アンビバレンス

小谷杏子

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第11話 不意打ちにご注意

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 打ち合わせへ向かう道中、話を聞けば、どうやら花島さんにきちんと事情を言ったらしい。私に言ったものと同じ内容を。
 すると、彼女はこう言ったという。
「ふーん。でも、別に羽崎さんにキョーミないんで、マジどうでもいいっす」
 ばっさりとぶった斬る花島さんには、一周回って尊敬すら覚えた。これくらいあっさりしているほうが気にせずに済むのになぁ。
 しかし、羽崎さんはそれに対しても複雑な思いを抱いているらしい。
「言い方ってもんがあるでしょ、言い方が」
「まぁ、それもそうなんだけど……お願いだから仲良くして」
「分かりました。表面上はいいですよ、山藤さんが言うなら」
 拗ねたように言う。なかなか打ち解けるには難しそうだ。
 反面、ここまで素を見せてくれるのは正直嬉しい。相田主任が言ってたことを思い出して、思わず口元が緩む。
「何か?」
 おっと、笑ったのがバレた。慌てて「なんでもない!」と口を塞ぐ。それでも、羽崎さんは追求の目のまま。じっとりと見てくる。
 ……はい、降参。
「いや、あの、主任が言ってたの。羽崎さんって子供っぽいんだって」
「……うーん」
 彼はうなじを掻いて唸った。不満そう。
「弟っぽいとは言われますね……まぁ、姉がいるから間違いじゃないんですけど」
 微妙に認めない口ぶりだ。
「へぇぇ? お姉さんがいるんだ」
「まぁ、しばらく会ってないんですけどね」
「え、実家に帰らないの? お正月とかお盆とか」
 家族に会わないって、寂しいじゃない。
 素朴な疑問に、羽崎さんはまたも「うーん」と濁す。
「会えないんですよね。でも、そろそろ大丈夫かなー」
 言葉が急に重さを含んだ。
 ……あぁ、そうか。お姉さんにも会えないくらい、彼の抱えてるものは深いんだ。
「あー、でも、そう言えば全然帰ってないんですよ。いい加減に会わないとなぁ……向こうも事情は知ってるし、顔見せるくらいはしないと」
 しんみりしたくないからか、羽崎さんは慌てて繕う。そろそろ耐性がついてきた私も「そっかぁ」と返せるくらいにはなった。
 さて。
 今から打ち合わせだ。バスを降りて、麹野商店街へ。私はポスターの色校を抱え、羽崎さんには当日配るイベントリーフレットを持たせている。
「いよいよ大詰めかー。頑張っていこう」
 大きく伸びをして、すっきりとした空気を吸い込む。低めのヒールをカツンと鳴らし、余裕の態勢で商店街の入口に立つ。
「今日は一段と気合入ってますね」
 私とは対照に羽崎さんはのんびりとしている。ふわっとした髪の毛が太陽に当たって光った。背が高いからあんまりきちんと見ていなかったけど、彼の髪色はダークブラウン。光に当たると金色に見えた。
 それを見ながら、意識して笑ってみせる。本当は緊張しているけど、そんなことを悟られたら格好がつかない。
「うん。私にとっては初めての大きなイベントだからね。主任から引き継いだのもあるけど、絶対に失敗したくないし」
「ですね、失敗はしたくない。頑張りましょう」
「よし!」
 アーケードの中へ一歩踏み出し、私たちは最後の打ち合わせに向かった。


 
 広報担当の元岡さんは大柄で声が大きい。体育会系っぽい。柔道やってそう、というのが第一印象。そんな彼の小さな目にポスターを広げて見せる。
「これが最終校のポスターです。カラーコピーとは違って色味が淡くなりますが、今年は昨年と雰囲気を変えて、女性のお客様を呼び込むコンセプトですので問題ないかと」
 しかし、彼は渋い顔つき。これはなんだか雲行きがあやしい……
「これ、修正まだききます?」
 まったく予想外の言葉が飛び出し、私は笑顔のまま固まった。
「え……?」
「修正だよ、修正。なんかイメージと違うなぁって思ったんですよねぇ。やっぱり、爽やかなイメージにしたいんですよ。時期的にも、ピンクじゃ季節外れな気がするんだよねぇ」
