しいです」
手を伸ばすと、チョコは私の手をかすめて消える。見れば、やはり相田主任が面白そうに笑いながら板チョコをひらひら振っていた。
「お疲れさん、山藤」
「お疲れさまです。チョコください」
「はいはい」
伸ばした手にチョコを置く主任。私はすぐに受け取ると、ありがとうございますと頭を下げて包みを開けた。
主任は席につくと、満足そうに笑いながら私のデスクを見る。
「なんだ、仕事終わってないのか」
「終わってません。今日は残業です」
「みたいだなぁ。まぁ、業務が増えたしなぁ、仕方ないね」
「仕方ないです」
もごもごとチョコを食べながら私は主任の言葉をくり返す。適当な返しをしても主任はこのチョコのように甘い。
「あと何が終わってないの? 入力?」
「いえ……羽崎さん用のマニュアルを……」
私は絞り出すようにして言った。チョコの包みを丸め「ごちそうさまです」と言ってゴミ箱に放る。
主任は、何かわけ知り顔でニヤリと笑った。
「一人でできる?」
「できますよ」
ついムキになる。すると、主任は苦笑を向けてきた。
「頼ってもいいんだよー? 後輩指導どうしたらいいか分かりませんって素直に言ってよ」
「うぅ……」
ほら、やっぱり甘い。満川さんがムチなら主任はアメだ。まったくよく出来ているよ、この仕組みは。私は項垂れて観念した。
「去年の山藤なら『無理ですぅ』って言って俺に押し付けてきてたくせになぁ。成長したんだね、山藤」
主任は私のデスクにあったレポート用紙をさっと取り上げて言う。そして、ささっと目を通していく。
「ふうん? まぁ教えるっていっても、こんなもんじゃない? このままちゃちゃっと終わらせなよ。春とは言え、まだ夜は冷えるしさ、二十時までには電車に乗るように」
主任は紙を返すと、上司らしくビシっと言った。でも、すぐに破顔して歯を見せて笑う。そして彼はカバンと上着を肩にかける。
「そんじゃ、悪いけど俺は先に帰るよ」
「あれ? 今日は早いんですね。いつもはダラダラ経理部に入りびたってるくせに」
経理の女子社員としゃべっているのはいつものことだ。それなのに、今日はもう帰り支度をして部署を出ようとしている。あやしんでいると、主任は眉を頼りなく下げて言った。
「俺だって早く帰ることあるよ。今日はちょっと飲みの約束があるんだ」
「へぇぇ? 主任、お酒弱いくせに飲み会行くんですねぇ」
「弱くても好きだから仕方ないよねぇ。ま、今日は友達と飲むし、羽目外そっかなぁー」
そう嬉しそうに、照れくさそうに言った。相田主任は童顔だ。アラサーと言っても愛嬌たっぷりの笑顔になれば少年のよう。思春期の子供みたいなあどけない笑い方をする。それは、友達と会うからだろうか。
「じゃあ、楽しんできてくださいね。お疲れ様です」
「おう。山藤も気をつけて帰れよー」
そう言って彼は意気揚々と部署を出ていった。
いいなぁ。私も聖に連絡してみようかなぁ……と、思い立てば早い。私はスマホのトークアプリから聖に連絡を入れた。
「飲み行きたい!」とストレートに言ってみる。それじゃ、返事を待つ間にパパっと終わらせよう。
糖分が上手く全身に回ったので、疲れはいつの間にか吹き飛んでいた。
***
聖はどうも今日は都合が悪かった。
