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一人の時間
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アパートのドアを閉め、鍵をかけた瞬間、外の賑わいが嘘のように遠のいた。部屋の中は静かで、時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
美咲は靴を脱ぎ、明かりをつけずにそのまま部屋の中央に立った。身体には、プールで泳いだ後の心地よい疲れと、ラーメンの温かさがまだ残っている。けれど、胸の奥には、それとは別の、言葉にしづらい感覚が渦を巻いていた。
「……不思議だな」
ぽつりと、独り言が落ちる。
六十歳で定年退職した、ごく普通の男だった木村達也。
それが今は、若い女性――田中美咲として、この昭和四十四年の東京で暮らしている。
服を脱ぎ、鏡の前に立つ。そこに映るのは、しなやかな身体、柔らかな線を描く肩や腰。もう何度も見てきたはずなのに、ふとした瞬間に、現実感が薄れることがある。
「本当に……私は、私なのに」
かつての自分は、男として六十年を生きてきた。仕事をして、家庭を持ち、父になり、そして年を重ねた。その記憶は、今も確かにここにある。
それなのに今は、スーパーで働き、友人と笑い、恋愛をしている。
秀一と並んで歩き、プールで競争し、照れて、ラーメンをすすった。
「……恋愛、か」
その言葉を口にしただけで、胸が少しざわつく。
若い頃の自分は、こんなふうに、誰かとの距離に一喜一憂していただろうか。
それとも、仕事や責任に追われて、こうした感情を後回しにしていただろうか。
布団に腰を下ろし、天井を見上げる。
タイムマシーン。
過去に行くためには、性別を変える必要があるという、奇妙な法律。合理的なのか、狂っているのか、今となってはもう分からない。
ただ一つ言えるのは――。
「こんな人生があるなんて、思いもしなかったな」
幼い自分に出会い、父と再会し、母になる可能性を突きつけられ、そして今、恋をしているかもしれない自分がいる。
もし、このまま過去に留まり続けたら。
もし、武のプロポーズを受けたら。
もし、秀一との関係が、もっと深くなったら。
未来は、一本の線ではなく、無数の枝を伸ばしているように思えた。
「……私は、どうなるんだろう」
答えは、どこにもない。
ただ確かなのは、六十歳の男性だった達也が、若い女性として人生を“やり直している”という、このどうしようもなく現実な事実だった。
怖さはある。
同時に、期待もある。
もし、もう一度人生を選べるのだとしたら。
もし、過去の後悔や、やり残した感情を、今度こそ大切にできるのだとしたら。
美咲は、そっと胸に手を当てた。心臓の鼓動が、確かにそこにある。
「……まあ、なるようになる、か」
若い頃には言えなかった、少し肩の力の抜けた言葉。
灯りを消し、布団に横になる。目を閉じると、今日一日の情景が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
過去に来たはずなのに、未来のことばかり考えている自分が、少し可笑しかった。
それでも――。
この不思議で、二度とない人生を、もう少しだけ、歩いてみたい。
美咲はそう思いながら、静かに眠りへと落ちていった。
美咲は靴を脱ぎ、明かりをつけずにそのまま部屋の中央に立った。身体には、プールで泳いだ後の心地よい疲れと、ラーメンの温かさがまだ残っている。けれど、胸の奥には、それとは別の、言葉にしづらい感覚が渦を巻いていた。
「……不思議だな」
ぽつりと、独り言が落ちる。
六十歳で定年退職した、ごく普通の男だった木村達也。
それが今は、若い女性――田中美咲として、この昭和四十四年の東京で暮らしている。
服を脱ぎ、鏡の前に立つ。そこに映るのは、しなやかな身体、柔らかな線を描く肩や腰。もう何度も見てきたはずなのに、ふとした瞬間に、現実感が薄れることがある。
「本当に……私は、私なのに」
かつての自分は、男として六十年を生きてきた。仕事をして、家庭を持ち、父になり、そして年を重ねた。その記憶は、今も確かにここにある。
それなのに今は、スーパーで働き、友人と笑い、恋愛をしている。
秀一と並んで歩き、プールで競争し、照れて、ラーメンをすすった。
「……恋愛、か」
その言葉を口にしただけで、胸が少しざわつく。
若い頃の自分は、こんなふうに、誰かとの距離に一喜一憂していただろうか。
それとも、仕事や責任に追われて、こうした感情を後回しにしていただろうか。
布団に腰を下ろし、天井を見上げる。
タイムマシーン。
過去に行くためには、性別を変える必要があるという、奇妙な法律。合理的なのか、狂っているのか、今となってはもう分からない。
ただ一つ言えるのは――。
「こんな人生があるなんて、思いもしなかったな」
幼い自分に出会い、父と再会し、母になる可能性を突きつけられ、そして今、恋をしているかもしれない自分がいる。
もし、このまま過去に留まり続けたら。
もし、武のプロポーズを受けたら。
もし、秀一との関係が、もっと深くなったら。
未来は、一本の線ではなく、無数の枝を伸ばしているように思えた。
「……私は、どうなるんだろう」
答えは、どこにもない。
ただ確かなのは、六十歳の男性だった達也が、若い女性として人生を“やり直している”という、このどうしようもなく現実な事実だった。
怖さはある。
同時に、期待もある。
もし、もう一度人生を選べるのだとしたら。
もし、過去の後悔や、やり残した感情を、今度こそ大切にできるのだとしたら。
美咲は、そっと胸に手を当てた。心臓の鼓動が、確かにそこにある。
「……まあ、なるようになる、か」
若い頃には言えなかった、少し肩の力の抜けた言葉。
灯りを消し、布団に横になる。目を閉じると、今日一日の情景が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
過去に来たはずなのに、未来のことばかり考えている自分が、少し可笑しかった。
それでも――。
この不思議で、二度とない人生を、もう少しだけ、歩いてみたい。
美咲はそう思いながら、静かに眠りへと落ちていった。
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