性転換タイムトラベラー

廣瀬純七

文字の大きさ
29 / 35

一人の時間

しおりを挟む
 アパートのドアを閉め、鍵をかけた瞬間、外の賑わいが嘘のように遠のいた。部屋の中は静かで、時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 美咲は靴を脱ぎ、明かりをつけずにそのまま部屋の中央に立った。身体には、プールで泳いだ後の心地よい疲れと、ラーメンの温かさがまだ残っている。けれど、胸の奥には、それとは別の、言葉にしづらい感覚が渦を巻いていた。

「……不思議だな」

 ぽつりと、独り言が落ちる。

 六十歳で定年退職した、ごく普通の男だった木村達也。
 それが今は、若い女性――田中美咲として、この昭和四十四年の東京で暮らしている。

 服を脱ぎ、鏡の前に立つ。そこに映るのは、しなやかな身体、柔らかな線を描く肩や腰。もう何度も見てきたはずなのに、ふとした瞬間に、現実感が薄れることがある。

「本当に……私は、私なのに」

 かつての自分は、男として六十年を生きてきた。仕事をして、家庭を持ち、父になり、そして年を重ねた。その記憶は、今も確かにここにある。

 それなのに今は、スーパーで働き、友人と笑い、恋愛をしている。
 秀一と並んで歩き、プールで競争し、照れて、ラーメンをすすった。

「……恋愛、か」

 その言葉を口にしただけで、胸が少しざわつく。

 若い頃の自分は、こんなふうに、誰かとの距離に一喜一憂していただろうか。
 それとも、仕事や責任に追われて、こうした感情を後回しにしていただろうか。

 布団に腰を下ろし、天井を見上げる。

 タイムマシーン。
 過去に行くためには、性別を変える必要があるという、奇妙な法律。合理的なのか、狂っているのか、今となってはもう分からない。

 ただ一つ言えるのは――。

「こんな人生があるなんて、思いもしなかったな」

 幼い自分に出会い、父と再会し、母になる可能性を突きつけられ、そして今、恋をしているかもしれない自分がいる。

 もし、このまま過去に留まり続けたら。
 もし、武のプロポーズを受けたら。
 もし、秀一との関係が、もっと深くなったら。

 未来は、一本の線ではなく、無数の枝を伸ばしているように思えた。

「……私は、どうなるんだろう」

 答えは、どこにもない。

 ただ確かなのは、六十歳の男性だった達也が、若い女性として人生を“やり直している”という、このどうしようもなく現実な事実だった。

 怖さはある。
 同時に、期待もある。

 もし、もう一度人生を選べるのだとしたら。
 もし、過去の後悔や、やり残した感情を、今度こそ大切にできるのだとしたら。

 美咲は、そっと胸に手を当てた。心臓の鼓動が、確かにそこにある。

「……まあ、なるようになる、か」

 若い頃には言えなかった、少し肩の力の抜けた言葉。

 灯りを消し、布団に横になる。目を閉じると、今日一日の情景が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。

 過去に来たはずなのに、未来のことばかり考えている自分が、少し可笑しかった。

 それでも――。

 この不思議で、二度とない人生を、もう少しだけ、歩いてみたい。
 美咲はそう思いながら、静かに眠りへと落ちていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あべこべな世界

廣瀬純七
ファンタジー
男女の立場が入れ替わったあべこべな世界で想像を越える不思議な日常を体験した健太の話

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

秘密のキス

廣瀬純七
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

ボディチェンジウォッチ

廣瀬純七
SF
体を交換できる腕時計で体を交換する男女の話

不思議な夏休み

廣瀬純七
青春
夏休みの初日に体が入れ替わった四人の高校生の男女が経験した不思議な話

OLサラリーマン

廣瀬純七
ファンタジー
女性社員と体が入れ替わるサラリーマンの話

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...