「ごめん、無理」と愛想のかけらもない文字のあとに太眉の雄々しいクマが土下座するスタンプを送りつけられた。それなら仕方がない。
慣れない作業に手間取りながら、黙々と文字を書いていく。マニュアルを作り終わった頃、時刻はとっくに二十時を回っていた。
「やばーい……」
残業ハイのせいで、言葉がゆるくなってしまう。
誰もいないし、私一人だけ。いや、でも他の企業に比べたらうちはゆるい方らしい。まあ、年末は例外だけど。
デスクに手を付きながら立ち上がる。
うっわ、腰痛い。思わず「おおぅ」と低い声が漏れる。背骨が丁度、パキッと音を立てたので気分的になんだか滅入ってくる。ゆっくり伸びをして体をほぐしてみると、まあまあ楽になった。あまりデスクワークをしないからか、イスに座って文字を書くのも久しぶりだった。
レポート用紙にまとめたものを改めて見てみる。うん。これで大丈夫。彼がどんな顔をするかちょっと楽しみだったりするので、私は無意識にニヤニヤと笑った。
「よし、帰ろうっと。帰ってもう一回確認しないとだし」
マニュアルをカバンの中にしまって、部内の電気を全て切ろうと窓際に行く。
ふと下を見ると、誰かがいた。
くしゃっとした黒髪に、ジャケット。会社の敷地内だから、誰かはすぐに分かる。
「あれ……? 羽崎さん?」
食品やメニュー開発、生産事業を専門とする食品開発部。プロデュースの手助けとして、広報・宣伝・メディアを担当する広報部。味彩系列のレストランや、提携のスーパー、小売店などで営業活動をする飲食事業部。経営不振や出店依頼、イベントタイアップ、運営活動を担う企画部。その他、会社を支える経理部や理事などで形成されている。
そんな我が社のPR活動に使われるDVDをプロジェクターに映して、私は新入社員を見回した。
小さな会議室に、長テーブル一台だけを挟んで三人が座っている。右から花島さん、杉野くん、羽崎さんの順で。
「――はい。それでは、質問ある方はいますか」
まったく、こういう仕事が二年目の役割だなんて。歴史の浅い会社にしては、古風で変な伝統だと思う。
郷に入っては郷に従えの精神でやってきた私でも、これは嫌な役だった。新人三名を相手に堂々と説明をするなんて、緊張で喉が渇く。
企画部新人の花島さん、羽崎さんは質問はなさそう。一方、広報部新人の杉野くんはピシリとまっすぐに挙手していた。
「はい、どうぞ」
困ったな。広報部関係は浅い知識しかないんだけど。
「あの、この会社って行事が多いって聞いたんですけど、それについてはあまり触れられなかったので」
杉野くんは私より二つ下で、花島さんと同い年。緊張気味だけど、積極的で真面目そうな人だ。
聞けば杉野くんは、充実した会社行事に興味を持ったのがそもそもの志望動機だったらしい。それは確か、聖もだった。広報部はみんなそういう人種なのかな。
ひとまず、広報関係の質問じゃなかったことに安堵する。
「ええと、これはまぁ、会社説明の動画だからざっくりしか紹介できなかったね……毎年十月に麹野商店街さんと合同でバザーを開催します。麹野商店街さんは、毎年六月にお祭りをするんですけど、うちが運営のお手伝いをしています。このバザーは部署ごとに催しが違って、縁日みたいで。しかも、売上が多かった部署が優秀社員賞を貰えるからすごく盛り上がる……」
あれ、これ、説明になってる?
