アンビバレンス

小谷杏子

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第10話 交わらない三角形

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 朝礼と同時に、今日は企画部でミーティング。
 相田主任がてきぱきと話を進めていく。
「――それじゃあ、当日はこの担当割で動いてください。ご協力よろしくお願いします」
 配布されたプロジェクトのしおりには、誰がどこを担当するかが書いてある。
 六月頭の土日は、私が担当している商店街のイベントがあるから、この二日間は私と羽崎さんだけが外れている。ただし、他の日にヘルプで入らなくてはいけない。それも二人一緒に。
 これは、絶対に仕組まれた。そしてこの犯人はすでに分かっている。主任だ――
「あ、山藤ー」
 解散してすぐ、タイミングよく相田主任に声をかけられた。
「ちょっといい?」
 そう言って手招きしてくる。
 なんだろう。
 私はちらりと羽崎さんを見た。少しだけ固い表情だったけど、特に何も言わない。その表情を読み取ることは難しく、私は諦めて息を吸い、「はーい」と応じた。
 奥の打ち合わせスペースに連れてこられる。デスクから遠いにしても、ついたてで隔てられただけの場所。密談するには適さない。それなのに、前置きもなしに小声で聞かれた。
「羽崎と仲直りできた?」
「あ、はい。おかげさまで。先日はありがとうございました……でも、主任、余計なことしすぎですよ」
 羽崎さんを呼んだり、花島さんに根回ししたり。その不満を小声で厳しく言う。彼は楽観に笑った。
「まぁまぁ。仲を取り持つくらいはしたいじゃん。でも、花島ちゃんにも乗り気だったんだよ? これも山藤の人柄がいいからだねぇ」
 サラッとそんなことを言うんだから。
 私は「はぁ」と溜息を吐いた。主任は「なんで?」と溜息の理由が分かってない。
 このスーパーど天然魔性め。
 同時に、このライバルが最強すぎることに気づいた。強すぎて適わない。羽崎さんが彼を好きな理由は考えなくても分かるな……はぁ。
「なんだよー、その顔は。なんか、酸っぱいものを我慢して食べてる顔だよ、お前」
 指摘されてもその顔のまま、眉毛に力を入れて「なんでもないです」と言い張る。
 デスクに戻ろうと、ついたてから出る。羽崎さんがこちらをじっと見ていた。疑いの目……。
「なんか、言われました?」
 近づくと彼は不安そうに訊いた。
「言われたっていうか……こないだのことと、主任の過保護ぶりを指摘しただけ」
 椅子に座って、苦笑いで返す。羽崎さんも思い当たるように「あー……」とこちらも苦笑い。
 すると、主任もこちらにやってきた。そして、芝居がかったように「羽崎くーん」と彼の肩を叩く。
「あんまり山藤を怒らせちゃダメだからね」
「は? 主任じゃあるまいし、そんなことしませんよ」
 すかさず羽崎さんが言い返した。
 先ほどの不安から打って変わって、完全な塩対応。ツーンと冷たい目で主任を見る。
 しかし、主任はそれに慣れているからか、愉快そうに笑って羽崎さんの耳元に口を寄せた。こっそりと彼に耳打ちする。
「山藤は怒ったらおしぼり投げてくるからな、気をつけろ」
「ちょっと! 主任!」
 内緒話してることもだけど、丸聞こえなそれには語弊がある。あと、顔近いから!
