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1巻
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『もちろんよ、リシェラが一緒なら楽しいわ!』
「ありがとうございます!」
私が大鳥の背に乗ったそのとき、前方の梢で小さな影が動きました。
「……あれは?」
木の上に目を凝らすと、赤毛の幼女が見えました。まるで風のように、枝の上を駆け回っています。
「ひゃっ! どうやって登ったのでしょうか?」
『あの子、一刻ほど前からいたわよ』
近くには誰もいないようです。迷子でしょうか?
『私も気になって近づいたのだけど、驚かせてしまったみたい。人とは思えない速さで木に登って逃げたわ』
「まさに、人間離れした身のこなしですね」
でも枝が折れたら、落下して怪我をしてしまうかもしれません。
私は白亜鳥の背から降り、木の幹に近づいて、幼女を見上げました。身につけている上着は暖かそうで、高級感があります。どこかのお嬢様でしょうか。
「こんにち、っ!」
思わず息を呑みました。
幼女の赤リンゴのような髪、その横からちょこんと出ているのは――
「猫耳?」
スカートの裾から見えるのは、ふわりと揺れる長いもふもふの尻尾。
私は驚きつつも、その愛らしさに頬が熱くなってきました。
「かわいい……!」
はじめて見る姿なのに、なんてかわいい……かわいすぎて悶えてしまいます!
猫耳の幼女は挙動不審な私に気づいたようです。木の幹にしがみつき、野生の子猫のように警戒しています。
その様子に胸をときめかせていると、猫耳の幼女は私の腰の辺りを指しました。
『……いいにおい』
「!」
今の、猫語では?
見た目だけではなく、言葉まで……
私は心を落ち着けるように、深呼吸しました。動揺に勘づかれたら、さらに警戒されてしまいます。
「この匂い、わかるのですか?」
『きのみ、いっぱいね』
ポケットの中にある木の実に気づくなんて、驚くほど鋭い嗅覚です。
「よろしければ、食べませんか?」
猫耳の幼女は木の幹にしがみついたまま、スルスルと地上へ下りました。
私はその場でしゃがみ、目線の高さを合わせます。
はじめて会う動物には、そうした方が安心してもらえるのです。
「木登り、お上手ですね」
猫耳の幼女は木の陰に隠れました。でも頬を赤らめて、木の陰からこちらをチラチラうかがっています。照れているような、嬉しいような、そんな様子です。
「この木の実、どうぞ」
袋を差し出すと、緑の瞳をキラキラさせて……あっ、近づいてきました。
ぱっちりとした目の、整った顔立ちをしています。将来が楽しみになるような、本当にかわいい子です。
『すごい、たくさんね!』
「味もいいですよ。好きなだけどうぞ」
猫耳の幼女は夢中になって頬張りはじめました。ポリポリ食べる音まで愛らしくて、頬が緩みます。
「この森へは誰かと来たのですか?」
『ミュナ、ひとり』
「お嬢様……いえ、ミュナ様は――」
『ミュナ! ミュナサマちがうね、ミュナ!』
服装からお嬢様だと思いましたが、名前だけで呼ばれることに慣れているようです。
「はじめまして、ミュナ。私はリシェラといいます」
『リシェラ?』
「はい。リシェラです。ミュナはどこから来たのですか?」
『木のあるところ! だから、さがすね、オモチ!』
「……オモチ?」
聞き覚えのない言葉です。
ミュナは『オモチ』を探して、この森に迷い込んだのでしょうか。
白亜鳥にも聞いてみましたが、『知らないわ』と首を傾げています。
『リシェラ、夕暮れが近づいているわ。そろそろ北の地へ行きましょう』
白亜鳥たちは密猟者がやってくる前に旅立った方が安全です。
でもミュナにはきっと、待っている人がいます。
(リシェラお嬢様……ご無事でよかった!)
昔、迷子になった私を心配していた乳母が――おばあちゃんのように抱きしめてくれたぬくもりを思い出します。
なによりミュナのかわいい猫耳を誰かに見られて、巻き戻る前の私の友達のように、ひどい目に遭ったら……そんなの絶対に嫌です。
「白亜鳥さん、私はこれからミュナを保護者のもとへ送り届けることにします」
『そう……リシェラが一緒に来ないのは残念だけど。でも迷子の幼女を放っておけないなんて、やさしいあなたらしいわ。すっかり懐かれたようだし』
ミュナは木の実を食べ終えても、私のそばから離れようとしません。小さな手で、私の服をしっかりつかんでいます。
私は小屋で書いた手紙を、白亜鳥の脚にしっかりと結びつけました。
これで元養家の罪は明るみに出るでしょう。
「この手紙を、ブリザーイェット侯爵家へ届けていただけますか?」
『任せて!』
白亜鳥の長は軽やかに舞い上がると、仲間たちとともに青空を渡っていきます。
「みんな、どうか無事で……!」
私とミュナは手を振り、その旅立ちを見送りました。
「ミュナ、耳と尻尾が見えないように隠すことはできますか?」
『できる!』
ミュナは長い尾をスカートの内側に器用にしまい込み、猫耳のついたフードをかぶります。その上に両手を乗せて、隠した耳をしっかりと押さえました。
一生懸命な様子がかわいくて、心がほんわかします。
「では、帰りましょう!」
『かえる……?』
ミュナはなぜか、帰ることに戸惑っているようです。
『……リシェラ、きいろいくだもの、すき?』
「きいろいくだもの?」
『ながいね、あまい、おいしい!』
「あっ、わかりました。バナナですね!」
バナナは南方から輸入される高級食材です。
マリスヒル伯爵家の養女となってからは、食べたことがありません。
「バナナ、おいしいですよね」
『こっちある! リシェラ、かえるね』
私と手を繋いだミュナは、迷いのない足取りで木々の間を進んでいきます。
進む方向がわかるようです。
ミュナは木々の枝を飛び回るように移動し、ポケットの中の木の実の匂いも嗅ぎ取れました。特別な感覚を持っているのでしょう。
気になるのは、帰る話をしたとき、少しだけ困ったような顔をしていたことです。
ミュナは服も食事もいいものを与えられて、大切にされているように思えますが……
『リシェラ、みて!』
ミュナの指す茂みから、黄金色の毛並みをした大きな犬が飛び出しました。
その瞳は青く澄み、額には同じ色の魔石が光を弾いています。
あれは、犬の魔獣……?