「へぇぇ、楽しそうですね。学園祭みたいで」
羽崎さんが言った。杉野くんも頷く。それはまるで子どものように。
「そういうの、会社とかにもあるんですねー、意外に」
「いや、珍しいんじゃないかな。どうなんだろ。前の会社はそういうのなくて、飲み会ばっかりだったし」
羽崎さんは苦笑交じりに思い出す。それを、杉野くんが「へぇ」と関心深げに聞いている。
その中に私も加わった。
「羽崎さんって、前職は何されてたんですか?」
「セールスですよ、健康食品の。スーツ着て営業してました」
彼は苦笑いで、嫌味を含むように返す。ラフな格好が好きなのかな。
「まぁ、普通の会社って感じでしたね」
「そうだったんですね。まぁ、うちって他より特殊みたいで、なんだかんだイベント業専門だし。社内の雰囲気もいいし」
聞きながら、言いながら思った。羽崎さんは私よりも社会人歴が長い。
それでも彼は本当に控えめで、ままならない年下の私にも対応が穏やかで。威圧がないからすんなりと談笑に昇華させてしまった。杉野くんも緊張が和らいだようで、前のめりに話に入ってきてくれる。
でも、花島さんだけはなんとも言えない、真顔で黙っていた。時間を気にしている。
同時に私もスマホを出して画面を見る。
「うわ」
社内のSNSグループから連絡がきていた。相田主任だ。
『そろそろ終わったー?』
これは、帰ってこいの指示だろう。
羽崎さんと杉野くんが話している間に、私は慌てて割り込んだ。
「はい、おわり! 続きは同期で飲み会かランチに行ってからやって。まずは仕事しないと」
「はーい」
すっかりくだけた杉野くんが率先して返事をする。花島さんはやはり無言で、ファイルやペンを片付けている。
私はプロジェクターやテーブルを元に戻しにかかった。
「あぁ、先に行ってていいよ。花島さんも。主任に言っといて」
そんな羽崎さんの声が背中に当たる。
ん? って振り返ると、彼はプロジェクターにつないだノートパソコンを操作していた。
「手伝いますよ、山藤さん」
「え? いや、いいですよ、別に……」
「だって、山藤さんがいないと、俺、仕事できませんし」
「あぁ……」
そうだった。指導役だもんね、私。そうだった。
なんか、変だな、私。動揺してる。
同時に、歓迎会で聖に言われたことが頭の隅から飛び出してくる。
「恋活しなさい」っていう。
恋活、ねぇ……いやいや。仕事に私情は挟んじゃダメでしょ。しかも、まだ一緒に仕事し始めたばっかりの相手に。
私は影響されやすいんだから、そういうことは謹んでもらいたいものだ、聖め。
「山藤さん、早くしてください。満川さんに怒られますよ」
プロジェクターを持ち上げて飄々と言う彼。口元が少し、意地悪に思える。
手が止まっていた私は慌ててスクリーンを外した。
***
目まぐるしく動く新体制企画部は、未だぎこちない。
私は一年目と変わらずバタバタしていて、満川さんに小言をかけられるし、新人二人――特に花島さんとは私はまったく話していなくて、彼女はきっかり定時に上がってしまうし、羽崎さんは私のアシスタントみたいにさりげなく助けてくれる。どっちが先輩か分からない……
「先輩の威厳ってやつが欠片もないね、南帆」
「ひじりん、ひどい! 私だって頑張ってるのに!」
給湯室で一息、と言ってもほとんど雑談しかしていない。丁度、彼女がコーヒーを飲んでいたところに居合わせたので私はここ数日についてを話した。
「南帆、あんたに先輩は無理だわ」
なんて言われようだ。でも当たってるもんだから他に言い返す言葉がない。
情けなくふてくされる。
「でもまぁ、それも個性ってやつでしょ。うちの会社、そう堅苦しくないんだしみんな多目に見てくれてるし、いいじゃん。そういうキャラで」
聖は濃い緑色のタバコのケースを手の中でもてあそびながら言った。アメリカンスピリットっていう銘柄だと聞いたことがある。
「しかし、滝田部長もだけど主任はどうして南帆に羽崎くんをつけたんだろうねぇ」