 色んなことにいきりたって、デスクを叩いて抗議すると、羽崎さんは主任の顔を押しやって嫌そうに眉をひそめた。
「それ、主任がよっぽどのことしたんでしょ、自業自得」
 彼は本当に嫌そうな顔をする。スルースキル鍛えすぎでは。本当に好きなのか疑わしいレベルだ……。
 呆気にとられる私をよそに、羽崎さんは主任のお腹を殴って意地悪そうに笑った。
「主任こそ、山藤さんをあまり困らせないでくださいよ」
「それ、お前だけには言われたくないわー」
 主任がお腹を触りながら顔を引きつらせる。そして、すねたように眉をひそめた。
「まぁ、いーや。仲直りしたんなら、それで。心配してんだからねー? あんま、ケンカすんなよ」
 軽い口調だけど、柔らかい言葉。私と羽崎さんは同時に「分かってます」と素直じゃない。
 そんな私たちに主任はクスクス笑いながら、満川さんのところへ行った。ようやく離れてくれた……。
「はぁ……」
 気が気じゃない。
 溜息を漏らして横を見れば、羽崎さんは頭を抱えている。耳が少し赤い。それが何を意味するか気づいた私は、また眉に力を入れた。
 あー、もう。主任ってば、本当にずるい。
「……て言うか、主任に対してめっちゃ塩対応ですね。意識しすぎじゃない?」
 言ってみると、彼は「えっ」と息を飲む。
 いやいやいや。
「まさか、無自覚だったの?」
「無自覚でした……」
 再び頭を抱える。その両手を顔まで降ろして、肘を立てて、手のひらで覆って息をつく。挙動不審。そして、長い指の隙間から私をちらりと横目で見た。
「……恥ずかしいから見ないで」
 その声は小さく弱々しい。
 嬉しそう……。
 そんな彼の意外な一面に驚いてドキッとする……いや、違う、私は今、嫉妬しないといけない!
 顔の中心に力を入れる。すると、それを遠くから部長に目撃された。めちゃくちゃ驚いていた。


 ***


「……本当に大丈夫よね?」
 午前十時。メール整理や打ち合わせなどのスケジュール確認をしたあとのこと。
 出かける前に私はずっと羽崎さんに言った。
「私がいなくても大丈夫よね? 何かあったら連絡してね」
「大丈夫ですって。山藤さんがいないほうがまだ捗るかもしれませんよ」
 なんて言い草だ。私がしつこいせいか、うんざりしたような返しだ。
 今日は、私は相田主任のお手伝いにレストランへ行く。その間、羽崎さんは満川さんと花島さんと一緒にお仕事。今までも私以外との仕事はあったけど、でも、事情を知っている今はなんだか、とても心配になる。
 不安に目を細めていると、羽崎さんは目元を緩ませた。
「山藤さんは大げさなんですよ」
「えぇ? そう?」
「うん。そういうとこ、あの人にそっくりでやだなぁ」
 苦々しく言われる。
「あの人?」
 誰か分からず首をかしげると、彼はくすりと笑った。
「相田主任にそっくり」
「あー……えぇ……?」
 それは、なんか、癪だな。
「ともかく、こっちは大丈夫なので」
「でも、満川さんと花島さんとだし……」
 ごにょごにょと煮え切らないでいると、羽崎さんは呆れたように溜息を吐いた。そして、私の両肩を掴む。
「あんまりそういう配慮はいらないんですよ、本当に。簡単に言えば、嫌いな食べ物は好んで食べないってことで、それとおんなじ」
「はぁ……」
 なるほど。
「山藤さんは頑張りすぎるとミスするから、あんまり頑張らないでください」
「えぇ……」
 この期待されてない感じね……へこむけどなんにも言えない。
「はい、じゃあ、いってらっしゃい」
 くるっとひっくり返され、出口まで押されて見送られる。
 どっちが上だか分からない。私は何度も振り返りながら様子を見ていたけど、彼はまったく私のことなんか気にせずに、自分のデスクに戻っていった。



 レストランまでは相田主任の車で向かった。
