彼にはみえない

橘 弥久莉

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episode1 私、みえるんです

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やがて斗哉の手の平が頬にあてられる。昨夜の、

指の温もりを思い出せば、いっそう鼓動が激しくなる。

斗哉の前髪が、つばさの額をくすぐって、つばさは、

ぎゅっと目を瞑った。斗哉の息が唇にかかる。

時間にして、ほんの数秒。そして、斗哉の唇は、

その熱をつばさに伝えないまま、すっと離れていった。

つばさは、次の瞬間、ぷはーっ、と息を吐いた。

瞼の裏がチカチカする。このまま、心臓が止まって

しまうかと思ったくらいだ。不意に、ドン!と棺が

蹴られた。ぱちりと目を開ければ、(セリフ、早く!!)

と、斗哉が唇を動かしている。あ、そうだ。セリフ……

つばさはガバッっと起き上がって、口を開いた。

が、セリフが出てこない。

あれ??何だっけ?

目を覚ました白雪姫に、大袈裟に驚いて見せる

七人の小人を見渡しながら、つばさは首を捻った。

(まあ、私はどこにいるのでしょう)

すかさず、斗哉が口パクで白雪姫のセリフを

教えてくれる。つばさは、あっ、そうか、と頷いて、

セリフを口にした。

「まあ、私はどこにいるのでしょう?」

「白雪姫、あなたはわたしの側にいるのですよ。

あなたの事は私が一生お守りします。どうか城へきて、

私のお妃になってくださいませんか?」

「はい、王子様。喜んで」

つばさの棒読みに対して、斗哉のセリフは実に

滑らかだった。それでも、つばさは出来る限りの

可愛らしい笑みを浮かべ、差し伸べられた

斗哉の手を握った。



演劇のリハーサルを終え、すっかり窓の外が

暗くなった廊下を、つばさは斗哉と並んで歩いた。

「ちゃんと、本番までには覚えろよ」

白雪姫のセリフまできっちり暗記している斗哉が、

横目で睨む。つばさは、トントンと凝り固まった

肩を解しながら、はーい、と拗ねた返事をした。

その時、背後から「藤守」と、名を呼ぶ声がした。

振り返ってみれば、化学の教師、秋山が職員室から

ひょっこり顔を出している。

つばさは、いま通り過ぎたばかりの職員室の

前に戻った。

「今日は藤守が日直だろう?頼んでおいた

A組のレポート、まだ受け取ってないぞ」

「あっ、すみません。集めてあるんですけど、

実験室に忘れちゃいました……」

秋山が太い眉を顰めて、腕時計を見る。

そうして、しょうがないなぁ、とボヤいた。

「最終下校まで、まだ時間があるな。

職員室で待ってるから、すぐに取ってきなさい」

「わかりました」

そう、返事をしたのは、つばさの後ろに立って

いた斗哉で、秋山は渋い顔で頷くと、大きな躰を

揺すって職員室に戻って行った。


「ごめん」

振り返って、斗哉の顔を見上げる。今日はつばさが

日直だったが、斗哉はレポートの回収を手伝って

くれていたのだ。なのに、うっかり忘れてしまった。

つばさが悪い。

「もういいから。行くぞ」

斗哉は怒った様子もなく、両手をポケットに入れて、

廊下を戻り始めた。けれど、つばさは足が竦んで

動けない。先に行ってしまいそうになる斗哉の背中を、

追わなければいけないのに、動けなかった。

「ん?どうした?」

つばさが来ないことに気付いた斗哉が、立ち止まって

振り返った。怪訝な顔をしてつばさを見る。

つばさは、怖くて震えそうになる声で、言った。

「第二実験室、行くの怖くて……どうしよう」

「怖いって、何が?」

スカートを握りしめて、その場に立ち尽くしている

つばさのもとに、斗哉が歩み寄る。つばさは、

泣きそうな顔で、斗哉を見た。

「出るんだよね。あそこ。すごく、ヤバイのが」

「出るって、幽霊のこと?」

「うん。昼間は出ないみたいなんだけど、

暗くなると出るの。何人か、運動部の子が

見てるんだけど、私も見えちゃったことあって。

その、血を流した……兵隊さんが……」

つばさは、ごくりと唾を呑んだ。
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