そう言えばどうしてだろう。相田主任には「サポートしてくれ」と頼まれたけど、今のところ私のほうがサポートされている。
「ま、これからじゃない? まだまだ日は浅いんだしさ」
「うーん……」
不満にむくれていると、給湯室の入口に人影が。すらっと冷たいつららのような女性、満川さんだった。私達の間をすり抜けて、自分のマグカップを棚から探る。無言で。
聖が小声で「お疲れさまです」と言えば「お疲れさま」と返してくれるけれど、その素っ気なさが苦手なんだと聖が前に言っていたことを思い出した。
「そんじゃね、南帆」
聖はタバコを振って給湯室を出て行く。置き去りとは卑怯なり。まだ飲みきっていないコーヒーをズルズルすする。
と、急に満川さんが静かに言った。
「山藤さん」
「え、はい!」
トーンの暗さにドキドキしていると、満川さんはお湯をカップに注ぎながら溜息を吐く。
「さっき、羽崎くんに聞かれたんだけどね。あなた、コピー機の使い方くらい教えてあげたらどうなの?」
飛び出してきたのは呆れの声。
コピー機……使い方、教えていない。そうか、そういうのも教えないといけないのか。自然と扱っていたから忘れていたけど、私も新人の頃は満川さんに教えてもらった。
「あのね、山藤さん。部長と主任がどうしてあなたに羽崎くんをつけたのか、分からないようじゃダメよ。仕事を与えるのは私たちの方が的確に簡単に出来るんだから」
「はい……すみません」
言葉は冷たい。いつも怒っているように見える。でも、それに関して不満はない。当然のことを言われているから。
満川さんはコーヒーにグラニュー糖を流し入れ、かき混ぜると無表情のまま私を見た。眉一つ動かさない。
「それじゃあ、頑張って」
「はい」
私は頬を強張らせて返事した。声も固くなる。
満川さんは「うん」と頷くと、もうコーヒーにしか目を向けなかった。
この日は、私は近所の麹野商店街に用事がある。六月のお祭りは企画部を主導に運営するわけで、今年の担当は私だ。
相田主任から引き継いだこのお仕事。三月の時点から顔合わせや打ち合わせ、その他に向こうの祭りを取り仕切る振興会でも入れ替わりがあったりとばたついていた。年度が変わると、お互いに環境が変わってしまうのに、仕事は引き続き進んでいくから止まることはできない。
満川さんから「打ち合わせに羽崎くんを連れていけば」と助言をもらったので、言われたとおり打ち合わせに同行させることにする。
「あの、山藤さん」
後ろをついてくる彼は、よく私に話しかけてくる。
そして、私は余裕がないもので、時計を気にしながら早足で先を行く。
「なんですか」
「俺、ちょっと思ったんですけど、あらかじめ新人研修用にマニュアルとか作ってもらったほうが効率がいいなぁって」
「え?」
思わず足を止めて振り向く。だから、彼も「おっと」と慌てて止まった。
「いや、だって。山藤さんも仕事大変だろうし、俺に構ってる余裕ないでしょ」
彼は控えめに、気まずそうに言う。愛想のいい笑いも交えて。
それは、つまり、私だけじゃ不足だと言いたいのだろうか。
二年目だから。
「すみません……なんか、頼りないように思われてるみたいですね」
「あ、いやいや、そういうつもりじゃなくて。まぁ、頼りないと言えばそうかもしれないけど」
それは一言余計だ。
「主任にも言ったんですよ、そしたら『山藤さんに任せてるから、提案してみたら』って言われたので。すみません、急に」
こうも包み隠さず言われればいっそ清々しい。
私は、もう少し気を配るべきだった。役不足だと思われても仕方がない。だって、余裕がないから。
羽崎さんは黙り込んでしまった。私が俯いたからか、彼の気まずそうな唸りが上から聞こえてくる。
「うーん……気を悪くさせるつもりじゃなかったんですけど……」
「や、大丈夫です。うん……」
気をしっかり持て、南帆。こんなことでくじけるな。
顔を上げて、口角を持ち上げてみせる。すると、羽崎さんは安堵したように笑った。
「はい、じゃあ行きましょうか。打ち合わせ」
気を取り直して言いつつも、私は大きな壁にぶち当たった感覚だった。