 助手席に私、後部座席には今回の広報担当の聖と杉野くんがいる。
「今日は先方に提出するメニューの打ち合わせということで。昼まで話して、そっからランチ。出海いずみが美味しいもの作ってくれるかもしれないから期待してていいよ」
 軽快に言う主任。私はその横で思わず笑った。出海さんの名前が出てくるだけで、今となってはおかしくてしょうがない。
「ねぇ、ナギ主任。出海さんと付き合ってるってホントですかー?」
 後ろから聖が言う。杉野くんが「えっ!」と驚く声が聞こえる。
「どっから仕入れた、その情報!」
 主任がハンドルを切りながら絶叫する。聖は「あははー」と軽く笑った。
「もうみんな知ってますよ。てか、知らないのって杉野くらいでしょ、ねー? 南帆」
「ねー。私も最近まで知らなかったけど、結構みんな知ってましたよ」
「嘘だぁー……マジかよー……なんでバレたんだよー」
「経理の内田さんからじゃないっすか、うちの会社って経理に聞けば大体のこと分かるし」
「俺のオアシスが落とし穴だったわけか……なんか、出海に見張られてる気分」
 それはあながち間違いじゃないだろう。
「主任が女癖悪いの、みんな知ってるから出海さんに協力してるんですよ」
 私が言うと、主任は「女子って怖い」と弱々しく言った。
 そんな和やかなドライブもあっという間で、車通りの少ない場所に出ると、すぐに彩菜館の看板が見えてきた。
 茶色と黒を貴重としたモダンな外観に、デザインされたロゴで彩菜館と書いてある。洋風だけど和を取り入れたような、いわゆる和洋折衷のような。コンセプトは和の素材を使った無添加洋食レストラン。
 裏口のスタッフオンリーと書かれた重たい鉄扉から入る。
「お疲れ様でーす、味彩企画部と広報部です」
 主任が先頭に入り、中を覗く。全面シルバーのパントリーには、ゆったりとくつろいだ調理スタッフたちがちらほら。コックコートの白が目に新鮮で、パントリーに流れる油や調味料の香りがうわっと全身を覆う。
「あ、お疲れ様ー」
 ぽやんとした声がパントリーの奥から聴こえてくる。白いコックコートに大きなコック帽、飾り気のない顔とスタイルが癒やしを与えてくれる。出海あすか調理長がにこやかに出迎えてくれた。
「久しぶりだね、山藤ちゃんに筒井ちゃん。大きくなったねぇ」
 歓迎の言葉が謎だけど。
 出海さんは主任を押しのけて私と聖の手を取った。
「うち、男所帯なものだから女の子が来るとほんと嬉しいんだぁ」
 会う度に毎回言ってるような気がする。
「僕もいますよ」
 私たちの後ろからひょっこりと杉野くんが顔を覗かせる。すると、出海さんは「あぁ、君も来たの」と愛想が悪い。あからさますぎて笑えない。
 その横で、主任が咳払いした。
「はいはい、オープン時間ずらして打ち合わせするんだから、もうおしまい。ほら、全員ホールに行った行った」
「はーい」
 主任の号令でひとまずはホールへ。
 それから、私は会社から持ってきた資料を大テーブルに広げた。その背後で、出海さんが主任と話をしている。
「試食品は一応、全部できてるんだよね。盛り付けやその他もろもろはまだ検討中だし、開発部に頼んであるけど、味はそっちの指定通りだから」
「さすが出海!」
「当たり前だ。私を誰だと思ってんの」
 主任の賞賛も一刀両断。この二人、本当に付き合ってるのか疑わしくなってきた。
「本当に付き合ってるんですか、あの人たち」
 杉野くんも疑っている。聖も曖昧に笑い、私は首をかしげた。
「本人はそう言ってたよ」
「本人ってどっち」
「相田主任」
 言うと、杉野くんはますます疑いの目になった。
「……思い込んでるだけじゃないですか」
「それ主任に失礼だからね……でも、まぁ、分かる」