 出ました。この間も状況を一転二転させるようなことを言って打ち合わせが長引いた。変にこだわらずにこっちに任せておけばいいのに、なんて、そんなことは言えるはずがなく。
「前回、これでいいって言われましたよね……?」
「うん。でも、なんか違うから。前の案に戻してみて、それと見比べたいんです」
 うわぁ……今更、無理難題を言うなぁ。
「あとね、あんまりパステルとかポップ調にしてしまうと、今度は男性客が入りづらくなるんだよ。そういうお話もしましたよね?」
「そうですけど、一度は決定したわけですし。それに、振興会にはもうOKもらってますし、また一からやり直しですよ。そんな時間、ありませんよ」
 三月の後半からずっとデザインを練ってきた広報部の出来にケチをつけるのは、こちらとしてはいい気分はしない。大体、今年の祭りは「心機一転」をキャッチコピーにしている。前年度までの和風イメージを変えるという希望を元に企画した。上の許可も取ってある。今日で最終だとも言ってある。それなのに、急に話を変えるのはいただけない。でも、出来るだけ希望は叶えたいわけだし……
 考えていると、黙っていた羽崎さんがポスターを手に取った。ちらっと私に目を向けて、続けて担当者に向かう。そして、口を開いた。
「うーん……パッと見た感じ、そんなに気にしませんけどね、僕は」
 少しだけ、ほんの少しだけ声に棘がある。
 でも、その言葉は私にとっては救いだった。担当者の目が少しだけ揺れる。その隙をつくように私は息を吸いこむ。
「ほらほら、若い男性がそう言ってますよ。ね、問題ないですって。それに、若い方や親子連れの呼び込みもうまくいくと思いますし、大事なのは商店街に来ていただくお客様全員に楽しんでもらうことです。そのためには、皆さんのご協力が必要です。楽しいお祭にしましょう」
 にっこりと微笑んでみせると、担当者は少し困ったように眉を下げた。
 そこからはもうトントン拍子に話が進み、打ち合わせの時間も定刻どおりに終わった。その間、羽崎さんはもう前に出ることもなく、打ち合わせが終わったあとは表情も緩んでいた。
「――あー、終わった終わった。あとは、チラシを納品して、当日のセッティングだけ……疲れたぁ」
 帰り道、気が抜けた私は商店街を出てすぐに肩を落とした。くたくただ。大きく伸びをして、猫背になって、フラフラとバス停まで行く。その後ろから羽崎さんが追いかけてきた。
「お疲れ様でした、山藤さん」
「あー、お疲れぇ……」
 だらしなく腕と足を投げ出すと、羽崎さんは愉快そうに笑った。
「山藤さんって、やっぱりすごいなぁって今日思いましたよ」
「え? どのへんが?」
 まったく思い当たるフシがない。
 羽崎さんはまだ笑いながら言った。
「どのへんって、ああやって立て直して、うまく丸め込んで」
「丸め込むって……まぁ、でも、納得させないといつまで経っても終わらないし、こだわるとキリがないからね」
「ですよね。あれ、今日もずっと終わらなかったですよ。それで、なんか、口を挟んじゃいました」
 彼は笑いの中に申し訳無さを含んで言った。
「つい、イラッとしちゃって」
「あ、やっぱり。なんか棘があるなぁって思ったのよ」
 でも、あの言葉がなかったら私のほうが怒っていたかもしれない。そして、話ができなくなっていたかも。
「羽崎さんのおかげだよ……ありがとう、ね」
 なんか恥ずかしい。けど、まっすぐに彼の目を見て言う。
 羽崎さんも照れたように笑って、目を逸らしてしまった。
「あ、バス来ますよ」
「逃げなくてもいいじゃん」
「いや、だって、面と向かってお礼言われるの恥ずかしいし」
 そう言ってバスの中に乗り込む。その背中を追いかける。
 席はたくさん空いている。でも、私は自然と一人席に座って、羽崎さんはその横で立ったまま。この微妙な距離感がもどかしいけど、まだ、このままでいいんだと思う。
「……山藤さん」
 エンジンの音が大きく、その声は少し耳を持ち上げないと聴こえない。
「今日はお疲れ様でした」