「セレイブ、いたよ!」
犬の魔獣が人のように話すと、その背後から銀髪の男性が姿を現しました。
氷の彫刻のように涼しげな美貌、引き締まった長身。黒を基調とした上質な衣装が、彼の存在感を際立たせます。周囲の空気までもが、ひんやりと冷たくなった気がしました。
「君は……」
アイスブルーの瞳に見つめられ、私は吸い寄せられたかのように動けなくなりました。
そのまま見つめ合っていると、分かれ道の向こうから硬車が現れました。
「邪魔だ平民! マリスヒル伯爵令嬢、エレナ様がお通りだ!」
硬車は馬車のような乗り物で、馬ではなく硬液という燃料をタンクに詰めて動力にしています。
車輪の荒く回る音が迫ってきました。
『こわい!』
ミュナはぎゅっと握っていた私の手を振りほどき、そのまま道へ飛び出しました。
硬車は車輪の乱暴な音を立てながら、転んだミュナに迫ります。
「ミュナ、危ない!」
気づけば駆け出していました。雪解けの泥に足を取られてふらつき、ボロボロの靴のストラップが千切れます。それでも構わずミュナに駆け寄り、抱きしめた勢いのまま身を翻すと、なんとか硬車にぶつかることは避けられました。
「痛くありませんか?」
『……いたくない。こわい』
「怖かったですね。でももう大丈夫ですよ」
フードをそっとかぶせて、猫耳を隠します。雪解けの泥でぐちゃぐちゃになっていましたが、無事でよかった。
急いで道の脇へ移動すると、硬車がすぐそばに止まります。
「あら、お義姉様じゃない! 相変わらずみすぼらしい服装だから、すぐにわかったわ!」
元義妹のエレナは、私を見下ろして鼻で笑っています。
いつも通りの振る舞いです。まだ、ライハント王子が私を捕まえようとしていることを知らないのでしょう。
「なにその子。高そうな服を着ているから誘拐して、親に身代金でも要求するつもり? ふふっ、貧乏人って惨め! エレナが衛兵に突き出してあげる」
エレナがお金をちらつかせて命じると、従者がこちらへ近づいてきました。
「マリスヒル伯爵家では、暴言を吐きながら硬車に乗るのが礼儀なのか?」
従者から私たちを守るように、銀髪の男性が立ちはだかりました。
低く落ち着いた美声です。佇まいも静かで洗練されています。
彼を見たエレナの目の色が変わりました。
「そっ、その麗しいお姿は! セレイブ・ロアフ様ではありませんの!?」
「セレイブ・ロアフ!? まっ、まさか……! 世界最強の凶悪騎士!?」
「危険な魔獣すら服従させる、冷酷な、あの!」
彼の名を聞いた御者と従者は、声を上ずらせてうろたえています。
「先ほどの失言、お許しください!」
「失礼致しました!」
「なんのことだ。謝罪する相手は俺ではない」
セレイブ・ロアフ卿が冷ややかにたしなめると、御者と従者は震え上がりました。
「無礼な振る舞い、申し訳ありませんでした!」
「すみません……!」
ふたりは私とミュナに対し、頭を下げて謝りはじめます。
でもエレナが謝罪する様子はありません。ドレスを翻して硬車から降りると、自信たっぷりに髪をかき上げました。
「セレイブ様のことなら、よく知ってるわ!“世界中の女性を虜にする氷銀の美貌”って、『スイートハート』に載っていたもの!」
「そのゴシップ誌はソディエ王国の流通禁止リストに載っている。君は裏取引でもしているのか?」
「そっ……そんなことより! エレナは国王陛下と王妃殿下から、国一番の美女だって褒められているの! ふふっ、セレイブ様が『誰の縁談も受けない』って公言しても、エレナには興味あるでしょう?」
「いや、まったく」
ロアフ卿は冷淡に否定し、エレナに背を向けました。そして私とミュナのそばにしゃがみます。
静かな眼差しが、ミュナと私を交互にとらえます。氷のようなアイスブルーの瞳、麗しすぎる顔立ち……見つめられることすら恐れ多い気がします。
「身体の痛みはあるのか?」
「ないと言っていました。大きな怪我も見当たりません」
「君は?」
「私……ですか? 私は平気です」
「そうか。では行こう」
ロアフ卿は、ミュナを抱えた私を軽々と横抱きにしました。私が泥だらけでも、ためらう様子はまったくありません。
「あ、あの! 私は歩けますから、下ろしてください!」
「なぜ? 君の靴は壊れている」
「私なら平気です。あなたの上着を汚したくありません」
彼の無表情が一瞬、柔らかくなった気がしました。
「君は自分が汚れるのも気にせず、ミュナを守った。それと同じ……俺は君のためなら、汚れることなど構わない」
ミュナの名前を知っている。ということは、ロアフ卿はミュナの……?
