「みえない僕と、きこえない君と」

橘 弥久莉

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第一章:幸せの配分

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 両手の4本指を甲側で合わせ、ゆっくり
左右に離す。そのまま、両手で拳を握って
肘を張り、2度下へ押すようにして見せる。

 (久しぶり。元気だった?)

 簡単な手話の挨拶だ。にこりと笑って頷く
と、彼女も(元気)、と同じ仕草をして見せ
た。僕はさっそく筆談用の紙を取り出し、
彼女にペンを渡した。残念だが、ここからは
筆談となる。
 あらかじめ、仕事を辞めた経緯いきさつはメールで
聞いておいたから、今日は彼女の希望を聞き
ながら個別指導カリキュラムを作成する予定だ。

 以前は人事部の事務補助として月末提出書類
の作成や、データ入力、資料の仕分けなどを
やっていたので、基本的なパソコンスキルは身
についている。退職前に有給消化で2週間休め
るということだから、カリキュラムによっては
明日から通所することも可能だけれど……

 まずは、彼女がどんな職場を探していて、
どんなことを身に付けたいのか。僕はひとつ
ひとつ、希望を聞いていくことにした。

 (次はどんな仕事をしてみたいとか、具体的
な希望はある?)

 ペンを紙に走らせ、顔を覗き込む。彼女は
小首を傾げ、数秒考えて頷いた。

 (絵を描くのが好きなので、そういうのを
活かせる仕事に就きたいです。中学、高校は
美術部に所属していたので)

 へぇ~、と、感心したように2度頷く。
 僕は芸術面がからきしだから、絵を描くのが
得意と聞いただけで、ひたすら尊敬してしまう。
 高校の時、全国書道コンクールで入選したこ
とはあるけれど……
 そのことを伝えると、僕の字を覗き込んで
彼女は微妙な笑顔を見せたのだった。

 (じゃあ、イラストレーターやフォトショッ
プを身に付けて、制作関係の仕事を探してみる
といいかも知れないね。クリエイター能力認定
試験を受けるつもりで、パソコン研修を入れ
ようか)

 そう言うと、彼女は少し緊張した面持ちで
頭を下げた。その他にも、安心して長く働ける
職場を探したいとか、口話が苦手なのでコミュ
ニケーションは筆談をメインにしてもらいたい
とか、彼女の希望を拾い上げてゆく。
 安心して働ける、というのは、福利厚生など
の面ではなく、主に人間関係や職場の雰囲気を
指して言っているようなので、実習先にその
まま就職できない企業実習よりも、企業側の
試験雇用を活かしたトライアル雇用で彼女が
納得できる仕事先を見つけた方がいいかも
知れない。

 そんなことを念頭に置きながらカリキュラム
を作成し、その後は筆談用の小さなホワイト
ボードを片手に事業所内を一通り案内して
歩いた。
 僕の話を聞きながら指導の様子を眺める彼女
の横顔は真剣そのもので、必ず希望に合った
仕事先を見つけてあげよう、と、僕は密やかに
誓っていた。
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