「え? うん、お疲れ様」
 なんでもう一回改まって言うんだろう。顔を上げると、彼は優しい目で言った。
「今日の仕事、すごく参考になりました。ああやって、誰にでも臆することなく話せたらいいなぁって思いましたよ」
「そう? でも、羽崎さんだって、できるでしょ」
「いや、そんな自信はないですよ。話すのって、頭を使うし。素直に見習いたいです」
「褒めてるの、それ」
「褒めてますよ。すっごく褒めてる。山藤さんの持ち前の明るさとか、人柄がいいからかも。そういうの、すごくいいなぁって思います」
 音が紛れているからか、さっきまでの照れはなく、真剣に言われる。今度は私が照れる番で、ものすごく恥ずかしい。顔が熱くなる。バスの中は涼しいのに、私の周りだけ熱い。
「もう……もう! あんまり褒めないで! 恥ずかしいでしょ!」
 引き上げてきたポスターを押し付けて彼の視線から逃げる。心臓がばくばくとうるさくて、嬉しいやら恥ずかしいやら、感情が忙しない。
 すると、羽崎さんはイタズラっぽく笑った。
「さっきのお返しです」
 やられた……。
 もう、本当に、心臓に悪い。


 ***


「うーん……進展がない。つまらん」
 聖からそんなクレームがきたのは、嬉しい帰り道の翌日。いつものカフェでお昼を食べていた時だった。
「進展か……進展はないかなぁ、でも、少しずつ近づいた感じはあるよ」
 ミートソースパスタをくるくる巻いてぱくりと一口食べる。そんな私に聖はこれみよがしの深ぁーい溜息を吐いた。
「あんたは亀か。いや、亀のほうが速いわ。もっとさ、こう、ぎゅっと、急展開みたいなのないわけ?」
「残念ながら、脚本がないのでそう簡単にはうまくいきませーん」
 毅然に言い返すも、自分で言っておきながら情けない。
 でも、そう簡単にはうまくいかないのだ。私は、叶わない恋をしているのだから。
 好きでいようと思ったけど、それは一体いつまでなのか。羽崎さんの契約が切れて、退職するまでなのか。それとも、私が他の誰かを好きになるまでか。ともかく、繋がれた縁が切れるまではこのままなのかもしれない。うーん……それは苦しいな。
「ねぇ、南帆。悩みがあるなら言ってよ」
 私の顔を窺って聖が言う。その声には心配の色がある。
「え? 悩み? ……ないよ?」
「いや、あるね。めちゃくちゃ顔に書いてある」
 鋭い指摘に、私は自分の頬を隠すように触った。
「ないよぅ……」
 ごまかしが苦しい。
「ほんとにぃ? まぁ、言いたくないんなら無理には言わないけどさぁ」
 そう言いつつも聖は私の話を聞きたくてウズウズしている。でも、さすがに全てを言えるはずがないので私はどう濁すか考えた。頭の中をフル回転させる。
「うーん、なんだろー……なんか、人の趣味趣向に合わせようと頑張ってる感じ……?」
 きついかな、この言い方。ギリギリかもしれない。そして、私は顔に出るタイプのようだし。まったく、この顔を取り替えたいくらいだわ。
 あはは、と笑いも浮かべてみる。すると、聖は少し険しく眉をひそめた。
「なんでこっちが全部合わせなきゃいけないの」
 思ったよりも辛辣な言葉が飛び出した。
「自分よりも相手優先ってこと?」
「いやぁ、でも、そうしないといけないことも、あるかも? しれないじゃん……」
「関係ないね。それは南帆個人の利益にはならない。そうじゃない?」
 聖の鋭い言葉に、私は何も言えなくなった。
 だって、そんな、合理的に済む問題じゃないし、でも、羽崎さんの問題は確かに私の問題じゃない。でも、他人事にできないし。知ってしまった以上は。
「まぁ、あたしが言ったところで南帆が器用に立ち回れるか……は、無理だろうしねぇ」
「あははは……まったくその通りで」
 いくら周りから気にするなと言われても、ドツボにはまるのが私だ。損な性格だなぁ。
 これが普通の状況なら、私だって……あーもう、「ふつう」ってなんだろ。
 一般的で平均的なこと? それを「ふつう」って言うのなら、羽崎さんは確かに「ふつう」じゃない。でも、それが異常だとは思えない。それは私が彼を好きだから……?