「近くに俺の別荘があるから、念のため侍医に見せよう。君にぴったりの靴も贈らせてもらう」
「ま、待ってセレイブ様! あなたの別荘にはエレナが行きますわ!」
「君を呼んだ覚えはない」
はっきり断られても、エレナは諦めようとしません。ロアフ卿に駆け寄ると、わざとらしくふらついて倒れ込みました。
彼が避ければ、エレナに怪我をさせてしまう。それを見越しての、いつもの手です。
「危ないな」
ロアフ卿は私とミュナを片腕で抱き上げると……えっ!?
迫るエレナの顔を、空いた片手でガシッとつかみました。
「彼女は靴が壊れて不自由している。見てわからないのか? もう近づかないでくれ」
ロアフ卿は冷徹に忠告すると、エレナの顔を淡々と押し返します。
辺りは静まり返りました。
「ジンジャー」
「任せて!」
ロアフ卿の隣にいた犬の魔獣が答えると、その青い瞳が輝き、空中に水の球体が浮かびました。
その澄んだ水で、ロアフ卿はエレナに触れた手を清めます。
私のせいで付いた泥は気にしないのでしょうか……
エレナは見たことのない表情で呆然としています。でも我に返ったように目を瞬かせると、眉をつり上げて叫びました。
「ひどいっ! エレナはこんなにかわいいのに、なんで! 無視するのはお義姉様にして! 成人するまでに縁談ひとつなかった、売れ残りだもの!」
エレナの言葉に、ロアフ卿ははじめて興味を示したようで、私とミュナを抱いたまま振り返ります。
「それは本当なのか?」
「えっ? そ、そうよ!」
エレナは彼の気を引くことに成功して、満足したようです。私を見て意地悪な笑みを浮かべました。
「しかも伯爵家から絶縁されたの! ふふっ。だからセレイブ様、お義姉様は――」
「俺が求婚できるということだな」
「ふへっ!?」
エレナは目を剥いています。私も耳を疑いました。
「ろ、ロアフ卿?」
「セレイブでいい。君の名を聞かせてくれるか?」
「リ、シェラです」
「リシェラ……? もしかして君は、北方のフロスベイン王家の血筋ではないか?」
「は、はい。母はフロスベインの王女で、私にリシェラと名付けました」
「お義姉様が、王女の娘!?」
エレナは唖然としていますが、ロアフ卿は納得したように頷きました。
「フロスベインの聖なる島には、リシェラという七色に輝く花が咲く。君の母君はきっと、君をあの美しい花のように愛おしく思っていたのだろう」
母のことを少し知ることができた気がして、嬉しくなりました。
「リシェラの花、いつか見てみたいです」
「俺は聖騎士時代、その島のひとつを賜っている。君なら喜んで案内する」
「セレイブ様、お義姉様よりエレナの方があなたにふさわしいわ!」
エレナは注目されないことに腹を立てたようで、ロアフ卿に向かって叫びました。
「だってお義姉様はお父様に追い出された、身寄りのない平民なの!」
「つまり俺は誰にも遠慮することなく、リシェラを口説いても構わないということか」
「そっ、そうじゃなくてエレナの方が」
「リシェラ、君のことが知りたい。俺の別荘で君の話を聞かせてほしい」
もしかしてロアフ卿、私をこの場から連れ出そうとしてくださっているのでしょうか?
