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最終章:恋に焦がれて鳴く蝉よりも

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「失礼。お怪我はありませんか?」

どうやら、ドアを出た瞬間に肩が当たってしまったようだった。

その女性は額を押え、下を向いている。身に着けているスーツ

は真新しいもので、その女性が新入社員だということはすぐに

わかった。女性は下を向いたまま、口を開いた。

「大丈夫です。こちらこそ、すみません」

その声を聴いた瞬間、僕の心臓は大きく跳ねた。

鈴の鳴るような、澄んだ声。その声を聴いたあの日から

二年という月日が流れていたが、忘れられるはずもない。



-----ゆっくりと彼女が顔を上げる。



二度目の奇跡が起きた瞬間、僕は心の中で『神様』と、

叫ばずにはいられなかった。

「化粧室に向かうところだったんですけど、場所がわからなくて

余所見をしてしまって」

乱れてしまった前髪を整えながら彼女が僕を見上げる。

あの頃よりも少しだけ大人びた彼女が、目の前で微笑んでいる。

僕は信じられない思いで、食い入るように彼女を見つめた。

けれど彼女は、そんな僕に少し戸惑った顔を見せるばかりで、

僕に気付く様子はない。



-----彼女は、何も覚えていないのだ。



そのことに、ゆるやかに落胆しながら、僕は彼女がやってきた

先の通路に目を向けた。

「化粧室なら、この通路を少し行って右側にあります」

そう言ってまた彼女を向くと、彼女はぺこりと頭を下げた。

「やだ。わたしったら、通り過ぎちゃったんですね。

ありがとうございます」

もう一度笑みを見せると、彼女はこの場を立ち去ろうとする。

僕はその背中を呼び止め、訊ねた。

「あの。今日、入社される方ですよね。配属はどちらに?」

その言葉に彼女は振り返り、僕の胸にある名札に目を向ける。

そして、慌てたように向き直り、深々と頭を下げた。

「大変失礼しました。本日より経理部に配属が決まった、

-------と申します。ご指導のほど、よろしくお願いします」

少し辿々しくそう言って顔を上げた彼女に、僕はこちらこそ、

と上司の顔を向けた。再び去ってゆく彼女の姿を見つめながら、

ずっと知り得なかったその名を口にする。




トクリ、トクリ、と耳の奥に響く鼓動が、この想いは『恋』なのだと、

僕に伝える。けれど、その瞬間から僕は小さくはない葛藤を

抱えることとなった。彼女が好きだという、その想いのままに

生きる術を僕は持っていなかったのだ。僕はこの数年を、

父の息子として、この会社の後継ぎとして役に立つことだけを考え、

生きてきた。そう遠くない未来、僕は父が決めたその人と婚約を

結ぶことになるだろう。
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