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第三章:雨の中で

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 彼女が事業所に通い始めてから3カ月が
過ぎた。カリキュラム通り、順調に知識や
技術を身に付けた彼女は、あと3カ月の指導
期間を経て、希望に合ったトライアル雇用先
を探すこととなる。

 だから、まだ、彼女と顔を合わせる機会は
数カ月あるのだけど……
 僕はその日、小さなメモをスーツのポケッ
トに忍ばせてから、家を出た。




 「あ」

 模擬職場トレーニングを終え、教室から
出てきた彼女の背中に、僕は思わず声を漏ら
していた。
 彼女は背後にいる僕に気付くことなく、
長山さんと歩いて行ってしまう。午前中も、
僕の視界に彼女の姿は映っていたのだが、
如何いかんせん、長山さんが一緒に
いると声をかけづらかった。
 いままでのように、たわいもない会話を
するだけなら、誰がそばにいても構わなかっ
たが……いまは渡したいものがあるのだ。
 出来れば、一瞬でもいいから、二人きり
になりたかった。

 僕は、思い通りにいかない状況に、内心、
やきもきしながら午後の業務に就いていた。



-----けれど、もう今日は無理だろうと、
諦めかけていた夕方。



 一日のカリキュラムを終えた彼女が、帰り
がけにフロアを覗いてくれた。
 ひょっこりとドアの向こうから顔を覗かせ
て、電話中の僕に手を振ってくれる。
 にこりと笑顔を見せ、そのまま立ち去ろう
とする彼女に、僕は慌てて、4本の指を付け
根から曲げた右手を、顎に付けた。

 (待って!!)

 覚えたばかりの、手話だ。
 咄嗟に出来たのは、奇跡だった。
 その手話に気付いてくれた彼女が、こくり
と頷く。どうやら、長山さんの姿がないところ
を見ると、用事があって先に帰ったのか、
それともトイレか。
 ともかく、この電話が終わったら、すぐに
彼女の元へ駆けて行こう。
 そう思いながら電話の向こうの声に耳を傾け
ていた数分は、永遠に続くかと思えるほど、
長かった。

 (ごめん。遅くなって)

 電話を終え、廊下の隅で待っていた彼女に
指文字でそう言うと、彼女はふるふると首を
振った。
 人目を避けるように柱の影へ連れて行き、
ポケットから取り出したメモを渡す。不思議
そうにそれを受け取った彼女は、二枚に折り
畳んであったメモを開き、瞬時に頬を上気さ
せた。
 僕はガリガリと頭を掻きながら、じっと
彼女の様子を見守った。

 そのメモには、僕の携帯番号とメールアド
レス、そして、「二人でご飯でも食べに行き
ませんか?連絡ください」という、シンプル
なひと言が添えてあった。

 以前渡した名刺には、事業所の電話番号と
パソコンのアドレスが記されているだけだっ
たから、これは完全にプライベート用の連絡
先だ。
 つまり、彼女がどう解釈するかはわからな
いけれど、僕的にはデートに誘っているつも
りで、この後の彼女の反応によっては、地獄
に落ちる可能性も、ある。
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