ただ、求婚までしてくるのは不思議ですが……騎士の人助けって、スケールが大きいのかもしれません。
「は、はい。助かります。よろしくお願い致します」
「礼を言うのは俺の方だ。君に拒否されても連れていくつもりだったが、どうやら嫌われずに済みそうだ」
エレナはわなわなと震えながら、すべての元凶が私だと言わんばかりに睨みつけてきました。
「もう許さないわ! お義姉様が意地悪したって、お父様に怒ってもらうんだから!」
「リシェラは君になにもしていないし、言ってもいないと俺が断言する。これ以上迷惑行為を続けるのなら、こちらも厳しく対処する」
もう十分、厳しくされているように見えますが……
ロアフ卿は私とミュナを抱き上げたまま、来た道を引き返しはじめます。
「そんな! セレイブ様、待っ……!」
追いかけようとするエレナを遮るように、低い唸り声が上がりました。
ロアフ卿のそばに控えていた犬の魔獣が、今にも噛みつかんばかりの剣幕で牙を剝き出しています。
「イヤアアァッ、獣っ!!」
エレナは両親からかわいがられ、私を引き立て役にしていました。それが今は犬に吠えられ、意中の男性にわずらわしがられているなんて不思議な光景です。
ロアフ卿が三叉路の一本の角を曲がると、エレナの姿は見えなくなりました。
でも、あの様子です。エレナは私に仕返しするため、ロアフ卿といたことを家族に話すでしょう。
元養父に捕まったら、私はライハント王子に売られます。
「何度も振り返っているが、誰かに追われているのか?」
「い、いえ……」
ロアフ卿には私の焦りが伝わっているのでしょう。でも、ライハント王子が私を捕らえようとしているのは、巻き戻る前の記憶です。今の私が知っているのは不自然なので、口ごもってしまいます。
「リシェラを連れ出すことに夢中で、自己紹介を忘れていた。俺は怪しい者ではないから、安心してほしい」
ロアフ卿は私を片腕で抱えながら、懐から紋章入りの身分証をいくつも取り出しました。
「俺はセレイブ・ロアフ。ロアフ辺境伯家の次期当主であり、現在は騎士団長を務めている」
エレナが夢中になるのも頷ける、すごい人物のようです。
「ロアフ卿があの場から逃がしてくださったので、助かりました。ありがとうございます」
「気にすることはない。君は絶縁した家で、ずいぶんひどい目に遭っていたようだ」
さらりと言う美貌には、強者の余裕が滲んでいます。
ロアフ卿のような方なら、どんなことでも自力で解決してしまいそうです。
「あの犬の魔獣さんは大丈夫でしょうか?」
「ジンジャーは優秀な使役獣だ。あのような小物など、取るに足らない。彼らを追い払った後は別荘へ向かい、ミュナがリシェラに保護されたことを報告しているだろう」
それほど優秀なジンジャーを、ロアフ卿は使役する方なのですね。彼の言動からは静かな強さが感じられて、ミュナはもう大丈夫だと思えました。
「あの、ロアフ卿はミュナの……」
「叔父だ。後見人をしている」
言われて納得しました。ふたりとも髪や目の色こそ違いますが、整った目鼻立ちが似ています。
「別荘からミュナが行方をくらましたため、誰かに連れ去られたのではないかと案じていた。先ほどの傲慢な女に獣人の姿を見られていれば、間違いなく危害を加えられていただろう」
「獣人って……はじめて聞きました」
「そうかもしれないな。獣人は非常に珍しい存在で、わかっていないことも多い。突然姿が変わる者もいれば、生まれたときからその姿の者もいる。身体能力は、動物のように優れている」
たしかに、ミュナが木の上でもへっちゃらな顔で飛び回っていたときは、びっくりしました。
そんなミュナは今、私にしっかり抱きついたまま、寝息を立てています。
「リシェラは俺たちの恩人だ。ありがとう」
「お気になさらないでください。私もミュナくらいのとき、グミブドウを摘みに行って迷子になったことがありました」
「グミブドウ? あれはブリザーイェット侯爵領の固有種だ」
「養女になる前、よく食べていたんです」
「……そうか。君はフロスベイン王女の娘だったな」
ロアフ卿の声が曇ります。私の両親の政略結婚や、私が家族との交流を望めなかった事情を察したのでしょう。
「でも、さびしくはありませんでした。乳母のヘレンがいてくれましたから」
「リシェラを育てた人か。その乳母は、どのような人物なんだ?」
「ヘレンは私の母の侍女でした。母が輿入れする前から仕えていました」
母の話も、フロスベインのことも、やさしい手のぬくもりも。全部、ヘレンが教えてくれました。
「彼女は料理が上手で、よく母の好きな食べ物を作ってくれました」
「フロスベインの王女の好む食事……祖国の宮廷料理だろうか?」
「母の一番好きな食べ物は、ヘレンのアップルパイだったそうです」
それは幼い私が両腕でやっと抱えられるほどもある、大きなパイでした。
焼き上がると、部屋いっぱいに甘く芳醇な香りが満ちて……使用人の方たちも誘って、みんなで笑い合いながら食べたのです。
「生地を頬張るとサクッとして、リンゴの酸味と甘さが口の中に広がって、蜂蜜色の果肉がとろけるように柔らかくて……」
「君が話すと、その味わいまで伝わってくるようだ」
「ふふっ、本当においしいですよ! ロアフ卿の好きな食べ物はなんですか?」
「俺は好き嫌いがない。あるものを食べるだけだ」
そのような人もいるのですね。でも私に質問するロアフ卿はどこか楽しげです。
「ロアフ卿はヘレンの作るアップルパイにご興味があるのですか?」
それなら、ぜひあのおいしさを知っていただきたいです。
「私の生家には、ヘレンのレシピがあると……あっ、でも。絵本と一緒に、捨てられてしまったかもしれません」
私は実父に養女となることを命じられ、部屋に戻ることも許されず硬車に乗せられました。胸に抱えていたのは一冊だけ、子供向けの北方事典です。彼にはじめて呼び出されて、母の話ができるかもしれないと期待して、持っていったのです。
ロアフ卿はまるで自分のことのように、沈んだ声でつぶやきます。
「それはリシェラにとって、大切なものだろう……」
「そんな悲しそうなお顔、しないでください。私にはヘレンと笑って、母の話をして、おいしい香りに包まれた思い出があります。それがなによりの宝物ですから」
ロアフ卿はなにか言いかけ、しかしそのまま言葉を失っていました。
「ありがとうございます!」
私が大鳥の背に乗ったそのとき、前方の梢で小さな影が動きました。
「……あれは?」
木の上に目を凝らすと、赤毛の幼女が見えました。まるで風のように、枝の上を駆け回っています。
「ひゃっ! どうやって登ったのでしょうか?」
『あの子、一刻ほど前からいたわよ』
近くには誰もいないようです。迷子でしょうか?
