「みえない僕と、きこえない君と」

橘 弥久莉

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第一章:幸せの配分

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 「いちはら、やなぎ?……いち、はら……」

 届きましたか?って、誰だろう。
 僕は首を捻りながら、内容を読んだ。



-----羽柴 純一様


 ご無沙汰しています。
 先日は名刺をいただき、ありがとうござい
ました。耳が不自由なため電話をすることが
出来ず、こちらにメールさせていただきました。
 就職のことでぜひ、そちらを利用させていた
だきたいのですが、どうすればいいですか?
 お返事、お待ちしています。
              市原 弥凪




 「……きっ、きたっ!!」

 読み終えた瞬間、思わずガッツポーズを
してしまった。周囲の人たちの訝し気な視線
が、チクチクと刺さってしまう。
 僕はわざとらしく一度咳払いをすると、
何事もなかったかのようにパソコンに向かった。
 そうして、メールを打ち始めた。
 内容は都合の良い日時や必要書類の確認な
ど、事業所スタッフとしての事務的なものだ。
 もちろん、自転車でぶつかったお詫びと、
怪我の様子を伺うひと言も最初に添えた
けれど……。送信ボタンを押す瞬間、心の中
で(彼女に会えますように)と、祈っていた
ことは、僕だけの秘密だった。
 彼女からの返信はその日のうちに届き、
明後日の朝一番に彼女は事業所に来所する
こととなった。



-----当日の朝。



 いつもより1時間も早く目が覚めてしまった
僕は、鳴り損ねた目覚まし時計の電源を切り、
ベッドを抜け出した。
 念入りに顔を洗って、念入りに髭を剃って、
念入りに髪をとかす。
 決して、やましい気持ちは、ない。
 これっぽっちも。
 彼女の相談にのるのは指導員として当たり
前のことだし、何も特別なことではないのだ。

 僕は鏡の中の自分に言い訳をしながら、
やはり、いつもより慎重にネクタイを選び、
ほころんでしまいそうになる頬を両手で
パシッと叩いた。

 そうして、定期を鞄に入れ、家を出る。
 最寄り駅まで、コンビニに立ち寄りながら
のんびり歩いても、職場には30分以上早く
着きそうだ。僕はあの日以来、自転車に乗る
ことをやめていた。誰かに怪我させてしまった
以上、乗り続けるのはモラルに反すると思っ
たのだ。
 僕の視界は狭くなってゆくことはあっても、
治療もなしに見える世界が広がることはない。
いつか、画期的な治療法が見つかって病気が
治れば、また乗られるだろうけど……。

 僕は当分使うことのない自転車に雨除け
のカバーをかけ、キーを引き出しの奥深く
にしまった。





 ひと月ぶりに見た彼女は、あの日よりも
少し大人びて見えた。
 真っ白なブラウスと白い肌とが相まって、
眩しい。片側の髪は耳を隠すように下ろさ
れていて、もう片方の耳にかけた髪には、
ラインストーンのヘアピンがキラキラと
光っている。 
 僕は早なってしまいそうな鼓動を抑える
ように息を吐くと、彼女に向けて軽く手を
振り、前の席に座るよう促した。
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