「何をそんなにむすっとしてるのさ」
 考え込む私に聖が怪訝な目つきをする。
「私だってむずかしーことを考えたりするもんなんですよぅ」
 おどけて返せば、聖は「生意気な」と笑った。
「さては恋煩いかなー?」
「大当たりですよ、んもう」
 冷やかしに言う聖のほっぺたをつまんでやる。こういう女子同士のスキンシップは「ふつう」なのかな。笑いながらも、いちいち考えてしまう。
「あーあ、そんなに上の空で大丈夫? 煩うのもほどほどにしなよ」
「ほんとにねぇ。なんか、恋愛ってよく分かんなくなってきたよ」
 溜息は絶えない。でも胸に溜まった「もやん」とした何かは残ったまま。
 こんな気持ちが久しぶりだからかも。ときめきとか、意識したりとか。そういうのが恋愛なのか、それとも違うのか。これが正常な恋心なのか。
「南帆はさぁ」
 聖が声のトーンを落として言う。
「羽崎くんのどういうとこが好き、とかある?」
 聖はアイスコーヒーのストローを触りながら訊いた。少し軽さを含ませて、でも真面目な質問のよう。だから、私も「うーん」とにやけながらも真剣に考えてみる。
 羽崎さんのどんなところ……どんなところ……
「――笑った顔……かなぁ」
 やっぱりそれが一番に出てくる。
「それと、なんか守りたくなる感じ……?」
「え、親目線?」
 面食らう聖。そんな彼女に、私はうんうんと頷いた。
「そう。ああ見えて、子供っぽいし、結構傷つきやすいし、自信もないし。真面目で優しいからなのかもしれないけど。でも、いざとなったら頼りになるし、不意打ちでイタズラとかするし、面白いからいいんだけど。まぁ、いいところはそんなとこ」
「いいところ……は聞いてないんだけど、まぁ、そう思ってるんならいいんじゃない?」
 呆れつつも聖は優しく、そして、にやっと口の端を持ち上げた。
「好きだと思える部分があるだけ、ちゃんとそれは本物なんだよ。趣味趣向に合わせてどうのとか、恋愛ってなんだとか悩むよりも、自分の今の気持ちを大事にしたらいいよ」
「………」
 思わず黙り込む私。
 聖も得意げに言った手前、段々と恥ずかしくなってきたのか、笑いだした。
「黙るなー!」
「いや、だって。そんな、真剣に言われたらびっくりするし、聖にしては真面目すぎる」
「んー? それは聞き捨てならないなぁ」
 私のほっぺたをむにっとつまむ聖。こんなところでお返しがくるとは。
「まぁ、なんだ。あたしにとって南帆は大事な友達だからさ、そりゃ悩んだり落ち込んだりしてほしくないわけよ。でも、応援したいし」
「うーん……」
 事情を話せないのに、そんな風に思ってくれると罪悪感が肩にのし掛かってくる。だから私はまた黙るしかない。唸って、自嘲気味に笑って、繕うしかできない。
 そんな私を見て、聖も黙りこくってしまう。あぁ、嫌だなぁ、こういう雰囲気。
 私は溜めていたものをわずかに吐いてみた。
「好きになるって、なんだろね……」
 別に答えが欲しいわけじゃない。でも、言わずにはいられない。的確な答えなんて、ないんだから。
「ふーん……好きになるって何か、ね……これはもう個人の感覚の問題だから答えは分かんないよね」
 私の思考を読んだように聖が言う。これには激しく同意だ。
「ただ、好きにも色々あるわけで、あたしが分かる範囲だと三つはあるね」
「へ?」
 まさか答えを知るとは。