 誰がどう見ても付き合ってるようには見えない。付き合いたての初々しさなんて微塵もなく、むしろ熟年夫婦のような貫禄だ。
 そんな内緒話をコソコソしているうちに、出海さんが試食用の料理を台車に運んできた。
 今回、大手メーカーさんのイベントで出店を考えているのは、野菜のみのフルコース。立食でも簡単に食べられるような軽食風に仕立てる。
 イベントの展示場ではそれぞれ業界のブースが並び、味彩はイベント企画のお手伝いとして参加する。
 向こうが提出してきたイベント企画をこちらで練り、主任と満川さんが入念な打ち合わせをして、開発部でメニューを組み、レストラン部の出海さんがメニュー通りに試作品を作る。そういった流れを今の段階で、もう三回は行っている。
 絶対に失敗できない仕事なんだと、プロジェクトの担当じゃない私たちでも伝わるくらいの緊張感がある。
 ちなみに、今日の私のお手伝いとは書紀係だ。試食しながらの会議なので、主任が出海さんとあれこれ話していることをメモしていく。
 広報部の聖は写真を撮る。先方に写真のデータを送るのはもちろんだけど、社報に載せる活動報告も兼ねている。杉野くんはSNS担当だから、写真を撮ってレポートをネットにアップする役割。まぁ、まだ先輩について回らないと仕事が分からないから、と聖は言っていた。
 暗いホールで二時間は、主任と出海さんが真剣に話をする。
 その姿を見て、妙な邪推なんてできないくらいに私も真剣。肩に力が入る。
「――じゃ、そういうことにしようか……あー、腹減ったなぁ。もう一時か」 
 主任が腕時計を見て言う。少し疲れた声で、ネクタイを緩めた。
「お腹すいた人ー」
 その場にいる全員に言うと、私たちはすぐさま手を挙げた。
「よし、お昼にしよっかー。出海、お願いします」
「はいはい」
 出海さんが笑いながら言うと、緊張が切れたように空気が一気に緩んだ。
 グランドメニューを渡され、私たちはそれを奪い合うように一緒に見つめる。
「オムライスお願いします!」
「あたしはハンバーグステーキ! 青じそおろし!」
「え、早っ。えーっと、私は……ビーフシチューにします!」
 杉野くんと聖が早すぎて一歩遅れた。とっさに目に入ったビーフシチューを頼む。
 すると、主任が横から入ってきて嬉しそうに言った。
「俺もこのビーフシチュー好きなんだ。出海のビーフシチューは本当に美味いから」
 ふわっと優しげな目をする主任。そして、全員の注文を聞いて、パントリーへ行った。
「オムライス1、ハンバーグおろし1、ビーフシチュー2、お願いしまーす」
 慣れたようにオーダーして、パントリー内に消える。その後姿を小窓から覗くと、出海さんと主任の楽しそうな横顔が見えた。
「……あれは、付き合ってるわ」
 私の後ろから聖がぼそっと呟く。
「やっぱり?」
「うん、間違いない」
「え、マジっすか!」
 杉野くんも興味津々。
「なんだかんだ言って、仲良さそうだしね。主任は分かりやすいけど、出海さんは隠そうとしてる感じがダダ漏れっていうか」
「あー、なるほどねぇ」
 クスクスと私たちは笑い合う。それから、ふと、私は羽崎さんを思い出した。
 レストラン研修、彼はあの様子を見たんだろうか。見た時、どう思っただろうか。
 花島さんが言ってたけど、彼は確か、何度か席を立ったと……堪らなく辛かったに違いない。
 そう考えると、段々と顔が笑えなくなってくる。
「どうした、南帆?」
 目ざとい聖。私はすぐに取り繕った。
「なんでもない」
「ふうん? あ、そうだ。作ってるとこ写真撮らせてもらおーっと。南帆、一緒に行こうよ、杉野も」
 聖はカメラを構える。つられて私たちも中へ入った。
 香りの良いオリーブ、まろやかなバター、そして香ばしくも甘みのある塩と醤油、色んな香りが混ざった煙が立ち上る、忙しい厨房。鍋を回す音が響く。