『私も気になって近づいたのだけど、驚かせてしまったみたい。人とは思えない速さで木に登って逃げたわ』
「まさに、人間離れした身のこなしですね」
でも枝が折れたら、落下して怪我をしてしまうかもしれません。
私は白亜鳥の背から降り、木の幹に近づいて、幼女を見上げました。身につけている上着は暖かそうで、高級感があります。どこかのお嬢様でしょうか。
「こんにち、っ!」
思わず息を呑みました。
幼女の赤リンゴのような髪、その横からちょこんと出ているのは――
「猫耳?」
スカートの裾から見えるのは、ふわりと揺れる長いもふもふの尻尾。
私は驚きつつも、その愛らしさに頬が熱くなってきました。
「かわいい……!」
はじめて見る姿なのに、なんてかわいい……かわいすぎて悶えてしまいます!
猫耳の幼女は挙動不審な私に気づいたようです。木の幹にしがみつき、野生の子猫のように警戒しています。
その様子に胸をときめかせていると、猫耳の幼女は私の腰の辺りを指しました。
『……いいにおい』
「!」
今の、猫語では?
見た目だけではなく、言葉まで……
私は心を落ち着けるように、深呼吸しました。動揺に勘づかれたら、さらに警戒されてしまいます。
「この匂い、わかるのですか?」
『きのみ、いっぱいね』
ポケットの中にある木の実に気づくなんて、驚くほど鋭い嗅覚です。
「よろしければ、食べませんか?」
猫耳の幼女は木の幹にしがみついたまま、スルスルと地上へ下りました。
私はその場でしゃがみ、目線の高さを合わせます。
はじめて会う動物には、そうした方が安心してもらえるのです。
「木登り、お上手ですね」
猫耳の幼女は木の陰に隠れました。でも頬を赤らめて、木の陰からこちらをチラチラうかがっています。照れているような、嬉しいような、そんな様子です。
「この木の実、どうぞ」
袋を差し出すと、緑の瞳をキラキラさせて……あっ、近づいてきました。
ぱっちりとした目の、整った顔立ちをしています。将来が楽しみになるような、本当にかわいい子です。
『すごい、たくさんね!』
「味もいいですよ。好きなだけどうぞ」
猫耳の幼女は夢中になって頬張りはじめました。ポリポリ食べる音まで愛らしくて、頬が緩みます。
「この森へは誰かと来たのですか?」
『ミュナ、ひとり』
「お嬢様……いえ、ミュナ様は――」
『ミュナ! ミュナサマちがうね、ミュナ!』
服装からお嬢様だと思いましたが、名前だけで呼ばれることに慣れているようです。
「はじめまして、ミュナ。私はリシェラといいます」
『リシェラ?』
「はい。リシェラです。ミュナはどこから来たのですか?」
『木のあるところ! だから、さがすね、オモチ!』
「……オモチ?」
聞き覚えのない言葉です。
ミュナは『オモチ』を探して、この森に迷い込んだのでしょうか。
白亜鳥にも聞いてみましたが、『知らないわ』と首を傾げています。
『リシェラ、夕暮れが近づいているわ。そろそろ北の地へ行きましょう』
白亜鳥たちは密猟者がやってくる前に旅立った方が安全です。
でもミュナにはきっと、待っている人がいます。
(リシェラお嬢様……ご無事でよかった!)
昔、迷子になった私を心配していた乳母が――おばあちゃんのように抱きしめてくれたぬくもりを思い出します。
なによりミュナのかわいい猫耳を誰かに見られて、巻き戻る前の私の友達のように、ひどい目に遭ったら……そんなの絶対に嫌です。
「白亜鳥さん、私はこれからミュナを保護者のもとへ送り届けることにします」
『そう……リシェラが一緒に来ないのは残念だけど。でも迷子の幼女を放っておけないなんて、やさしいあなたらしいわ。すっかり懐かれたようだし』
ミュナは木の実を食べ終えても、私のそばから離れようとしません。小さな手で、私の服をしっかりつかんでいます。
私は小屋で書いた手紙を、白亜鳥の脚にしっかりと結びつけました。
これで元養家の罪は明るみに出るでしょう。
「この手紙を、ブリザーイェット侯爵家へ届けていただけますか?」
『任せて!』
白亜鳥の長は軽やかに舞い上がると、仲間たちとともに青空を渡っていきます。
「みんな、どうか無事で……!」
私とミュナは手を振り、その旅立ちを見送りました。
「ミュナ、耳と尻尾が見えないように隠すことはできますか?」
『できる!』
ミュナは長い尾をスカートの内側に器用にしまい込み、猫耳のついたフードをかぶります。その上に両手を乗せて、隠した耳をしっかりと押さえました。
一生懸命な様子がかわいくて、心がほんわかします。
「では、帰りましょう!」
『かえる……?』
ミュナはなぜか、帰ることに戸惑っているようです。
『……リシェラ、きいろいくだもの、すき?』
「きいろいくだもの?」
『ながいね、あまい、おいしい!』
「あっ、わかりました。バナナですね!」
バナナは南方から輸入される高級食材です。
マリスヒル伯爵家の養女となってからは、食べたことがありません。
「バナナ、おいしいですよね」
『こっちある! リシェラ、かえるね』
私と手を繋いだミュナは、迷いのない足取りで木々の間を進んでいきます。
進む方向がわかるようです。
ミュナは木々の枝を飛び回るように移動し、ポケットの中の木の実の匂いも嗅ぎ取れました。特別な感覚を持っているのでしょう。
気になるのは、帰る話をしたとき、少しだけ困ったような顔をしていたことです。
ミュナは服も食事もいいものを与えられて、大切にされているように思えますが……
『リシェラ、みて!』
ミュナの指す茂みから、黄金色の毛並みをした大きな犬が飛び出しました。
その瞳は青く澄み、額には同じ色の魔石が光を弾いています。
あれは、犬の魔獣……?