 聖は得意満面に指を三本立てた。
「まずは、さっき南帆が言ったように相手のどこが好きか直感的なもの」
 ふむふむ。
「そして、一緒にいて落ち着きを感じたり、安心を得る心理的なもの」
 ふむ。
「最後に、相手の何をどこを見て興奮するかで好きになる生理的なもの、があると思う」
「えっ」
 思わぬ言葉が飛び出し、聖を凝視する。
「こ、こうふん?」
「そう。なんだろう……フェチ、的な」
「ふぇち……」
 反復すると、彼女は呆れたように私を見た。
 いや、意味を知らないわけじゃないけどさ、今は昼間でカフェの隅っこにいるわけで。
 私は辺りを見回した。聞き耳を立てる人はいないけども。
 様子を窺っていると、聖はあっけらかんと訊いてくる。
「え、南帆はないの?」
 話を広げるな!
 私は顔を手のひらで覆った。
「いや……んん? うーん……ある、のか、なぁ?」
「考えたことがないんだろうね……」
「ないねぇ……まったく、そういうの考えたことない」
 しどろもどろな口は未だに手のひらの奥にある。
「えと、じゃあ、ひじりんは……あるの? そういうの」
「あるよ?」
 あるんだ……いや、あるよね。そりゃあるわ。一体、私はなんで赤面しているのか。シラフだからか。昼間だからか。いや、時と場所なんて関係なしに、こういう話題は恥ずかしくなる。思春期の乙女か。でも、面白い。好奇心はくすぐられる。
 私はそろそろと手のひらを降ろして彼女にくっついた。
 聖のフェチ、聞いたことない。一体、何に興奮するんだろう。
「た、例えば? どんな?」
「体臭」
 聖はなんの恥じらいもなく平然と言ってのける。アイスコーヒーを含み、ごくんと飲めば、ぺろりと唇を舐めて私を薄目で見やる。その口元は少し笑っていた。
「ただね、彼氏のはダメだね」
「え、なんで?」
 思わず食いつくと、聖はまたもやにんまりとする。なんか嬉しそうだ。
「いや、だってね、あいつ全然くさくないもん」
「くさいのがいいの?」
「うん。うちの部長とか、すっごいよ。枯れた感じが最高に」
 聖は言いながらクスクス笑う。一方、私は「え、えぇ……」と引いている。これはちょっと理解ができない……私の様子に、聖は悟り顔で笑った。
「そういうもんだよ。人の趣味趣向に理解なんて出来ないし。理解しなくていいし。そう、だからまぁ、今の彼氏と別れたら部長もアリだなって考えてる」
「いや、待って! それはどうなの!」
 友人がなんか良からぬ方向へ走ってる気がする。私は頭を抱えた。
 でも、当の本人は尚もケラケラと楽しそうに笑っている。
「いや、これはマジだから」
「でもさぁ……広報部の部長ってバツイチでしょう?」
「だからなんだって話だよ。それにバツイチなら可能性はあるんだし。人を好きになるのに我慢なんかしちゃダメだよ」
 そう言われてしまうと、何も言えなくなる。確かにそうだ。人を好きになるのに我慢することはない……当然、それは私もだし羽崎さんも。主任だってそう。
 枠にはめられた恋愛は今の時代、もう古い。
「あぁ、でも不倫はダメだね。さすがに。倫理に反することはさすがにしたくないわ、今のところ」
「そうね。それだけはマズイわ」
 法に触れない程度なら許容。それは互いに一致したのでひとまず安心した。