 その中で、仲良く話している出海さんと相田主任。気が抜けているかのように無防備に笑う二人。それは、繕いのない素そのものだった。
「はいはーい、ちょっといいですかぁ」
 果敢にも二人の間に割り込んでいく聖。
「主任、邪魔になるからホールにいてください」
「はぁ? なんだよ、もう」
「私はお水の用意しますから、主任はテーブルの用意お願いしまーす」
 聖にならって私も主任を外へ追い出す。
 不満そうにホールへ出ていった。
「……出海さーん」
 聖がすり寄るように、鍋の前にいる出海さんに言う。私も聞き耳を立てながら、トレーにグラスを置いて氷を入れる。
「ナギ主任と付き合ってるって聞いたんですけど」
「あれ? 今更?」
 何かと思えば、と出海さんはまんまるの目を細めて照れくさそうに笑った。私と聖はキョトンと顔を見合わせる。
「もう去年の暮れぐらいから付き合ってるよ? 情報流れるの遅いね」
「それ、どっちも隠してたからじゃないんですか」
 私もグラスから離れて話に加わった。
「んー、まぁ、そうかな。でも、あいつはすぐに言ってるもんだと思ってた」
「主任って、隠しごと向いてないですもんね」
「ほんとにねー。あぁ、なんか他にも漏れてそうでやだなぁ」
 そうは言うけど、出海さんは嬉しそうに笑う。幸せが眩しい。
「でも、いつの間にそんな仲になったんですか?」
 もう少し踏み込んでみる。すると、出海さんは「うーん」と首をかしげた。鍋のシチューをくるりと撹拌しながら。
「なんだろ……なんか、あいつから言ってきたんだよね。付き合ってって」
「雑な馴れ初めですね」
 聖がつっこむと、出海さんは眉をひそめた。
「そうなんだよ、ムードのかけらもなかったし、しかも仕事中に言うし。ほら、相田って、レストランの仕事に来るでしょ。そういう時、私がまかないでご飯を作るんだけど、その時かなぁ……お前の飯を毎日食べたいって言われた」
「おぉ……」
 出海さんの話に、私は素直に胸の中がじんわりとぬくもる。なんか、私はまったく関係ないのにどうしてだろう、嬉しくなる。多分、幸せがうつったんだろう。それは多分、聖も同じなのか、三人で「ふふふ」と含むように笑った。
「なんかノロケみたいだねー。恥ずかしいっ」
「出海さんかわいー」
「やめてやめて、恥ずかしいから!」
 くすぐったそうに笑う彼女に、私はさらにつついてみる。
「主任ってばスミに置けないなぁ。でも、主任が出海さんに惚れたことがなんか嬉しいです」
「そう? でも、あいつ、本社では女の子ばっかり追っかけてるって聞くよ」
 信用がないことも知られている主任……でも、それを全部受け入れてるところ、出海さんも強いなぁと思う。信頼し合ってて、誰の邪魔も受け付けない。そんな感じ。あぁ、これは適わない。
「二人とも、あいつからセクハラ受けてない?」
「セクハラはないですね」
「もしそういうのがあったら、ぶん殴ります」
 私たちは自信満々に言った。おしぼりを顔面に投げつけるくらいのことをしている、というのは黙っておこう。すると、出海さんは豪快に笑った。
「あはははっ! まぁ、それくらいしていいよ。てか、そういうの見たら頼むよ。おもいっきり引っ叩いてやってね」
「了解です!」
 私たちは「ふふふ」と不敵に笑いあった。
 今ごろ主任はくしゃみをしているかもしれない。彼の知らないところで強い結束が出来てしまった。
「はい、そろそろできるからホールに戻りなさーい」
 鍋にたっぷりのビーフシチューはとろりと美味しそう。和テイストのシチューは出汁のいい香りがする。
 聖と杉野くんは素直にカメラを仕舞ってパントリーを出ていった。 
 私も水の用意をしている途中だった。慌てて戻って氷とレモン水を出していると、お皿に盛り付けしながら出海さんが声をかけてくる。
「ねぇ、山藤ちゃん」