「セレイブ、いたよ!」
犬の魔獣が人のように話すと、その背後から銀髪の男性が姿を現しました。
氷の彫刻のように涼しげな美貌、引き締まった長身。黒を基調とした上質な衣装が、彼の存在感を際立たせます。周囲の空気までもが、ひんやりと冷たくなった気がしました。
「君は……」
アイスブルーの瞳に見つめられ、私は吸い寄せられたかのように動けなくなりました。
そのまま見つめ合っていると、分かれ道の向こうから硬車が現れました。
「邪魔だ平民! マリスヒル伯爵令嬢、エレナ様がお通りだ!」
硬車は馬車のような乗り物で、馬ではなく硬液という燃料をタンクに詰めて動力にしています。
車輪の荒く回る音が迫ってきました。
『こわい!』
ミュナはぎゅっと握っていた私の手を振りほどき、そのまま道へ飛び出しました。
硬車は車輪の乱暴な音を立てながら、転んだミュナに迫ります。
「ミュナ、危ない!」
気づけば駆け出していました。雪解けの泥に足を取られてふらつき、ボロボロの靴のストラップが千切れます。それでも構わずミュナに駆け寄り、抱きしめた勢いのまま身を翻すと、なんとか硬車にぶつかることは避けられました。
「痛くありませんか?」
『……いたくない。こわい』
「怖かったですね。でももう大丈夫ですよ」
フードをそっとかぶせて、猫耳を隠します。雪解けの泥でぐちゃぐちゃになっていましたが、無事でよかった。
急いで道の脇へ移動すると、硬車がすぐそばに止まります。
「あら、お義姉様じゃない! 相変わらずみすぼらしい服装だから、すぐにわかったわ!」
元義妹のエレナは、私を見下ろして鼻で笑っています。
いつも通りの振る舞いです。まだ、ライハント王子が私を捕まえようとしていることを知らないのでしょう。
「なにその子。高そうな服を着ているから誘拐して、親に身代金でも要求するつもり? ふふっ、貧乏人って惨め! エレナが衛兵に突き出してあげる」
エレナがお金をちらつかせて命じると、従者がこちらへ近づいてきました。
「マリスヒル伯爵家では、暴言を吐きながら硬車に乗るのが礼儀なのか?」
従者から私たちを守るように、銀髪の男性が立ちはだかりました。
低く落ち着いた美声です。佇まいも静かで洗練されています。
彼を見たエレナの目の色が変わりました。
「そっ、その麗しいお姿は! セレイブ・ロアフ様ではありませんの!?」
「セレイブ・ロアフ!? まっ、まさか……! 世界最強の凶悪騎士!?」
「危険な魔獣すら服従させる、冷酷な、あの!」
彼の名を聞いた御者と従者は、声を上ずらせてうろたえています。
「先ほどの失言、お許しください!」
「失礼致しました!」
「なんのことだ。謝罪する相手は俺ではない」
セレイブ・ロアフ卿が冷ややかにたしなめると、御者と従者は震え上がりました。
「無礼な振る舞い、申し訳ありませんでした!」
「すみません……!」
ふたりは私とミュナに対し、頭を下げて謝りはじめます。
でもエレナが謝罪する様子はありません。ドレスを翻して硬車から降りると、自信たっぷりに髪をかき上げました。
「セレイブ様のことなら、よく知ってるわ!“世界中の女性を虜にする氷銀の美貌”って、『スイートハート』に載っていたもの!」
「そのゴシップ誌はソディエ王国の流通禁止リストに載っている。君は裏取引でもしているのか?」
「そっ……そんなことより! エレナは国王陛下と王妃殿下から、国一番の美女だって褒められているの! ふふっ、セレイブ様が『誰の縁談も受けない』って公言しても、エレナには興味あるでしょう?」
「いや、まったく」
ロアフ卿は冷淡に否定し、エレナに背を向けました。そして私とミュナのそばにしゃがみます。
静かな眼差しが、ミュナと私を交互にとらえます。氷のようなアイスブルーの瞳、麗しすぎる顔立ち……見つめられることすら恐れ多い気がします。
「身体の痛みはあるのか?」
「ないと言っていました。大きな怪我も見当たりません」
「君は?」
「私……ですか? 私は平気です」
「そうか。では行こう」
ロアフ卿は、ミュナを抱えた私を軽々と横抱きにしました。私が泥だらけでも、ためらう様子はまったくありません。
「あ、あの! 私は歩けますから、下ろしてください!」
「なぜ? 君の靴は壊れている」
「私なら平気です。あなたの上着を汚したくありません」
彼の無表情が一瞬、柔らかくなった気がしました。
「君は自分が汚れるのも気にせず、ミュナを守った。それと同じ……俺は君のためなら、汚れることなど構わない」
ミュナの名前を知っている。ということは、ロアフ卿はミュナの……?