聖に笑われ、満川さんに怒られ、羽崎さんに指摘され……このトリプルパンチはさすがに精神にくる。
打ち合わせくらいはきっちりこなさないとなぁ。でも、商店街までの道のりが遠く感じる。
これきり、羽崎さんは何も話しかけてこなかった。私も無言でいる。気まずくって仕方ない。
***
打ち合わせは簡単なものだったので手間取ることなく、すんなりと終わった。まぁ、ポスターの配色決めだけだし、電話でも良かっただろうけど、私は直に会って話をしたいから、営業練習のためにもよく出かける。
羽崎さんも大人しく、私の打ち合わせの様子をじっと見ていた。それに関しては問題ないけど、やっぱりお互いに気まずくて。
どうして、主任は未熟な私に彼を任せたのか。それは、多分、スキルアップのためだと思う。
そして、満川さんと主任は今、とても忙しい。二人が抱える大きなプロジェクトが五月に控えているから。
私は二人に比べればまだまだで、回ってくる仕事も個人経営のお店や契約しているお客さんばかり。ご新規さんの案件を取ったことはない。要するに、指導役が適任だった。
部署に戻ると、相田主任が花島ちゃんに電話の掛け方を教えているのがすぐに見える。あぁ、そうか。そういう基本的なところを教えないといけないんだ。
思えば私は後輩指導のためのプランニングをしていなかった。思いついたことや自分の業務の手伝いをしてもらうだけ。
それじゃダメなんだ。まったく、人にものを教えるってとてつもなく難しい。
じっと彼らを見つめ、どう教えているのか調べる。すると、気づいた相田主任が二度見してきた。
「え、何、どうした山藤」
「いえ。なんでもないです……」
すごすごと自分のデスクに逃げる。そしてレポート用紙を破り、ペンを走らせた。
まずは電話の応対、コピー機やファックスの使い方、メールの書き方、ポスティング、顧客管理、仕様書の手順……おぉ、いっぱいある。書き出せば実は業務内容が結構あり、一体どこから教えようかと悩んでいたのが嘘みたいに晴れる。よし、これらを全部まとめよう。
「へぇ。山藤さんって字、上手いんですね」
「まぁね。これでも書道初段だもん。硬筆だってやってたんだから当然……」
言いかけて止まる。横から入ってきたのは羽崎さんだった。
昼間の気まずさを払拭するような、さらりとした声だったので私も自然に喋っていた。自分でびっくりしてしまう。
「あぁ、どうりで。教科書っぽい楷書でキレイですね」
彼は柔らかに言うと、自分の席に座った。
「なんか、すみません。余計な仕事増やしちゃったみたいですね」
「いや、そんなこと……羽崎さんにはっきり言われて目が覚めました」
言葉を改める。すると、彼はキョトンとした目を向けた。
「さっきみたいにくだけた感じでいいんですよ、山藤さんは先輩なんだから」
「え?」
「だってほら、敬語だとなんか堅苦しいし。俺は別に気にしませんよ」
その言葉には気が抜けてしまう。目を覚ましたばかりだというのに。
「うーん……そう、ですかぁ?」
でも、急にくだけろって言われても。
私の目は行き場がなく、ゆっくりとレポート用紙に落とした。
「そっか……それじゃあ、そういうことで」
「はい。そのほうが俺もやりやすいです」
「え、そうなの?」
「はい」
よく分かんないな。でもまぁ、それでいいなら、徐々に。
私は曖昧に笑っておき、羽崎さんにメール整理を頼んだ。私にはくだけろと言うくせに、彼は礼儀正しく「はい」と返事する。
なんだろう。不思議な境界線を感じる。
話せば話すほど、彼はミステリアスな空気感を漂わせる。
***
研修時期の新人は定時退社する。現在、十八時。
「お疲れ様です」と私に声を掛けて退社する羽崎さんの後ろ姿を見ながら、もやもやと胸中に溜まったものをぷはっと吐き出した。
デスクに突っ伏す。冷たくてひんやりとしたステンレスが頬に当たって気持ちいい……冷たさに癒されていると頭上から低い声が降ってきた。
「はーい、チョコ欲しい人ー」
チョコ……甘いお菓子……!