「はい?」
「こないだ入ったばっかの羽崎くん。相田の後輩の。あの子ってさ、山藤ちゃんの彼氏?」
「え? なんで……?」
 なぜ……いや、なんでそう思ったんだろう。
「あ、そうだっけ。いや、相田がさ、よく話してくれるんだよねー、山藤ちゃんと羽崎くんのこと。なんかないの? そういう浮ついた話は」
「いやいや、まだ二ヶ月ですよ? そんな早く、そんな話は……」
「でも好きなんだよね?」
 サラリと言われる。主任って、本当に口が軽い……だったら、出海さんは羽崎さんのことをどれくらい知ってるんだろう。
 女性が苦手になった理由とか、どこまでを。
「あの、羽崎さんのこと、他に……」
 いや、他人から聞き出すなんて、ダメだ。私はまた同じことをしようとしている。そんな気がしてやめた。
 出海さんはキョトンとして、それからあっけらかんと言った。
「まぁまぁ、相田が気にかけてるくらいなんだからさ、早く付き合っちゃいなよ」
 それができたら苦労しません……とは言えず。
 私は曖昧に笑って「もう、やめてくださいよー」とごまかした。


 ***


「……それじゃ、今日まとめたレシピとレポートを改めて検討ということで。これ、先方に持ってくから、山藤はレシピを開発部に回しといてね。全部ぶん投げるだけでいいから。よろしくー」
 会社に戻って、私たちを降ろしたら主任は資料が入ったケースを私に寄越した。そして、自分はそのまま車でお客さんのところへ。
「お疲れ様ー」と広報部の二人と別れ、私は先に荷物をデスクに置こうと企画部へ戻った。
 羽崎さんから何も連絡なかったけど、大丈夫かな。心配しすぎだとは思うけど、やっぱり気になる。
 クリアな扉からそっと覗く。満川さんはいない。花島さんと羽崎さん二人で、リーフレットの折り目を付けている。和やかに。楽しそうに笑ってる……それを見ていると、一番に安心が湧き上がった。
「あー……良かった」
「どうしたの、山藤さん」
 背後からひやりとした声。驚いて肩が上がる。
「み、みみ満川さんっ、お疲れ様です!」
「お疲れ様。そんなに驚かないでよ」
「すみません……」
 コーヒーを取りに行った帰りらしい彼女は、私の驚きように顔を引きつらせる。そして、ちらりと企画部の中を見た。
「あぁ、あの二人。仲良くて何よりだわ。あなたも私も、主任も心配しすぎね、本当に」
 くすりと小さく口元を笑わせる満川さん。私もつられて笑って「ですね」と返した。
 クリアな扉を開け、一緒に企画部へ入る。
「ただいまー」
 声をかけると同時に二人が私に気づいた。そして、すぐさま羽崎さんが立ち上がる。
「満川さん、とりあえずリーフレットは終わりました」
「あぁ、ありがとう。それじゃあ……羽崎くんは山藤さんの手伝い、よろしくね」
「はい」
 それから彼はリーフレットをダンボール箱に詰めて、そそくさと私のところに来た。
「お疲れ様です、山藤さん」
「お疲れ様です。なんか、花島さんといい感じね。仲良くなれた?」
 早速訊いてみると、彼は笑顔で返した。
「いえ、無理でした」
「は……え、えぇ?」
 聞き間違いかな、無理でしたって聞こえたんだけど。顔と言葉が合ってないんだけど。
「いやぁ、花島さんって一番苦手なタイプですね」
 照れくさそうにごまかされる。いやいや、これは一体どういうことなの……。
「いろいろ話したんですよ。でもね、相性が悪いっていうか……彼女、ズバッとものを言うからなんか……」
 だんだんと言い訳に暗雲が立ち込め始める。
 これは、前途多難だわ……。
「ま、まぁ、これからだよ。慣れよう、ね?」
 前向きに言ってみる。でも、彼は苦々しい顔をするだけだった。
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