「近くに俺の別荘があるから、念のため侍医に見せよう。君にぴったりの靴も贈らせてもらう」
「ま、待ってセレイブ様! あなたの別荘にはエレナが行きますわ!」
「君を呼んだ覚えはない」
はっきり断られても、エレナは諦めようとしません。ロアフ卿に駆け寄ると、わざとらしくふらついて倒れ込みました。
彼が避ければ、エレナに怪我をさせてしまう。それを見越しての、いつもの手です。
「危ないな」
ロアフ卿は私とミュナを片腕で抱き上げると……えっ!?
迫るエレナの顔を、空いた片手でガシッとつかみました。
「彼女は靴が壊れて不自由している。見てわからないのか? もう近づかないでくれ」
ロアフ卿は冷徹に忠告すると、エレナの顔を淡々と押し返します。
辺りは静まり返りました。
「ジンジャー」
「任せて!」
ロアフ卿の隣にいた犬の魔獣が答えると、その青い瞳が輝き、空中に水の球体が浮かびました。
その澄んだ水で、ロアフ卿はエレナに触れた手を清めます。
私のせいで付いた泥は気にしないのでしょうか……
エレナは見たことのない表情で呆然としています。でも我に返ったように目を瞬かせると、眉をつり上げて叫びました。
「ひどいっ! エレナはこんなにかわいいのに、なんで! 無視するのはお義姉様にして! 成人するまでに縁談ひとつなかった、売れ残りだもの!」
エレナの言葉に、ロアフ卿ははじめて興味を示したようで、私とミュナを抱いたまま振り返ります。
「それは本当なのか?」
「えっ? そ、そうよ!」
エレナは彼の気を引くことに成功して、満足したようです。私を見て意地悪な笑みを浮かべました。
「しかも伯爵家から絶縁されたの! ふふっ。だからセレイブ様、お義姉様は――」
「俺が求婚できるということだな」
「ふへっ!?」
エレナは目を剥いています。私も耳を疑いました。
「ろ、ロアフ卿?」
「セレイブでいい。君の名を聞かせてくれるか?」
「リ、シェラです」
「リシェラ……? もしかして君は、北方のフロスベイン王家の血筋ではないか?」
「は、はい。母はフロスベインの王女で、私にリシェラと名付けました」
「お義姉様が、王女の娘!?」
エレナは唖然としていますが、ロアフ卿は納得したように頷きました。
「フロスベインの聖なる島には、リシェラという七色に輝く花が咲く。君の母君はきっと、君をあの美しい花のように愛おしく思っていたのだろう」
母のことを少し知ることができた気がして、嬉しくなりました。
「リシェラの花、いつか見てみたいです」
「俺は聖騎士時代、その島のひとつを賜っている。君なら喜んで案内する」
「セレイブ様、お義姉様よりエレナの方があなたにふさわしいわ!」
エレナは注目されないことに腹を立てたようで、ロアフ卿に向かって叫びました。
「だってお義姉様はお父様に追い出された、身寄りのない平民なの!」
「つまり俺は誰にも遠慮することなく、リシェラを口説いても構わないということか」
「そっ、そうじゃなくてエレナの方が」
「リシェラ、君のことが知りたい。俺の別荘で君の話を聞かせてほしい」
もしかしてロアフ卿、私をこの場から連れ出そうとしてくださっているのでしょうか?