すぐさま起きて顔を上げた。見るとそこには宙吊りになったチョコレートの赤い包み……
「欲しいです」
手を伸ばすと、チョコは私の手をかすめて消える。見れば、やはり相田主任が面白そうに笑いながら板チョコをひらひら振っていた。
「お疲れさん、山藤」
「お疲れさまです。チョコください」
「はいはい」
伸ばした手にチョコを置く主任。私はすぐに受け取ると、ありがとうございますと頭を下げて包みを開けた。
主任は席につくと、満足そうに笑いながら私のデスクを見る。
「なんだ、仕事終わってないのか」
「終わってません。今日は残業です」
「みたいだなぁ。まぁ、業務が増えたしなぁ、仕方ないね」
「仕方ないです」
もごもごとチョコを食べながら私は主任の言葉をくり返す。適当な返しをしても主任はこのチョコのように甘い。
「あと何が終わってないの? 入力?」
「いえ……羽崎さん用のマニュアルを……」
私は絞り出すようにして言った。チョコの包みを丸め「ごちそうさまです」と言ってゴミ箱に放る。
主任は、何かわけ知り顔でニヤリと笑った。
「一人でできる?」
「できますよ」
ついムキになる。すると、主任は苦笑を向けてきた。
「頼ってもいいんだよー? 後輩指導どうしたらいいか分かりませんって素直に言ってよ」
「うぅ……」
ほら、やっぱり甘い。満川さんがムチなら主任はアメだ。まったくよく出来ているよ、この仕組みは。私は項垂れて観念した。
「去年の山藤なら『無理ですぅ』って言って俺に押し付けてきてたくせになぁ。成長したんだね、山藤」
主任は私のデスクにあったレポート用紙をさっと取り上げて言う。そして、ささっと目を通していく。
「ふうん? まぁ教えるっていっても、こんなもんじゃない? このままちゃちゃっと終わらせなよ。春とは言え、まだ夜は冷えるしさ、二十時までには電車に乗るように」
主任は紙を返すと、上司らしくビシっと言った。でも、すぐに破顔して歯を見せて笑う。そして彼はカバンと上着を肩にかける。
「そんじゃ、悪いけど俺は先に帰るよ」
「あれ? 今日は早いんですね。いつもはダラダラ経理部に入りびたってるくせに」
経理の女子社員としゃべっているのはいつものことだ。それなのに、今日はもう帰り支度をして部署を出ようとしている。あやしんでいると、主任は眉を頼りなく下げて言った。
「俺だって早く帰ることあるよ。今日はちょっと飲みの約束があるんだ」
「へぇぇ? 主任、お酒弱いくせに飲み会行くんですねぇ」
「弱くても好きだから仕方ないよねぇ。ま、今日は友達と飲むし、羽目外そっかなぁー」
そう嬉しそうに、照れくさそうに言った。相田主任は童顔だ。アラサーと言っても愛嬌たっぷりの笑顔になれば少年のよう。思春期の子供みたいなあどけない笑い方をする。それは、友達と会うからだろうか。
「じゃあ、楽しんできてくださいね。お疲れ様です」
「おう。山藤も気をつけて帰れよー」
そう言って彼は意気揚々と部署を出ていった。
いいなぁ。私も聖に連絡してみようかなぁ……と、思い立てば早い。私はスマホのトークアプリから聖に連絡を入れた。
「飲み行きたい!」とストレートに言ってみる。それじゃ、返事を待つ間にパパっと終わらせよう。
糖分が上手く全身に回ったので、疲れはいつの間にか吹き飛んでいた。
***
聖はどうも今日は都合が悪かった。
「ごめん、無理」と愛想のかけらもない文字のあとに太眉の雄々しいクマが土下座するスタンプを送りつけられた。それなら仕方がない。
慣れない作業に手間取りながら、黙々と文字を書いていく。マニュアルを作り終わった頃、時刻はとっくに二十時を回っていた。
「やばーい……」
残業ハイのせいで、言葉がゆるくなってしまう。
誰もいないし、私一人だけ。いや、でも他の企業に比べたらうちはゆるい方らしい。まあ、年末は例外だけど。
デスクに手を付きながら立ち上がる。
うっわ、腰痛い。思わず「おおぅ」と低い声が漏れる。背骨が丁度、パキッと音を立てたので気分的になんだか滅入ってくる。ゆっくり伸びをして体をほぐしてみると、まあまあ楽になった。あまりデスクワークをしないからか、イスに座って文字を書くのも久しぶりだった。
レポート用紙にまとめたものを改めて見てみる。うん。これで大丈夫。彼がどんな顔をするかちょっと楽しみだったりするので、私は無意識にニヤニヤと笑った。
「よし、帰ろうっと。帰ってもう一回確認しないとだし」
マニュアルをカバンの中にしまって、部内の電気を全て切ろうと窓際に行く。
ふと下を見ると、誰かがいた。
くしゃっとした黒髪に、ジャケット。会社の敷地内だから、誰かはすぐに分かる。
「あれ……? 羽崎さん?」
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