 ただ、不倫にしろ浮気にしろ、恋愛にはやっぱり障害がつきものなんだろう。そして、私の恋も分厚い壁がある。これを思い切り叩き壊す勇気がまだない。
 もどかしいなぁ、本当に。
 私が悩んでいるのは羽崎さんに好きな人がいるからだ。その相手が男にしろ、勝てる相手じゃないから……私も自分に自信がない。
「はぁー……いつの間にこんな意気地なしになっちゃったんだろー」
 後先考えずに突っ走れたあのころに戻りたい。
「もうさっさと告ればいいじゃん」
 もどかしいのはどうやら聖もらしい。簡単に言っちゃうところが恨めしい。
 すると、聖は何か思い出したように言いよどんだ。
「あぁ……羽崎くんって好きな人がいるんだっけ」
「そーだよ」
 男ですが。上司ですが。
「でもさ、脈なしの恋愛でしょ? じゃあいいじゃん。何を迷うのさ」
「えー……だって、羽崎さんはその人のことめちゃくちゃ好きなんだよ? なんか邪魔できないじゃん。私なんかが」
 言うと聖は少し顔をむっとさせた。
「南帆らしくない」
 その言葉に、今度は私が顔をむっとさせる。
「私だってね……ちゃんと言いたいよ、そりゃあ」
「じゃあ当たればいいのに」
 聖を見ると、彼女も私をじっと見ていた。探るような、それでいて少し迷うような。でも意を決したのか、聖は小さくぽそっとつぶやく。
「まだ、自信が持てない?」
 まだ、というのは彼女がちょっと前の私を知るからだろう。
 忘れかけていたけど、つい二年前の私は「自信」を失った。就職に失敗したあのトラウマ。回復したはずなのに、意気地なしは残ったままみたいだ。
「やっぱり、あれはきつかったよねー」
 わざと明るく言っておく。そんな私を心配そうに見る聖の目を直視できない。
「まぁ、でも、うん。ひじりんの言うとおりだなって思ったよ。まだなんにも伝えてないのにさ、何を後ろ向きになってるんだか」
 私は羽崎さんに何も言っていない。伝えていない。きちんと、はっきり言えてない。可能性0%がなんだ。言ってないくせに無理だと決めつけてどうするんだ。
 自信がなくなった私に「南帆は南帆らしく」と言った聖の言葉がふっと頭をよぎる。そして、「山藤らしく」と言ってくれた相田主任の言葉もよみがえる。私はもう、あの頃の自分じゃない。
「まぁ、元気になったならいいや……と、噂をすれば」
 そう言い、彼女は私の後ろを指差す。振り返ると、羽崎さんが誰かを探すようにカフェの中へ入ってきた。私を見つけるなり慌てて手招きする。
「なんだろ……なんか、とてつもなく嫌な予感がする……」
 焦りを覚える。すると、聖も「そんな気がする」と小さく呟いた。


 ***


「山藤さん、主任が呼んでます……ちょっと、深刻な感じです」
 それきり、羽崎さんは喋らない。
 恐る恐る企画部に戻ると、相田主任と滝田部長と満川さんが集まっていた。ものものしい雰囲気。
 私が口を開く前に、主任が冷えた顔で言った。
「あぁ、山藤。昼休み中に悪いな」
 言葉とは裏腹に、声は表情と同じく冷たい。私はまだ何が起きているか分からない。でも、私が何かしたんだと分かる。
 思い当たるものをグルグルと巡らせていると、主任が先に言った。
「昨日、頼んでいた資料、どうした?」
 その厳しい質問に、私はさっと血の気が引いた。
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