ただ、求婚までしてくるのは不思議ですが……騎士の人助けって、スケールが大きいのかもしれません。
「は、はい。助かります。よろしくお願い致します」
「礼を言うのは俺の方だ。君に拒否されても連れていくつもりだったが、どうやら嫌われずに済みそうだ」
エレナはわなわなと震えながら、すべての元凶が私だと言わんばかりに睨みつけてきました。
「もう許さないわ! お義姉様が意地悪したって、お父様に怒ってもらうんだから!」
「リシェラは君になにもしていないし、言ってもいないと俺が断言する。これ以上迷惑行為を続けるのなら、こちらも厳しく対処する」
もう十分、厳しくされているように見えますが……
ロアフ卿は私とミュナを抱き上げたまま、来た道を引き返しはじめます。
「そんな! セレイブ様、待っ……!」
追いかけようとするエレナを遮るように、低い唸り声が上がりました。
ロアフ卿のそばに控えていた犬の魔獣が、今にも噛みつかんばかりの剣幕で牙を剝き出しています。
「イヤアアァッ、獣っ!!」
エレナは両親からかわいがられ、私を引き立て役にしていました。それが今は犬に吠えられ、意中の男性にわずらわしがられているなんて不思議な光景です。
ロアフ卿が三叉路の一本の角を曲がると、エレナの姿は見えなくなりました。
でも、あの様子です。エレナは私に仕返しするため、ロアフ卿といたことを家族に話すでしょう。
元養父に捕まったら、私はライハント王子に売られます。
「何度も振り返っているが、誰かに追われているのか?」
「い、いえ……」
ロアフ卿には私の焦りが伝わっているのでしょう。でも、ライハント王子が私を捕らえようとしているのは、巻き戻る前の記憶です。今の私が知っているのは不自然なので、口ごもってしまいます。
「リシェラを連れ出すことに夢中で、自己紹介を忘れていた。俺は怪しい者ではないから、安心してほしい」
ロアフ卿は私を片腕で抱えながら、懐から紋章入りの身分証をいくつも取り出しました。
「俺はセレイブ・ロアフ。ロアフ辺境伯家の次期当主であり、現在は騎士団長を務めている」
エレナが夢中になるのも頷ける、すごい人物のようです。
「ロアフ卿があの場から逃がしてくださったので、助かりました。ありがとうございます」
「気にすることはない。君は絶縁した家で、ずいぶんひどい目に遭っていたようだ」
さらりと言う美貌には、強者の余裕が滲んでいます。
ロアフ卿のような方なら、どんなことでも自力で解決してしまいそうです。
「あの犬の魔獣さんは大丈夫でしょうか?」
「ジンジャーは優秀な使役獣だ。あのような小物など、取るに足らない。彼らを追い払った後は別荘へ向かい、ミュナがリシェラに保護されたことを報告しているだろう」
それほど優秀なジンジャーを、ロアフ卿は使役する方なのですね。彼の言動からは静かな強さが感じられて、ミュナはもう大丈夫だと思えました。
「あの、ロアフ卿はミュナの……」
「叔父だ。後見人をしている」
言われて納得しました。ふたりとも髪や目の色こそ違いますが、整った目鼻立ちが似ています。
「別荘からミュナが行方をくらましたため、誰かに連れ去られたのではないかと案じていた。先ほどの傲慢な女に獣人の姿を見られていれば、間違いなく危害を加えられていただろう」
「獣人って……はじめて聞きました」
「そうかもしれないな。獣人は非常に珍しい存在で、わかっていないことも多い。突然姿が変わる者もいれば、生まれたときからその姿の者もいる。身体能力は、動物のように優れている」
たしかに、ミュナが木の上でもへっちゃらな顔で飛び回っていたときは、びっくりしました。
そんなミュナは今、私にしっかり抱きついたまま、寝息を立てています。
「リシェラは俺たちの恩人だ。ありがとう」
「お気になさらないでください。私もミュナくらいのとき、グミブドウを摘みに行って迷子になったことがありました」
「グミブドウ? あれはブリザーイェット侯爵領の固有種だ」
「養女になる前、よく食べていたんです」
「……そうか。君はフロスベイン王女の娘だったな」
ロアフ卿の声が曇ります。私の両親の政略結婚や、私が家族との交流を望めなかった事情を察したのでしょう。
「でも、さびしくはありませんでした。乳母のヘレンがいてくれましたから」
「リシェラを育てた人か。その乳母は、どのような人物なんだ?」
「ヘレンは私の母の侍女でした。母が輿入れする前から仕えていました」
母の話も、フロスベインのことも、やさしい手のぬくもりも。全部、ヘレンが教えてくれました。
「彼女は料理が上手で、よく母の好きな食べ物を作ってくれました」
「フロスベインの王女の好む食事……祖国の宮廷料理だろうか?」
「母の一番好きな食べ物は、ヘレンのアップルパイだったそうです」
それは幼い私が両腕でやっと抱えられるほどもある、大きなパイでした。
焼き上がると、部屋いっぱいに甘く芳醇な香りが満ちて……使用人の方たちも誘って、みんなで笑い合いながら食べたのです。
「生地を頬張るとサクッとして、リンゴの酸味と甘さが口の中に広がって、蜂蜜色の果肉がとろけるように柔らかくて……」
「君が話すと、その味わいまで伝わってくるようだ」
「ふふっ、本当においしいですよ! ロアフ卿の好きな食べ物はなんですか?」
「俺は好き嫌いがない。あるものを食べるだけだ」
そのような人もいるのですね。でも私に質問するロアフ卿はどこか楽しげです。
「ロアフ卿はヘレンの作るアップルパイにご興味があるのですか?」
それなら、ぜひあのおいしさを知っていただきたいです。
「私の生家には、ヘレンのレシピがあると……あっ、でも。絵本と一緒に、捨てられてしまったかもしれません」
私は実父に養女となることを命じられ、部屋に戻ることも許されず硬車に乗せられました。胸に抱えていたのは一冊だけ、子供向けの北方事典です。彼にはじめて呼び出されて、母の話ができるかもしれないと期待して、持っていったのです。
ロアフ卿はまるで自分のことのように、沈んだ声でつぶやきます。
「それはリシェラにとって、大切なものだろう……」
「そんな悲しそうなお顔、しないでください。私にはヘレンと笑って、母の話をして、おいしい香りに包まれた思い出があります。それがなによりの宝物ですから」
ロアフ卿はなにか言いかけ、しかしそのまま言葉を失っていました。
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